私のおばさんにK子さんというお婆さんがいる。昭和10年生まれだから87歳になる。正確にはおばさんではない。父の従妹であるが、家庭の事情で出雲の我が家に4歳の時から預けられ我が子同様に育てられ、我が家からお嫁に行った人である。父はこの人のことを「K子、K子」と呼び捨てにしていたし、K子さんも私の父のことを昔から「あんちゃん、あんちゃん」と呼んでいた。
私は子供時代から田舎に帰ると「K子さん、K子さん」と小柄で綺麗なお姉さんを呼んでいたが、祖父の弟の子で預けられていることは知っていた。その頃は高校を卒業して出雲のダイワ紡で働いていたと思う。
その人の御主人がこの1月の末に亡くなった時に、K子さんは免許を返上した。後1年免許証が有効だったのでもう1年だけ乗りたかったのだが、娘たちに説き伏せられて返上せざるを得なくなったのだ。
有名な出歩きお婆さんだったK子さんは車がなくなって家から一歩も出掛けられなくなりとても寂しがっていた。気の毒に思った私は49日を過ぎてからK子さんを神立食堂に誘って昼ご飯を一緒に食べた。
K子さんはとても喜びをご飯を食べながら昔話をしてくれた。
昭和22年。K子さん12歳の時、私の母(19歳)は出産のために父の実家に帰っていたそうだ。私はこの時自分がどこで生まれたのかを75歳にして初めて知ったのである。
私の母は無類の柿好きで、「K子さん、柿取って来て」と頼まれると、K子さんは庭の柿を取って来たのだそうだ。妊婦に柿は体を冷やすからいけないと言われていたが母はお構いなしに食べていたそうだ。その年の10月末に私は生まれた。
年が明けると、K子さんは私の子守をするようになった。小学校6年から中学1年になる遊びたい盛りだが、自分の立場を心得ているK子さんは不満も言わず子守をしてくれたのである。
その頃、ピンポンに夢中になっていて、K子さんは私を背負って小学校の講堂へ行くと、私を講堂の横の宿直室に預けて、自分は講堂でピンポンに興じていたと笑っていた。宿直室にはお婆さんオバサンがいて竈で湯を沸かしていた。炬燵もあり、そこに赤ん坊の私を寝かせていたのだそうだ。
中学に上がると、その頃は私も座れるようになっていたので、小さな掻い巻きのようなものでぐるぐる巻きにすると廊下の壁を背に座らせて自分は廊下でピンポンをしていたのだそうだ。
K子さんとは小学校時代から今日まで帰郷するたびに顔を合わせていたのに、どうして今までこんな話が出てこなかったのか不思議でならない。
母の認知症も進み、昔のことも忘れているだけに、K子さんのこの話が私には宝物のように感じられた。
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75年前、私を背負ってくれた背中である。
「しゃべったら止まらないおしゃべりおばさんと疎ましく思ったりして御免よ。12歳の子守、有難う。この御恩は忘れないよ」
今日の神立食堂は3回目である。K子さん、夕ご飯のおかずも持ち帰りしてとても喜んでくれている。
車で出かけたいところがあれば連れて行ってあげると言ってある。私にできるせめてもの75年前の(75歳の87歳への)恩返しである。