第二章 都の子(11)
まるで女の肌を愛でるかのように、紙に指を這わせると感極まった声を発した。
「雲州の紙も見事なもんやなあ……」
その時、辰敬は板戸の蔭に立ついちに気がついたが、すぐにいつもと違う気配を感じ取った。
いちの視線は紙の束に注がれていたが、いつもの疎ましげな色はなく、食い入るように見詰めていたのだ。
辰敬は公典のために純粋な気持ちで届けたつもりであったが、いちの目の輝きを見たら嬉しくない訳がなかった。
嬉しい事は続き、邸に戻った辰敬に、木阿弥が筆をくれた。
「わぬしの心がけが嬉しうてな。御屋形様が紙ならば、儂は筆をやる」
翌日、筆を握り締め、上京へ素っ飛んで行ったのは言うまでもない。
ところが、藪垣の前まで来た時、
「阿呆」
公典の怒鳴り声がするやいちの悲鳴がして、どさっと人の倒れる音がした。
何事かと土間に飛び込むと、土間に倒れたいちに公典が馬乗りになり、狂ったように折檻していた。
「この阿呆が……阿呆が……なんちゅうことをしてくれたんや……」
長い髪を掴み、いちの頭を振り回す姿は尋常ではなかった。
「おじさん、やめてくれ」
辰敬は公典に抱きつくと、必死にいちから引き剥がした。
「放せ」
「いったいどうしたんじゃ」
「こいつが……こいつが……」
血走った目がいちを睨みつけていた。
「売りよったんや。昨日もろたあの紙を、全部売り払いよったんや」
辰敬は耳を疑った。
「売った……」
思わずいちを咎めた……ように見えたのであろう。いちは激しく反発した。
「薬をこうたんや」
「薬」
「おかあはんの薬や。おかあはん、ずっと具合が悪かったんや。我慢しとったんやんけど、我慢できんぐらい悪うなったから、うちが紙を売って薬をこうたんや。悪いんか」
唇の端から血が滲んでいた。
「儂に一言相談してからでもええやないか」
いちはきっと父を見据えた。
「相談したら、紙を売ってくれたんか。薬をこうてくれたんか」
いちはかぶりを振った。
「おとうはんは紙一枚売らんかったやろ。おとうはんはそう言う人や。たとえおかあはんが死んでも……」
「それが親に向かって言う言葉か」
「この際やから言わして貰う。おとうはんはまんまも食べれへんような事ばかりして……あんなことはな、あんなことは……三条西はんや中原はんに任せておけばええのや。裏の常陸坊はんかてそう言うてたわ」
「なんやと……」
公典の顔から血が引いて行くのが辰敬にもわかった。真っ青になり、痩躯をぶるぶると震わせると、
「もう一度、言うてみい」
また狂ったように襲いかかろうとしたので、辰敬は慌てて羽交い締めにした。
「放せ、放せ。こんな奴、我が子やない」
抱き止める辰敬は必死であった。その腕の中で公典は身もだえしながら喚いた。
「お前に何が分かる……三条西実隆ゆうたら、それは偉いお公家さんや。有職故実の大家や。せやけど、まろに言わせたらただの物知りで、歌を詠むのがうまいだけのお人やないか。中原はんかて、局務をろくに勤めてはらへん。寂れた朝儀のありさまを書き残して、後世に伝えようと思うとる者なんか誰一人としておらへん。皆名前ばっかりや。家職も果たさんと……真に朝廷を憂い、主上を思っておるのは誰やと思うとるんや」
板戸の向こうからすすり泣きが漏れて来た。
「もうやめてたも……わらわが悪いんや……皆に迷惑かけて……いち、いち……もう、ええよ、この薬、いらん。どうせ治らへんさかいに……」
激しく咳き込んだ。
「おかあはん」
いちは床に這い上がると、板戸の陰に転がり込んだ。
「起きたらあかん」
と、労わったが、竹ちよの泣き声は陰々滅滅と続いた。
公典は顔を顰めると、辰敬を押しのけるように出て行ってしまった。
やがて泣き声が止んだので、辰敬はそっと板戸の向こうを窺った。
いちの背中越しに、筵に小袖一枚で横たわる竹ちよは、ちょっと見ない間に痩せたように見えた。
いちに背中をさすって貰っているうちに寝てしまったようだ。
「もうやめてたも」
背を向けたままいちが疲れ切った声を吐き出した。辰敬が黙ったまま突っ立っていると苛立ったように続けた。
「あのなあ、おとうはん、前はあれほどひどくはなかったんや……わぬしが反古を届けてくれてからや……あないにひどくなったんは……」
辰敬は頭を殴られたような気がした。
がっくりと首が落ちた。いちの背に詫びるように首を垂れ続けたが、小さな痩せた背は壁のように微動だにしなかった。
辰敬は悄然と引き返した。
すると、土間を出ようとした時、
「おおきにな」
思わず足が止まった。聞き間違いかと耳に残る響きを反芻した。これまでに一度も耳にした事のない、優しい声だったが、どこかぎこちなかった。
辰敬はそっと肩越しに振り返った。
いちが立って、こちらを向いていた。
「薬を買えたのはわぬしのお陰や」
その瞬間、辰敬の心にぱっと明かりが灯った。満面に笑みが広がったが、いちはすっと目を逸らし、板戸の向こうに消えてしまった。
笑みはしぼんだ。
帰りの辰敬は複雑な気持ちだった。
いちは感謝以上のものを示してくれたと信じていたのだが、辰敬はもう加田家へ行くことは憚らねばならないだろう。
春が来て、気がついた時には桜は散り、辰敬が上洛して一年になろうとしていた。
四月二十一日、細川澄元は七千人の兵を率いて上洛した。そして、日を改め、三好之長を供に千人の兵を引き連れて、細川邸へ向かうと政元との会見に臨んだ。
政元は澄元に摂津国守護職を譲った。
澄之には丹波国守護職を譲った。
四月二十八日、澄之は丹後を攻める若狭国守護武田元信を援ける為に、千五百人の兵を率いて丹後に向かった。
これが人々が固唾を呑んで見守った結果であったが、辰敬は都の桜にさえそうであったように、世の動きにも全くと言っていいほど無関心だった。
「管領職に専念するために、澄元と澄之に守護職を譲る。今後の二人の働きを見て、ふさわしい方に京兆家を継がせる。と、まあ尤もらしく裁いたように見えるが、結局は決められんかったんや。相変わらず優柔不断なんやけど、実はこれには裏があるのや。そもそも大樹から丹後攻めを命じられとったのは右京兆や。せやけど右京兆はやりとうなかったんや。何でかと言うとな……」
木阿弥は辰敬の顔を覗き込むとにたりと笑った。木阿弥がこういう顔をした時は決して期待を裏切らなかったのだが……。
「守護大名に在京義務があることはわぬしも知っとるやろ。せやけど今日日呑気に都にいたら国を盗られてしまうよって、在京義務を守る守護大名なんかおらへん。ところが、たった一人、若狭国守護武田元信だけは都に留まり続けたんや。大樹はその忠勤ぶりにいたく感激してな、武田元信を幕府の相伴衆に取り立てたのや」
これは異例の出来事だった。相伴衆は管領家一族や有力守護大名が任ぜられるものと決まっていたので、武田元信あたりが相伴衆になることなど普通は絶対にあり得ない事だったのである。将軍義澄はそれくらい武田元信を寵愛していたのである。
「すると、武田元信はどうしたと思う。何とすぐに若狭へ戻りよった。そして、かねてより領地の帰属を巡って争っていた隣国丹後に攻め込みよったのや。相伴衆になった途端、その威光を笠に着て戦を仕掛けるなんて、皆、呆れ果てたのやけど、大樹の寵愛は変わらん。右京兆ならずとも嫌になるはずや。それなのに、丹波は丹後の隣国やさかい、丹波国守護の右京兆は大樹から武田元信を援け、丹後の一色義有を攻めるようにとせっつかれとったんや。右京兆は大樹とはうまくいっとらん上に、武田と一色の喧嘩に首を突っ込んでも一文の得にもならん。そこで、澄之に丹波を譲ったんや。澄之は丹波を貰ったのはええけど、丹後攻めせなあかんようになった。澄之にしてみればええ迷惑や。澄元は摂津を貰って都におるのに、自分は都から追いやられて戦をせなならん。ほんまはやりとうないんやけど、鼻先に京兆家の惣領職がぶら下がっておるよって手柄は上げたい。悩ましいところや。どこまで本気でやるか迷ってはる。援軍が千五百人と言うのがええ証拠や。多分、すぐに戻って来よるで……」
木阿弥の声は辰敬の右の耳から左の耳に抜け、頭の中にはぽりぽりと沢庵を噛む音しか残っていなかった。
都を紫に染めた藤が散り、紫陽花が梅雨の訪れを告げる頃となったある日、辰敬は上京の寺まで使いに出た。
公家屋敷が立ち並ぶ小路にさしかかると、大きな声が聞こえて来た。
「あかんゆうたらあかんとゆうとるやろ」
前方の屋敷の門前に人だかりが出来ていた。
「御前様はいそがしいんや」
門を背に居丈高に踏ん反り返る青侍の顔が見えた。
「あんたはんは耳つんぼか。何度言うたらわかるんや」
覗き込んだ辰敬は、その青侍の足元に土下座せんばかりに頭を下げ続ける男を見て息を呑んだ。公典であった。
「庭先でよろしいのや。お手間は取らせませぬゆえ、ほんの少しお聞かせ願いたいのでございます」
「それが手間なんや。あんたはんの噂は聞いとるで。しつこいんやから。皆迷惑しとるんや。評判もえろう悪いで。中原はんの悪口も言うとるそうやないか」
「そんな、滅相もありまへん。嘘や、決してそんなこと言うてまへん。お願いでございます。この通りや、ぜひお目通りを」
「うるさいわい。ええ加減にさらせ」
と怒鳴って踵を返そうとした時、公典は思わず青侍の袴の裾を掴んだ。
「お待ちください」
「こら、何をするんや。放さんかい」
と青侍は公典の薄い胸を蹴飛ばした。
公典はわっと叫んで引っ繰り返った。
青侍はじろりと見回した。
「見世物やないで」
野次馬達は潮が引くように立ち去った。
辰敬も公典に気づかれぬようその場を離れたが、物陰からそっと見守った。
青侍は忌々しげに公典を見下ろすと、
「人に物を頼む時は樽代ぐらい持参するものやで」
と憎まれ口を利いて、門内に消えた。
要は賄賂を要求しているのだが、明らかに期待はしていない口ぶりだった。
暫くすると公典はよろよろと立ち上がると、土埃も払わずのろのろ立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、辰敬は初めて公典の苦労を知った。今まで公典がどうやって朝儀を書き留めているのか考えたたこともなかったのである。考えてみれば、公典は禁裏に出入り出来る身分になく、しかも主家が絶えてしまった公典には頼るべきつてもない。朝儀の仔細を書き留めようと思えば、こうして儀式に列した公家を訪ねて聞くしかないのである。そんな当たり前の事に、辰敬はいま気がついたのである。
見たくないものを見てしまったと辰敬は思った。見なければ良かったと思った。なぜなら忘れようにも忘れられない光景になってしまったから。
「澄之は丹後を引き上げて丹波に戻ったで。な、言うた通りやろ」
膳の向こうで、木阿弥が片目を瞑った。
「一方、澄元の方やけど、三好之長が右京兆のお気に入りになっとるらしい。三好は人たらしやからなあ……」
辰敬が乗って来ないので、木阿弥は話題を変えた。
「ところで、わぬし、手習いを始めたと言うが、励んでおる姿を見た事もないし、手跡 ( て )を見た事もない。御屋形様から下され物まで頂いておるにどないなっとるんや」
うっと冷や飯が喉につかえた。
「あ、あのう、通うとるんじゃ」
「ほう、どこぞの寺にでも通うておるのか」
思わず頷くと、
「どこの寺や、誰に習っておるのや」
「あのう、そのう、加田様じゃ」
自然にその名が出た。と言うより、他に知っている名がなかった。
「寺やないのか。誰や」
「公家じゃ」
「公家」
木阿弥が素っ頓狂な声を上げた。
「聞いた事のない公家やな」
根掘り葉掘り聞かれるのに、適当に応えていたが、稽古の結果を見せろと言われてしまった。
翌朝、辰敬は加田家に転がり込むと、土間に両手をついた。
「お助けて下さい」