第二章 都の子(10)
辰敬は仕方なく目についた柄杓で甕の水を汲み、公典に飲ませた。
ようやく息を吹き返した公典は、きょとんと辰敬を見ると、周囲を見回し、また辰敬に視線を戻した。
「我が背負ってきたんじゃ」
「わぬしが……」
「下敷きになって気を失っておったんじゃ」
公典は思い出したように身震いした。
「ああ……ほんまにえらい目に遭うたわ。死ぬかと思うた……わぬしのお陰や……わぬしが助けてくれへんかったらどないなっとったやら……」
とまた身震いしたが、はっと今気がついたように、
「と、言うことは、わぬしも見物に行っとったんか……」
辰敬は頷いた。
「ここへ来る途中じゃった」
「ここへ」
公典もいち達も怪訝な顔をした。
辰敬はにこっと微笑んだ。
「筆墨と反古をお届けするところじゃった」
「何やと、ほんまかいな」
公典は跳ね起きた。
「天の助けや……おおきに、おおきにやでえ。
ちょうど墨がのうなって困っておったところなんや……わぬしは福の神やで……」
痛みも寒さもころりと忘れたかのような現金な態度に、皆、呆れた。
「辰敬はん、そないもったいぶらんと、はよう拝ませてえな」
と、身をすり寄せ、子供のようにせがむ。
その時、辰敬の表情が動いた。
「ない」
まさぐる懐には泥のべっとりとした感触しかなかった。
「落としたんや。押し倒された時に……」
「何やと……」
泥まみれの手を、辰敬も公典も茫然と眺めた。
「新品じゃったのに。父上から貰ったんじゃ」
辰敬は泣きたくなった。
「あかん……眩暈が……」
公典はへなへなと崩れ落ちた。
だが、妻も娘も介抱しようともせずに引っ込んでしまったので、辰敬は行き掛かりで仕方なく公典を座敷に抱え上げた。
座敷と言っても、板の間に筵敷きである。
常陸坊から湯を一杯貰って来て飲ませてやったが、気落ちしてうずくまる公典の姿は見るも哀れだった。
「おじさん、すまんかった……」
謝ると、
「わぬしが謝ることはない。悪いのはあいつらや……何もかも……悪いのはみんな武士のせいや」
とため息をつき、辰敬も武士と気づくと苦笑を浮かべた。
「戦になるんじゃろうか」
辰敬は話題を変えた。
公典は首を振った。
「戦になるのは、右京兆はんがどちらかを跡目に決めた時や。せやから、右京兆はんはなかなか決め切らんのや。此度も、まろは決まらんと思うとる。どないな手を打たはるのか見物や……」
そして、またため息を重ね、顔を曇らせた。
「……世間では澄元はんと澄之はんの争いばかりに目が行っとるけど、もう一人、三人目の養子がおることも忘れたらあかん……」
細川高国が三人目の養子に迎えられたのはそんな昔の事ではない。澄元も澄之もともに今年で十八歳。その若さを危惧して年長者を選んだのか、両勢力を牽制する為か、右京兆の真意は誰も分からなかった。ただ三人目が出現した事に、誰もが驚き呆れたのは言うまでもない。
細川一族では京兆家を筆頭に、典厩家、阿波細川の讃州家などが有力な家であった。高国は備中守護で野洲家と言う、細川一族でも家格の低い家の出だったので軽く見られていたが、
「高国はんかて漁夫の利を狙って虎視耽々や……もう細川一族の内部は滅茶苦茶なんや。右京兆専制と言われて怖れられておった頃の右京兆はんはどこへ行かはったのやら。気に入らん公方はんを追い出して、せっかく取り替えたのに、これまたうまく行っとらん……」
出るのはため息ばかりだった。
「修験道狂いがひどくなってからや。政は疎かになり、優柔不断と言行不一致ばかりが目立つようにならはった。綸言汗のごとしというてなあ、政はふらふらしてはあかんのや。それなのに右京兆はんはころころ変わりはる。ところがや」
公典はぎろりと眼を向けた。
「……ここがけったいなとこなんやけど、禁裏に対する仕打ちだけは変わらんのや」
途端に憤懣やるかたない口調に一変した。
「主上は右京兆、細川政元のせいで未だに即位できんのや」
名まで呼び捨てである。
辰敬には何の事かよく分からなかった。
公典は身を乗り出し、
「今の後柏原帝が先帝後土御門帝の崩御を受けて践祚されたのは明応九年のことや」
辰敬が御屋形様に出会う一年前、将棋を覚えた年である。
「それから六年にもなるのに、主上は未だに即位礼を執り行う事が出来んのや。わぬし、これがどれだけ由々しき事かわかるか」
辰敬は申し訳なさそうな顔をするしかなかった。公典はじれったそうに声を張り上げた。
「ええか、即位してへんと言う事はな、帝と認められておらんと言う事なんやで。いまこの国には正式には帝がおらんことになっとるんや。こんな事があってはならぬゆえ、践祚したらすぐに即位することになっておるんや。ああ、それなのに、六年の長きに亘って即位でけへんなんて、百四代も続いて来た皇朝の歴史において初めての事や。ああ、嘆かわしや……情けなや……」
今にも泣き出しそうな顔だったが、公典はぐっと歯を食い縛った。
「なんでこないなことになっておるかと言うとやな、管領細川政元が銭を出さんからや。即位礼は費用がかさむゆえ、幕府の務めとして行うことになっておるのに、右京兆は鐚一文出そうとせん。諸国から集める努力もしようとせへんのや」
悲憤慷慨は留まる事を知らずに続いた。
「禁裏も毎年のように諸国に即位段銭を求め、幕府にも要請し続けておるのやけど、右京兆は何と言うたと思う……『即位礼など無駄な事です。臣(政元)が国王と認めておるのだからそれでよいではありませぬか』と、放言しよったのや。右京兆は皇室の為に金を出すのが嫌なのや。落ちぶれ、力を失った朝廷の為に面倒な事はしたくないのや。要は強い者には弱く、弱い者には強いだけなのや」
余りにも金のことばかり言うので、辰敬は耳を塞ぎたくなった。公典の言い分が一方的に過ぎるように聞こえたのだが、不意に公典の目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
「上がそれやから、下はみな倣う。禁裏領さえも押妨される。内裏の築地塀が崩れても段銭が集まらず、修理さえおぼつかぬ。右京兆は塀の修理さえせえへんのやで。そんなことやから、誰もが朝儀の負担から逃げ出す。結局、朝儀は略儀ですますことになる。禁裏においても、堂上人さえ勤めを怠る。禁裏の寂れようは目を覆うばかりや」
公典は傍目も構わずおいおい泣き出した。
「せやけどなあ、主上は不平の一つも仰せにならぬ。じっと耐え、即位もされておらぬのに、帝の務めを果たそうとなされておる。皇室の伝統を守る事も出来ず、何事も簡略されることに不満も漏らされず、黙々と勤めておられる。何でやと思う。ひとえに民のことを思うてや。こんな乱世やからこそ、この世の安寧を願い、民の幸せを願っておられるのや。これほど民を思い、平和な世を願っておられる帝はあらへんで。即位こそ出来てへんけど、百四代で一番の帝や」
嗚咽を呑み込むと、自分に言い聞かせるように声を絞り出した。
「せやからこそまろは書き留めるのや。この情けない有様をあるがままに後世に残すのや。こないなことが繰り返されてはあかんから。それが主上の願いであり、我ら公家の願いでもあるのや……。書いて残す。それがまろの務めや……」
命を振り絞るような声であった。
「……書いとるとなあ、涙が出て来るんや……情けのうてなあ、哀しうてなあ……それでもまろは書くのや……泣きながら書き続けるのや……」
膝の上で震える握り拳は、見えない筆を握っているかのように、辰敬には見えた。
真新しい筆を届けることが出来ていたらどんなに良かった事か。
いちの気を惹こうと見え透いた贈り物をして来た自分がとても卑しく思えた。
邸に戻った辰敬は反古集めを続けた。
どんなにぼろぼろの反古でも、たとえ一枚でも、宝物であった。
ある日、しわくちゃの反古を丁寧に伸ばしていると、木阿弥が怪訝な顔で覗き込んだ。
「わぬし、紙梳きでも始めるのか。長屋の者たちも首を傾げておるで」
辰敬は慌てた。
「あ、そのう、しばらく手習いを休んでおったので、そろそろ始めようかと思って……」
咄嗟に出た嘘であった。
「何やて」
木阿弥はまじまじと辰敬の顔を覗き込んだ。
「えらい」
長屋中に響くような大声であった。
「わぬしもようやくその気になったか。吉童子丸様もなかなかお戻りにならぬゆえ、わぬしの身も定まらず、儂も気にかけておったのやけど。そうか、ええこっちゃ」
目を細めて辰敬を見詰めた。
「わぬしも大人になったんやなあ。自ら手習い学問をしようと思い立ったんやから。えらい、えらい。大いに励むんやでえ」
「は、はい」
辰敬は頬を赤らめて俯いた。
それから暫くして、奥から下がって来た木阿弥が、
「土産や」
と、辰敬にまっさらな紙の束を差し出した。
三帖あった。
「こ、これは……」
一瞬、驚きの余り声にならなかった。
白い紙に早春の光りが散って、眩しさに目が眩んだ。
「御屋形様が下さったのや」
「御屋形様が」
木阿弥が微笑んだ。
「たまたまお前の話題が出たのや。御屋形様がタコの子はいかがしておるかとお聞きになったので、儂はタコの子は一念発起し、手習い学問に励んでおりますと大いに褒めたのや」
辰敬は困惑した。御屋形様が辰敬を忘れてはいなかったのは嬉しかったが話が大き過ぎる。いかに辰敬のためとは言え。案の定、
「御屋形様はそれはそれはお喜びになってな、タコは八本も手があるゆえ、紙も沢山いるであろうと仰せられ、出雲からの到来物であるその紙を下さったのや」
「出雲の……」
木阿弥は深く頷き返した。
「未だに御屋形様の御恩を忘れておらぬ者がおってなあ、折々に贈って来るのや。有り難く頂戴し、励むのやで」
辰敬は床に額が着くまで平伏した。結果的に御屋形様にまで嘘をついてしまったことに自責の念に駆られ、木阿弥とも目を合わさなくてすむように。
だが、翌日、辰敬は上京へ走った。
息を切らしながら三帖の紙を差し出すと、公典は震える手で受け取った。
「夢やない……これは夢やないのやな……」