曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

安来の市立和鋼博物館へ「安芸国吉川(きっかわ)氏と月山富田(がっさんとだ)城」長谷川博史(島根大学教授)の講演を聞きに行った。本当なら行けなかったのだが、妻が入院したので、出席できたのだ。『多胡辰敬』の小説を書き進めるためには絶対に聞きたいと思っていただけに、とても満足、充実した一日であった。
出雲でも、地方史や土地柄古代史、神話などの講演があるのだが、日曜日は妻の在宅日なので、ショートステイで不在の時以外はなかなか参加できず、いつも口惜しい思いをしていたのです。
半分以上は尼子氏が滅んだ後の話だったが、そこに至るまでの政治的経済的な解説が私にはとても役に立った。久しぶりに知的な刺激を受けて生き返ったような気がした。
講演ではあっても、人から直々に学ぶのは、本を読んで得るものとは違う。
来月、松江でも面白そうな講演がある。妻の入院が長引くならまた出かけようかと思っている。
歴史研究も日進月歩、新しい資料も発掘されるので、油断できない。
若い時、『多胡辰敬』を知り、書きたいと思ったが、東京に住んでいたこともあり、何の資料もなく、いたずらに月日が流れるばかりであった。
まだパソコンもない時代だから、論文を検索することもできなかった。
ようやく、これなら書けるかもしれないと思ったのは、講談社学術文庫で「家訓」が出版された時だった。そのなかに『辰敬』の家訓が載っていたのだ。一筋の光が差した。この講談社学術文庫はすごい本ばかりだ。売れないだろうによくぞこんな本ばかり出版していると呆れる。随分お世話になった。最近地方史関係の本も盛んに出版されるようになった。博物館や資料館もあちらこちらに出来た。
私がその中でもすぐれものだと思っているのが、広島県の北広島町が建てた「吉川元春資料館」である。今日の講演の安芸吉川氏の本拠があったところで、こんな山奥のこんな小さな町がよくぞこんなにすぐれものを作ったと感心するほどだ。いや、私は感謝している。
色々企画を工夫しているが、まだ2回しか行けてない。
安来も今日が5年ぶりの4回目か。3回は月山富田城やその周辺の取材だ。
娘が呆れている。それだけ安来に行って、足立美術館に一回も行ってないのはおかしいと。これからも足立美術館は素通りするだろう。










私の母の実家は出雲市の隣の大田市にある。大森銀山で有名なところである。出雲からは車で40分ほどの田舎で、実家の裏には岩山と言う小さな山があった。私は小学生の頃は山口県の防府市にいて、夏休みは毎年母の実家で長く過ごした。
何年生の頃だったか、大人の誰かから、「裏のお山にはお殿様が住んでいたんだよ」と言われたが、城跡らしきものは何一つない、本当に小さな山なので、子供だましのいい加減な話だと思っていた。
26、7の頃、お礼奉公が嫌になり、師匠から夜逃げして、(代々の弟子はみな夜逃げしたそうだ)息抜きに母の里へ来た時、偶然、地方史の本で、岩山城城主多胡辰敬(たこときたか)の記述を見つけた。「あの話は本当だったんだ」と吃驚した。
しかも、この武将はただ者ではなかった。
その昔、戦国武将は家訓を残したが、現存するのは、伊達、島津、北条等々みな有名な戦国大名だけである。ところが、ただ一人、地方の一武将で家訓を残した人がいた。それが多胡辰敬だったのである。
何と地元の小学生だって知っていた。郷土の誇りとして学校で教えていたのだ。
岩山城は大森銀山の守城の一つで、出雲への入り口を守る重要な位置にあり、多胡辰敬は尼子の武将として毛利の大軍の前に立ちはだかり、討ち死にしたのだ。
「ああ、そんなすごい人がいたなんて。どうして、多胡辰敬というお殿様だったんだよと教えてくれなかったんだろう」と、あの時の誰かを恨んだのであった。
調べると、この人の家訓に最初に注目したのは柳田國男だったらしい。
その時、いつかはこの人のことを書きたいと思ったのであった。








昨日は最悪の一日だった。
リハビリ病院から受け入れを断られ、漂流妻になってしまったのだ。
県立中央病院の相談員が頑張ってくれて、今日の夕方、何とか漂流先を見つけてくれたようなので、ようやく立ち直ったところである。

受け入れてもらえるものとばかり思い込んでいたので思わず耳を疑った。「どうすればいいのだ」と茫然自失。相手の言葉が耳に入らない。途端にめまいがして、吐き気までした。一瞬、めまいが再発(1年半前めまいで1週間入院、未だに薬を飲んでいる)したかと思った。話が終わったら、立っていられなくなって、廊下の長椅子に横たわった。それくらいショックだった。
リハビリを受けられず、もし妻が寝たきりになってしまったら、自宅で年取った父母と生活を共にするなんて不可能に近い。横になったまま混乱する頭で今後のことを考えていたら、個室から「う~あ~」とおばあさんの声が聞こえて来た。すると隣の部屋の我が漂流妻が、
「あの患者さんを黙らせてください」と叫び出した。
おばあさんは「う~あ~」
漂流妻は「うるさいんですけど」「う~あ~」「静かにしろ」「う~あ~」
個室前通路は時ならぬ騒ぎに。

ケアマネージャーも前回受け入れて、なぜ今回はダメなのか驚いていた。
リハ病院側の言い分は「治る見込みのない者は受け入れられない」「そういうお達しが出ている」「リハビリは1日2時間やることになっているが、痛みを訴えるので十分なリハビリが出来ない」
私にしてみれば、痛みは訴えるだろうけれど、前回だってやってくれたのだから、出来るだけでもいいからやって欲しい。完全に治ることなどは期待はしていない。出来るところまででいいのだ。
しかし、この考えはどうやら医療費の無駄遣いと決めつけられているようだ。確かに妻は手がかかる。リハビリする側にしてみれば、労ばかり多くて、効果の少ない患者だ。完全に治らない患者には金をかけるなと言うことか。これって、生きていてもしょうがない人間は殺してもいいと大勢を殺した男と根は同じような気がする。

好き好んで病人になった訳ではない。病人が一番つらい思いをしているのに救ってやれない。これからの医療現場ではこのような事が押し進められて行くのだろうなと実感した昨日であった。









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