第二章 都の子(12)
事情を聞いて、公典は腹を抱えて笑った。
板戸の陰からもくすっといちと竹ちよの笑い声も漏れて来た。
この家に笑い声が起きるなんて初めての事ではないかと辰敬は思った。
早速、公典の前で筆を握ったが、久し振りでもあり、出雲にいた時も身を入れて学んでいないので、惨憺たる出来であった。
公典は呆れ、木阿弥に披露する一枚には手を添えてくれた。
その日、奥から下がって来た木阿弥は、しげしげと手跡(て)を眺めた。
「なんや、裏書きか」
反古の裏に認めたものであった。
「まだ未熟じゃから……」
御屋形様からの頂戴物をいちが全部売り払ったとは言えない。
「それはそうやけど……これは、何流や」
「主上の筆法を学んでおります」
公典に教えられた通りに答えた。
「何、帝の」
木阿弥は目を瞠った。
「うむ、さようか……後柏原帝は能筆で知られておる。その御宸筆を求める者は引きも切らぬ。その筆法を学ぼうとは、わぬし、なかなかに見上げたもんやないか」
木阿弥は感心しきりであった。
そして、感心ついでに、その反古の裏書きを御屋形様に披露したものだから、
「みが見込んだだけの子じゃったな。幾つになった。十二か。このまま遊ばせておいては本人の為にならぬ。吉童子丸が戻って来たら改めて考えるとして、それまでは奉公させるがよかろう」
と言うことで、翌日から、木阿弥と共に京極邸の常御殿に通うこととなった。
奉公と言っても見習いである。出雲の兄達も同じような齢で、御殿奉公の見習いに上がった。そういう齢になったのだと納得しようとしたが、
「なんや、嬉しうはないんか」
辰敬の浮かぬ顔を木阿弥が咎めた。
「いえ、あのう、手習いはどうなるのじゃろう……」
そっちの方が気がかりだったのである。くすりと笑ったいちの声が今も耳にこびりついて離れない。
「男子、志を立てたからには……」
辰敬は後ろめたさを隠して、手習いを続けたい意志を懸命に訴えたが、最後はもごもごと何を言っているのか自分でも分からなくなってしまった。
「一人前の口を利きよるわ。よし、よし」
木阿弥はからからと笑い、公典のもとに通えるように御屋形様から許しを得てくれた。
その上、束脩(そくしゅう)も納めていないと知ると呆れ果て、
「師弟の礼を取るならば束脩を納めるのが礼儀というものやで」
と、僅かではあるが銭を包んでくれた。
辰敬は扇子に添えて束脩を差し出し、木阿弥に教えられた通りの口上を述べ、改めて師弟の礼を執った。
加田公典が喜ばないはずがなかった。これからは僅かではあっても謝礼が入る。鴨が葱を背負って飛び込んで来たのである。
だが、それだけが理由ではないことは、公典が惜しみなくさまざまな事を教えてくれようとする態度で分かった。
例えば手習いに使う反古の一枚一枚が教科書だった。反古にはさまざまな書体のさまざまな文書があった。禁裏に奏上する文書の下書きもあれば、女房奉書の写しもあった。女房奉書とは帝の言葉を女官が書き留めた体裁を取る文書で、読み方にも特有の決まりがある女手である。土倉の証文、荘園への下し文の一部、町触れの草案もあれば、連歌の一句を認めたと思われる懐紙や恋文らしきものもあった。禅坊主が作った漢詩もあった。
公典は手習いの合間に、そんな多種多様な反古の皺を伸ばしては読み方や、公文書の書き方なども教えてくれたのである。
虫捕りに熱中し、その後は将棋に没頭し、学問には無縁の少年時代を過ごして来た辰敬にとって、反古を読むのはある意味生きた学問だった。破れていたり、墨で判読不能だった箇所に文字を当てはめたり、文言を考えて意の通る文章にすることの方が、論語の素読よりどれだけおもしろかったことか。
加えてその時間、辰敬はいつもその背にいちの柔らかな視線を感じていた。まさに至福の時であった。思えば辰敬にとって、加田家に通ったこの時間が人生において一番楽しかった時だったかも知れない。
一方、御殿の見習い奉公は甘いものではなかった。京極家譜代の家人達は尼子家の重臣の子に対しては冷ややかだった。
武士でありながら底意地の悪さは都の町人達と何ら変わらなかった。
御奉公と言っても見習いであるから、何でもやらされた。近習の側にあって仕事を覚えると言えば聞こえはいいが、近習は便利な小間使い程度にしか思っていないから、湯茶の世話など雑用に追い回され、仕事を覚えるどころではなかった。
行儀作法はことにやかましく、畳の縁を踏んだと扇子で足を打たれ、田舎者とねちねち嫌味を浴びせられた。
公典に手習いを学んでいる事は知れていたから、皆面白がって辰敬にわざと下書きをさせ、そのみみずが這ったような字を腹を抱えて笑った。苛めである。
一日中、文机の前に座って、墨を磨らされた日もあった。
我慢できたのは出雲人の意地と加田家に通える喜びがあったからであった。
ある日、広縁の拭き掃除をさせられた。
さすがに腹に据えかねふくれっ面で拭いていると、見回りに来た近習が足を滑らせて仰向けに転んだ。
「なんや、びしょびしょやないか。わぬしは雑巾がけもできへんのか」
辰敬はろくに雑巾も絞っていなかったのである。いつも辰敬に辛く当たる意地の悪い鷲尾と言う若い武士だった。辰敬は思い切り脇腹を蹴られ、広縁から転がり落ちた。
「雑色(ぞうしき)からやり直しぃや」
灼熱の焼け火箸を突き刺されたような激痛より、怒りの方が大きかった。全身がかあっと燃え上がると、辰敬は思わず拳を固めた。
「ほう、小童(こわっぱ)、やる気か」
鷲尾が薄い唇を歪めた。
「待て、なにしちょらあ」
辰敬は驚いて広縁を見上げた。響き渡った声は出雲訛りだった。上洛してから初めて聞く懐かしい出雲弁だった。この館に出雲の人間がいたとは。一体どんな人だろうと見上げたのだが、見下ろしていたのは眠そうな顔の青年武士だった。いや、眠たげに見えるほど目が細かったのである。八つ頭が小袖と袴を着たようで、ずんぐりした身体からは土の匂いがしたが、辰敬は吸い寄せられるような親近感を覚えた。
「桜井はん、この役立たず何とかしてえな」
辰敬は桜井と呼ばれた武士にすがるような目を向けた。
すると、桜井は庭へ飛び降りると、辰敬の手から雑巾を奪った。
「雑巾がけはこうやるんじゃ」
ぎゅっと固く雑巾を絞ると、広縁に戻るや凄い勢いで広縁を拭き始めた。きゅっきゅっと音を立て鷲尾の足元目がけて拭いて行ったので、鷲尾は慌てて逃げ出した。
「ほな、頼んだで」
鷲尾の姿が消えても桜井の雑巾がけは続いた。
辰敬はその後ろ姿に見とれていた。今までこんな見事な雑巾がけを見た事がなかった。たかが雑巾がけとは口が裂けても言えない迫力と気合が漲っていた。漬物石のような腰は低く支える両の足の上で微動だにしなかった。
まさに雑巾がけの達人であったが、この男がただの掃除の達人であるはずがなかった。きっと武芸の達人でもあるのだろう。そう思った時、桜井はすくっと立ち上がった。
「何事も御屋形様への御奉公と思え」
背中で一言残し、風のように立ち去ったのであった。
その夜、木阿弥に桜井の素性を尋ねた。
「桜井多聞と申してな、阿用城城主桜井宗的殿の遠縁に連なる者らしいで。それやのに、主家である桜井家を離れ、出雲から上洛する御屋形様を追い駆けて来て、御奉公を望んだそうや」
辰敬は阿用城が出雲の三刀屋(みとや)の奥にあることしか知らなかった。
木阿弥が言うには、桜井家の先祖は相模の出で土屋氏と言い、鎌倉の世に西遷御家人として石見に下向し、後に出雲の阿用に移った時に桜井氏と名乗ったものである。昔は大内氏に属していた。
「桜井多聞は本来京極家とは縁もゆかりもない家の子や。京極家でも扱いに困ったのやけど、多聞は押し掛け奉公するのであるから扶持はいらぬと言ったそうや。御屋形様が『若いのに面白い奴や』といたく気に入られ、ただ働きしておるのや」
木阿弥から見れば、京極恩顧の家筋ながら、尼子家で順調に出世の階段を上っている父忠重は恩顧を忘れた人間に見えるのだろう。皮肉っぽく聞こえた。
その後、御殿で桜井多聞とすれ違う事があったが、多聞は声を掛けることもなく、目も合わせなかった。偏屈な一徹者で、相当な変わり者との評判だった。
こうして辰敬は都における生活の新しい段階に入ったのだが、その間に世情はきな臭さを増していた。
細川政元は京兆家専制体制を築いたものの、その力が及ぶのは畿内周辺だけで、一歩畿内を出れば反細川勢力が跋扈していた。その中でもしぶとく抵抗し続け、右京兆の目の上の瘤になっているのが同じ管領家であった畠山一族であった。政元に都を追われ、没落したものの、大和南部や紀伊を拠点に反細川勢の中心となっていた。
右京兆は大和の反対派鎮圧に乗り出したが、なかなか実を上げられないでいた。そこで、三好之長を援軍として送り込んだ。之長は勇猛な武将だったが、天性の人たらしでもあったから、たちまち右京兆の心を捉えてしまった。
面白くないのは澄之派である。澄之派の旗頭香西元長は之長に負けじ劣らずの武闘派であった。
山城半国守護代であることをいいことに元長はほしいままに税をかけ、容赦なく役夫や兵糧の徴発をした。その破天荒な乱暴ぶりで、管領細川政元の手を焼かせ続けていた。
その元長謀反の噂が広まり、右京兆は大和から之長を召還したところ、両者はたちまち激突した。
細川澄元と三好之長は近郷の百姓達を動員して、私邸の周囲に堀を築き始めたので、俄かに都は緊張した。
が、これにも辰敬は無関心だった。上洛以来、この手の騒ぎには慣れっこになっていたこともあったが、その頃、辰敬は蹴鞠に夢中になっていたのである。
発端は手習いに使う反古に蹴鞠の心得が書いてあったことによる。
「わぬしは蹴鞠をしたことがあるか」
辰敬は馬鹿にされたような気がした。出雲の侍達も蹴鞠を楽しんでいた。辰敬も兄達と蹴鞠の真似事をして遊んだものだ。
それを聞いた公典は次に辰敬が訪れた時、どこから都合して来たのかぼろぼろの鞠と鴨沓(かもぐつ)を手に待ち構えていた。
そして、辰敬に鞠を蹴らせてみると、にたりと笑みを浮かべた。
「嘘やないな。少しは蹴れるようや。ほなら、ほんまの蹴鞠を教えたる」
意外な事に公典は蹴鞠が上手かった。風が吹いたら飛ばされそうな痩躯が鞠を得るやましらのように躍動して鞠を蹴り上げたのである。一度も地べたに落とすことなく、何度も弾ませてみせ、辰敬の呆気にとられた顔をみると、いたずらっぽく片目をつぶった。
蹴鞠をする場所を鞠庭と言い、四隅に懸(かかり)の木として桜、松、楓、柳の四本の木が植えてある。一辺は二丈二尺(六・六m)、木の高さは一丈五尺(四・五m)ほどとされている。無論加田家に鞠庭などある訳がない。
二人は猫の額ほどの小さな庭で鞠を蹴り合った。蹴鞠の正装である烏帽子も被らず、鞠水干(まりすいかん)も蹴鞠用の葛袴(くずばかま)もなかったが、正直に言って、座して手習いしたり、反古の難しい文章を読むより、遥かに楽しかった。
それは公典にとっても同じだったようで、二人は蹴鞠に熱中した。知らない人が見たら、父と子が遊んでいるように見えたであろう。
辰敬の上達ぶりにいちも目を瞠り、貧しい下級公家の屋敷には鞠と笑い声が絶えることなく弾み続けた。