第三章 戦国擾乱(じょうらん)(7)
その夜、辰敬は一睡も出来なかった。
ため息をついては寝返り、いちの姿を思い浮かべては身悶えし、長屋の狭い床を輾転反側した。
翌日、無駄とは思いながらも、辻が見える小路に出た。
無論、いちの姿はなかった。
もう来ないと分かっていても、次の日も、その次の日も、外に出た。
未練がましいが、本当に最後に最後の時が来て、いよいよ切羽詰まったら、もう一度来てくれるような淡い期待にすがっていたのである。その時は今度こそと胸の内では思いながら。確たる覚悟がある訳でもないのに……。
数日後の事であった。
その日も辰敬は京極邸の北頬(つら)の小路に出て、いちのいない辻をぼんやりと眺めていた。
足元をかさかさと音を立てて枯れ葉が通り過ぎて行くと、その後からふらりと辰敬の横を抜けて行く背中があった。
はっとその背に辰敬の目は吸い寄せられた。
侍である。痩身の尖った肩は野っ原で見た牢人の一人を彷彿とさせた。いや、その身に漂わせる荒んだ気配はまごうことなきあの二人組のものであった。
懐手でゆらりゆらりと辻の方へ歩いて行くのを見送りながら、辰敬は、あの時、いちが「どこかで見た事があるだけや」と言った言葉を思い出していた。
牢人は辻を渡ると、いちが佇んでいた場所で立ち止まり、京極邸の西頬の小路を眺めた。すると暫くして、京極邸の角からもう一人の牢人が現れた。
辰敬はあっと小さな声をあげた。
あの二人組の片方であった。小柄だが猪首でがっしりとした身体をしている。痩身長躯の牢人に近づくと、二人は並んでいま猪首の牢人が来た方角を眺めた。
そして、二人は京極邸を眺めながら、何やらぼそぼそと声を交わした。いかにも他人を憚るような話し方と言い、その目つきと言い、明らかに不審な挙動である。
いちがどこかで見たと言うのは、この近くの事だったのであろう。この二人組はいちが辻に来た頃から出没していたのだ。
もし、この二人組が何者かと問われたら、辰敬は躊躇うことなく盗賊と答えるだろう。
まさに盗賊が京極邸の下見をしているとしか見えなかった。
やがて、二人組は辻を離れると、小路を北に向かった。数日前に目撃した野っ原の方へ引き上げて行くようだ。
辰敬は後を尾けようとした。
「なにしとるんや。こないなとこで」
次郎丸だった。
「また叱られるで」
この若者は雑色のくせに未だに辰敬を子供扱いして、身分も弁えず横柄な口を利く。
辰敬は舌打ちした。
次の日からも辻を窺ったが、いちの姿も二人組の姿もなかった。
それから何日かして、辰敬は急ぎの使いに出た。
用を済ませて戻って来た時、京極邸の正門を横目に西頬の小路をゆっくりと来る二人組を見つけた。
辰敬は何食わぬ顔をして近づき、二人組の顔を目に焼き付けた。痩せて背の高い方は頬に深い刀傷があり、猪首の男は醜い痘痕面であった。
すれ違う時、二人がにたっと目を合わせたのを辰敬は見逃さなかった。辰敬はどきっと胸が鳴った。意味ありげな嫌な笑みだったのである。
辰敬は行き過ぎるとそっと見送った。
後を尾けたかったが、すぐに報告しなければならない事があった。
その夜、辰敬は無性に胸騒ぎがした。辰敬は一日中屋敷の周囲を見張っている訳ではない。辰敬が気が付かなかっただけで、恐らくあの二人組は執拗に京極邸を窺っていたに違いない。
だが、盗賊であると言う確証はなかったし、辰敬の置かれた立場からすれば、怪しいと言うだけで報告するのも躊躇われた。多少見直されたとは言え、差し出がましい事をしたら疎まれるのは分かり切っていた。
初めて木枯らしが吹いた日の夜だった。
辰敬は眠れなかった。底冷えのする寒さのせいだけではなかった。いちと別れ、二人組を目撃してからと言うもの、眠れぬ夜が続いていたのだ。
かたんと遠くで物音がした。
木枯らしは夜になってもやむ気配がなかった。普段なら何かが飛ばされたのだろうと気にもしないのだが、辰敬の胸は激しく騒いだ。
辰敬は暗い屋根裏を見ながら耳を澄ました。聞こえるのは風の音だけで、先ほどの音は空耳かとも思ったのだが、どうにも気になり、むっくりと起き上がった。
刀を腰にねじ込み、長屋を抜け出した。
新月の夜だったが、満天に氷を散りばめたように無数の星が瞬いていた。その星明かりを頼りに、辰敬は会所と常御殿の方へ向かった。
在京義務のある守護大名たちが皆分国に下向してしまい、手薄になった屋敷がしばしば盗賊の餌食になっていることは、辰敬も聞いていた。
辰敬が上洛した頃は、京極邸も篝火を焚いて、それなりに警備していたが、不幸があってこの方、目に見えて疎かになっていた。嗅覚の鋭い盗賊なら決して見逃さないだろう。
築地塀のある所まで来た。この向こうが会所と常御殿であるが、しんと静まり返り、物音一つしなかった。
辰敬はぶるんと身震いした。寒くて引き返えしたくなったが、何かが辰敬を引き止めた。
常御殿の奥には吉童子丸や御屋形様達が休んでいる。寒夜に抜け出し、ここまで来たのなら、最後まで見回るべきと思い直したのである。
築地塀を乗り越える時、まるで自分が盗人になったような気がした。
会所の庭は深い闇が広がっていた。会所は来客の応接や連歌を催したりする大きな建物である。その大きな建物もしんと静まり返っている。水を打ったような静けさに、辰敬は思わず全身が粟立った。辰敬は祈った。このまま静まり返ったままである事を。ことりとも音がしない事を。
闇に溶け込み、じっと耳をそばだてた。刀がずしりと重く、腰が沈むようであった。聞こえるのは自分の息と胸の鼓動だけであることを確かめると、辰敬は逃げるように引き上げようとした。その時、みしりと床の軋むような音が闇を揺らした。
ぎくっと足がすくんだ。
音は会所の中から聞こえて来た。
辰敬はそっと振り返り、会所に目を凝らした。
その闇の一番濃く深い所が揺れたように辰敬には見えたが、闇が動く訳がない。動いたのは人影だった。黒い人影はふわりと縁に飛び上がると、会所に消えた。
辰敬は会所の端の部屋の障子が開いていることに気が付いた。
割れ鐘のように心の臓が鳴った。盗賊はすでに侵入しているのだ。
(盗賊じゃ)
叫ぼうとして愕然とした。声が出ない。必死に声を振り絞り、張り叫ぼうとしても、盗賊のとの字が喉に引っかかって出て来ないのである。
手も足も強張り動こうとしない。左手はかろうじて腰の刀を掴んだものの、肝心の右手が伸びない。金縛りになっていた。刀も抜けない不甲斐なさが情けなかった。もう大人のつもりだったが、これほど意気地がない男だったとは。早く知らせねばと思うのだが、足が動かない。一歩が踏み出せない。
その時、辰敬は一つだけ出来る事に気が付いた。その場にしゃがむと石を拾った。刀は抜けないが、石なら投げられる。
思い切り暗い座敷に向かって石を投げた。
ばしっと障子が裂け、室内の壁に当たった。一つ投げると、金縛りが解けた。辰敬は手当たり次第に石を拾い、滅多やたらに暗い建物めがけて投げつけた。
石は屋根に、柱に、壁に、板戸に当たっては、深夜の邸内に雷鳴のような音を轟かせた。
同時にあちこちから人の気配がした。
慌てふためく気配もした。侵入した盗賊のものに違いない。
「盗賊じゃ」
声が上がった。
「盗賊じゃ」
堰を切ったようにあちらこちらから声が上がった。
辰敬もやっと声が出た。石を投げながら叫び続けた。
「出会え、出会え。盗賊じゃ」
会所の奥で怒声がぶつかり、剣戟が響き渡った。絶叫が上がり、板戸に激突する音が続いた。
抜き身を下げた三人の盗賊が庭に飛び出して来た。頬かむりをした牢人態である。追って来た京極家の家人達とたちまち斬り合いとなった。
辰敬は慌てて庭石の陰に隠れた。
常御殿の方からも女達の悲鳴が一斉に上がった。
どうやら追われた盗賊達が常御殿へ逃げ込んだようだ。
その時、女たちの悲鳴に混じって金切り声が聞こえて来た。人間の声とは思えぬ、笛が発するような甲高い声であった。吉童子丸の声に違いない。辰敬は庭石の陰から飛び出していた。
どこをどう走ったかも覚えていなかった。何度か人にぶつかったが、誰にぶつかったかも分からなかった。
会所を突っ切り、狂ったように叫び続ける声のする方へ闇雲に突進し、暗い納戸に飛び込んだ時、その片隅に蹲る小さな人影を認めた。と同時に、屈強な身体がぶつかって来て、辰敬は弾き飛ばされた。
その頭上で凄まじい火花が散った。
二人の男が戦っていた。
刃が唸り、その一方が片隅へ飛ばされ、小さな人影を押し潰した。絶叫したのは吉童子丸であった。
男は咄嗟に吉童子丸に刃を突きつけた。
「この小童がどないなってもええのか」
「だらあ~っ」
歯ぎしりした人影は多聞だった。
闇の中でも小さな影がまるで小鳥の雛のように震えているのが分かる。騒ぎに巻き込まれた吉童子丸は恐怖の余り逃げ回っていたのであろう。
ふと辰敬の手が硬いものに触れた。手頃な太さの長い桟木である。納戸に番匠(大工)が入っていると聞いていた。何かに使う用材のようだ。
辰敬は握り締めると、そっと上半身を起こし、片膝をついたまま力一杯横に薙ぎ払った。
脚を不意打ちされた男が悲鳴を上げてよろめいた。
すかさず多聞が斬り込む。
辰敬も弾かれたように飛び出し、吉童子丸に覆い被さった。
「若様」
と抱き締めると、小さな身体が悲鳴を上げながらしがみついて来た。
そこへ、家人達に追われて別な盗賊が飛び込んで来た。
明りも追って来て、数人が入り乱れての凄惨な斬り合いが浮かび上がった。
辰敬の背に鋭い激痛が走った。吉童子丸の爪が突き立ったのである。吉童子丸は悲鳴を上げ続けながら、雛のように震え、子猿のようにしがみついていた。
この時、辰敬はこの子がこの春に味わった恐怖を思い知った。
近江の館を高清勢に包囲され、父材宗が自死に追い込まれるほどの戦いは、いま目の前で繰り広げられている斬り合いの比ではなかったろう。
夥しい血飛沫が飛び、断末魔の悲鳴が上がり、紅蓮の炎が燃え上がる。
吉童子丸の悲しみの底には、想像を絶する恐怖が封印されていたのだが、今その抑え込んでいた恐怖が噴き出したに違いない。
辰敬は吉童子丸を抱き締めた。
辰敬は骨が折れるのではないかと思うぐらい強く抱き締め続けた。
目の前の斬り合いはとても長い時間に感じられたが、静かになったことに気がついた時、二つの死体が照らし出されていた。あの二人組だった。
辰敬は目を背けた。
吉童子丸は辰敬の腕の中で白目を剥いたまま気を失っていた。
結局、残った死体は五つで、残りの何人かは逃走したと言う事であった。
翌日、辰敬は御屋形様の前に召し出された。
いつ以来か、思い出せないほど久し振りの笑顔が向けられた。
「よくぞ吉童子丸を守ってくれた。その方がおらねば殺されておったやも知れぬ」
傍らに控えていた大方様も美しい顔を綻ばせた。
「礼の言葉もありませぬ」
辰敬は上気した顔を床にこすりつけた。
「それにしても、あのような夜更けによくぞ賊に気づいたものや。いったいどうしたわけや」
辰敬は京極邸の周りをうろつく怪しい二人組に気が付き、ずっと気にかけていたのだと答えた。
「あっ晴れ、見上げた心掛けや。褒めて取らす。褒美をやろう。辰敬、何でも良いぞ。望みのままに取らす。欲しいものを言うが良い」
その言葉を聞いた瞬間、辰敬の目の前にぱっといちの顔が浮かび上がった。
「私は頂く訳には行きません」
「なんやと」
「私より御褒美にふさわしい者がおります。実は怪しい二人組に最初に気がついたのはその者です。その者にこそ御褒美を下されたくお願い申し上げます」
「誰や」
「いちと申します」
「いち……おなごか」
「はい」
「何者や」
「筆法の師の娘にございます」
「そう言えば、その方、どこぞの公家に書を習っておると聞いた事がある。公家の娘とな……」
俄かに興味を覚えたようで、
「幾つや」
「十五になります」
「なんと十五の公家の娘が盗賊を見破ったと言うのか」
「いえ、そう言う訳では……たまたまその二人組を見かけた時に、いちがどこかで見たような気がすると言ったのでございます。でも、その一言がなければ、私も二人組に注意を払うような事はなかった訳でございまして……」
「その方の言う事は分かったようでよう分からん。初めからよくわかるように話してみよ」
と、根掘り葉掘り問い質され、洗いざらい喋らされてしまった。
「ははは……」
懐かしい御屋形様の笑い声だった。
「いちとやら連れて参れ。みが直々に褒美を取らす。貧乏公家の借銭など高がしれておろう。きれいさっぱりと払ってやるわ。どのような娘か楽しみじゃ。辰敬、良き娘か」
顔から火が噴き、辰敬は恥ずかしさの余り面を上げる事が出来なかったが、全身は喜びにうち震えていた。
その微笑ましい姿に、大方様も柔らかな笑みを注いでいた。