曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年05月

日曜は特養へ行く日。例によって稲荷と巻きずしを買って行く。
昨夜は一晩中起きていたらしいが、時々そういうことはある。昼前に車椅子に移乗して、施設内を散歩。陽に当たるために少しだけ外へ出る。快晴。周囲は田植えが終わったばかりの水田が広がっている。風が気持ちがいいと言う。
今日は何の日か聞くが、当然分からない。
「5月の末の、こんなに天気がいい日は何がある日だろう」
考えて「新緑」と、答える。
ヒントで騎手のポーズをして見せたら、競馬と分かり、「新緑賞」と、答える。
日本ダービーの日だと教えてやる。
思い出したのか、私がよく競馬に通い、全然当たらなかったようなことを言う。
しばし、競馬の話をして、昼食。
ビールを催促されるが、いつもある訳ではない。
今日は近くのテーブルに老母の食事の世話をするために娘さんが来ていて、とてもなごやかでいい雰囲気だった。私も娘さんに挨拶する。
服や下着を入れ替え、歯を磨いて帰宅。
早速、ダービーの検討。
オークスが1着3着だったから、ダービーは当てに行く。4番スワーヴリチャードから買う。馬連で当たったが、トータルでは100円の負け。
惜しかったのは3番マイスタイル。近年のダービーは内枠の先行馬が3着に残って穴になることが多々ある。私は18頭立て14番人気の3番マイスタイルに目を付け、4番スワーヴリチャードとの馬連、ワイドをたっぷり買う。
直線まで先頭を走るマイスタイル。レイデオロとスワーヴリチャードには抜かれたけど、しぶとく3番目を走っている。1着2着なんてもうどうでもいい。マイスタイルが3着に残れば、3-4のワイドでも万馬券なのだ。私はゴール前、必死にマイスタイルを応援。「残れ、残れ」
外から一番人気のピンク帽が来る。
残ったかと思った寸前、抜かれてしまった。鼻差の4着。ああ~!
いつも外れてばかりだと言っていた妻の言葉は正しかった。

3月から始まった風土記・古代史関係の勉強が、いよいよこの5月で終了する。
残すは後2回(4日分)となった。
毎日曜日は講義か講演が必ずあり、土日連続や、日曜も午前午後連続など(バスツアーや古文書も)あったが、ふーふー言いながら何とかこなす。
頭に入りきらないぐらい勉強したことは、これからゆっくりと思い出しながら深めて行きたい。

風土記に関しては、これからも荒神谷博物館の「風土記談義」が月1回。
だが、ただ通って聴くだけでは物足りなくなり、風土記をより深く理解するために、古事記と日本書紀を買って来て、3冊を読み比べている。
風土記の神話が古事記や書紀では完全に無視されている理由や、因幡の白兎や八岐大蛇(やまたのおろち)の話が、風土記にはない理由などを考えながら読むのはとても楽しい。

5月20日(土)の荒神谷博物館の講演は
「杉沢遺跡における古代山陰道発見の意義」
古代の七道(山陽、山陰、東海、東山……など)は、幅が9mもあるとても立派な道と聞いていたが、私が確認したかったのは、石見国に赴任した柿本人麻呂は果たしてその幅9mもある道を通ったのかどうかと言うこと。
古代山陰道が道路として機能したのは、出土物から判断すると8世紀前半代らしい。
一方、柿本人麻呂が活動した時代は、平城京が出来た710年は越えないらしい。
となると、人麻呂は石見に下って来た頃はまだ古代山陰道は出来ていない可能性が大きい。造成途中かもしれない。
あの有名な妻との別れを歌った石見相聞歌の
「石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか」
は、幅9mの道から詠んだ歌とは思えなかったのだが、やっぱりまだ出来ていなかったのだろうなあと思った次第。

(実はここに高角山周辺の地図を挿入したのですが、アップできず、地図から後の文章も消えてしまいました。自分のスキルではなすすべもないので、面倒でも地図を見るか、地図を想像して、読んでください。また、書き直しだ。勘弁してくれ)

江の川の西に星の里山と言う山がある。これが高角山。標高470m。高角山の東、江の川の近くに三江線の千金駅がある。この近くに人麿渡しと言う渡しがあったそうで、この近くに古代の山陰道の石見の六駅の一つ江西があったそうだ。正確な場所は特定できず。
古代の幅9mの道は高角山の山すそを通って、江西の駅→江の川を渡って、出雲国に続いた。律令国家の威信を示すため、ほぼ直線に大道路を作ったので、崖を削ったり、谷を埋めたり、かなりの大造成工事だったようだ。
人麻呂が通った時は山すそには道らしきものはなく、恐らく高角山の山腹に道があったのだろうか。歌からはそんな感じがする。もしかしたら造成中の道を見ながら通ったのかもしれない。見なくても大道路の計画があることぐらいは知っていたかも。
いつかは現地に行ってみたいものだ。
だが、この大道路も中世には機能しなくなり、どんどん狭くなり、いつしか消滅した。日本の歴史で道路が一番広かったのが古代の9m~12mで、一番狭かったのが江戸時代の1間~2間(3m前後)だったそうだ。

さて、残る1日が明日27日の出雲古代歴史博物館の講演
「金屋子神の来歴」たたら製鉄の信仰にかかわる話。

そして、最後の3日が29日から31日までの四国バスツアー。
NPO法人出雲学研究所主催
『伊予、阿波、讃岐、四国東北部、出雲の神々と忌部氏ゆかりの地めぐりの旅』
出雲学研究所は『風土記談義』の主催者でもある。参加者もほとんどが風土記談義の出席者と思われる。
29日四国に渡り、大三島・大山祇神社→道後温泉・湯神社
30日美馬市・倭大国魂神社→穴吹町・白人神社・磐境神明神社→阿波市・建布津神社   →吉野川市・忌部神社→徳島市・勝占神社
31日鳴門市・大麻比古神社→高松市・田村神社→善通寺市・大麻神社
→観音寺市・粟井神社→夜、出雲到着。
神社ばかり巡る前代未聞の旅。
私にとっては、ホテルに泊まり、あちこち見学して回る旅は14年ぶりのこと。こんなことは当分は無理だろうと思っていたので、正直嬉しい。先の松江バスツアーの比ではない。勉強月間締めくくりにふさわしい旅にしたい。
6月からは月1回の「風土記談義」と「古文書に親しむ会」だけになるので、余裕をもってやって行くことができる。

                           第一章 出会い(10)
 
「南北朝の動乱を経て、室町の幕府が誕生した時、ここに京極家繁栄の礎を築いた大英雄が登場しはったのや。その名を佐々木高氏と言う」
 この時の御屋形様の顔が一番生き生きとして、楽しそうだった。
「佐々木導誉とも言う。と、言うても分からんやろうなあ。後に京極導誉と名乗る」
 と残念がりながらも、
「わぬしは頭のいい子やから覚えておくのやで。足利尊氏公の第一の家臣、側近中の側近として、室町幕府を築くために力を尽くしたのや。その功あって、京極佐々木家は佐々木惣領職を与えられたのや。六角家から宗家の座を奪い取ったんや。そして、高氏の子高詮の時、三管四職の四職家の一つになったんや。四職家とは、山名・赤松・一色・京極の四家で、侍所所司にはこの四家が交代でなったんや。侍所と言うのはな、公方様のおわす都の治安を守る大変重要な役所なんや。その上にあるのは管領で、これは斯波・細川・畠山の三家しかなることが出来へん。室町幕府の序列は、将軍・管領・侍所所司の順やから、京極家がどんなにか偉い家か分かるやろう。北近江に加えて、飛騨・隠岐・出雲の守護職も得て、幕府の要職に就いた京極家は宗家六角家をはるかにしのいだのや。六角と仲が悪うなったのはその時からや。六角は南近江の守護にしか過ぎへんのやからな。そりゃあ悔しかったやろうがごまめの歯ぎしりや」
 大きな笑い声は守護所に響き渡り、法師丸の期待をいやが上にも膨らませ、その期待を裏切ることはなかった。
京極導誉の逸話はどんな物語より面白かった。いや、面白過ぎた。
「導誉は婆娑羅大名として天下にその名を轟かせたんやで。婆娑羅と言うのは、そうやなあ、一口で言えば大人のごんた(悪たれ)みたいなものや」
 ふふと笑うと、
「導誉の一族が小鷹狩りをしての帰り、妙法院にさしかかった時の事や。折しも門主の亮性法親王 ( りょうしょうほつ しんのう )が紅葉を見ながら詩歌を作っておったのやが、酔った下部 ( しもべ )が邸内に入り込み、その紅葉の枝を折ってしまい、大騒動になったのや。怒った山法師達がこの狼藉者を散々に痛めつけた。これを聞いて烈火の如く怒った導誉は、子の秀綱と共に妙法院を焼き打ちしたのや。火は建仁寺に燃え移り、すわ戦が始まったかと、京の都は大騒ぎになったんや。親王は天皇の兄弟で、妙法院は比叡山延暦寺の座主を出す門跡や。怒った比叡山は導誉父子を死罪にせよと迫ったんやけど、足利尊氏公は流罪でお茶を濁しはった。そして、いよいよ都を離れることとなったのやけど、導誉は大人しく罪に服するような武士やなかったのや。配所の上総に赴く時、近江の国分寺まで三百余騎の若党を従えはったのやけど、そのいで立ちが尋常ではなかった。若党は全員が猿皮を ( うつぼ )にかけ、猿皮の腰当をつけ、手には (うぐいすこ )を持ち、道中では酒宴を開き、遊女と戯れたのや。あ、遊女と言うのはなあ……まだ知らんでもええのやけど……」
 法師丸は知っていた。
 城下の北を新宮谷から新宮川と言う小さな川が流れ出て、富田川に注いでいる。その新宮川を越えた一画に、子供は絶対に近づいてはいけない場所があり、そこには美しい女子が沢山いて、男たちがめかし込んで通うことを。だが、知っていると言ってはいけないことのように思い、黙っていると、
「そうやなあ……」
 御屋形様はちらりと虎御前に目を流し、
「虎のように見目好い女子のことや」
「まあ」
 虎御前は媚びたように身をよじり、切れ長の細い目に妖しい笑みを浮かべた。
 法師丸は目を逸らした。
「なぜ猿皮かと言うとやな。猿は日吉社 ( ひえしゃ )の神の使いと言われ、日吉社を鎮守と仰ぐ比叡山にとっても神聖な獣なんや。導誉はその猿の皮をこれ見よがしに武具や身体に付けさせたんや。比叡山を嘲笑い、愚弄したんや」
 痛快な声だったが、法師丸は震え上がった。
 法師丸は素朴に神仏を信じていた。実は法師丸は寝小便たれだった。幼いながら人生最大の悩みであり、屈辱だったのであるが、母が宍道湖の北にある一畑薬師にお参りし、頂いて来た御札を腹に乗せて寝たら嘘のように治ったのであった。
 怯えた法師丸を見て、御屋形様はにこっと笑った。
「導誉はただの無法者やない。これも太平記にある有名な話や。南北朝の戦いも終わりの頃、南朝方が都へ攻め込み、北朝方は都を去ることとなったんや。その時、導誉は『我が宿所には定めて名のある大将が入ることになるだろう』と、会所には本尊や脇絵などを飾り立て、書院には王義之 (おうぎし)の書、寝所には (じん)の枕、緞子 (どんす)の夜具を置き、控えの間には酒や鳥・兎・雉・白鳥の馳走を並べ、『誰でもこの宿所へ来た人に一献を進めよ』と、言い置いたんや。これが本当の婆娑羅や。そこへ現れたのが南朝方の大将楠木正儀 ( まさのり )やった。正儀は導誉の振る舞いに感心し、導誉邸を焼き払えといきり立つ武将を抑え、逆に上等な酒と愛蔵の鎧と太刀一振りを置いて退去したんや。ああ、敵同士でありながら、何と気持ちの良い話やないか。今はこんな武士はどこにもおらへん」
 長い歴史を誇る京極家は物語の玉手箱だった。開ける度に煌めく宝玉の如き逸話が、静かな守護所の一室を別天地のように輝かせるのであった。
 しかし、それは浸っている時だけが幸せな虚しい時間であった。現実に戻った時の侘しさを、法師丸が感じるのであったから、御屋形様にとってはいかばかりであったことか。
 
 通い始めて三度目の秋も深まった頃であった。庭も、竹床が取り払われた池も、紅葉の錦に埋め尽くされ、借景の山々も色とりどりに染め上げられ、書院の中まで紅が射していた。
 駒音だけが鳴り響く静寂の中に、
「ふむ……」
 大きなため息が吐き出されると、熟柿のような息が盤面にまで押し寄せて来た。
 法師丸は手を止めて、そっと目の端で御屋形様を窺った。
 御屋形様は空になった杯を持ったまま脇息にもたれかかっていた。赤くどろりと濁った目は盤面を見てはいなかった。
 これほどひどく酔った姿を見るのは、初めてだったし、これほど老いて見えたのも初めてだった。
 御屋形様は二人の勝負をいつも酒を飲みながら見ていたが、いい酒だった。
 今日のように、法師丸が伺候した時から暗い顔をしていることもあったが、二人の将棋を見ているうちに、機嫌が直ったものだった。だが、今日は違った。坂を転げ落ちるように悪い酒になって行ったのだ。
「思えば長いものや……よくも飽きもせず続いておるもんやなあ……みが十八の時やさかいなあ……」
 疲れたように目を閉じた。あたかも百歳の老人が何もかももう見たくはないかのように。が、目は閉じても見て来たものは消すことは出来ない。
「応仁の乱のさなかのことやった……みの兄で長兄の勝秀が西軍六角攻めの陣中で死んでしもうたのや。同族やのに六角とは東西に分かれて戦っておったのやな。勝秀には二人の子があったがまだ小さかった。孫童子丸と乙童子丸や。乙童子丸は長男やったが庶子や。孫童子丸は嫡子やったが次男や。早速、お決りのように跡目争いが起きた……すべてはみの父持清のせいや……」
 うっすらと開いた目が宙で止まった。法師丸の目にぶつかったのだ。
 法師丸はわけもなくどぎまぎした。慌てて目を逸らしたが、やがてそっと目を戻した。子供ながら、こんな御屋形様だけど、いやこんな御屋形様だからこそ、目を逸らしてはいけないような気がしたのだ。いつでも、どこでも、どんな御屋形様でも、その話を聞き続けて来たのは法師丸だったのだから。
 御屋形様もたった一人の聞き手がいたことを思い出したかのように法師丸を見据えた。
「持清は乙童子丸の方を愛しておったのや。せやからなかなか跡目を決め切れんかったのやが、一年後に持清も死んでしもうたのや。結局、孫童子丸が家督を継ぎ、みが後見人となったのやけど、乙童子丸派が納得せえへんかった。乙童子丸には持清の弟黒田政光や守護代多賀清直がつき、六角高頼と和睦すると西軍に寝返ってしもうたのや。京極家は真っ二つに割れたのや。孫童子丸派にとって不運やったのは、そのまたわずか一年後に孫童子丸が死んでしもうたことやった」
 老いた眼に一瞬どす黒い光が宿った。
「青天の霹靂とはこのことや。何がと言って、みが京極家の家督を継ぐことになったのや。みも驚いた。まさか自分が京極家を継ぐことになろうとは思ってもおらへんさかいな。せやけど人間とは恐ろしいものや……ふふふ……」
 気味の悪い笑い声だった。法師丸は御屋形様に魔物でも取り付いたのかとたじろいだ。
「京極家の当主の座が転がり込んだ途端、みは一変したのや。みから見ればまだ子供の乙童子丸ごときにどうして京極家を渡せよう。乙童子丸ごときひねり潰してくれようと思ったのや。みも若かった。この世に不可能はないと思い込んだのや。せやけどすぐに現実を思い知らされたのや。江南は六角、江北の殆どは乙童子丸派。近江国は西軍一色やった。みが幕府から家督を認められたのは東軍やったからや。実際の家督は乙童子丸派の方にあったのや」
と嘲るように吐き捨てた。
 応仁の乱のさなかのことゆえ、家督争いは京極家の内だけではおさまらず、東西の戦いに巻き込まれ、翻弄されることになった。
「長い乱が終わった頃には、子供と侮っていた乙童子丸は高清と名乗り、ただのお飾りではなくなっていた。大乱は一応東軍の勝利と言うことで終わったのやが、西軍に属した六角も高清も帰順して許され、京極騒乱はさらに続いたのや。いつ果てるともない泥沼の戦いとなって行ったんや」
 都の騒乱は地方に拡散した。
 近隣諸国でも京極家のような家督争いが増え、守護代の反逆も頻発した。それらの争いは京極家の内訌と複雑に絡み合い、政経も高清も近江を転戦したのは言うに及ばず、美濃や伊勢、越前などに遠征したり、逆に攻め込まれて逃亡したり、休む間もなく戦いの日々を強いられることになったのだ。
 それに輪を掛けたのが幕府の弱体化だった。将軍の座を巡る争いは幕府の権威を低下させ、ついには押し込めに遭って、放浪する将軍まで現れる始末。
 そんな政変の度に、政経や高清の立場もまた目まぐるしく変わった。
 近江一国の守護に任じられたものの、すぐに罷免され、高清に与えられたが、将軍が没するや直ちに反撃した事もあった。
「三十年やさかいなあ……」
 それっきり御屋形様はもう何も言わなかった。怒り、諦め、後悔、絶望、悲哀のすべてを吐き出した人の形をした抜け殻がそこにあった。
 ぽとりと杯が落ちた。
 御屋形様は脇息に覆い被さったまま鼾をかき始めた。
 法師丸は戸惑った。こんな形で御屋形様の話が終わったことはこれまでに一度もなかったのである。
 虎御前がぽつりと呟いた。
「江北の形勢が悪いんやないやろか」
 法師丸はどきっとした。
 とても冷たい突き放した言い方に聞こえたのだ。法師丸はそっと虎御前の顔を窺った。御屋形様のお気に入りのはずなのに、虎御前は御屋形様を好きではないのだろうかと訝しく思ったのである。
 だが、美しいが能面のような顔からは何も読み取れなかった。
「治部様が負けはったら終わりやさかい」
 それも他人行儀な声に聞こえた。
 治部様とは政経の一人息子の治部)少輔 (じぶ しょうゆう ) ( きむね )のことである。北近江に踏みとどまり、高清と戦っていた。
 法師丸は憤激した。虎御前を許せないと思った。何が許せないと言って、寝込んでしまって聞こえないのが分かっていて、あのようなことを言うのは人の道に外れている。
法師丸はこの美しい女の正体を見たような気がした。同時にこんな女に負け続けている自分が悔しかった。この女は絶対に打ち負かさねばならないと思った。
 

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21日、お隣が遅い田植えをした。
私の幼馴染が亡くなってからは母子で農作業をしている。
息子は働いている。休日にしか農作業が出来ないので、万事遅れる。
畑も我が家の倍はあるのに、奥さん一人でやっている。

写真の田圃が7アールで他に3アール、計10アール=1反に米を作っている。
30㎏の袋で14袋獲れるそうだ。我が家が年に30㎏を2袋半は消費するから、隣は自家米と親戚に分ける分を除くと、JAに供出する量はしれている。全然儲けにはならない。苗も買っている。「結構高いんですよ」と、言っていた。
幼馴染が買った機械が揃っているので、すべて機械化されて、楽に思えるが見ると聞くとでは大違い。
写真ではちゃんと植えてあるように見えるが、実は苗が浮いている。きちんと植え付けてない苗があって、それが1列に端から端まで続いているのだ。それを奥さんが一本一本植え直している。
プロの米作農家ではないから、田圃が均一に均されてなくて(と、言うようなことを言っていた)、機械で植え付けたように見えて、苗が土深く植わっていないのだそうだ。そんなことがあるのかと、植え直している奥さんを見て、気の毒で溜息がでる。
休耕田にする人が多い理由もわかろうと言うものだ。
だが、隣家は休耕田にしないで、今年も米を作る。以前にも話したことがあるのだが、「やっぱり、田圃を荒らしたくないから」と、奥さん。
幼馴染も働きながら、田圃を守っていた。田舎の風土をこよなく愛している男だった。遺言のように守っているのだなあと思う。
そのおかげで、我が家の畑の前方は休耕田だが、左隣は昔ながらの田圃。蛙の声に耳を傾け、日々緑の確かな成長を愉しみつつ、秋の実りを迎えることができる。心から感謝している。
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『我が家のミニトマト』










👈わき芽



👈わき芽

茎と葉っぱの枝の間から、芽が伸びているのがわかるだろうか。これがわき芽。これを取らないと、どんどん伸びて成長の妨げになる。
去年はこのわき芽の一本を伸ばし、茎を二本立てで作った。
そうすれば、トマトが倍獲れるからだ。確かに獲れたけれど、味は落ちる。甘くなくてがっかりしたので、今年は変な欲は出さないで、一本の茎に普通に作ることにした。
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👈池のホテイアオイの芽

枯れたホテイアオイから芽が出て来た。
たったこれだけだが、一気に増えて、2ヶ月もすれば池全面に広がる。そして、濁った水を真水のように浄化してくれる。

昨日、妻の外泊が終わり、特養に戻る。今回は食事にもチャレンジして、サラダも好物のポテトサラダ以外のレタスやトマトの生野菜を食べさせる。果物はリンゴ一辺倒だったが貰いものの愛媛ミカンを食べさせる。よく食べてくれたので一安心する。ただ特養に入ってから少し太った気がする。入院中のように食べなくて痩せると心配だが、太るのも困る。重くて体位交換などにてきめんに影響する。身体に合う服を探すのがこれがまた悩みの種なのである。
昨日は送り出した後、すぐに6日の間にたまった雑用を一気に片付け、畑に出る。サツマイモの畝を作り、マルチを張る。
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👈夕方、サツマイモの苗を植え付ける。

今日は朝からファミレスに飛び込み、「多胡辰敬」の他にも、書いている小説があるので、そちらに没頭。
午後からは「荒神谷博物館」で「島根・鳥取の古代山陰道」の講演。(後日報告)
妻の外泊を一日前倒ししたのは、この講演会に出席したかったから。

帰りに、サツマイモ「紅はるか」の苗を買う。
「鳴門金時」や「べにあづま」の苗は早いので、連休中に植え付けできるのだが、「紅はるか」の苗は遅いので、どうしても植え付け時期も遅くなってしまう。
42本も植える。こんなに植えたのは帰郷して初めてのこと。どんだけイモができることやら。
これで、このシーズンの植え付け作業は終了。
さすがにほっと一息つく。本当は落花生も植えようかと思ったのだが、思いとどまる。来年、よく研究してからにしよう。妹からはイチゴを植えてくれた頼まれたので、イチゴにするかもしれない。
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 👆坊ちゃんカボチャ

👈ミニトマト


ミニトマトは順調に生育。緑の実がなっている。脇芽を取るのが忙しい。ちょっと油断すると、伸びている。取ってもまた同じ場所から伸びて来るので、20本も植えているとこの先忙しい事になる。カボチャは10日ぐらい前に植えたもの。今年も坊ちゃんカボチャ。大きいカボチャは食べきれないので。
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👈これは、イチジクの木に殺虫液を注入しているところ。

カミキリムシが穴を開けて卵を産み付けると、幼虫が木の内部から食い荒らして、木を枯らしてしまうので、穴を見つけたら、
スプレー缶で注入する。
穴は細かい木屑が出るのですぐにわかる。
美味しいイチジクを食べようと思うと、こんなことまでしなければならない。
老木で三本の幹の内、一本は昨年枯れ、今年も一本枯れてしまい、残るは一本だけ。
この夏で最後かもしれない。










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👈池の側に産み落とされた卵








多分、鴨の卵だと思う。我が家の畑の南側は休耕田になっていて、我が家の池に来る鴨のカップルはその休耕田の雑草の中に巣を作り、卵を育てている。なぜ分かるかと言うと、休耕田の持ち主が今頃毎年草刈りをするからだ。去年も今年も鴨の卵を見つけて持って帰ったらしい。思うに、突然、巣も卵も消えた鴨が本能的に次の卵を産み落としたものの、どこかへ逃げて行ってしまったのではなかろうか。
草刈り後、鴨のカップルの姿は見ない。毎年、草刈りはあるのだから、来年からは休耕田の雑草の中に巣作りするのはやめればいいのにと思うのだが、学習しないのだろうか。田舎も色々な事が起こります。

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