曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

私が弟子になった時、三百本以上の映画脚本を書いたと豪語する師匠の一番の自慢は、日活の6つの大ステージ全部を自分の映画が占拠していたことだった。どういう事かと言うと、その時、日活で同時に撮影されていた6本の作品すべてが自分の脚本だったのだ。この自慢話は何度も聞かされた。シナリオ作家協会の会報だったか、年鑑だったかにも書いていた。
いくら2本立ての映画が次々と封切されていた映画全盛期の時代とはいえ、想像もつかない話で「はあ~」と間抜けな声をあげて驚くしかなかった。すると、師匠は「どうして俺がこんなにたくさんの脚本を書くことが出来たかわかるか?」と、何やらいたずらっぽい目をして訊く。首を振ると、「俺は一本の脚本を7回使うんだ」
師匠の言葉を正確には再現できないので、私流に要約するとこう言うことだ。
『東映で時代劇を書いたら、同じ脚本をもとにして日活の現代劇を書く。次にその脚本をもとに大映の時代劇にする……。時代劇にも、股旅物や人情物、捕り物帖などのがある。現代劇も青春ドラマやサラリーマン物やヤクザ物、無国籍アクション物がある。ジャンルを変え、同じジャンルの物は書かない。男の主人公を女にしたり、二人主人公の物は三人に増やしたりする。こうして次々と変えて行くと、7本目の映画は1本目の映画とは似ても似つかぬ映画になる』
「絶対に分からんが、ま、7本が限度だな。曽田よ、こうでもしなきゃ、三百本以上も書けるもんか」と、うそぶきニヤッと笑った。
しかし、師匠はこうも言った。
「俺は弟子が書いた物をそのまま使ったことは一度もない。弟子が書いた脚本は横へ置いておくだけで見もしないのだ。最後は全部俺が口述するんだ」
この人はやはり尊敬すべき人なのだ……でも、7回使いまわすのはやり過ぎでは……私は悩んだ。
と、言うのは、私が弟子入りした時、前にも書いたが、師匠はシナリオを書くのが嫌になっていて、TVの「荒野の素浪人」も「非情のライセンス」もいざストーリーを考える段になると、「おい、あの本を出せ」と、私に山積みの映画脚本の中から古い脚本を出させ、それをもとに考えるのがお決まりだったのだ。
「これでシナリオの勉強になるのかなあ」
複雑な気持ちの弟子であった。
その6つの大ステージがあった日活撮影所もずいぶん昔に広大なライオンズマンションに変わってしまった。






吉川元春館を見て感じるのは、北広島町の吉川氏へ寄せる限りなき愛である。
吉川氏は鎌倉時代、駿河の国から大朝と呼ばれる当地へ送り込まれた御家人である。これを西遷御家人と言う。室町時代には安芸北部を支配した。応仁の乱では西軍に属し、手柄を挙げ、鬼吉川と呼ばれた。
尼子経久の妻は吉川氏の女であった。毛利元就も吉川氏から妻を迎えた。
毛利元就はさらに、三本の矢で有名な三人の子の次男の妻をこれまた吉川氏から迎えた。この次男が吉川氏を継いだ吉川元春である。
尼子が滅んだ後、吉川元春は大朝を去り、月山富田城に移ると、その後、吉川氏が大朝に戻ることはなかった。毛利も関が原で敗れ、吉川氏は岩国藩へ移ったのである。
その数百年後、北広島町は吉川元春の遺構を保存し、遺物を展示し、この時代の生活を再現する施設を作った。ここへ来れば、衣食住のすべてがわかる。手作り展示のほのぼのとした温かさが伝わって来るのだ。元春が生きた時代を感じてほしいと言う気持ちが溢れている。
私は「多胡辰敬」を書いているが、時代が重なっているので、とても勉強になっている。車で2時間だから、家庭の事情が許せばいつでも行ける。帰りには温泉津(ゆのつ)の湯で一休みする。
広島県と島根県の県境の辺鄙な所だが、そんな辺鄙な所に一時代を築いた人たちがいたことを、いま現在過疎化に負けず、伝えようとしている人たちがいることを知って欲しい。
余談だが、歌手の吉川晃司は吉川氏の末裔だそうだが、どうなんだろう?吉川一族もたくさんいるからなあ。
ところで、多胡氏も先祖は西遷御家人です。関東から鎌倉時代に出雲に移って来たらしい。群馬県に多胡郡という郡名があるから、恐らくそのあたりの武士だったのだろうと私は思っている。







安来の市立和鋼博物館へ「安芸国吉川(きっかわ)氏と月山富田(がっさんとだ)城」長谷川博史(島根大学教授)の講演を聞きに行った。本当なら行けなかったのだが、妻が入院したので、出席できたのだ。『多胡辰敬』の小説を書き進めるためには絶対に聞きたいと思っていただけに、とても満足、充実した一日であった。
出雲でも、地方史や土地柄古代史、神話などの講演があるのだが、日曜日は妻の在宅日なので、ショートステイで不在の時以外はなかなか参加できず、いつも口惜しい思いをしていたのです。
半分以上は尼子氏が滅んだ後の話だったが、そこに至るまでの政治的経済的な解説が私にはとても役に立った。久しぶりに知的な刺激を受けて生き返ったような気がした。
講演ではあっても、人から直々に学ぶのは、本を読んで得るものとは違う。
来月、松江でも面白そうな講演がある。妻の入院が長引くならまた出かけようかと思っている。
歴史研究も日進月歩、新しい資料も発掘されるので、油断できない。
若い時、『多胡辰敬』を知り、書きたいと思ったが、東京に住んでいたこともあり、何の資料もなく、いたずらに月日が流れるばかりであった。
まだパソコンもない時代だから、論文を検索することもできなかった。
ようやく、これなら書けるかもしれないと思ったのは、講談社学術文庫で「家訓」が出版された時だった。そのなかに『辰敬』の家訓が載っていたのだ。一筋の光が差した。この講談社学術文庫はすごい本ばかりだ。売れないだろうによくぞこんな本ばかり出版していると呆れる。随分お世話になった。最近地方史関係の本も盛んに出版されるようになった。博物館や資料館もあちらこちらに出来た。
私がその中でもすぐれものだと思っているのが、広島県の北広島町が建てた「吉川元春資料館」である。今日の講演の安芸吉川氏の本拠があったところで、こんな山奥のこんな小さな町がよくぞこんなにすぐれものを作ったと感心するほどだ。いや、私は感謝している。
色々企画を工夫しているが、まだ2回しか行けてない。
安来も今日が5年ぶりの4回目か。3回は月山富田城やその周辺の取材だ。
娘が呆れている。それだけ安来に行って、足立美術館に一回も行ってないのはおかしいと。これからも足立美術館は素通りするだろう。










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