出雲弥生の森博物館で職員リレー講座として「出雲国風土記はどう書き写されたのか――徳川家康から本居宣長・千家俊信まで――」が行われた。コロナ禍でずっと休止になっていた職員のリレー講座の久しぶりの再開である。
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風土記は和同6年(713)に作成が命じられたが、延長5年(925)には太政官符で「中央に集められた風土記が失われたため、諸国の国府にある風土記を進上せよ。もしなければ国内を探し求め再提出せよ」と通達されている。
風土記は中央に提出されて約200年で失われたことになる。925年に再提出された風土記がどうなったのか分からないし、どれだけ集まったのかも分からないが、完本に近い内容で現在残っているのは出雲国風土記の写本だけである。
その写本がどのようにして書き写されて来たかの講義である。
いろいろな写本を系統樹のように見せる講義かと思っていたがどうしてなかなか奥の深い講義であった。

出雲国風土記で年代がはっきりしているのは細川本。肥後熊本の細川家に伝わる写本である。これは慶長2年(1597)に細川幽斎が徳川家康の所持本を書写し、校正した写本である。
細川幽斎の息子忠興は明智光秀の娘ガラシャと結婚している。元細川総理大臣の先祖である。
幽斎は明智光秀との関係が深かったが実に世渡りが上手く、秀吉とも家康とも交誼を結んでいた。
では家康はこの風土記を誰から借りて写したのか。
京都の公家冷泉為満から借りている。有名な冷泉家である。この時、冷泉為満と義兄の山科言経は天皇から勅勘を受けていた。山科言経も有名な資料的価値のある日記を残している。二人は武家方に赦免を求めるために家康に近づき、歓心を得るために古文書や典籍を利用したと思われる。その中に出雲国風土記があったらしい。

次に知られているのは日御碕神社本と呼ばれる写本である。これは出雲の日御碕神社に家康の子で尾張藩主の徳川義直が書写して贈ったものである。
では義直が所持していた写本の来歴はと言うとはっきりしない、奥書がない。
家康が死後蔵書は御三家に分けられたが義直の蔵書に出雲国風土記はない。そもそも家康が所持していた内府御本がどこへ行ったのか分からなくなっている。
ところでこの日御碕神社本は出雲に贈られたのに出雲では広がっていない。後継本は江戸で広がる。

徳川義直が出雲国風土記を日御碕神社に贈った理由。
奥書に「是神国之徴兆也」ある。背景には神儒一致思想があった。日本は神国であり出雲国風土記には儒家神道理想の古代の姿が描かれているとした。

その後、日御碕神社本は林羅山の周辺から伝播する。
榊原忠次(徳川四天王榊原康政の孫)、脇坂安元(賤ケ岳七本槍脇坂安治の次男)、山鹿素行(山鹿流兵学)などへ……。

本居宣長へ伝わる出雲国風土記
明和8年(1771)谷川士清、伊勢の人。塾を開き医業を継ぐ。この人が「佐々木氏本」を書写した。それを宣長が書写した。
「佐々木氏本」は奥書から関祖衡(そこう)と言う人が、日本橋の古本屋街で購入したもの。おそらく林羅山の弟子から流布したものと思われる。

千家俊信と出雲国風土記
出雲国造75代俊勝の三男。大阪で垂加神道を学ぶ。
文化3年(1806)訂正出雲国風土記を刊行。初めて印刷出版した。
天明6年(1786)内山真龍が風土記を調べるために出雲へ来た時に俊信は弟子となり、後に宣長の弟子になる。出雲に国学を広める。

時代によって変わる書写の目的

細川本の時代
秀吉による天下統一がなり、朝鮮出兵の時代だったが国内は太平であった。家康は連日茶の湯や将棋の見物などして過ごしていた。動乱の世が一時的に収まり、短い期間だったが、和歌や古典籍への憧憬が甦った時代であった。

近世前期
日御碕神社本の時代。林羅山の神儒一致思想の時代に引き継がれる。出雲風土記に古代社会の理想を見た。
出雲で当初日御碕神社本が広まらなかったのは、当時出雲はまだ神仏習合の考えが根強く残っていたから。杵築(出雲)大社が仏教支配から脱するのはもう少し後になる。

近世中後期
国学が広がり、古典研究を重視するようになる。儒教や仏教が入る以前の日本を研究しようという姿勢で出雲国風土記に向き合うようになる。

荒っぽくざっくりとまとめたので説明不足の所があると思うが、一冊の本を厳密に写そうとした人々の精神世界や思想的背景に敬意を表さずにはいられない。わしらはただコピーを取るだけだからな。コピペからは何も生まれない。昔の人はただ写しただけでは終わらない。対抗本を持って来て写本とまた校正するのだ。徹底している。それでも誤写や脱字が出る。対抗本にも誤写や脱字がある。それらを校正しながらより正しい本へ迫ろうとする。すごい。