3月19日から、怒涛の「風土記」月間が始まった。これから5月28日まで日曜日はほぼ休みなし。19日は午前中は「荒神谷博物館」で「風土記談義②」。午後は1時半から、大社の「文化プレイス」で「出雲と大和の誕生の謎を解く」の講演があった。談義終了後、すぐに自宅に戻り、昼飯を掻き込んで大社へ行く。

👈荒神谷博物館の『銅鐸』のレプリカ。
昔は木に吊るして鳴らしたそうだ。
「風土記談義②」はまだ「出雲国風土記」の原文には入らなくて、その手前の話。
面白かったのは「写本」の話。
昔は筆写するしかないから、写本をして行くうちに必ず書き間違いが起きる。パソコンもなければ、コピー機もないのだからやむを得ない。
間違えた字を見ると思わず笑いたくなるのだが、私は昔の人が気の毒でならない。
なぜ、そんな心情移入をするかと言うと、私はいま新井白石を調べていることがあって、白石が若い頃から写本で苦労したことを知ったからだ。
白石は本を買うことが出来ないので、若い時からすべて自分で筆写した。
晩年になると、今度は自分の著作を後世に残すために副本を作りたいと思っても、写本を作る人手が足りなくなってしまった。
また白石は同じ本の所有者と、写本同士を突き合わせ、厳密な校合もしている。
本を筆写することは想像を絶する行為なのだ。
今回、取り上げられたのが、
少領従七位上勲業出雲(倉野家本「出雲国風土記」より)
の中の『勲業』の二文字が全く意味不明である点についての考察。これは出雲臣と言う人物の位を示しているのだが、『勲業』と言う用語がそもそもこの世に存在しないのだ。
「出雲国風土記」にはあちらこちらに、この『勲業』が出て来る。
すると、面白いことに、筆写した人物も、この文字がおかしいと思ったのだろう。
『業』の字が次第に妙な形に変化して行く。筆写する人の迷いが染って、とうとう訳の分からん字になってしまうのだ。あまりにも珍妙な文字に笑ってしまったのである。
結局、『業』は『十二等』の写し違いと判明する。『勲十二等』なら意味が通じる。
『勲十二等』を書き写しているうちに、崩し字を誤って『業』と書いてしまい、それをまた写そうとした後世の人間は意味が分からず、悩みに悩み、やっと近年になって『十二等』と元に戻った訳だ。
私にとっては推理小説を読むみたいで面白かったが、多くの昔の人はたった一字の写し違いでとんでもない苦労をさせられたのだ。

大社文化プレイスは大社図書館と同じ建物。配布資料が足りなくなるくらいの盛況。私の前に記名していた人は何と米子から来ていた。脱帽。
黒潮の本流がぶつかったところが紀伊半島で、分流がぶつかったところが島根半島。黒潮に乗って文明がもたらされたと言うのが基調のお話。
個人的には魏志倭人伝に出て来る「投馬国」が出雲であると言う説が面白かった。
北九州から水行20日で出雲(投馬国)にたどり着くと、次の水行10日で丹後か若狭辺りに着き、そこから陸行1月で大和に至ることが出来ると言うのだ。1月はかかり過ぎかもしれないが、荷物を運ぶわけだからかなりな日数はかかるだろうとのこと。問題は出雲と投馬では音が違い過ぎるところだが、講師は古代の中国人がイズモをどのように発音したかによると解説した。
イズモ→イトゥモ→トゥモ と発音したとしたら、投馬もあり得るのではないかと。
確かに、出雲廻り航路だと、瀬戸内航路で大阪に上陸してからの陸行1月の問題を克服できる。
北九州から瀬戸内航路を主張した本居宣長はここで困ってしまい、1月は1日の間違いであると主張したのだ。大阪から大和は1日で行けると言うわけだ。都合の悪いデーターが出て来ると、すべて昔の人が間違っていると決めつけるのは今も江戸時代の学者も変わらない。
「昔の人が書いたものは信用できない」
こう言ったのは原発推進論者だ。西暦869年、東北地方を襲った未曽有の大地震、貞観(じょうがん)地震の記録をもとに巨大地震の警鐘を発した人に対する言葉だ。
結果は貞観地震と同規模の1000年に一度の巨大地震が起きた。
話は戻るが、古代中国人が出雲をどう発音したのかと言う講師の言葉で、私はまた新井白石に思いが至る。
白石は魏志倭人伝の地名や国名を考察するに当たり、古代中国人の発音に立ち返って研究した。
白石は魏志倭人伝だけではなく、東北地方の歴史地理研究に当たってもアイヌ語を地名を比定する手掛かりとした。「語言」に立ち返って、地名研究をするのが、白石の方法論なのである。すべてが正しいとは言えなくても、学問研究に一定の方法論を持ち込んだ白石はやはり大した人だったのだと思う。
黒潮、古墳、魏志倭人伝、風土記、万葉……話は多岐に亘り、時を忘れるほど楽しい一日であった。
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