今日は荒神谷博物館で『風土記談義』があった。
昨日、妻の外泊が終わり特養に戻ったので、今日は心置きなく『談義』へ。
前回、一年以上かかって『出雲国風土記』の意宇郡(おうのこほり)が終わったと書いたが、今日が意宇郡の最後であった。スライドで意宇郡の島や川、神社を見せてもらう。出雲にいてもそうそう行けない場所なので実風景を見せてもらうと理解が深まる。
『出雲国風土記』には全部で九郡の記述がある。そのうちの最初の一郡が一年かかって終わったのだから、全部読み通すまであとどれくらいかかるのだろう。
講師の平野先生は若い時から、車の中にはいつも『出雲国風土記』を置いていたと知る。とてもいいことだと思い、これから私も真似をして、本や資料、地図などを常に車に積んでおくことにする。走っていれば、通りかかった神社や川などはたいてい風土記に登場するのだから、そのつど確認できる。
一年以上通って勉強して来たが、そこで知ったのは『出雲国風土記』を勉強しているのは我々現代人だけではない。昔から多くの有名無名の人たちが勉強していた事である。
その有名人の中に生徒も先生も超有名人がいる。
生徒が『徳川六代将軍家宣』で先生が『新井白石』である。ただの先生ではない。個人教授だからすごい。家宣はマンツーマンで白石から『出雲国風土記』を学んだのである。
と、言っても家宣が将軍になる前の話である。
家宣は五代将軍綱吉に後継ぎが出来なかったので養嗣子となって将軍位を継いだものであり、将軍になる前は甲府藩主で徳川綱豊と言う。
その綱豊時代に侍講(個人教授)として仕えたのが新井白石である。その時、白石36歳。当時の市井の大儒者木下順庵の門下で、浪人中であったが、順庵が一目置くほどの才能であったので、順庵の推薦で綱豊の侍講となったのである。
儒学の先生になったので師儒と言う。二人は師弟の契りを結び、マンツーマンでひたすら学問に励む。綱豊は大変勉強熱心な殿様で、白石はまだ天下に名が知られる前であったが、それはそれは熱心に教えた。この間、二人は将来綱豊が次期将軍になるとは夢にも思わず、儒学は言うに及ばず、歴史、地理、古典、詩などありとあらゆる分野を学び、教えた。
個人教授は17年にも及び、綱豊は綱吉の死後、将軍となる。
白石は政治顧問となり、家宣の政をたすけ、正徳の治を行う。
『出雲国風土記』を学んだのは、その甲府時代のことである。
私がなぜそのことを知ったかと言うと、白石の事績を調べるために、白石の晩年の書簡を読んでいたら、白石がそれに関する記述を友人に送っていたからである。
その内容がこれまた面白いので、紹介しようと思うが、前置きが少し長いので我慢して読んで貰いたい。
家宣は将軍になるもすぐに死に、跡を継いだ家継も幼くして死ぬ。父子合わせて七年ほどの治世で、将軍吉宗の時代となるや、白石はたちまち失脚する。
その失脚後の白石の孤独な晩年を支えたのが文通であった。文通相手は数少ないが、実に多くの手紙をやりとりしている。その文通相手の中で、もっとも身分が高かったのが、加賀百万石の太守前田綱紀(つなのり)であった。この殿様は大変な学問好きで知られ、美術工芸の発展に力を入れ、農業や藩政改革にも取り組み、名君とあがめられた。
このお殿様が失脚して落ち込んでいる白石に救いの手を差し伸べる。白石を高く評価し、白石の本を自分の書庫に収めたいと申し込む。白石の本が自分の書庫にあれば、書庫の価値が高まるとまで言い、白石を感激させる。白石は感激の余り、門外不出の『西洋紀聞』を綱紀に貸し出す。この本は密入国した宣教師を尋問した記録をもとに著したものだが、キリスト教に関する記述があるので公に出来なかった本であった。もしこの本を貸し出したことが露見したら、失脚した白石はさらなるお咎めを受ける恐れがあったにもかかわらず、危険を冒してまで貸したのであった。それほど綱紀の知己を得るのが魅力的だったのである。二人の仲は一気に深まり、二人はお互いに所蔵している本を書き出して見せ合う。二人は互いに本の貸し借りを繰り返すが、ある時、綱紀は『出雲国風土記』を貸して欲しいと所望する。
ところが、白石はこれほどの庇護者である大大名の頼みを断る。
その理由は、この本は家宣が勉強した時に使った本で、後に家宣から恩賜品として頂戴したものであった。
「旧主恩顧の品は門外不出にしております。ましてやこの本には家宣公の書き込みもあります」
本だけではない。白石は家宣ゆかりの品は一切表に出さなかったのである。
これが儒教社会における君臣の関係と言うものであり、この君臣の関係を盾にとられると、綱紀にしても引き下がらざるを得なかったのである。

一体綱豊は『出雲国風土記』にどんな書き込みをしたのだろう。
白石はどんな風に講義したのだろう。白石は綱豊の講義に当たっては、理解を深めるために万全の準備をした。沢山の資料を揃えて講義に臨んだことが分かっている。あの時代にどんな資料を揃えたのであろうか。
『出雲国風土記』の冒頭の国引き神話のくだりに、「おとめの胸鉏(すき)とらして」とある。
今日では「乙女の胸のような鉏を取って」、朝鮮半島にぐさりと突き立てて余った土地を切り分けたと解釈するが、私はこの「乙女の胸のような鉏」がどうにもぴんと来ない。成熟しない乙女の薄い胸のような鉏を形容しているらしい。薄くて土に突き刺さりやすいのだそうだが、どこか違うような気がしてならない。
白石がここをどう解釈したのか知りたくてならないのだが、今や望むべくもない。この恩賜の『出雲風土記』は残っていないから。残念でならない。