曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

妻は脳出血で重い障害が残った。子供の頃の事は覚えているし、昔の歌謡曲はカラオケマシーンのごとく歌えるのだが、現状認識は著しく低下してしまった。すると、どういうことになるかと言うと、奇妙な会話が交わされることになる。
先日、昼食後のリンゴを剥いてやっていると、
「お前、よくこんな私で浮気しないでいられるな」
「はははは……」思わず笑ってしまった。久しぶりの名言のクリティカルヒットだ。
「そんなに世話が好きか」
自分が世話をされていることは分かっているようなのだが、なぜそういう状態になったかは分かっていない。麻痺した側の足が痛むのも骨折のせいだと思っている。
ただ困るのは、私に向かっては何を言ってもいいのだが、他人にとんでもないことを言ってしまうのだ。
その日、訪問医が来て、看護師さんに血圧を測ってもらっている時に、
「あなた、先生と出来ているでしょう」だって。
勘弁して欲しい。
その昔、歯医者に行った時は、先生にガリガリやられた後に、
「先生、今度は私がやってあげます」
「奥さん、それだけは勘弁してください」
と、笑った先生がまじまじと私の顔を覗き込み、
「面白い奥さんですねえ」
確かに陽気で元気な妻だったのです。
私はふと思った。
「この女房の協力があったら、わし、介護漫才の台本が書けるのではないか」と。










師匠が昔は映画の脚本が完成したら、撮影所の所長以下お偉方がずらりと居並ぶ前で、脚本家がシナリオを読み上げる慣わしがあったと言う。確か5社(東映、東宝、松竹、大映、日活)全部その慣習があったと言ったように思う。師匠もそうだが、どの脚本家もそれが嫌で嫌で、皆、やめて欲しかったらしい。やがてその慣わしは無くなったそうだが、このエピソードはまだ本読みがあった時代の話。
本読みの日が来た時、師匠はただの一枚も書いていなかった。思うにたぶん他の仕事で忙しかったのだろう。
師匠はどうしたか。弟子に白紙の原稿用紙二百数十枚(200字詰め)を用意させて綴じると、その白紙の原稿用紙を手に居並ぶお偉方の前に立ち、いかにも完成原稿を読むがごとく、白紙の原稿用紙を一枚一枚めくりながら、映画一本分のシナリオを即興で作ったのだそうだ。
プログラムピクチャーであるから、主役も共演者も決まっていただろうし、弟子もいてある程度のストーリーは出来ていただろう。本読みの日は迫っていたのだから、覚悟も出来ていただろうが、それにしてでもである。人間業とは思えなかった。
師匠に失望しかけていた私は、本当はやっぱりこの人はすごい人なんだと見なおしたのであった。
どこの映画会社の何と言う作品だったか、どうして聞かなかったのだろう。今となっては残念なことである。






その後、また別な村上春樹を愛する若者と知り合った。
「今、韓国の若者は困ったことになっているのです」
漢字を廃してしまったために、僅か数十年前の漢字混じりのハングルの本が読めなくなっていると言うのだ。そして、一番深刻なのは漢字を廃したために、語彙が貧しくなってしまったことだと嘆いた。言葉の豊かさを失うなんて想像するだに恐ろしい。同情を禁じ得なかった。さすがに行き過ぎと見直そうとする動きもあると言っていたが、その後どうなったのだろう。
もう一つの彼の悩みはこれも韓国ゆえのものだった。
彼の徴兵体験を聞いたのだが、それは私が映画や本で知っている旧日本軍と同じであった。非人間性、残酷さ、過酷さ。言語に絶するものがあった。彼はちょうど男の子が生まれたばかりだった。
「私はこの子に私が味わったような体験をさせたくないんです」
心優しい若者の目は潤んでいるように見えた。
三年前ぐらいにメールのやりとりをしたのが最後。彼の子は小学校の何年生になったのだろうか。


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