曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

京都から高速を北上して天橋立への分かれ道を過ぎてから、山道に入って辿り着いた出石町に着いて最初に訪れたのが宗鏡寺。出石城の殿様仙谷氏の菩提寺。私たちと同じ臨済宗のお寺。
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別名沢庵寺。沢庵和尚の寺として知られている。昼食まで30分しかなくて忙しい見学だったが、ここでガイドをしてくれたのがうら若き女性だったのである。普通お寺のガイドはその寺の坊さんがしてくれるから、一体誰だろうと思いながら聞いていたが、どことなく頼りなく、たどたどしいところがある。それでも一生懸命、将軍家光と沢庵和尚の話をしてくれる。
「家光に食事を出すことになった和尚が、昼になっても出さず、えんえんと待たせた挙句、お茶漬けと沢庵を出した。お腹がすいた家光はおいしく食べたが、沢庵は為政者たるもの、百姓はこのようなものしか食べていないことを知ってくださいと語った。感じ入った家光が沢庵を指さし、これは何という食べ物かと問うたら、沢庵は名前はないと答えた。すると家光は沢庵と名付けろと言い、以来、みな沢庵とよぶようになった」と長い話を、懸命に話してくれたのであった。
こういう話だと、私なんか「ここはこう言った方が味がある」とか「こう言えばぴったりなのだが」と思うのだが、彼女は最後まで自分の言葉で懸命に話してくれた。
忙しく寺を出て、昼食をとって、永楽館に行き、いざ出雲を目指して帰るバスの中で、このガイドの話題が出た。何とお寺のお嬢さんで15歳だと言う。高校一年生だったのだ。道理でたどたどしくも初々しいわけだ。
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右の写真。祀ってあるのは仙谷家のお殿様や家老たちの位牌。
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庭も手入れが行き届いているとはいえない。全体的にくすんだ印象のお寺だった。

このお嬢さんと話した人によると、なんとこの寺には檀家がいないと言う。みんな、仰天する。「そんな寺があるのか」「どうやって食ってるんだ」
この寺は江戸時代から領主の仙谷家だけの菩提寺だったので、殿様と家老のような偉い人だけの位牌しかなく、家来たちや商人や町人百姓は、檀家になっていないのだ。だから明治維新になって仙谷家が東京へ行ってしまうとたちまち難儀してしまったのだ。
道理で修理も満足にできないはずだ。お嬢さんの父親の和尚さん自ら修理していると言う。
「もっと早く知っていれば、帰るときに少しでも寄付したのになあ」
「あのお嬢ちゃん、気前良くてね、普段は見せないところだけど入って下さいと見せてくれたんだよ」
帰りのバスの中は、15歳の女子高校生ガイドの話でひとしきりほっこりしたのであった。
みんな、出石は知らなくて、お寺も永楽館も知らなくて、全員、期待していなかったので、この町全体が醸し出す、一生懸命に生きて行こうと言う空気に癒され、励まされてみんな「いい旅だったな」と言いながら戻ったのであった。
私も二、三年後に訪れてみたいと思った。あの15歳の女子高生ガイドがどうなっているか会ってみたいと思っている。

10月16日~17日は毎年恒例の京都妙心寺の本山参りだったが、今回は帰りの慰労ツアーで素敵な出会いがあったのでそちらの方を報告したい。場所は兵庫県の出石町。妙心寺で6時半からの団体参拝をすませ、朝食をとってから、9時半にバスで出発して12時前に到着。豊岡の手前のとんでもない田舎町。ここでまず宗鏡寺(すきょうじ)を見学して、昼食後、永楽館という芝居小屋で落語を聞いて永楽館を見学すると言うものだったが、沢庵和尚の寺といわれてもさして興味はないし、ましてや素人の落語なんか聞きたくもないし、全然期待していなかったのだが、見学順は前後するが、まずは永楽館から。
仙石氏の城下町で小京都と言われているが、津和野の何分の一かの裏さびれた印象の町。今話題になってああいるのが話題の映画「国宝」にその舞台が登場していることを着いて初めて知る。
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左)建てられたのは明治34年。左の路地を入ると入り口。
右)左手入り口
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左)入り口。
右)入ると「国宝」の宣伝。
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江戸時代の芝居小屋を明治になってそのまま再現して建てられたもので、近畿最古の芝居小屋。昔は右の写真のように桟敷席だったが、今は桟敷の上に長椅子がしつらえてある。
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舞台には落語をするので高座がある。
舞台の後ろ、2階にあるのが何と楽屋。芝居を演じている時は幕で隠すので客席から見えない。こんな芝居小屋は初めて見た。
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この小屋はTVの普及によって昭和39年に閉館された。それから44年の時が経ち平成20年に復活再生された。昭和39年の閉館当時そのままに復元されたのだそうだ。
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左)舞台の下の奈落。舞台には直径6.6mの回り舞台があって、回すことが出来る。セリもあって回り舞台の一部が上下する仕組みがあって役者が出入りする。
右)花道の下の通路。ここから役者が花道に出現する仕掛けもある。手前にあるのが4人がかりで役者を担いで乗せる台。4本の足があるのだが、手前に2本あるのがそれ。
閉館前は映画館もやっていたので当時の映画のポスターも10枚ほど貼ってあった。私の師匠松浦健郎脚本のポスターもあるかと思ったがなかった。「太陽にほえろ」や「暴れん坊将軍」の脚本をかいていた小川英氏脚本のポスターはあった。
閉館した時が自分が高校生の時。タイムスリップしたような何とも言えない懐かしさを覚える。
最初に落語があったのだが、素人とは言え笑わせてくれた。普段は陶器を作ってお店屋さん。ほかに高校の先生や、ふるさと応援隊や介護職の人もいると言う。小さな町に賑わいを取り戻し、何とか元気にしたい。そんな一生懸命さが伝わって来た。考えてみれば、自分たちもにたりよったりの問題を抱えた島根県からの観光客なのである。この町を出発する時は「出石町頑張れ」とエールを送った。
皆さんも「国宝」を観て、出石町にも足を運んでみてください。津和野の6分の一なんて言ってごめんなさいである。
もう一つの飛び切り素敵な出会いは明日、報告します。

秋冬野菜は諦めたのでのんびりしていたが、10月が近づいたらそうも言ってられなくなった。去年の記録を見たら、10月末には極早生玉ねぎ(新玉ねぎ)を植えているではないか。それまで春の畑の片づけはぼちぼちやっていたが、暑いのであまりはかどっていなかったので、9月の末には本気モードに入る。
9月29日
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最後まで残っていたイチゴの畝を片付ける。マルチの外にのびたイチゴの苗をポットに移す。来年用のイチゴの苗で、10月末には植え付ける予定。これを100本とる。買えば安いので1本250円として2万5千円分である。面倒でも2万5千円には代えられない。
10月に入って、やっと苺の苗を100本取ったが、3日、4日が雨で畑に出られず。5日にやっと畑に出て全面に耕運機をかけようと思ったら、コックを「出る」に回したら、なんとガソリンがダダ漏れるする。買って4年目のホンダのputinaである。しょうがないので買ったナフコに運び込んだら、ホンダに送って見積してもらって、それでOKが出たら修理するので、往復で2週間かかると言う。
2週間も畑を休むわけには行かないので、近所に借りに行くが、使い方がよくわからん。畑先生のを借りようと思ったら、30年前のものをだましだまし使っているので、俺には使えない代物だと言う。
10月7日
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3軒目から借りて来た耕運機で畑予定地の8割を耕し、全面に石灰を撒く。
そしてもう一度耕運機で石灰を土とかき混ぜて畝作りにとりかかる。
10月9日から
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左)
まず畑の南端から苺の畝を3つ作る。今年から空豆をやめて孫が喜ぶものを作ることにしたのだ。同じ苦労するなら孫が喜ぶ顔を見たい。
右)
その隣に、白菜と新玉ねぎを半分ずつ育てる畝を作る。新玉ねぎは美味いのだが、もう去年のように一畝250本も作る元気はもうない。今年は100本だ。
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そして、その隣にニンニクの畝を二つ。両方で500個以上作るが、ニンニクはニンニク片をただ埋め込むだけで、あとは追肥するだけで何もしないので楽なのである。大きい青森ニンニクは皆喜ぶのでそのためだけに作るのだ。
10月9日
電話がかかって来て、2週間かかると言われた耕運機がなおったと言う。早速引き取りに行く。原因はキャブレターが詰まっていたそうで、キャブレターの交換。この他にもオイルの入れ過ぎを指摘され、恥ずかしい思いをする。わたしに貸してくれた人なんて、「オイルて、なに?俺、買ってからオイルなんて一度も入れてないよ」と言う。それもどうかと思うけど、私はオイルが全然減らないのが不気味でよくわからないままに毎年オイルを入れたいたのだ。「最初はみんなそんなもんだよ」と専業農家さんに慰められる。
10月14日
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帰って来た耕運機で残っていた畑地の2割を耕して、春キャベツ用の畝を作る。
これで安心して10月17日~18日の、毎年恒例の京都妙心寺の本山参りに行ける。帰ってきたら植え付けがあるが、11月20日頃、ニンニクを最後に植えるまでにすませばいいので気分的には楽だ。
この1ケ月以上、畑だけに専念していたわけではない。むしろ畑は隙間時間の作業で、私は連日辰敬完全版の紙書籍化の最終稿を作るのに必死で、この作業は本山参りから戻って来ても続くのだ。私にとって畑と犬の散歩は隙間時間なのだが、どうしても隙間が隙間にならないことが頭痛の種なのだ。

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