曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2016年12月

星山博之さんは言わずと知れたガンダムの脚本家だ。私より2つ3つ年上で、仕事をしていた時期は重なる。私は東映の戦隊シリーズを中心に東映動画やタツノコが主戦場で、星山さんはサンライズを中心に手広く書いていていた。お互いに沢山仕事をしていたのに、私たちが一緒の仕事をしたことは一度もなかった。それなのに、私たちは会えば「やあ」と声をかける間柄だった。
東映の大泉撮影所は西武池袋線の大泉学園が最寄り駅である。私は喫茶店で仕事をするタイプだったので、撮影所に脚本を届ける時は、仕上げを踏切脇の喫茶店「カトレア」で書いていた。その喫茶店の主みたいな人がが星山さんだった。彼も喫茶店で仕事をするタイプだったようだ。携帯のない時代だから、店員が「星山先生、お電話ですよ」と言っていたのを覚えている。喫茶店の電話を連絡に使っていたのかも。
放送作家協会(今の脚本家連盟の前身)のアニメ部会の役員の下っ端をやらされた時、メンバーの一人に星山さんがいた。だが、集まりは1、2回で、10人ぐらいいて、ちょっと話をして、終わったらすぐに皆散って行くので、近しく話をしたこともなかった。
「カトレア」で顔を見た時も、それから2、3年たっていたから、お互いに軽く頭を下げるだけだった。声も掛けない。お互い照れ屋なところがあったのだ。しばらく頭を下げるだけの関係が続いていたが、ある日、二人とも競馬新聞を持っていることに気が付いた。思わず顔を見合わせにやりとなった。
「やるの」と、星山さん。
それからは、「カトレア」で会えば、競馬の話だ。
仕事の話は一切しない。TVの話も、映画の話も、芝居の話も、本の話も。
競馬の話しかしなかった。優しい目をした、物腰の柔らかい人。作家に必要な強靭さは内に秘めて表には出さない人のように思えた。
競馬のキャリアも長かった。だが、週明けに会うと、いつも苦笑いしていた印象が強い。お互いさまだけど。
いつの有馬記念だったろうか、金曜か土曜に「カトレア」で、ああでもない、こうでもないと予想し合って、別れた。
私は外れた。
週明けの「カトレア」。ニコニコの星山さんが近づいて来た。
「あの日は、8枠(と言ったと思う)が良く出てたからさあ、8枠から流したら当たっちゃったよ」
「ええ、出目で買ったんですか」
先週のうんちくは何だったのか。
星山さん、照れくさそうに、
「昨日は全然当たらなくてさあ、有馬記念も分からなくなって、出目で買ったんだよ」
数々の名セリフを残した、機動戦士ガンダムの脚本家の、私が覚えている最後のセリフである。
「カトレア」は随分昔に閉店した。
星山さんが亡くなったのは、3、4年前で、67か68ぐらいかと思っていたが、念のために調べてみたら、2007 年に63 歳で亡くなっていた。
亡くなったと知ってショックを受けたのが、つい昨日のように思っていたが、そんなに昔の事だったとは。63歳だったのにも驚いた。私たちの63歳はまだまだいっぱい仕事が出来たのに。
















「お前、昔、有馬記念で儲けたと言ってたよなあ。俺もやってみようかなあ」
と、師匠が言ったのが、1973年も暮のこと。私が弟子になってまる3年目であった。
この年、私は師匠の後押しで「非情のライセンス」と言う「天知茂」主演の刑事ドラマを2本書き、なんとかライターの第一歩を踏み出したところであった。
これで食えるわけがないので、東映のプロデューサーが子供番組を紹介してくれて、「キカイダー01」の脚本を一本か、二本書いた程度で、例のお礼奉公が始まったところでもあった。
早速、予想紙を買って来て、仕事そっちのけで、素人の師匠に馬券の買い方をコーチしながら予想した。師匠も何点か予想したのだが、ふと、馬名に銀座で馴染みだったホステスの名前があることに気が付いた。一人はチドリと言うホステスで、馬名はニットウチドリ。もう一人の名は忘れた。馬名も忘れたが、ホステスの源氏名が入っていた。
「先生、そんな馬券、どぶに捨てるようなものですよ」
なんたって、その年は「ハイセイコー」が人気の有馬記念である。当時のハイセイコーと言えば、ディープインパクト級の超人気馬である。地方の大井競馬から中央競馬に挑み、中央のエリート馬たちを蹴散らす姿は、庶民の圧倒的支持を集め、歌まで出来た。
反対したのは私だけではない。私の高校の同級生Iも反対した。Iは事情があって、中国語の講師をしながら、まだ大学に通っていた。時間に余裕があるし、脚本家の手伝いも面白そうだからと暇な時に出入りするようになっていたのだ。
渋谷の場外馬券は1000円券しか発売しない。今みたいに100円単位では買えないからこそ、みすみすどぶに捨てるような馬券は買わせられない。
師匠は「そうか」と、素直に別な馬券に買い替えた。
そして、翌日は高校のクラス会でもあった。同級生の女の子の自宅でやるアトホームな珍しいクラス会だった。
私とIはTVで有馬記念を観戦した。競馬はいつもあれよあれよと言う間に決まる。
私とIは蒼ざめた。何とニットウチドリが2着。もう一頭のホステス馬は来なかったが、同枠の穴馬ストロングエイトが1着。ハイセイコーは3着だった。
枠連は万馬券。師匠のホステス馬券を買っていれば、13万円になっていたのだ。
翌日、Iは大学。私一人、お礼奉公の出勤。
もう師匠と顔を合わせることが出来なかった。
「来たじゃねえか」
ただひたすら謝った。不在のIが恨めしかった。お前も反対したのに。俺一人が謝らなきゃならないなんて。
それ以来、私はどんな素人が、どんな馬券を買おうとも、一切口は挟まない。
師匠はその後、何回か馬券を買ったが、そのうち興味を失ってしまった。
今でも「先生、ごめんなさい」と謝りたい。万馬券を取って喜んでもらいたかった。
でも、当ててたら、味をしめて、もっと深い傷を負っているような気がする。






今週は有馬記念なので、有馬記念と三人の脚本家にまつわる思い出を三連発で載せることにした。最初は馬場当さん。まさるが本当だが皆あたるさんと呼んでいたように思う。師匠よりは7、8歳若く、松竹ヌーベルバーグの一人篠田正浩監督「乾いた花」の脚本を執筆。後に今村昌平監督「復讐するは我にあり」の脚本も執筆。いずれも脚本賞を受賞している。
以前、なけなしの2000円を有馬記念で増やして年を越した話を書いたが、あの馬券はこの馬場当さんに教えてもらったのだ。その頃、私はシナリオ研究所で馬場さんのゼミに入っていて、馬場さんには目をかけてもらっていた。
ゼミの授業で、馬場さんが「男と女の出会いを書け。男と女ならどんな設定でもよい」とテーマを与えた。七転八倒のストーリーを提出。馬場さん、一読してにやり。「君たちは男と女が出会うと言えば、喫茶店とかしか浮かばないのかね」
その時、私は線路を歩いていた男が、向こうから来た女と出会う場面を書いた。二人とも鉄道自殺するつもりだったというオチだ。それを馬場さんは気に入ってくれたのだ。
この後、三島由紀夫の自決があり、馬場さんはショックを受けたと話し、ゼミ生みな相槌を打った。若い私は猛烈に反発し、独り真っ向から三島を否定した。すると、それをまた馬場さんは気に入ってくれたのであった。
その後、個人的に呼び出され、「寿司屋に嫌な客が来て、こいつを何とか追い出すシーンを書いているのだが、いいアイデアが出ない。ちょっと考えてみないか」と、頼まれた。いや、試された。
もちろん、書けなかったけれど。
にやりと笑われてしまった。
暮にゼミで有馬記念の話をしていたら「君、何を買うのかね」と聞かれ、大儲けしたくて穴馬の名をあげたら、にやりと笑って「スピードシンボリとアカネテンリュウで決まりだよ」と言われたのだ。
馬場さんは戦争の傷を引きずった無頼のインテリだった。脚本で食べるは大変なので、家を建て、一階は寿司屋に貸し、二階に住んでいると聞いていた。競輪ファンとも聞いていたが、競馬にも自信ありげだった。
私は馬場さんの言葉に賭けた。
そして、私は知った。一流の作家は競馬であっても本物を見抜く目は確かなのだと。
師匠の口述筆記募集の話がなかったら、私は馬場さんのところに出入りしていたと思う。だって、他にはどこにも行くところがなかったし。
給料を貰えて、脚本家にしてもらえると言う話にころりと乗り換えてしまったのだ。
馬場さんの弟子になると決めたわけではないし、馬場さんが弟子を取るような人かどうかも分からなかった。馬場さんと私の関係はまだ曖昧なところであった。だから断わりも入れないで、師匠の美味しい話に乗ってしまったのである。
後で、馬場さんから自宅に電話があった時、母は私が松浦先生にお世話になっていると答えたと言った。私はやはり挨拶しておくべきだったと悔やんだ。
馬場さんとは全く違うタイプの脚本家の弟子になったことを知って、馬場さんは私を見損なったのではないか、私は思い出すたびに胸が痛んだ。
無頼のインテリ作家の吐く言葉は鋭く、時に優しく、意外に弱く、私は翻弄されるのが愉しかったような記憶がある。
でも、思うのである。私は馬場さんの弟子になっていたら果たしてライターになれたのであろうかと。
なれなかったような気がしてならない。それは師の問題ではない。弟子の問題だ。私はそういう人の弟子になって、ライターになれるほどの人間ではないと思っているのだ。















イメージ 1春のように天気が良かったので、母を連れて母の実家へ行く。出雲市から西へ、大田市までは車で30分。母を実家へ残し、私は母の実家の裏山の岩山へ登る。
鉄塔の横から尾根伝いに登るとちょうど標柱の真上辺りが岩山の頂になる。わずか20分ほどで頂に着く。小さな山である。
標柱には「武将多胡辰敬の居城岩山城遠望」とあるが、そこに城があって、人が住んでいたわけではない。城と言っても砦である。普段は麓に住んでいて、戦いの時だけ砦に立て籠もる。






イメージ 2頂きの岩には柱を立てるために穿った穴がある。
毛利の大軍を相手に絶望的な戦いを挑むために築いた砦の跡だ。
この穴をじっと見ていると、戦が日常であった時代の悲哀が惻惻と伝わって来る。そういうものを肌に感じたくて来たのかもしれない。
4年前に来た時は3つ、4つあったのだが、土に埋まってこれ一つしか残っていなかった。
山は低くても景観はいいのだが、雑木が生い茂って、頂きからは何も見えない。今日は日本海も綺麗だったのに、頂きからの景色が撮影できなかったのが残念だ。

標柱がある道沿いに辰敬が創建したと言われる円光寺がある。私は創建と言うより移築したのではないかと思っている。このお寺には辰敬の肖像画がある。母の実家のお墓もあるので、墓参りの後、辰敬の小説が無事に進行することをお祈りする。
ところで、以前のブログで辰敬に最初に注目したのは、柳田國男と書いたが、もしかしたら和辻哲郎かもしれない。出典を忘れたので確認できず。ごめんなさいです。
柳田は民俗学者、和辻は哲学者。柳田と思い込んでいたが、どうも和辻ぽいなあ。


戦前の師匠の略歴は、満州映画協会に入社し、渡満したこと。帰国して、東宝に入社し、終戦を迎えたことしか知らない。その間、いつ徴兵検査を受けたのか、いつ徳川夢声に会って、役者を諦め、シナリオライターを目指すようになったのかは、聞いたかもしれないが、知らない。
満映では「麻薬撲滅の啓蒙映画」を作っていたそうだ。カメラを担ぎ、ケシ畑(アヘンの原料)を撮影するため、満州の山の中を歩き回ったと言っていた。満州はとても寒く、寮の便所では、大便の山が凍り付き、とんがり帽子のように突き立っていたとも言っていた。
その満映でのエピソード。
ある日、まったく偶然に、満映の玄関で、満映の理事長甘粕正彦に出くわした。
師匠は吃驚したそうだ。「あれが、あの有名な甘粕憲兵大尉か」と。
「小っちゃな男だったぞ」師匠が小さいと言うのだから、かなり小柄な男だったのだろう。
関東大震災後の混乱の中で、無政府主義者大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一(6歳)が、憲兵に拉致され、殺害される事件が起きた。この実行犯が甘粕憲兵大尉率いる一味であった。世を震撼させた大事件で、甘粕事件とも呼ばれている。
甘粕の背後には黒幕がいるのではないかと大問題となった。戦前の日本軍国主義の暗部を象徴するような事件であった。
甘粕は大杉の背後から首を絞めて殺害。伊藤野枝も同様に殺害したと自供。宗一少年には手を下してはいないと言うも、三人の死体は井戸から発見された。
甘粕は裁判にかけられ懲役10年の判決が下ったが、2年目に大赦で釈放されると、あろうことか夫婦でパリへ留学。バックアップしたのは陸軍と言われている。その後、満州で暗躍し、師匠が満映で働いていた頃は満州映画協会の理事長におさまっていたのだ。
この処遇を見れば、明らかに黒幕がいたと思われる。
師匠が甘粕を見たのは、後にも先にもこの一回だけで、二度と甘粕を見ることはなかったと言う。理事長なのに、その動静すらも耳には入らなかったそうだ。
昭和20年ソ連軍が侵攻して来ると青酸カリで自決。
辞世の句が「大ばくち もともこもなく すってんてん」
こんな男に殺された大杉栄や伊藤野枝、宗一少年が哀れだ。
もっともっと満映時代の話を聞いておけばよかったと悔やまれてならない。

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