この暑い夏に妻が70歳の生涯を終えた。728日の夜9時過ぎ、自宅で私と娘に看取られて息を引き取った。31日に私と息子一家、娘一家と妻の介護や老親の世話を出雲に通って助けてくれた私の二人の妹の9人だけでごく内輪の家族葬をした。私と妻方の親戚にも妻の友人たちにも知らせず、隣保の手伝いも辞退し、張場も立てず、新聞の訃報欄にも告知せず本当にひっそりと家族だけの葬儀をした。

914日が49日だったが、この日は娘の仕事があるので、93日に娘が1歳の子供を連れて戻って来て、娘と二人で49日をすませていた。納骨した後、妻の母親を出雲に永代供養していたので、そこへ分骨して妻を合葬した。母子家庭だった母娘をまた一緒にしてやることができた。

49日は死者にとっても生者にとっても区切りの日である。自分もどこかで区切りを付けないといけないと思っていたので、区切りがつくのかどうかわからないが、どうしてこんな葬儀をしたのか、少し長くなるが経過を綴ることにした。(この後、親戚に通知しなければならないのだが、何か言われそうで実は気が重い。特に熊本の親戚にはお世話になったり、心配していただいたので)

 

妻はこの二、三年は食欲不振になったり、熱が出ることがあったり、小さな骨折で入院もあったが、コロナで面会が出来ないので弱ってきているように感じてはいた。だがそれまでのように実際に身体に触れることもできないので正確な状態が分からない何とも歯がゆい状態が続いていた。

73日に救急で県立中央病院に入院、誤嚥性肺炎と知らされた時はそんなに弱っていたのかと覚悟をしたが、8日に退院することが出来た。ところが退院後も食事が摂れず、11日に救急で再入院した。精密検査の結果、今度は左肺が肺炎を起こし、急性膵炎を起こしていることが判明した。この時点で主治医から二つの病気は致命的であり、終末期と告知された。だが、オンライン面会では言葉ははっきりしないがかろうじて喋ったし、孫の顔を見て「かわいいねえ」と言うのがかろうじて聞こえたと娘から聞いたので終末期と言う言葉をそれほど差し迫ったものとは受け止めていなかった。これから長いスパンで弱って行くものだと受け止めていた。良くなってほしいと言う気持ちがあってのことだと思う。

ところが、肺炎治療と補液による急性膵炎治療を同時進行すると水分が過剰になり肺に水がたまるため、肺炎治療を優先し補液は最低限様子をみながら与える治療しかできなかった。肺炎は数日後軽快したが急性膵炎は回復不能の状態となり、みるみる容態が悪くなった。言葉は聞き取れなくなった。オンラインで話しかけても聞こえているのかいないのかもわからない。何とか妻を励ましたいと思った私は妻の母校で大好きだった熊本県立濟々黌高校の校歌を聞かせることを思い立ち、ユーチューブで聞かせてやった。画面では何の変化もなかったが。看護師が「ずっと手を振っていましたよ」と教えてくれた。二日後また聞かせたが、看護師はちょっとしか手が動かなかったと言った。

そして、723日に主治医から退院看取りの段階と告げられた。2425が土日なので26日が退院と決まった。一般的には施設入居者が退院看取りとなった場合、ほとんどが施設に戻って看取りとなる。私もそのつもりでいたのだが急遽駆け付けて来た娘が「お父さんは大変かもしれないが私は家で看取りたい」と言った。

施設の看取りの場合、コロナ禍では窓ガラス越しでしか面会できない。面会室に入れるのは最後の時だけである。それも間に合うかどうか分からない。娘はそんな別れ方はいやだと言う。この二年間、私は1週間に115分窓ガラス越しに面会し、娘は私と交互に1週間に115分のオンライン面会をして来た。娘にしてみれば最後の時ぐらい寄り添っていたいのは当然のことだ。

施設からは自宅の看取りは大変だと聞かされていたが、なかには施設に戻らず自宅で看取りをする人もいるとは聞いていた。車椅子で11カ月の赤子を抱えた娘が自宅で看取りたいと言う言葉を聞いた瞬間、私はここで妻を看取らないと、これまでの18年間家族で介護してきたことが無になってしまうと思った。娘はとても大切な事を教えてくれたのだ。そして、私はこの娘と一緒なら自宅で看取れると思ったのである。

翌、25日の日曜日にベッドを運び込んでから、私と娘と赤ん坊は妻の病室に入った。娘は何年ぶりかの面会を果たしたのだが、妻の反応は殆どなかった。その場で私は痰の吸引方法(実際に妻を相手に教わるのである)やバルーンの交換の仕方を習い、体位交換や坐薬の入れ方などを教わり、26日は朝から支援者会議(娘はオンライン参加)を経て夕方、妻を受け入れることが出来た。

すでに呼び掛けても反応は見られず、私たちに出来ることは手を握り、体をさすり、「お母さん」と呼び続けることしかなかった。日中はどちらかが休んでは見守り、夜は2時間~3時間ごとに交代で見守りした。私の二人の妹たちも駆けつけてくれ助けてくれたが、妹たちが来るまでは孫を風呂に入れている時も容態が急変しないかと気が気でなかった。娘が一人で入れることが出来ないので私が入れるしかなかったのだ。しかしながら、39.9℃も熱が出るとどう対処してよいか分からず、真夜中に訪看に電話したり、痰の吸引もどのタイミングでやってよいものかどうかもわからず、心配した娘に見守られてどうにかやったもののうまくできたのかどうか悔いの残る吸痰だった。無呼吸に気づいて電話したり、何度訪看に電話したことだろう。

28日の夜、顎で息をし始めて明らかに様子が急変し、訪看に電話したらすぐに家族を呼びなさいと言われ、娘を起こし、妹たちを呼び寄せたところ10分ほどで、皆に看取られながら息を引き取った。娘が手を握り続け「お母さん」と呼び続ける中での最期でだった。その後、訪看が駆けつけ、亡骸を清め、娘が訪看と二人で死に化粧を施した。

ところが私はそれからが大変だったのである。前日、和尚さんに内輪の家族葬をするつもりだと伝えたところ、近所の三人だけには伝えておきなさいと忠告されたので、夜遅く隣組を訪ねたのだが、一軒は寝ていたので長老に妻が死んだことと家族葬をしたい旨を伝えた。長老も看取りをしていることも知らなくて驚き、内輪の家族葬をすると聞くと、隣保の手伝いも断り、張場も立てず、新聞にも告知せず、有線の案内もしない葬儀など先例がない。隣保の自治委員にも知らせず、組の自治会長にも知らせず、驚き見舞いも受けないのかといたく心外な様子。私は帰郷して11年になるが在宅介護で外に出たことはなく、5年前からは施設に入った妻のことを知っている人は誰もいない。顔すら知らない人がほとんどである。そんな妻の為に隣保に働いてもらうのは申し訳ないし、葬儀に来てもらう(コロナ禍香典を届けに来るだけだが)のも申し訳ないから家族葬にしたいのだといくら説明してもなかなかわかってくれない。本心は18年介護して来た者には介護した者にしかわからない気持ちがある。そうした気持ちを大切にした葬儀を誰も入れずに家族だけでやりたいのだが、相互扶助の葬儀を続けて来た長老にはあからさまにそうも言えず、時間ばかりが経過した。最後は私も我慢できなくなり、妻が死んだばかりでここに来ているんだ。もう妻のところに帰りたい。もうやらせてもらうと言ったら、同席していた隣のMちゃんが「やりたいようにやらせてあげようよ」と助け船を出してくれた。

 

ようやく家に戻ると、死に化粧はとっくに終わっていた。娘が自分の化粧道具を使ってファンデーションを塗り、眉を引き、口紅も塗っていた。まるで生き返って眠っているようだった。

もう一つ悔しかったことは、海外から駆け付けた長男一家が最期に間に合わなかったことだ。28日に羽田に着き、その日の出雲行きの最終便に乗っていれば間に合ったのに、コロナ禍、入国手続きに時間を取られ、最終便に乗ることが出来なかったのだ。コロナが恨めしくてならない。

 

妻に先立たれた作家の城山三郎は「そうか君はいないのか」と言うエッセーを出した。

妻に先立たれた男の気持ちをこれほど簡潔にこれほど的確に表した言葉はないと思っている。毎日、線香をあげては「そうか君はいないのか」と私も呟いている。いつになったら区切りがつくのか。