第三章 戦国擾乱(じょうらん)(6)
義尹(よしただ)は十代将軍足利義材(よしき)が名を改めたものである。十四年前の明応の政変で、細川政元によって将軍の座から引きずり降ろされ、義澄に取って代られた。
この時、政元の攻撃に対して、最後まで義材に忠誠を誓ったのが元管領の畠山政長・尚順(ひさのぶ)父子で、政長は尚順を逃がすと自刃したのであった。
義材は投降し、政元の家臣の座敷牢に軟禁されたが、見舞いに来た妹の侍女に変装して命からがら脱出した。
その後、将軍復帰の執念に燃え、反細川勢力を糾合し、幾度か上洛を図ったが、ことのほか戦が弱く、ことごとく失敗した。
しかし、常に誰かしらに助けられ、河内に逃げ込むと畠山尚順に庇護され、そこから瀬戸内海を西へ奔り、周防の大内義興に迎えられた。
それが八年前のことであった。
その前年に義材は義尹と名を改めていた。
諸国を流浪し、流れ公方と呼ばれていた義尹はようやく安住の地を得ると同時にとてつもなく強大な庇護者を得たのであった。
その義尹もまた都の擾乱を奇貨として、大内義興と共に上洛して来ると言うのだ。
その噂に都は怯えた。
義尹の将軍復帰に賭ける飽くなき執念の拠るところを誰もが知っていたし、西国の太守大内氏の強大さも都の誰もが忘れてはいなかった。
応仁の乱では西軍を一手に支え、十年近くも大軍を都に滞陣させた西国の雄が、大船団を率い、またもや都に攻め寄せて来るのだ。
将軍義澄も澄元も焦った。
噂が現実となる前に、畠山を征伐しなければならなかった。中央政権が盤石なことを示し、上洛を諦めさせるのだ。畠山勢と義尹・大内氏が手を結ぶ事だけは絶対に防がなければならない。が、焦るほどには成果は上がらなかった。
その体たらくを冷笑し、密かに畠山尚順を応援しながらも、複雑な思いを抱いているのが京極家の人々だった。
実は畠山政長の正室は京極持清の娘だった。政経の妹である。その縁にすがれば、義尹が復帰し、畠山尚順も返り咲いた暁には、京極家にも運が巡って来るかも知れないからである。
先の都の政変の時より、此度ははるかに期待が持てそうな気がしていたのだが、なぜそこに複雑な思いがわだかまるかと言うと、義尹がまだ義材と名乗って将軍位にあった時の事であった。
政経は家督を認められ、江北の守護に復帰したのであったが、国人層の寺社領横領を止めることが出来ず、明応元年、義材の怒りを買い、わずか一年で家督を取り上げられ、高清に与えられた事があったのだ。
こんな煮え湯を飲ませた義尹にさえもすがらざるを得ないのが、今の京極家なのであるが、京極家の人々は気が付いていない事があると辰敬は思っていた。
畠山尚順や義尹復帰の戦いに少しでも力になれば、事が成就した暁には、過去の経緯はどうあれ、見返りはあるだろうが、何もせずに見ているだけでは何も得られないと言う事を未だに判っていない。
辰敬でさえ分かっている事なのに。
畠山勢との戦いは続いていたが、都の騒擾は一段落したので、辰敬は吉童子丸の守りに戻ろうとした。
すると、おまんが出て来て、
「有り難いのやけどなあ……」
と、力なくため息をついた。
辰敬は驚いた。まさか、おまんの口からこんなしおらしい言葉出て来ようとは思いもしなかったのだ。
白粉を塗るのを忘れたのか、それとも諦めたのか、化粧気のない顔は普通のおばさんだった。
白粉狸の時は意地悪く見えた目も弱弱しかった。
「夜泣きがひどくなるばかりなのや。重い心の病やそうや。医師が薬を差し上げてもお飲みにならない。わらわには悪くなる一方にみえる。御屋形様や大方様も大変心痛なさって、陰陽師や修験者を招いて祈祷させたのやけど、効はあらへんのや」
修験者は駄目だ。右京兆管領細川政元は三十年にも及ぶ修行の功なく、呆気なく殺されたのだから。
小さな体で苦しんでいる吉童子丸を思い浮かべると、辰敬は胸が塞がった。
己の無力が悔しかった。
おまんもそっと目頭を抑えた。
「どないしたらええのやろう」
「我は御屋形様から吉童子丸様の良き兄となれと言われました。そのお言葉、決して忘れておりません」
辰敬は言葉に力を込め、
「御屋形様の願いに必ずおこたえします。そのために上洛したのじゃから。この気持ちは必ず天に通じます」
と、己を励ますように言った。
おまんはしみじみと辰敬を見詰めた。
「ええ男の子にならはったなあ」
辰敬は頬が赤らむのを覚えた。
秋も次第に深まったが、おまんからの呼び出しはなかった。頃合いを見て呼ぶと言われていたのだが、吉童子丸の様子は相変わらず良くないのであろう。
ある日の昼前、辰敬が常御殿から下がって来ると、次郎丸たち雑色が立話をしていた。
「おい、今日も来とったで」
「ああ、わしも見た。何者やろ、あの娘。ごっつい別嬪やで」
「毎日のように見かけるのやけど、京極家に用でもあるのやろうか。遠くから門の方を見とるような気がするのや」
「そう言えば、何か思い詰めたような顔をしとったなあ」
「誰かええ男でもおるのやろうか。この屋敷に」
「誰や。あんな可愛い娘を泣かせとる奴は」
辰敬はどきっとした。
「許せん奴や」
「せやけど、こんな屋敷にそんなええ男がおるのやろうか。今度見かけたらその色男の名を聞いてみるか」
辰敬は何食わぬ顔で次郎丸達の前を通り過ぎると、笑い声を背に裏口へ向かった。
裏口を抜け出し、ぐるりと築地塀を回って、屋敷の北頬(つら)の小路に出た。北頬と言うのは、この場合、塀が小路に対して北に面していることを言う。
西の辻の方を見ると、京極邸の角と斜向かいの角に、小春日和の陽射しを浴びて、まるで枯れ木のように立っているいちの姿があった。
心の臓がどきんと音が聞こえるほどに鳴った。嬉しさよりも、不吉な予感に怯えたのである。遠目にもいちの暗さが見て取れた。辺りが明るいだけに、枯れ木から滲み出る暗さが、弥が上にも際立っていた。
思い詰めた顔で、南北に伸びる小路の南の方を見ている。あの位置からだと京極邸の正門を見ているように思えた。この当時の正門は西向きで、屋敷の西頬にある。
辰敬が目の前に立つまで、いちは気が付かなかった。
いちはあっと声をあげて辰敬を見詰めた。
いつもなら吸い込まれそうな黒い瞳に精気はなかった。向き合うのが辛くなるほど絶望的な表情だったが、辰敬は目を逸らさず、見詰め続けた。
季節を忘れさせる心地よい風が二人の間を吹き抜けて行ったが、いちは暖かさの欠片も感じていないようだった。
何がこんなに暗いいちにしてしまったのだろうか。余程の事があったに違いない。助けを求めて来たのだろう。辰敬に。何日も前から。
思いきって何があったのか問い掛けようとした時、いちの瞳の底できらりと光るものがあった。
辰敬がはっとなると、いちはくるりと背を向け、北に向かって歩き出した。まるで涙を見られたくないかのように。
ついて行くと、いちは時折り空を見上げた。
多分涙がこぼれないように。辰敬はそう思ったが、やがていちは下を向いた歩き続けた。
涙がこぼれるのも構わず。
通行人にぶつかるのも構わず。
この辺りの小路は北へ行くと、どれもあの広い野っ原に突き当たる。
夏の盛りには草いきれに満ちた緑の野っ原が、金色に光って揺れる芒の荒れ野に変わっていた。
いちは芒の中に消えた。
追って行くといちが振り返った。
溢れる涙を拭おうともせず、辰敬を見据えると、
「わらわは売られるのや」
まるで我が身を投げ捨てるように吐き出した。
余りにも突拍子もない言葉に、辰敬はたじろいだ。売られるとはどう言うことなのか。ただ事ではない。
「借銭の形に取られるのや」
借銭と言う言葉でおよその想像はついた。
「おとうはんは嫁に行くのやと言うけど、売られるのと同じや」
やはりそう言う事だったのか。納得は出来ないが、あって不思議のない話である。
相手が誰なのか訊くのも辛くて黙って突っ立っているしかなかった。
「二条大路の土倉や。おとうはんと齢も変わらん爺や。後添えやと言うけど怪しいもんや。妾が仰山おって、お払い箱になったら辻子君に売り飛ばすと言う評判や」
忌まわしい事は全て吐き出したいかのように、耳を塞ぎたくなるような言葉を連ねた。
辰敬は身も心もぼろぼろに崩れ落ちて行くような心地がした。目は開いているのに、何も見えなかった。いちの顔すらも。
いつの日かこんな事が来るだろうとは覚悟していた。十五歳で結婚するのは普通の事だ。その時は辛くても、悲しくても、男らしくいちの幸を祈って別れなければならないのだろうと漠然と思っていた。そんな日が来るのが延び延びになる事を願って。もしそれが何年も延びれば……と、思ってもせんないことを夢想して。
それが、よりによってこれほど最低で、最悪な話になろうとは。いちが金貸しの餌食になるとは。
公典は扶持が絶えてからも、憑かれたように朝儀の記録に没頭していた。貧乏公家達が町人に踊りや歌謡などを教えて生計を立てるような事は一切していなかった。小さな庭に野菜を作り、妻子が働いても到底食べては行けない。
積り積もった借銭がどれほどのものか。
辰敬は力なく首を振った。想像もしたくなかった。
どう足掻いても解決できない事だから。
それはいちも分かっている事だ。だから泣くしかなく、涙が涸れたら、もう泣く事も出来ず、ただ立ち尽くしているしかなかった。
向き合う辰敬も立ち尽くすしかなかった。
長い沈黙が続いた。
辰敬は一言も口を利いていない事に気が付いた。慰めや救いの言葉の一つも言えない自分が情けなかった。
自分ではもう子供ではないと思っていたが、大人にもなっていないのである。十三歳と言う年齢の中途半端さを今更のように思い知らされていた。
その時、いちの目が動き、辰敬の肩越しに止まった。
辰敬はその視線に誘われるように振り返った。
揺れる芒の向こうに二つの人影があった。
辰敬はどきっと緊張した。二人は牢人だった。距離はあるが、あの種の侍特有のささくれ立った禍々しさが見て取れた。辰敬はあのような侍達を土倉の店先でよく見かけた。用心棒である。取り立てに行く手代の後ろで威圧したり、一揆が襲えば店を守って戦う無法者達である。
辰敬はいちを振り返った。
「土倉の用心棒か」
いちを見張って尾けて来たのかと思ったのだが、
「知らん」
と、言いながらも目は二人に向けられている。
辰敬が怪訝な顔で尚も問い直そうとすると、
「どこかで見たような気がしただけや」
煩わしげに答えると、またあらぬ方をぼんやりと見やった。
二人の牢人はさっき辰敬達が来た小路に向かっているようだ。
恐らく野っ原の中を東西に延びる三条大路の方から来て、人が踏み固めた道を抜けて、南へ行くのだろう。芒の中の辰敬達には気が付いていないようだ。
また沈黙が戻った。
長い沈黙だった。
「はあっ……」
溜息とも吐息ともつかぬ声がした。いや、悲鳴だったかもしれない。
辰敬には運命への絶望と言うより、辰敬への絶望の悲鳴に聞こえた。
辰敬は項垂れた。
目を落とした先には下駄を履いた白い小さな足があった。何と健気な足だろうと辰敬は思った。大きな不幸を支える小さな二つの足が愛おしかった。
不意にその足が踵を返した。
はっと顔を上げると、立ち去るいちの背中しかなかった。
いちは蹌踉と引き返して行く。
「あ、あっ……」
野っ原に響き渡るような情けない声が出た。いや、そんな声しか出なかったのである。何もかもが最悪だった。いちとの別れの時に見たものは白い足だったのである。艶めかしい足だったが、足は足である。別れが足とは惨めさを通り越して滑稽でさえあった。最後の別れになるかもしれないのに……。
と、思った時、辰敬は土倉の名も、嫁ぐ日さえも聞いていなかった事に気が付いた。