曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

出雲が梅雨入りしたのは6月4日。よそは大雨が降ったり、暑いところもあるが、出雲は大雨にはならず、それほど暑くもならない。毎日のように風があり、少し暑い日があっても風で助かっている。朝夕は肌寒いくらい。丑三つ時に寒くて目が覚め、薄いパジャマを着替えた夜もあった。
そんな6月の畑の報告。
【にんにく】
6月1日
今年は病気にもならず、いい具合に育ち、ほどよく枯れて来たので、いつもの年より早く500本のうちよく育っていそうなのを100本ほど抜いた。
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青森ニンニクらしく大きくよく育っていたので、雨に当たらないところに置いて乾かす。
6月10日
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100本のうち80本ほどの茎を切る。出来はよくてほっとしている。残りの400本も抜かないといけないのだが忙しくてその時間がない。と言うか、あまりやる気が出ない。残り300本は茎も細く、明らかに小さい物しかできていないのでやる気が出ないのだ。100本ほどが中型と大型。小さいのは今年こそ黒ニンニクにするつもり。秋の植え付け用に大型のニンニクを保存するのはもうやめた。夏が暑すぎて上手に保存できないからだ。半分以上干からびてしまう。今年から枯らすくらいならみんなに食べてもらおうと思っている。
【米】
6月7日
隣の稲の生育状況。田植えをして約一ケ月後の田圃。緑が綺麗だ。
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右)苗もひょろひょろと弱弱しかったのがしっかり増えている。隣の奥さんが三分結したと教えてくれる。これがあともう三回ほど分結して十五分結したら分結をとめるのだそうだ。奥さん曰く。欲を出してこれを16本にしたり、17本に増やしたりして収量を増やそうとすると実の育ちが悪くなるのだそうだが、どうしても欲が出て増やしたくなると笑っていた。その気持ちはわかる。
帰郷して15年。毎年田圃を見ていて、そんな話、初めて知った。
【ねぎ】
6月10日
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左)ねぎ坊主がほったらかしにしておいたら鬼のように大きくなった。出来始めたらすぐに切らないといけないのだが、忙しいのと面倒くさいので放りっぱなしにしていたのだ。そもそも植えっぱなしにしておいて何年も同じねぎを食おうと言うのが横着と言うか、百姓の風上にも置けないのだが、私は少々まずくても、毎年ねぎを植える手間を考えたらそれでいいのだ。
右)坊主を切ったら新しいねぎが伸び始めていたが、たしかにうまそうなネギではない。本当に食えるのだろうか。母も元気なころは同じことをしていたから多分食えると思うのだが。
【薩摩芋】
6月11日
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薩摩芋の畝の間に小さな花が見えるだろうか。マリーゴールドである。5月の半ばに植えた。
実は薩摩芋畑に決めたこの土中にはセンチュウが沢山いることがわかった。薩摩芋を齧ってぼろぼろにしてしまうのだ。去年は半分くらいの薩摩芋がやられてしまった。そこで今年はセンチュウに強いシルクスイートという品種の薩摩芋を植え付け、センチュウ対策にマリーゴールドをうえたのである。

実はマリーゴールドの根にはα‐ターチエニル などの殺センチュウ成分が含まれていて、センチュウが触れたり、侵入すると死んでしまうのだ。これを「根内殺線虫作用」と呼ぶ。マリーゴールドを畝端や畑全体に植えると、センチュウ密度が自然に下がるのだ。
これで秋の収穫が楽しみになった。
私は昼は芋粥にしているから芋は必需品なのだ。
ただ心配が一つある。マリーゴールドにもいろいろ種類があるあらしく、私が買った二種類のマリーゴールドが適応しているかどうかわからないのだが、同じマリーゴールドなのだから、全然きかないことはないだろうと思っている。

これからの最大の問題は雑草対策だ。6、7、8月は雑草がすごいことになる。手を抜くと畑が腰丈ほどの草原になる。想像しただけでぞっとする。毎日が草抜きになる。

近所の奥さんと「今度の演劇鑑賞会は久しぶりに肩の力を抜いて、気楽に楽しめそうだね。なんたってミュージカルだし」と、話していた。ミュージカルとは歌って踊って、そんなものだという先入観があったし、しかもドン・キホーテである。
馬も二頭、登場してドラマに絡む。その名前がロシュナンテとサンチョ。ドン・キホーテでは主人公キホーテの従者のサンチョがサンチョと言う名の馬になり、ロバのロシュナンテが馬のロシュナンテになり、擬人化されてドラマに絡むのである。面白くないわけがないと誰だって思うはずだ。
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ところが、舞台が始まると、時は1940年の第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスの田舎の村。
主人公の少女ベルは女の子でありながら、同級生の女の子が好きになって、苦しむ少女だった。挙句、それがばれて冷たい目にさらされ、差別に苦しんでいた。
それゆえベルは登校拒否し、「僕はドン・キホーテになって旅に出るんだ」と、ドン・キホーテに憧れていた。
そこへ、収容所へ送られる途中に脱走したユダヤ人の少女が逃げ込んで来る。ベルは一目見て少女が好きにる。「僕が救う」と固く誓う。
ベルの担任の女先生はドイツ将校の愛人だった過去が暴かれる。
ベルの牧場で働く若者は足が悪くて、兵士にもなれなければレジスタンスにもなれない屈折した若者。
ロシュナンテは役に立たない老馬。
サンチョは若くて調子がいいがおかまの馬。
ベルの父は登校拒否でドン・キホーテに憧れるベルに胸を痛めているが、レジスタンスも共産主義者も嫌いな男。人が憎み合い、傷つけることが嫌いなだけの男。だがそんな自分こそが一番まともな人間だと素朴に信じている。だから身の危険も顧みずユダヤ人の少女をかばう。
その小さな田舎の村で、戦争と言う過酷な時代を、さらに苛酷な時代にしているのがさまざまな差別であることが暴かれて行く。差別されているのはユダヤ人だけではない。強制収容所には障碍者も同性愛者も収容されていた。おかまの馬サンチョもドイツ軍に供出されて、挙句殺されてしまう。
ベルは誓う。「僕は女の子が好きだとみんなの前で宣言する」と、父は言う。「それは厳しいことだよ」と。だが、ベルは厳しい道を選ぶ。
ベルたちはドイツ兵に捕まった少女を逃がすと、ベルもロシュナンテと一緒にドン・キホーテとなって旅に出る。でも、これは本当に旅に出たわけではない。辛くても自分の道を行くと決めたベルの決意の心象風景を舞台で見せたのである。
その時、私ははたと、このミュージカルの題名が、『さよなら、ドン・キホーテ』であることに気が付いた。なぜ、『さよなら』なのか。なぜ、ドン・キホーテにさよならしたのか。ベルはドン・キホーテになって旅に出たのではないのか?
次の瞬間、私は悟った。ベルは確かに『ドン・キホーテ』にさよならして、『ドン・キホーテ』になって旅に出たのだ。言い換えれば『これまでのドン・キホーテ』にさよならして、『これからのドン・キホーテ』になって旅に出たのだ。時代はどんどん悪くなる。生きづらく苛酷になって行く。これまでの多くのドン・キホーテ達が見果てぬ夢を追っていた時代ではないのだ。時代はどんどん苛酷で辛くなる。そんな時代だからこそ旅に出る。少女はそういうドン・キホーテになって旅に出ると宣言したのだ。

出雲演劇鑑賞会は侮れなかった。こんな芝居を呼んで来て、たまにはお気楽な芝居でも太平楽に楽しもうかと思っていた年寄りを唸らせた。

鶴のおばあさんが亡くなった。享年90歳。
去年からみるみる気力と体力が衰え、いつもおツルさんに餌をやっていた家の近くの橋まで「来るだけでもやっとなんです」と喘ぎ、おツルさんが飛んでくる方を見ながら「今年を越えるのはもう無理なような気がするの」と、とても気弱なことを言っていた。
私もいつかはこんな日が来るのだろうなあと覚悟していたが、とうとうその日が来てしまうとは。
3月31日に入院された事だけは以前に記したが、実はその日の異常に気付いたのは私と犬の散歩友達の近所の奥さんHさんだった。偶然、犬の散歩をしていて、おばあさんの家の前で会ったのだ。
私たちは夕方なのに郵便受けから新聞が出ていることに気が付き、玄関灯も点きっぱなしに気が付いた。こんなことはこれまで一度もなかった。Hさんが窓から呼びかけたが返事がない。カーテンも閉まったまま。Hさんはすぐに鍵を取り出して玄関を開けた。Hさんはおばあさんとは付き合いが古く、鍵を預かる仲だった。だがドアにはチェーンが掛かっていて開けることができない。
Hさんが大声で叫ぶとやっと小さな声で返事があった。
「動けないんです」それだけ言うのが精一杯で様子がさっぱりわからない。Hさんは大家さんを捜しに行くので、私はHさんの犬とマルコと一緒にとどまる。しかし、Hさんはなかなか帰って来ない。おばあさんを励ますために、大家さんを探してドアを開けてもらうからもう少し待っててと伝えるだけしかできない。おばあさんも「はい」と答えるだけ。しばらくしてヘルパーさんが二人、駆け付けて来る。Hさんが連絡してくれたのだ。みんなで励ましていると、ようやく大家さんとHさんが工具をもってやって来る。
大家さんがバールの一撃でチェーンを吹っ飛ばし、ヘルパーさんが飛び込む。
ベッドで寝た切りのおばあさんの着替えをして、救急車を要請したところで、Hさんが後は任せてくれと言うので、私も夕食の支度があるので引き上げる。
翌朝、Hさんから報告。
脚の骨折が二か所あり、心臓が考えられないくらい肥大していて、4月を乗り越えることが出来るかどうかだと言う。
そんなに悪かったとは。いつどうして骨折したかはヘルパーさんもわからない。私は今年になって一度も顔を合わせていなかった。Hさんもしばらく顔をみていなかったと言う。
Hさんはよく見舞いに行き、お見舞いに鶴の大きな写真を届けたらとても喜んでいたと教えてくれた。4月を乗り越え、転院の話も出たので私は乗り越えることが出来たのかと思っていたが、一昨日、急に悪くなり、大阪から駆けつけて来た息子さんに看取られ眠るように息を引き取ったと言う。
私は昨日の夕方、散歩の帰りにおばあさんの家の玄関に手を合わせていたら、Hさんが来て家の中に居た息子さん夫婦を紹介してくれる。
息子さん夫婦はおばあさんは田舎で寂しい一人暮らしをしていると思っていたので、犬友達や鶴友達がいたことを喜んでいた。おばあさんからおツルさんに餌をやったり、写真を撮って見せてくれる人がいることは聞いていて、それが私とわかって感謝してくれた。
今日が葬式だったが家族葬で家族以外で参列したのはHさんだけ。
私は張場へ香典を届ける。Hさんはとてもやすらな顔だったと言っていたが、それを聞いたら私も最後のお別れはしたかったなあと思った。
あの人と出会わなかったら、おツルさんとも出会わなかったし、毎日のようにおツルさんに会って、餌をやり、話しかける、浮世離れした生活はできなかったのだ。
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         ↑
↑の先に、小さく白い丸い物が見える。軟式野球のボールだと思う。
今朝、おツルさんが抱卵している場所に餌をやりに行ったが、おツルさんは不在。だが、ボールを抱いていることは分かった。
夕方、餌をやりに行く。
遠くから抱卵場所を見たら、おツルさんの姿はなく、おばあさんが亡くなった報告は出来ないのかと思っていたのだが、不意に上流の方角から飛来すると、私の頭上を飛び去り、Uターンして私の前方に舞い降りると、すぐ近くまで寄って来る。
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お腹が空いていたのだろう、勢いよく食べていた。
「おばあさんが死んじゃったよ。もう会えないんだよ。寂しいね。おばあさんのまねはできないけれど、俺とマルコが来るからね。仲良くしような」
おツルさんにはわからないだろうけど、おばあさんには聞こえたような気がした。
おばあさん、あなたは本当にたいした人だったね。
あなたが餌をやっている時、おツルさんがあなたのすぐそばでうたた寝をしていたことがあったよね。
忘れられない光景でした。無償の愛情とはどんなものか教えられました。
さようなら、鶴のおばあさん。

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