曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

弟子になったのは偶然である。弟子になるまで松浦健郎と言う脚本家がいることも知らなかった。大学が嫌になって、シナリオ作家協会が開いていたシナリオ研究所に通っていたのだが、そこの課程も終了間近。終了したところで、ライターになれるわけもない。親は転勤で地方へ行くことが決まっていて、この先どうしたらいいのか途方に暮れていた。そんな時、シナ研の事務の人が、口述筆記の助手を探している先生がいると教えてくれ、「曽田君、行くか」「行きます、行きます」
慌てて作家年鑑を開いて、「へえ、エンタテイメントのライターか」
初対面で弟子になることを決めたのだが、その話は後に譲り、ヤクの話に。

口述筆記と言うのは、師匠が口立てで作るドラマを原稿用紙に筆記する作業である。
シナリオは200字原稿用紙に書く慣わしになっていて、一時間番組で120~130枚ぐらい書く。速記のスキルなんかないから、興が乗った師匠が立ち上がり、身振り手振り、声色まで使い、お芝居入りでドラマを語り始めたら、一言一句書き写せるものではない。
その当時、師匠はTVの「荒野の素浪人」か「人形佐七」か「旗本退屈男」だったかをやっていて、どの作品だったか忘れたが、いよいよ初めて口述筆記をする時のことだった。
「仕事を始める前に、俺たちには儀式があるのだ」
そう言って、大きなクッキーの缶を開けると、中には何やらぎっしりと薬が入っているではないか。
「これは睡眠薬だ」
掌に10錠近い睡眠薬を取ると、いきなり口に放り込みバリバリかみ砕き、一気に水で飲み込んだ。
「心配するな。俺は昔はヒロポンやって、ヒロポンが禁止になってからは睡眠薬やって、今や睡眠薬の飲み過ぎで、睡眠薬を飲むと、眠くなるどころか、逆に反転現象で頭が冴えわたるのだ」
耳を疑うようなことを言い、
「さて、師匠の俺がヤクをやるのだから、弟子のお前もヤクをやらねばならん。でも、睡眠薬をやれとは言わん。1錠でころっと寝ちまうからな」
にやりと笑い、
「お前はこれを飲むのだ」
と、目の前に出されたのが、ノーシンの一包。
「こんなの飲んでもどうってことないから。ヤクのつもりで飲め。飲んだら気合を入れてやるんだ。さあ、やるぞお!」
私は頭も痛くないのに、ノーシンを何百包飲んだだろうか。口の中にいつまででも薬臭い粉が残っていて、本当に勘弁して欲しかったけど絶対に許してはくれなかった。
2、3年後、さすがに薬事行政もうるさくなって、いくら懇意な医者でも、無制限に睡眠薬を出すことが出来なくなり、ノーシン地獄からは解放されたのであった。
その後、私は今に至るまで、ノーシンを飲んだことはありません。




次回予告「ヒロポン中毒の監督が撮った映画」か「あれが三船敏郎だったとは」











猛烈な風台風らしい。ほうれん草、春菊、小松菜、カブ、辛み大根、普通の大根の芽は出そろっていて、レタスと白菜の苗は植えて1~2週間。帰郷して5年目の秋になるが、これまでこの時期に大きい台風が来たことがないので心配だ。
島根県の学校は明日の休校が早々と決まったようだ。
デイケアも休みになるのだろうか。妻は週3回、デイケアの日しか入浴できない。リフト浴だが、入浴をとても楽しみにしているので、行かせてやりたいのだが。
「俺も休めるし」(心の声)


ブログの第一回に何を書くべきかを考えたら、私をシナリオライターにしてくれた松浦健郎のことを書く他に何があるだろうかと思い至る。今の人は誰も知らないだろうが、この人は昭和の映画全盛の時代に映画脚本だけで三百数十本も書いた超多作の大作家だった。ただし、そのすべては娯楽作品である。その年のベストテンや脚本賞を受賞するような映画脚本は書いてはいない。だが、娯楽映画の世界では巨匠であり、大勢の弟子を抱えていた……そうだ。
と言うのは、私が弟子になった時(1969年の暮れ・私は22歳、師匠は51歳)は、すでにレジェンドであり、作家人生も下り坂であった。弟子も私一人、師も私を最後の弟子と愛し、「何とかして作家にしてやると」言ってくれた。そして、仕事の合間には、懐かしくも楽しかった自分の全盛時代の話を沢山語ってくれた。
紹介するのは、その聞き書きである。映画全盛時の貴重な裏話である。埋もれてしまうのは惜しい話ばかりである。師の大勢の弟子で生き残っているのは、兄弟子雪室俊一氏(サザエさん脚本の神)と私だけになってしまい、誰かが聞き書きを残さないと、師の事績が消滅してしまう。有名監督や有名脚本家だけが映画を作って来たのではない。名作映画だけが映画ではない。私は松浦健郎の名を残してあげたい。それが不肖の最後の弟子のせめてもの恩返しと思うのです。

次回予告。「おい、薬(ヤク)をやるぞ」




















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