第一章 出会い(6
 
法師丸五歳の夏だった。
朝から暑い日で、法師丸は屋敷を抜け出すと、近くの寺に虫取りに出かけた。
その寺は今はなく、名も覚えてはいない。寺があった場所は今では城域に含まれ、役所となっている。
その頃、寺の裏手は月山富田城の垂直に削り取られた崖に続いていた。
鬱蒼と木々が生い茂る裏庭は、月山と接していることもあって、蝶や蜻蛉、蝉、カブトにクワガタ、かみきり虫、玉虫など……光り輝く小さな生き物たちの宝庫だった。
法師丸は朝早くから、日が暮れるまで、時が経つのも忘れて虫を追い回した。
夏は虫取りが法師丸の日課だったのである。
が、その日は小物ばかりで、つまらなくなった法師丸は船着き場に向かった。虫捕りに飽きたら船着き場に行くのも法師丸の習慣になっていた。
富田城と富田川の間はさほど広くはないので、城下町は富田川の東側の堤に沿って南北に細長く続いている。町を横切ればすぐに堤に出る。
堤は北は中海まで続き、人馬が途切れることなく行き交い、富田川にも大小さまざまな船が上り下りした。船着き場の喧騒を眺めているだけで心が躍った。
運が良ければ唐人(朝鮮人)の船を見ることが出来た。異国の金色に輝く猿や孔雀の美しさに目を見張ったものだ。
法師丸は捕まえた虫達を放つと、庫裏の横へ出た。小走りに通り抜けようとした時、ふと足が止まった。
緑が陰を作る庫裏の縁側に、向かい合って座っている二人の男がいた。一人はこの寺の住持で、一人は乞食 ( ほいと )のような老人であった。
麻の小袖を涼しげに着た恰幅のいい僧侶に対して、老人は垢まみれで、ぼろぼろの布子をまとい、帯代わりに荒縄を回していた。
法師丸はこの老人を知っていた。屋敷に鮎を売りに来たことがあったのだ。正月には松飾りを売り歩いているのを見たこともある。栗やきのこ、猪の肉を売るのを見たこともある。名前は知らぬが、皆、小屋爺と呼んでいた。町外れに筵掛けの小屋を建てて暮らしているので、そう呼ばれているのだ。
立派な僧侶と薄汚い小屋爺、余りにも対照的な組み合わせに、法師丸は好奇心を駆り立てられた。
しかも二人は青々と剃り上げた頭と、赤く日焼けした禿げ頭をくっつかんばかりに寄せ合って、二人の間にあるものを見下ろしていた。
住持は難しい顔をして、しきりにうんうん唸っていたが、小屋爺は上目遣いに住持の顔を見ながらにたにたと笑っていた。
(和尚さんと小屋爺は何をしているんだろう)
 法師丸はそっと近づいた。
 二人の間に置かれていたのは、薄い板であった。その板には等間隔で縦横に直線が引かれ、縦に九マス、横にも九マスが並び、小さな木片がばらばらに置いてあった。一つのマスに木片は一つで、何も置いてないマスもあった。
 木片には〈歩〉とか、〈金〉〈銀〉〈飛車〉〈角行〉などの文字が書いてあり、〈歩〉と書かれた木片の数が一番多かった。
 法師丸は末の子で甘やかされていて、まだ素読を始めていなかったので、文字は知らなかったが、〈王〉という文字は知っていた。兄達が素読をするのを見ていて、〈王〉と言う字だけ覚えたのだ。
「和尚、はようさっしゃい。下手の考え、休むに似たりじゃ」
「無礼な、わぬし、地獄に落ちるぞ」
 住持が木片の一つを動かすと、小屋爺も木片を動かした。どうやら交互に動かす決まりで、木片の動き方にはそれぞれ決まりがあることが法師丸には分かった。
 小屋爺が勝ち誇ったようににたりと笑った。
「王手じゃ」
 途端に住持がのけぞって呻いた。
「待った。小屋爺、待ってくれ。その手はちょっと待ってくれ」
「和尚、何度目じゃ。もう待てん」
「そう言うな。わぬしには情けというものがないのか」
「へえ、そんなもの忘れましたが」
「そんな心がけじゃ極楽には行けんぞ。いいか、御仏に仕える儂の頼みを聞くことは功徳を積むことになるのじゃ。ここは功徳を積め。必ず極楽に行ける。儂も御仏様に頼んでやるけん」
「これで最後じゃけんのう」
「おお、偉いぞ、小屋爺。極楽浄土間違いなしじゃ。蓮の ( うてな )が待っておるぞ」
 そして、木片を何手か前のマスに戻してやり直したが、今度もまた小屋爺がぴしりと木片を叩きつけるように置いた。
「王手」
「待った」
「和尚、往生際が悪いぞ。御仏様が見ておられますぞ。修行が足りんと呆れておらっしゃるぞ」
 住持は忌々しげに睨みつけたが、小屋爺は涼しい顔で皺だらけの手を差し出した。
 住持は穴開き銭を一枚取り出すと、放り出すように渡し、
「ようし、もう一番勝負じゃ。今度こそ勝ってみせるけんのう」
「なんぼでも付き合いますが。遊んで銭になるんじゃ。これほど楽なことはないけん」
「だらずをこくでない」
 住持はむきになって挑んだが、たちまち追い詰められ、王手を突き付けられる前に、
「やめじゃ、やめじゃ。今日は暑うていけん。頭が回らんわい」
 銭を置くと、立ち上がってしまった。
 よほど悔しかったのだろう、
「御仏に仕える者を敬わぬような奴は地獄へ落ちても知らんけんのう」
 捨て台詞を吐いて奥へ消えた。
「ふん、この世が地獄ですがね」
 小屋爺は鼻で笑うと、穴開き銭をつまみ、にんまりとかざし見た。その時、四角い穴越しに法師丸と目があった。
「小屋爺、それは何じゃ」
 法師丸は小屋爺の前にあるものを指差した。
「うん……これか、将棋と言うもんじゃ」
「しょうぎ……」
 法師丸は縁側に張り付くと、食い入るように盤を覗き込んだ。
「何じゃ、見たことないのか」
「うん」
「屋敷にはないのか」
「初めて見た」
 その眼の輝きは、どんな大きなカブト虫を捕まえた時にも見せたことのないものだった。
 異様な関心を示す子供の姿に、小屋爺の表情が緩んだ。
「盤の上でな、戦をするのじゃよ」
「いくさ……」
 五歳でも武士の子である。戦という言葉が法師丸の小さな胸を掻き立てた。船着き場へ行くことなどとっくに忘れていた。
「この〈王〉と書いてある駒が殿様での。〈歩〉と言うのが足軽じゃ。ほかに侍大将や、騎馬武者達がいての、相手の王様を取った方が勝ちじゃ」
「面白いな」
 小さな目が輝いた。
「ああ、面白いぞ」
 法師丸は小屋爺を見上げた。
「小屋爺、やろう」
 小屋爺が歯の抜けた口を開けて笑った。
「ははは、ま、そのうちのう。坊が大きうなったらのう。儂が生きとったらの話じゃが」
「いまやるんじゃ」
「馬鹿言っちゃいかん。坊みたいな子供にはまだ無理じゃ」
「やれるけん。 ( わ )はやれるけん」
 小屋爺はあからさまにうんざりした。
「将棋は難しいのじゃ。駒の一つ一つの動きも覚えねばいけん。坊は今初めて将棋を見たばかりじゃろ。とてもとても無理な話じゃ。まずは誰かに一から手ほどきしてもらうのじゃな。言っちょくが、儂は教えんぞ。銭にもならんことは出来んけんのう」
「大丈夫じゃ。我は覚えたけん。これは」
と、〈歩〉を指差すと、
「一つしか前に行けん。後戻りもできん。でも、ここから先へ入ると」
 と相手の陣地の三列目に〈歩〉を進めると裏返しにして〈と〉にした。
「裏返しにするのじゃ。そうすると、こいつと同じ動きができるのじゃ」
と、〈金〉を指差した。
 小屋爺はぎろりと眼を剥いた。
「ふむ、じゃあ、これは……」
 小屋爺が次々と指差す駒の動きを法師丸はことごとく答えた。
 小屋爺は感心した。
「よう覚えたのう」
「見ちょれば分かるが」
「見ちょっただけで分かったか」
「目がついとるけん」
 当たり前と言わんばかりの口ぶりに、小屋爺は苦笑いを浮かべた。
「早ようやろう。なあ、小屋爺」
 しきりにせがんだが、
「いやあ、坊が頭が良いのはよう分かったがのう……」
 焦れったくなった法師丸は縁側に上がり込むと、盤側にあった駒を取り、ぴしりと打ち込んだ。
 それを見た途端、小屋爺は「あっ」と声を上げた。
 法師丸は住持が投了して逃げてしまった後の一手を指したのであった。
 小屋爺の歯の抜けた口は開いたままであった。小屋爺は口を閉じることを忘れていた。
「うむ、まさか、そんな手があったとは……」
 小屋爺は信じられないものを見るような目で、五歳の子と盤上を何度も見比べた。
「坊、本当に初めてか」
「うん」
 盤を見下ろす小屋爺の顔は険しくなった。今まで見せたこともない真剣な目だった。暫く考えると、ぴしりと駒音を響かせた。
(これでどうだ)と法師丸を見据えた。
 が、法師丸は顔色一つ変えず、いや楽しそうに、笑みさえ浮かべて指し返したのであった。
 指せば指すほど老人は萎びて行き、五歳の男児は雨後の竹の子のようにすくすく伸びた。
 攻めあぐねた小屋爺は一転して攻め込まれる立場になった。あれよあれよと言う間に追い詰められ、
「ここで、王手と言うんじゃな。小屋爺、王手」
 法師丸が嬉しそうに小屋爺の駒捌きを真似て、鋭く駒音を響かせた。
 老人は茫然と盤を見下ろしていた。
「どうしたんじゃ。小屋爺の番だが」
 老人は指す気を失っていた。投げ出して逃げて行った住持の気持ちがよく分かった。どうあがいても老人の負けだったが、老人にはまだ言い訳が残されていた。
「ちょっと油断してしもうたようじゃ。途中から相手が変わったので調子が狂ったぞ。今度は初めから勝負じゃ。坊、手加減はせんぞ」
 また出来るとあって、法師丸は嬉々として駒を並べ始めた。
結果は無惨なものであった。
老人は死人のように青ざめた。
石のようにうずくまっていたが、やがて力なく笑い出した。たった今将棋を覚えたばかりの年端も行かぬ子に、完膚なきまでに叩きのめされたのである。これが笑わずにおられようか。
どんな笑いも、笑っているうちに、心を解きほどくものだ。この時の小屋爺がまさにそうだった。木の根のようにひねくれ、世を厭い続けた老人の心に温かいものが広がった。それは驚くべき才能と出会った幸せだった。小屋爺は素直に感嘆した。
「なんぼ長生きしてもつまらんと思うちょったが、今日だけは長生きしてよかったと思うたぞ。この世に坊みたいな子がおったとはのう……」
 まだあどけなさを残した可愛い男の子であった。額が、耳が、目が、口元が、すべてが利発そうな子であった。
「坊はどこかで見たことがあるのじゃが、どこの御子じゃ」
「多胡じゃ」
「なに、多胡」
 小屋爺の眉が動いた。
「どこの多胡じゃ。親父殿の名は何と言う」
 家中に多胡を名乗る家は幾つかあった。
 多胡氏は大江氏の後裔と言われ、上野国多胡に住んで多胡氏を称するようになったもので、古くは鎌倉時代に地頭となって下向して来た家もあった。
「あっちの御子守口の近くじゃ」
 と一方を指差すと、
「と言うと、多胡忠重様か」
 落ち窪んだ黄色く濁った眼を蟇蛙の目のように丸々と見開いた。
「な、な、なんと、あの多胡様の御子だったとはのう……」
 まじまじと穴の開くほど法師丸の顔を覗き込むと、
「そうか、そうだったのか、さもありなん。いやあ、血は争えんものじゃ。さすがは多胡博打の御子じゃ」
 と感嘆しきりであった。何をそんなに大げさに感心しているのか、法師丸には分からなかった。(たこばくち)と言う言葉の意味も分からなかったが、その時は気にも留めなかった。
 早く次の勝負がしたかっただけであった。
 が、小屋爺は手を振った。
「駄目じゃ、駄目じゃ。坊には勝てん。勝てる訳がない。いやあ、参った、参った。ほんに参ったわ」
 と大きな声を残して行ってしまった。
 
 法師丸は屋敷に飛んで帰ると、
「兄い、正兄い……」
 大声で正国を探した。
「おらんのか、重兄いは……」
「これ、騒々しい」
 縁側を走って来た法師丸はびくっと立ちすくんだ。
 開け放った座敷で父忠重が小太りの身体に団扇で風を送っていた。
「縁を走ってはならぬ」
 年の割には頭が薄く、見事な八の字の髭の上に、大きな目玉を乗せた父の前に来ると、法師丸はいつも体が強張った。しつけに厳しく、笑った顔を見たことがなかった。
「はい」
「何度言うたら分かるのか……兄上と呼べとも言うたぞ」
「はい、父上」
「返事だけはいいのじゃが」
 渋い顔で、
「何じゃ、また、かぶと虫でも捕まえたか」
 法師丸は首を振った。
「くわがたか」
 法師丸はまた首を振り、
「正兄い、いえ、兄上達と将棋をやろう思うて」
 団扇が止まった。
 大きな目玉がぎろりと法師丸の顔を覗き込んだ。