曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

友人に「『漂流妻』はなかなかいい題だね」と言われて、「キャッチーな題をつけようと思って一応考えたからね」と自慢したのだが、それどころではなくなって来た。
漂流の果てに難破しかねない状況になって来たのだ。
転院先の病院がいつ空くか分からなくなったのだ。まさかこんなことになるとは。12月に入れば転院できるだろうと高を食っていた。
先が決まらない患者をいつまでも置いておくわけには行かないのが今の病院である。主治医は腰の痛みも引いたし、車いすにも乗れるようになったから、退院を考えて欲しいと言う。
良くなったのなら退院するが、私が望んでいるのは車椅子でデイケアに通えるぐらいに回復してくれることである。そのために転院して、その後2カ月リハビリを受けたいのである。
退院したけれど、デイケアに通うのは無理ですとなると介護の方針が根底から覆る。
『漂流妻』なんてふざけたタイトルをつけたから『難破』する羽目になったのではないかと、今ではこのタイトルをつけたことを後悔している。
そこで『救助』を頼むとしたら、もうケアマネージャーしかいない。
ケアマネジャーはこうなることもあろうかと色々なケースを考えてくれていたので、とりあえず転院先の病院が空かない場合は、今の病院を退院して2週間のショートステイに行く。
そうこうしている間に病院が空けばいいのだが、空かない場合は2月からのロングステイを確保してくれている。
1月はどうするのかと言われるが、最悪のケースでも、2月のロングステイが決まっていれば1ヶ月ぐらいは頑張ってしのげるだろう。なんとかなるさでやってゆくしかない。深刻に考えてもしょうがない。あらためてそれが介護の心得ではないかと自分に言い聞かせる。
ところで、前に越冬隊のことを書いたが、聞くところによると、この越冬隊もなかなか大変らしい。地区ごとに割り当て人数が決まっているので、希望すれば誰でも越冬隊になれるわけではないらしい。同じ介護度の人でも、A地区の人は越冬隊になれてもB地区の人はなれないと言うような事が起きるのは想像に難くない。
私たちも年を取った時の事を考えておかないと……。








私が中学1年生だったと思う。新聞で松本清張の「砂の器」の連載が始まった。
それまで新聞小説など読んだことなかったのに、なぜか毎日読み始めた。
殺された男がズーズー弁を喋っていたことと地名らしき単語を話していたことを手掛かりに、刑事は被害者の出身地を割り出すため、東北地方に捜査に出かける。
私はその時点で、「あっ、この男の出身地は出雲だな」とすぐにわかった。なぜなら私の田舎は出雲であり、出雲もズーズー弁だったからだ。私はサラリーマンの息子で、生まれてから大阪→山口→東京と転校を続けたから、出雲では育っていない。
だが、夏休みは出雲の父の実家と石見の母の実家で過ごしたから、ズーズー弁にはなじみがあった。
子供の頃はズーズー弁に迎えられると、とんでもないド田舎に来たものだと思ったものだ。母の実家のある石見の方言が、共通の単語もあるのに、ずいぶん耳ざわりが良く、分かりやすく聞こえた。
刑事はいつまでたっても「出雲」に気がつかない。「いつになったら気がつくのだろう」私はイライラしながら読んだものだ。
どうして、こんなことを思い出したかと言うと、来年の正月明けから、連載しようとしている「多胡辰敬」の小説を見直しているのだが、その中で出雲弁を使う場面があるからだ。
生まれ育っていないので、いま一つ出雲弁の味が出ない。親父に聞けばいいと気楽に考えていたが、「難しく考えることはないから」と言っても、親父は「わからん、わからん」と言う。
誰に指南を仰ごうかいま思案中である。
何しろ、私は帰郷して5年目になるが、未だに「だんだん」が言えない。NHKの朝のTV小説「だんだん」で「ありがとう」の意味であることが知られたと思うが、その場に臨むとどうしても「ありがとう」と言ってしまう。「だんだん」と言おうとすると、口が強張るのが分かる。いつになったら自然に「だんだん」と言えるようになるのだろうか。










無給でどうやって生きていたかを書いておきます。
場所は池尻。今でこそお洒落な所らしいですが、その頃は排気ガスもうもうの246から少し入った食糧学院の側。大家さんが2階に建て増しした二室の内の一つ。
師匠のマンションは靖国神社の近く。最寄駅は飯田橋。
毎朝11時に出勤。書斎の掃除して、しばらくすると師匠が起きて来て、朝昼兼ねた食事。2時ごろから6時まで書斎で2人きりでぐたぐた。昼間は仕事する雰囲気は皆無。ほとんど無駄話で過ごす。6時になったら私は夕食。神楽坂まで出て行き、坂の入り口にあった蕎麦屋でかつ煮定食。もちろん自腹。金がなくなると、坂には上らず、近くの立ち食いそば屋ですます。
夜の11時になったら帰宅。週休二日の時代ではないから、休みは日曜だけ。
最初の二、三ヶ月は本を売って食いつなぐ。大学入ってから、入った学部を間違えたんじゃないかと思うくらい本ばかり読んでいた。バイト代も殆ど本代だったから高い本もあったのだ。売れる本がなくなると、質屋のお世話に。この質屋にはお世話になった。信用が出来て、最後は壊れたラジカセで1000円借りていた。ガラスにヒビが入った腕時計でも1000円貸してくれた。ラジカセも腕時計も何度質屋の暖簾をくぐったか。
当然、こんな状況では食っていけないが、よくしたもので締め切りが迫ると、泊まり込みが続いた。朝の5時頃寝て、夕方起きる生活になるので、師匠と同じものを食べさせて貰えた。泊まっている間は一銭もかからない。
だが、これが、一ヵ月続いた時にはさすがに参った。2DKの書斎に布団を敷いて寝て、起きても書斎。ほとんど監禁部屋と言って良い。外出できるのは真夜中のトイプードルの散歩だけだったのである。
いよいよ食えなくなったら、日曜日だけ日払いのバイトをした。引っ越しの手伝いやトラックの助手だったが、トラックの助手は辛かった。一升瓶の6本ケースを大型トラックの荷台一杯に積み込むのだが、死ぬかと思った。
仕事がない時は一週間ぐらいバイトさせてもらいたかったが、師匠は仕事がなくても毎朝11時に来させて、夜の11時まで側に居させた。仕事のあるなしにかかわらず、常に師の側に居るのが弟子と思っていたのだろう。
部屋代も滞納が続き、大家さんに6畳の部屋から強制的に4畳半に移された。それでも滞納は続いた。だが、出て行けとは言わなかったから、いい大家さんだった。
こんな状態だから、友達や親や妹達にも迷惑を一杯かけた。
今になって、94歳の父と89歳の母に申し訳ないことをしたなあと思う。
だが、間違ったことをしたとは思いたくない。もしそう思ったら、今度は師匠に対して申し訳が立たない。こき使ってくれたけど、可愛がってくれた。私は師匠と出会って良かったと思っているのだから。あんな人とはなかなか出会えるものではない。







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