曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2017年03月

これも師匠の全盛期のトンデモ話。何度も聞かされた。
その昔、映画の脚本を仕上げると、師匠は弟子たちの慰労もかねて、弟子たち全員を引き連れ、吉原に繰り出したそうだ。
その当時はまだ「売春防止法」のない時代である。
吉原と言えば、時代劇でおなじみの女郎がいて、花魁(おいらん)がいて、江戸の男たちが遊びに行く場所であるが、「売春防止法」が施行されるまで(完全施行されたのは昭和33年)は、戦後もなお日本中にこんな場所があったのである。
「みんな、吉原に行きたいものだから、必死に仕事をするんだ」と、笑う師匠。
弟子全員のお遊び代まで、全部師匠持ちなのだから、そりゃあ楽しかろう。徹夜が続いても必死に頑張るだろう。
吉原に乗り込むと、師匠は全員に現金を配る。そして、「時計合わせ」と言う儀式をする。全員輪を作ると、腕を突き出し、腕時計の時間を合わせるのだ。そんな子供じみたことを、大の大人が嬉々としてやったのだ。
「○時間後に集合!散れ!」
師匠の号令一過、全員、馴染みの女の所に突進するのだそうだ。
そして、○時間後に同じ場所に集まり、また揃って帰り、宴会になるのだそうだ。
「売春防止法」が施行されてからはどうしたのか知らないが、私が独立する時、師匠が「俺はお前を吉原にも連れて行ってやれなかったし、銀座にも連れて行ってやれなかった……」と、不甲斐なさそうに言ったから、相変わらず、巨匠は景気よく振る舞っていたのだろうと思う。師匠は師匠とはそう言うことをするのが当たり前だと思っていたのだ。
いくら稼いでいるからと言って、よくもまあそんな無茶が出来たものだと呆れるしかなかったのだが、案の定、弟子たちに給料を払ったら、師匠は靴下一足買う金がなかった時があり、「『俺はいったいなんのために働いているのだ』と、あの時は本気で怒ったぞ」と、言っていた。
それに比べると、我が脚本家仲間の師匠はしっかりしていた。
彼は大勢の弟子がいたが、我が師匠のように給料は払わない。弟子が書いた脚本に手を加え、自分の脚本料から一部を払う。弟子が能力が足りなくて、いい脚本が書けなければ困るのは弟子で、師匠は弟子が食えようが食えまいが関係ない。自分の腹は絶対に痛まない。それどころか、払った脚本料を麻雀で回収していたと言う。
「師匠は無茶苦茶麻雀が強いんだよ。全部巻き上げられちゃうんだ。しかも俺徹夜で台本を届けてへろへろなんだよ。勝てるわけないじゃないか。正直やりたくないさ。でも、師匠に付き合えと言われたらやらざるをえないんだよ」とは、逃げ出した弟子の弁。
逃げ出したくなるのもむべなるかなである。麻雀で弟子から金を巻き上げている間にも、別な弟子たちはせっせと脚本を書いているのだ。
こういうことが出来たのも、時代が映画からTVに変わったからである。我が師匠が映画でやっていたことのTV版大量生産方式なのである。TVで大量の番組が制作されるようになって、必然的に誕生したシステムなのである。但し、皆が皆やっていたことではない。飛びぬけて能力(経営能力を含めて)があった人だからこそ出来たことである。
さらに、TVがアニメの時代になると、脚本家で教室を開く人が現れた。
生徒を集め、授業料をとって脚本を教えるのだ。そこそこの定期収入にはなるだろう。30人集まって、残るのは1人ぐらいか。
その残った見どころのある弟子が脚本を書き、師匠と共同脚本で世に出すのは前者と同じであるが、ここにもう一つ新しい時代の契約が入る。弟子時代の脚本に関しては共同脚本料は払うが、著作権は師匠に帰属するのだ。どういう事かと言うと、アニメが再放送されたり、外国で放映されたり、ビデオになって発売された時の使用料(印税)は師匠のものなのだ。
これを聞いた時、(う~ん)と私は唸った。お見事と言うしかない。
我が師匠と比べたら、この人たちとは金銭感覚と言うか、経営能力と言うか、雲泥の差である。
考えても見て欲しい。我が師匠が給料を払った弟子たちの中には、ライターになれなかった人たちが何人もいたのである。ライターになった人も夜逃げした人がいる。約束のお礼奉公もしていないのだ。それまでどれだけの給料を払って来たことか。すべてどぶに捨てたことになるのだ。だが、師匠は「あいつも逃げやがったか」と笑って、夜逃げした弟子たちに意地悪するわけでも、妨害するわけでもなかったのだ。
その当時、仲間の作家が呆れて、「なんでライバルになる者を育てるのだ」と言ったそうだが、「ライターになりたいと、俺を慕って来る者はライターにしてやりたいんだよ」と答えたそうだ。
だから、後年師匠を励ます会や、死後偲ぶ会をした時は、ライターになれなかった人達も、夜逃げしたライター達も、皆、集まった。
私は教室を開いた作家の事を知った時は、感心したが、真似をしようとは思わなかった。そんな面倒くさい事をしたくなかったのであるが、なによりも私がこの師匠の弟子だったことが大きい。もし弟子を抱えても、私は師匠が私にしてくれたのと同じことをしてやれるかと考えたら、とても真似ができないと思ったのだ。
給料は貰わなかったし、吉原も銀座も連れて行ってもらっていないのだが、私はもっと大切なものを貰ったと思っている。給料も払えない、吉原銀座に連れて行ってやれない分を、師匠は見えない別な形で与えてくれたのだ。給料を払ったり、飲みに連れて行くのはある意味誰でもできる。金さえあれば。
給料が払えない状況の中でも、せめて弟子には何かしてやりたいと考え、常に何かを与え続けてくれた、そんな人のまねを私は到底できないと思ったのだ。ライターになるために。人として成長するために……。思い起こせば、あの時叱られたことも……一杯思い当たることがある。またの機会に紹介したい。

訂正があります。以前、師匠の映画脚本340本と書きましたが、さすがに多過ぎました。TVを含めての本数です。私が弟子になった昭和45年当時では約170本。残りがTVの脚本である。この頃は師匠はもう映画の仕事をしていなかったので、実質映画脚本を書きまくっていた期間は十数年ということになる。意外と短いが、映画全盛期自体が戦後からTV興隆期までの約20年間で、それほど長くはなかったのだ。しかしながら、十数年で170本は驚くべき数字であることには違いない。
TVの本数が少ないように思われるが、師匠は週刊現代に連載小説「悪魔のような素敵な奴」を書き、それがTV化されている。脚本家が週刊誌に連載小説を書くのは今だって破格のことで、よほどの人でないとそんな注文は来ない。TVドラマ「プレイガール」の監督もしている。脚本家が監督するのも破格のことで、今でも滅多にないことである。そして、その監督をしていた時のエピソードが破天荒でぶっ飛んでいる。これもまた、いつか紹介しよう。

ジャガイモの名前です。このネーミングに惹かれ、ただそれだけの理由で買いました。左の赤い袋。
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今年は去年作って好評だった『はるか』3㎏と『インカのひとみ』1㎏を植えました。
定番の『男爵』『きたあかり』『メイクィーン』は飽きたのと、人と同じものを作っても面白くありませんから。素人は人の作らない、珍しいものを作らないと威張れません。
私が贔屓の種苗屋さんはこの他にも色々な種類の種イモを仕入れていて、『アンデスレッド』にも心を動かされたのだが、『インカのひとみ』の文学性と抒情性には及ばず、来年の愉しみに取っておくことにした。種苗屋さんは去年の北海道の大洪水被害で、これだけの種イモを揃えるのにとても苦労したと言っていた。
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『はるか』はイモが大きいので、半分に切って植えるが、切り口には草木灰を塗る。
写真は塗り過ぎ、実際はもっと薄く塗る。



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左の二列が『はるか』。右の一列が『インカのひとみ』。うっかり写真を撮る前に土をかぶせてしまった。例年だと肥料を撒き、その上に土を被せてから、イモを並べるのだが、今年はイモとイモの間に肥料を置いた。
『はるか』はもちもちの食感が新鮮で好評だった。果たして『インカのひとみ』は?
いずこからともなく♬コンドルが飛んで行く♬が聞こえて来て、インカの民の哀しさに思いを馳せてしまうのだが、ここは哀しい歴史は忘れて、インカ帝国の豊かで幸せだった時代の贈り物と思って期待しよう。
右端の雑草が生えているところは大根畑。5月の連休にはここにトマトを植える。
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新玉ねぎ(早生)とえんどう。
新玉ねぎは葉っぱばかり威勢が良くて、どんな出来なのか自信がない。もうすぐ食べられるのだが、不安の方が大きい。
隣のエンドウは遅く植えたのでようやくここまでになる。これから一気に育つ。つるなしでも1mになる。つるなしスナックは50㎝くらいになると言うので、支柱は竹にした。差しておけばいいので、いちいちネットを張る手間が省ける。
天気がよかったので、日中は畑作業に集中する。

忘れた頃にやって来る。昨夜、ばたばたと天井を駆けまわる音がした。ああ、また来たか。二、三日で消えてくれればいいのだが。今はすっかり慣れっこになったので我慢することを覚えたが、初めての時は撃退するのに悪戦苦闘した。
帰郷した年、いきなり天井で真夜中に運動会が始まったのである。はじめは鼠だと思ったが、鼠にしては重量感がある。この時は、一匹ではなさそうで、眠れない。
何日も夜も眠りにつく頃になると騒ぎ出す。頭に来て、棒で天井を突いて脅すのだが、ちっとも効かない。懐中電灯で屋根裏を照らしたり、ラジオを突っ込んでガンガン鳴らしても効果がない。
改築と増築を繰り返した家だから、屋根裏も壁だらけで、光も奥まで届かない。
結局、この時は3週間ぐらい居座り続けた。それがこれまでの最長記録である。
近所にも出没しているらしいが、誰も正体を知らない。
色々な見解があって、当時はイタチ説とムササビ説が有力だった。
私もイタチは縁側の下に駆け込んだのを目撃した。私と目が合うと、ぱっと柱に飛びついて、上に消えたから、縁側の隙間から家の中に入ったことは間違いない。壁裏を伝わって屋根裏に上がることは十分考えられる。
ムササビらしきものを目撃したのは私の妹である。
庭にいたら、屋根を走って来た生き物がぱっと家の横のモクレンに飛び移り、反転してまた屋根を走り、棟の間から屋根裏に潜り込んだと言う。白っぽくて、尻尾が長かったらしい。
その前に、ちょうどTVでムササビ退治の番組を見ていた。そのムササビも白っぽく見えたので、妹が目撃したのはどうやらムササビらしい。我が家は平地の真ん中だが、ムササビは高い木から滑空を繰り返して移動するから、現れても不思議ではない。
ところが、ここにもう一つ有力説が浮上した。
我が畑先生が、昨秋、
「ふろちゃん、わし、テンを見たぞ。畑をぴゅーっと駆けって行ったぞ」と言うのだ。
現段階では、可能性として、私はムササビ70%、テン20%、イタチ10%と予想している。いつか正体を突き止めたいものだ。
この近所にはまだキツネとタヌキも出没する。
タヌキは見たことはないが、近所の人は死にかけたタヌキがよろよろと歩いているのを見たと言っていた。親子連れを見た人もいる。
私はこれも帰郷してすぐのこと、縁の下にぼろ布が落ちていたので、潜り込んで引っ張り出したら、何とこれがキツネのミイラのぼろ布化したものであった。余りの気味悪さに、ぎゃっと叫んで放り投げた。
畑先生に言わせると、このキツネは近くのお寺に巣食っていたものが、我が家に移って住み着いていたものらしい。
2年前には小学校の近くにクマが出て大騒ぎになった。
さすがにクマは前代未聞。こんなところにクマが出たなんて初めてだったらしい。
こう書くと、どんな田舎かと思われるかもしれないが、これでも島根県では松江市に次ぐ二番目の市である。少し行けば工業団地があるし、車で5分も走れば賑やかな観光地出雲大社である。
屋根裏にさえ入って来なければいいのだ。
来てもいいけど、二、三日で出て行って欲しい。それ以上は困る。

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小松菜の花が満開になったので、引っこ抜いて処分していたら、我が畑先生がすっ飛んで来て、
「ふろちゃん、もったいない」と言う。

「ひ」が訛るから「ひろちゃん」が私には「ふろちゃん」に聞こえる。

「先っぽの柔らかいところは食べられるのに。茹でて和えてもいいし、茹でてから炒めて塩コショウで食べても美味しいんだよ」
菜の花と同じように食べられるのだ。
そう言われて見れば、小松菜の花はどこから見ても、菜の花だ。
早速摘み取る。
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茹でて辛し和えにする。
柔らかくて美味かった。
小松菜を花が咲くまで放りっぱなしにしたことがなかったので、菜の花に似ているなあと思いながらも、食べることまで気が回らなかった。
もう一回摘み取ってから、小松菜を処分する予定。

辛し和えは手巻き寿司の副菜。
妻も食べてくれた。
妻がお泊りから帰った日は「鮪の山かけ」、お泊りに行く前夜は「手巻き寿司」と決めている。
短い外泊も今夜まで。
今夜はノンアルコールビールも進む。
毎晩、ほんの少しだったが飲んでいたので、特養に戻ってから、ビールを出せと言いそうな気がして、そこがちょっと心配だ。

3月2日に初めての外泊で帰宅する。5泊6日。7日に戻る予定。
2時半ごろ戻り、お茶を飲んでから、3時にベッドで横になるも、「○○へ早くつれて行ってください云々……」と妄語を繰り返す。同じことばかりループして一時間も喋り続けるので、思わず壊れてしまったのかと不安になる。
さすがに疲れたのか少し休む。
夕食の時はほぼいつもの状態に戻る。いつもの如く、鮪の山かけとノンアルコールビール。美味しいと食べてくれたのでほっとする。食欲もあり、入院していた時は箸の使い方が下手になっていたのに、元へ戻っていた。
今日3日もノンアルコールビールを出してやる。食欲あり。食事の介助をしてやっていたら「お世話焼きねえ」と叱られる。
やっと、いつもの妻に戻った。
近所のTさんに妻のことを問われ、外泊で戻ったことを伝える。
Tさんは家族に重い障害者がいて長い間介護していた。施設に預け、時々外泊で自宅に戻していたのだが、戻って来た時に訪問入浴させたかったが、それは今の介護保険制度では出来なかった。
県に交渉に行ったが、やはり現行の制度では不可能であった。だが、担当者は出雲市に交渉してみろと言ったのだそうだ。市のレベルなら何とかしてくれるかもしれないと。
そこでTさんは出雲市と何度も交渉し、本当に市のレベルで外泊した時でも、訪問入浴が無料で出来る制度を作ってしまったのだ。それが4年前のことで、当時、市の福祉で、外泊者が訪問入浴を受けられたのは中国地方では出雲市だけだったと言う。
Tさんの家族は病気が進み、医療の施設に入ってしまったので、もう外泊が不可能になってしまったが、今でもこの制度はあるはずだから、市の支援で訪問入浴が出来るはずだと教えてくれる。
今回は無理だが、夏場は考えようと思う。
Tさんは私より10歳は年上。その行動力には頭が下がる。こういう人がいてくれるから、後に続く者がどれだけ助かるか。

ところで、このTさんはさらにすごい。障害を持った家族を外泊で自宅に戻してやれなくなったら、今度は自分が施設に行って、一晩でもいいから一緒に泊まってやりたいと、施設側に一緒にお泊り出来る部屋を作らせてしまったのだ。このお泊りのための部屋は今では何人もの人が利用していると言っていた。
こういう人が制度を血の通ったものにして行くのだ。
とても真似ができない。こういう人を前にして、自分には何が出来るのだろうと考えてしまう。

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