曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

3月17日に行われた都立豊多摩高校同期会&クラス会の報告は長くなるのでまずは同期会報告から。
朝3時に起きて、出雲市駅始発4:42分の特急「やくも」で岡山へ。新幹線で東京。
新宿で1:30から同期会。
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団塊世代で学年約550人で10クラスあったが、集まったのは65人。78歳がこれだけ集まれば立派なものではなかろうか。大人数ではないのでクラス別のテーブルは作らず、自由に座る。私も一緒に到着した級友と先着していた級友の席に着く。
そのテーブルにいたのが1年の時の級友Y君。最近物忘れがひどく、親しく付き合っていたわけでもないのに、名前も顔も卓球部に入っていたことも覚えていた。10年前の同期会では顔を合わせていなかったので、完全に60年ぶりだったが、「ごぶさたしています。お元気ですか」と、一瞬にして歳月を忘れた言葉をかわす。互いに78歳になった年齢のせいでもあろう。言葉には出さないけれど、お互いによくここまで生きたねと言うねぎらいがこもっていたのだと思う。
同じ世代の人間が、偶然、同じ高校で三年間共に暮らした、それぞれにとってのかけがえのない時間を噛み締める。それが同期会であり、クラス会なのだなあとしみじみと思った。愛おしい時間だった。
私もY君も1年の時はC組だった。聞けばY君たち数人は年に1回集まって会食していると言うのでビックリする。普通は卒業年のクラスで集まるのに、1年生の時のクラス会をしているなんて。
Y君が声を掛けるからよかったら来ませんかとお誘いを受けたので、心を動かされる。久しぶりに上京したら、出雲にばかり引っ込んでいてはいけないと思った。都合がついて、何よりも健康であればいいのだが。
Y君は私の本を読んでくれている。

その後、サッカー部の仲間二人とも会う。一人は10年前に会ったが、もう一人は卒後60年ぶり。
会った瞬間から、部室のような会話が弾む。
私にはサッカー部で一番仲の良かったGKの友達O君がいた。その彼が死んでいたことを知ったのは今から何十年前のことだろう。高校の名簿で知ったのだが、何歳の時に、病気なのか事故で死んだのか、皆目わからず、ずっと気になっていたのだ。
一人が知っていた。何とO君は心臓が悪かったことを教えてくれる。彼は一年の時同じクラスだったので知っていたのだが、O君が内緒にしていたので自分も黙っていたようだ。
ショックだった。あのO君が心臓が悪かったとは。都立高校のGKとしてはとてもうまい奴だった。
O君がGKをやる時のシュート練習はとても楽しく蹴り甲斐があった。
だが夏の練習でばてた時、先輩のコーチから「さぼっている」と言われて、とても悔しがっていたと知らされ胸が痛くなった。そもそもGKがフィールドプレーヤーと同じように走れるはずがないのに。しかも彼は心臓が悪かったのに。病名はわからず、何歳の時かもわからないが、若い時に心臓の病でなくなったらしい。二浪して東工大に入った頑張り屋だったのに。
思い出が二つある。
その一つ。豊多摩のサッカー部の不文律として、2年までサイドハーフをした者は3年になったらフルバックにされた。当時はボランチなんて言葉はまだない、オールドサッカーの時代で、フルバックなんて一番後ろでただ守るだけのポジションで、面白くもなんともない。不貞腐れてやっていたのだが、ある試合でたまたまGKの前で不規則バウンドしたボールがGKの頭を越えたことがあった。誰もが一点を覚悟した時、なぜか私が猛然と駆け込み、寸前のところでクリアーしたことがあったのだ。
試合後、Oが感謝して言った。「曽田の戻りが早いので安心して守れる」と。その瞬間、私は無性に嬉しくなった。それ以来、私はフルバックに徹したのだ。Oを助けるために。
もう一つは、全国的に学園紛争が広がり始めた頃だったろうか、Oの親が横浜に家を建てたので、新居に呼ばれた。眺めのいい部屋でレコードを聴いたのが最後の思い出となった。
辛い話だったが嬉しい話もあった。
私が完全に忘れていたことだった。これもサッカーの試合中の話。
二人は体を壊したので途中で退部したのだが、ある時、私たちの試合を見学に来たことがあった。
その時、私がハーフウエイ付近から矢のような超ロングシュートを放ったと言うのだ。「すげえ」とみんながビックリしたと言うが、私は覚えていないのだ。でも、言われてみれば、私はたまに無謀ともいえるロングシュートを蹴ることがあったのだ。フルバックの欲求不満がそういうプレーを発作的にさせていたのだと思う。
その時、相手のチームのコーチが、「今のキックは代表級のキックだぞ」と言っていたのを、退部した元部員が聞いていて、その話をしてくれたのだ。
これは文句なしに嬉しかった。
出雲に帰ると、翌日遊びに来た娘にその話をして自慢した。サッカー部では「曽田の馬鹿蹴り」は有名だったんだぞと。

クラス会の話は明日。

【追記】
なんとブログを読んだY君から、O君とは2年、3年と同じクラスだったと知らせて来た。そうとは知らず同じテーブルにいて談笑していたのだ。やんぬるかな。Y君もクラスメイトから聞いた話だが、亡くなったのは昭和64年1月6日。昭和天皇崩御の前日と教えてくれた。
その瞬間、天皇崩御の日の光景が鮮明に蘇った。実は母方の祖母が上京していて、窓際の明るい部屋で涙を流して泣いていたのだ。「あなたたちにはわからないだろうけど、私らにとってはとても悲しくてね」と。慰めようにも何と言って言いやらわからず、ただ黙って眺めているしかなかった私だったのである。祖母に孫の顔を見せに連れて行った時のことだったと思う。
祖母が子供のように泣いていた、あの日の前日にO君が亡くなっていたとは。まだ41歳だったとは。
過ぎ去った歳月の長さに声もなく佇む。それはそうだろう。戦後昭和に生まれ、昭和とともに去って行ったのだから。こんなに昭和を遠く感じたのも初めてだった。ずっと彼のことを考えているがまだしばらくは言葉がまとまらない。
Y君がO君はスポーツ万能で余計なことは言わず、寡黙で男ならだれでも惚れる男だったと言ってくれている。今はしみじみその言葉を噛み締めている。

高校を卒業して60年のクラス会が4月18日に東京で行われる。前回は卒業して50年のクラス会があり、あの時は「これが最後のクラス会だろう」と思っていたのに、60年とは!案内が来たときは目を疑い、次に思ったのは「よくぞやってくれた」との感謝の気持ちだった。
前回も今回も学年の同期会があり、それに合わせてクラス会を開いてくれたのだ。幹事はSさん、前回は男性幹事M君と女性幹事Sさんが手分けしてやってくれたのだが、その後M君が病没し、今回はSさんが何から何まで全部一人でやってくれた。何度も来るメールを見るだけでどれだけ大変か分かる。彼女は同期会にもクラス代表でかかわっているのだから。
同期会に参加しても全部が全部クラス会をする訳ではないから、本当にありがたい。
考えても見てほしい。一口に60年と言うけれど、確かに光陰矢の如しであっと言う間だったが、その1年1年の積み重ねを振り返ったら、それは途方もない時間の流れである。
都立豊多摩高校の二年生と三年生の二年間、一緒のクラスだったクラスメートと卒業して60年後に会うことなど、18歳の私たちは誰も考えていなかったと思う。
それを会いたいと思って来てくれるのが、男12名、女3名。高校時代、全員が友達だった訳ではない。私の一番仲の良かった級友は今回は一人も来ない。理由は分からない。私もメールも出さなければ電話もしなかった。78歳だから、理由もいろいろあるだろう。級友からも問い合わせはなかった。
三人の女性の中には高校時代ほとんど口をきいたことがない人もいる。私たちのクラスは若い頃はよくクラス会をやっていたのだが、彼女は一度も来たことがなかったはずだ。そんな彼女も来てくれる。
男もそうだ。男30何人、女10数人のクラスで、男全員と親しくしていたわけではない。そんなこと不可能だ。私はサッカーに夢中になっていた。高校時代とはすべてにおいて凝縮する時代で、友人関係も深く狭くなってゆく。でも、卒業すると自然に離れて行き、逆に、こうして何十年も経ったクラス会で出会うと、高校時代の疎遠を埋め合わせるかのようにたちまち打ち解けて行く。不思議なものだ。
いい年をして修学旅行の前の日の高校生のようだ。
それは名所観光ではなく、よき友とひと時を過ごすための旅である。
ところがその準備が出雲から行くとなると想像以上に大変だった。10年前とすかっり様変わりしていたのだ。最初は飛行機のシニア割引で安くゆこうと思っていたのだが、昔のように空港へ行って空席があったら乗れる具合には行かなかったのだ。なんだか混んでいて昔のように空席が一杯あるような雰囲気ではないのだ。今回、久々の東京なのでゆっくりしようと思ったのだが、色々あって結局1泊2日でゆくしかなく、17日の朝の飛行機の空席に賭ける訳には行かなくなったのである。飛行機も昔よりは混んでいる雰囲気。絶対安全に行くにはJRで行くしかなく、切符を予約しようとPCに向かい、特急やくもと新幹線で行こうと思ったのだが、JR西日本とJR東日本が全くの別会社になっているので、予約の方法が全然違うのだ。はじめは出雲から東京までの通しの乗車券の買い方がわからずエライ目に遭った。どうにか予約したが、最後にホテルで泡を食う。
17日の金曜の夜なんてホテルはどこも満室。しかもビジネスホテルでも新宿辺りは2万を越す。私は東横インなんて5000円くらいで泊まれると高を食っていたので愕然となる。外国人客のせいかもしれない。思えば東横インに5000円で泊まったのは、10年以上も前の熊本駅前の東横インだった。
結局、さんざん探してやっと見つけたのが南武線の東横イン南多摩で1泊8000円。
後は心配だったのが術後の経過。
今日、診察日ではなかったが、病院へ。術後水腫がまた膨らんだので診てもらったのだが、先生曰く、「半年から1年はかかることもありますからね」水は増えたり減ったりしながら、少しづつ吸い込まれて減って行くものだと言う。だから今日はもう抜き取ることはやめて、そのまま経過を診て行くことになる。薬なんてないのだ。次回診察日は5月12日。
もう一つの問題は便秘。これもヘルニア手術の影響らしいのだが、便秘になって4日目。明後日には上京するから何とかしてくれと頼むと、浣腸してくれて、酸化マグネシウムと大健中湯ではきかない時のために錠剤と飲み薬を出してくれる。これで何とか上京できそうだ。
楽しい(はずの)クラス会報告はまた後日、帰郷して。

3月16日に、左鼠径ヘルニアの手術は終わったが、実は色々と問題が起きている。
問題なく無事に終わったと思っていたのだが、数日経つと何やら調子が悪いことが起き始めた。最初に気づいたのは鼠径部の微かな膨らみ。触ったら昨日までなかったふくらみを感じたのである。気になり始めたら気になるので毎日触っていると確かに微妙に膨らんで行く。
そこでハッと思い出したのが、術後の主治医の話。
「精管の先端の細い血管が絡まってこびりついていたので切断して剥がしました。これを残しておくと膨らみのためにメッシュ(腸が飛び出している穴をふさぐための網)をうまく縫い付けることが出来なくなるからです。よくある手術で、これ単独の手術もあるぐらいですから心配ありません。メッシュもきちんと張り付けました」
と言われていたのだが、私はすぐにここが悪化したのだと思った。手術が失敗したのだと。膨らみは一気に大きくなり鼠径部に拳大にまで成長した。
4月2日が術後初めての外来の日だったが、私は待っていられないので、3月31日に外科の外来を予約する。主治医は診察日ではなかったので、別な外科の先生が診てくれたが、一目見るなり、「ああ、水がたまっているんです。よくあることなんですよ」
術後水腫と言って、腸が移動したためにお腹の中に空間が出来て、そこに水が溜まるのだそうだ。
「ちくっとするだけですから」と部分麻酔もしないで水を50ccほど抜く。
ほっておけば水は吸い込まれて消えると言われて、ほっと胸をなでおろしたが、こう言ったことが起きるならどうして一言言ってくれなかったのかと腹が立った。
だが、これで終わった訳ではない。平行してもう一つ厄介ごとが起きていたのである。
それが、便秘である。術後4日間、便が出ない。出したいのだが、術後はトイレでいきむことは厳禁なので自然に出るのを待つしかない。
5日目の3月21日に、対策をAIに聞いたら、水分を一日に1~1.5ℓとれという。白湯やお茶やコーヒー、牛乳を朝から飲みまくり、夕方、やっと5日目に便意を催すも、自然に排便できない。いきめないので、どうしたかというとトイレのお湯の洗浄水をおしりにあてた。するとその刺激で排便できたのである。しかし、水分だけでは心もとないので、
3月24日
かかりつけ医に中性脂肪の薬を貰いに行った時に、事情を話して酸化マグネシウム250㎎を出してもらう。以降、水分1.5ℓと酸化マグネシウム250㎎で過ごすが、とにかく便が硬くて辛い日々が続く。出そうだと思ってもいきめないのが辛い。
そうこうしていると4月2日の主治医による術後の初外来がある。
術後水腫はまた膨らんでいて、この日は30ccの水を吸い取る。酸化マグネシウムがきかないと先生に訴えたら、大健中湯という漢方を追加で出してくれる。
かくして酸化マグネシウムと大健中湯と水分1.5ℓ、加えてAIで便秘対策のメニューを調べて食生活の面からも対策するが、便秘は悪くなるばかり。
4月9日
主治医、診察日。術後水腫はまた膨らんでいて、今日も50cc抜く。
便秘の悪化を訴えたら、酸化マグネシウム250㎎は一番弱い、しかも朝夕だけでは効果ないと言われ、
酸化マグネシウムは朝昼夕、500㎎を服用することになる。
私は妻の介護で酸化マグネシウムは随分妻にのませたのでその威力はわかっているつもりだ。これだけのめば何とかなるのではないかと思っている。
便秘も最悪だったので、病院で便摘してもらったがそれでも出ないので、最後は浣腸してもらってやっとすっきりした。尾籠な話ですまん。多分、これで明日から心機一転できると思う。もちろん水分1.5ℓは継続する。

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