第三章 戦国擾乱(5)
人は政元暗殺から始まった未曾有の擾乱(じょうらん)を『永正の錯乱』と言った。まさにその名の通り、世は錯乱状態にあった。そもそも政元暗殺自体が澄之派の錯乱から引き起こされたのだ。錯乱とはこれほど言い得て妙な言葉はなかった。
炎天下、辰敬はこの都の錯乱の真っ只中を連日駆け回っていた。物見に駆り出されていたのだ。
澄之の居所である遊初軒、武家御所、細川一門の屋敷、香西元長や薬師寺長忠の屋敷などを巡り、噂や情報を集めては、邸に戻って報告するのである。
吉童子丸の御守りどころではなかった。
辰敬は北は岩倉、南は伏見、西は香西元長の嵐山城、東は山科郷まで命じられるままに走り回った。
この年頃はいくら無尽蔵の体力があるとは言え、連日は流石に辛かった。だがやめたいとは思わなかった。辰敬は記憶力が抜群で、報告もその年齢にしては簡潔で要を得ていたので、家中の辰敬を見る目も変わって来ていたのである。悪い気はしなかった。
何よりも錯乱の渦中の真っ只中に飛び込んでいると言う高揚感が堪らなかった。
明日に対する不安や怯えはあるのだが、右往左往する大人達を眺めるのは面白かった。日頃、威張りくさっている武士たちが血相を変えて生き残ろうとあがいている。少しでも利のある方を目の色を変えて求めている。実に浅ましい姿であった。
その有様をまるで田楽や猿楽を楽しむように見ている自分の中に、残忍なものがあることに辰敬は気付いた。
辰敬は心の中で、(もう子供ではないぞ)と呟き、自分もこう言う世の中を生きて行かねばならないのだと大人びた覚悟をしたのであった。
だから、家中の大人達を見ていると、近頃は報告するのが馬鹿馬鹿しくなっていた。
次々ともたらされる噂や情報に一喜一憂する家中の大人達は、棚からぼた餅のように、京極家に幸運が転がり込み、家運が復活する事を夢見ているだけなのである。
辰敬が走り回ってはっきりした事は、今の京極家には何の力もなく、今起きている事も京極家とは全く無縁の世界の話であった。
それなのに、何もせず、あわよくば政変のおこぼれに預かれるのではないかと期待する家中の大人達は阿呆に見えた。
かくして、否応もなくすべての人々を呑み込んだ錯乱状態は、いよいよ風雲急を告げ、発狂寸前となった。
澄元と三好之長が大軍を率いて上洛すると言う情報に、都の人々は震え上がった。
先の大乱が終わってから三十年経っていても、応仁の乱の記憶は決して消えることはなかった。
七月二十六日。突如、御所が開放された。
洛中の騒擾を心配した後柏原帝が内裏に小屋を設け、市民を避難させたのである。
戦になれば、いつも焼け出され、逃げ惑う庶民を救うための叡慮であった。
その日、辰敬は細川高国や典厩家の細川政賢、淡路守護細川尚春らの屋敷を見て来るように命じられたが、屋敷を飛び出すと、足はまっしぐらに御所に向かった。
朝廷の催し事に御所が開放され、庶民が見物に押し掛けることはあったが、こんな理由で開放されるのは前代未聞の出来事であった。
辰敬は御所の内を見たことがなかったので、何をさておいても見物したかったのである。細川一門の屋敷なんぞは後回しにすればよい。
走りながら、辰敬はふといちの一家も御所に逃げ込んでいるかもしれないと思った。そう思った途端、胸がざわめいた。
辰敬は洛中を駆け回っていて、いちの家の近くを通る時もあったが、絶対に近寄らなかった。
あの日、桜井多聞と言葉にして約束した訳ではないが、いちの家に近寄るだけでも多聞を裏切るような気がしていたのだ。
だが、今日もし御所でいちに会ったとしても、それは偶然である。多聞を裏切った事にはなるまいと自分に言い訳していた。
辰敬はいちは必ず来ていると信じた。公典がこの機会を逃すはずがない。下級公家の候人はこんな機会でもないと御所へ入ることなど出来ないのだから。
もし誰かがこの時の走る辰敬の顔を見たら怪訝に思ったであろう。
辰敬は笑っていた。自然に笑みが浮かんで来るのであった。御所へ向かって走る事が嬉しくてならなかった。勿論いちに会えるのが嬉しかったのだが、それだけではなかった。もっと晴れ晴れとして、とても爽やかな気分に満ち満ちていた。
叡慮に感動したのだ。
濁った大きな泥沼の中に、蓮の花が一輪、ぽんと音をたてて咲いたような気分だった。
御所の周囲は着の身着のままの人々で埋め尽くされていた。
辰敬は入る事が出来なかったが、帝が保護を求める人々の多さに驚かれ、紫宸殿の前の広場も開放されたので、漸く御所の東、高倉小路に面した門から入る事が出来た。
御所の内には小屋が設けられ、粥が振舞われていた。痩せた子供達が一つの椀をすすり合い、年寄りは涙を流していた。
御所の広さはおよそ一町四方。広いように見えて、かつての平安京の大内裏の何十分の一に過ぎない。大内裏には内裏を中心に、大極殿や豊楽殿、左右の近衛府や太政官などの多くの殿舎があったが、今、内裏の周囲の多くは公家屋敷である。
武家の世となり、大内裏が焼けてから三百年の間、内裏は転々と移り、公家の屋敷が役所となっていたのである。
その東側の公家屋敷が並ぶすぐ裏手は、鴨川の堤まで一面の荒れ地と言う有様だった。
いま内裏にあるのは大雑把に言えば、南半分の紫宸殿の区画と、北半分の清涼殿の区画である。内裏の規模も平安の世とは比べるべくもない。
辰敬は御所の内をそのまま真っ直ぐに進むと、日華門を潜って紫宸殿の広場に入った。
紫宸殿は見上げるように大きかった。
辰敬は背伸びすると、群衆の頭越しに、紫宸殿の前面の東側に左近の桜があり、西側に右近の橘があることを確認した。
もっと間近に見たくて、辰敬は人混みをかき分けて進み出た。
紫宸殿はくすんで見えた。群衆が巻き上げる埃を浴びているからではない。手入れが行き届いていないのは辰敬の目にも分かる。左近の桜も、右近の橘も萎れて枯れそうに見えた。
その右近の橘を横目に尚もかき分けて進むと、突然、紫宸殿の西側の柱廊から突き出された男がいた。加田公典だった。やはり来ていたのだ。公典がよろよろと倒れると、数人の下人達が現れて口々に罵った。
「恐れ多くも清涼殿へ忍び込もうとは呆れ果てた奴や……」
紫宸殿の裏の築地のすぐ向こう側が清涼殿である。清涼殿は帝の居所であるから、ここまでは避難民を入れなかったのだが、どうやら公典は清涼殿にまでも潜り込もうとたらしい。
「ほんまなら首が飛んどるとこやで。今日のところは大御心に沿って見逃したるけど、二度とこないな真似をするんやないで」
下人達は大勢の避難民を見回すと、
「この奥には賢くも有り難き主上がおわします。ここから奥へは近づいたらあかん。大御心に感謝し、静かにするのや」
下人達が引き上げると、公典は起き上り、恨めしげに振り返った。
誰も近寄る者はいなかった。
辰敬は集まった群衆を見回したが、そこにもいちや千代の顔はなかった。
御所に入りたい一心の公典は、家族など放り出して来たに違いない。
辰敬は落胆した。今更ながらその執念に呆れながら、のろのろと引き上げて来る公典を眺めていると、ふと公典が立ち止まった。
公典も辰敬に気が付いたのだ。
辰敬は軽く目礼したが、公典は険しい目を向け、無視したように歩き出した。
辰敬は当惑した。突き放したようなよそよそしい態度で、取り付く島もない。辰敬が頑張って貢物を届けていた頃に見せた愛想のよい表情は微塵もなかった。
この所、すっかり貢物が滞っているから機嫌が悪いかのと思ったが、貢物が不足の時に見せた不満の表情とも違った。もっと厳しい突き刺すような目であった。
はっと辰敬は思い当った。
いちの事で怒っているのではないかと。
石童丸たち河原者に襲われた日、いちは身体も小袖も泥まみれで帰って行った。
あの日、いちが辰敬と一緒だった事は、公典も見抜いているはずだ。いちが何と弁解したか分からないが、公典はあの日、いちと辰敬の間に何かあったと誤解しているのではないかと思ったのである。
辰敬は公典の後を追った。
いちに不埒なことはしていないと弁解したかったのであるが、なかなか声を掛ける事が出来なかった。
公典は人混みをかき分けるように進むと、右近の橘の傍らで立ち止まり、紫宸殿を見上げた。
辰敬も立ち止まり、その後ろ姿を見詰めた。
陽は中天に差しかかっていた。炎天下、土埃を被りながらも、公典は微動だにせず紫宸殿を見上げ続けていた。
ふと辰敬はその痩せた肩が震えていることに気が付いた。泣いているのだろうか。
辰敬はそっと背後に立った。
悲痛な声が聞こえて来た。
「ああ、嘆かわしい……」
やはり公典は泣いていた。周りに聞かせるかのように身をよじり、声を張り上げた。
「……即位の礼はここ紫宸殿で執り行われるのや。代々の帝は皆ここで即位なされたと言うのに、ただ御一人、後柏原帝のみは未だに即位なされておらぬ」
公典は膝から崩れ落ちた。
「……帝は即位の費用を少しずつ蓄えておられたと聞いておる。せやけど、此度お救い小屋をお建てになった事で、爪に火を灯すように蓄えて来られたものを取り崩すこととなってしまった」
膝の上に熱い涙がぽたぽたと落ちている。
「……また御即位が遠のくのも厭わず、哀れな民草をお救いなさろうとする、かくも優しき主上がかつておわしましたであろうか」
いつの間にか公典の周りにぐるりと人の輪が出来ていた。
「皇朝第一の帝や。ああ、それやのに……未だ御即位出来ぬとは何とおいたわしい事か。見よ、紫宸殿のこの荒れ果てた様を。心ある者、これを泣かずにはおれようか……」
公典が地べたに突っ伏し、声を放って泣くと、周囲からもすすり泣きが湧き起こり、公典に倣って土下座する者もいた。
辰敬は引き返した。
八月一日。
細川高国が薬師寺長忠の邸宅を襲撃すると、細川政賢は香西元長と戦い、細川尚春は澄之のいる遊初軒に攻め寄せた。
薬師寺長忠と香西元長は討死にし、澄之は実父九条政基に遺書を認めると切腹して果てた。
大軍を擁する澄元の上洛が迫り、澄元有利と判断した高国らが、それまでの曖昧な態度をかなぐり捨て、澄元派に雪崩を打って加わったのである。
澄元が上洛する前に実績を作り、澄元が家督となった時に、少しでも有利な立場を得ようとしての行動だった。
澄之はわずか四十日の天下であった。
その日、辰敬は遠くから遊初軒の戦闘を眺めながら、澄之切腹の報を聞いた。
辰敬は公家に生まれた若者が、十九歳で腹を切ったことに激しい衝撃を受けた。
十九歳で名流細川一門の棟梁となる。
一敗地にまみれた日には腹を切る。
辰敬は自分がその年齢になった時、その立場に置かれたとして、果たしてそんな事が出来るのかと想像した。
臍下丹田の辺りに不意に刃を突き立てられたような痛みが走った。
辰敬はぶるんと身震いした。怯えたように首を振った。とても真似は出来ない。
この時、辰敬は武士とは詰まるところ腹を切らねばならぬ者であることを、思い知らされたのであった。
都の名門の子と地方の一武士の子の違いはあっても、武士の子である事に違いはない。辰敬は否応もなく武士の子である事を自覚させられた。
これまでも死については漠然と考えたことはあったが、武士にとってはすぐ目の前にあることを見せつけられたのであった。いや隣かもしれない。背後かもしれない。
生まれて初めて武士の生死について考えさせられた辰敬は、とぼとぼと帰途についた。
いつかは自分にも来るかもしれない未来に向かって。十九歳はまだまだ遠い先の事だと自分に言い聞かせながら。
翌日、澄元は五万の大軍を率いて入京し、将軍足利義澄に謁見した。
義澄はあっさりと家督を認めた。
澄元もまた十九歳であった。
澄元と三好之長は得意の絶頂にあった。だが、これで世が治まった訳ではなかった。一連の擾乱は『永正の錯乱』の序幕に過ぎなかったのである。
紀伊に潜伏していた畠山尚順(ひさのぶ)が決起したのである。長年の宿敵である同族の畠山義英 (よしひで)とも和解し、大和の筒井氏らとも結んで、澄元に向かって来たのだ。
畠山氏は三管領であった。応仁の乱を経て、三管領の一つ斯波氏は力を失い、畠山氏も中央から追いやられ、細川政元の専制体制が築かれた。
しかし、畠山氏は二つに分かれ、敵対しながらも、大和南部や紀伊、河内を拠点に執拗に抵抗を続けていた。
都へ攻め上るほどの力はなかったが、細川政元は畠山氏が他の反細川勢力と結ぶ事を常に警戒していた。
独裁者細川政元にとっても、追い払っても追い払ってもまとわりつく蠅のように煩わしい、厄介な存在だったのである。
澄元は大和に赤沢長経を送り込んだ。
そこへ、西から足利義尹(よしただ)上洛の噂がもたらされた。