曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

今日は母の日。月に一回は大好きな抹茶を飲ませてやりにグループホームに顔を出していたのだが、手術したりして行けなかったので、今日、母の日のプレゼントと女性週刊誌を届け、抹茶を飲ませてやる。
PXL_20260510_043436671.MPPXL_20260510_043226844
会いに行くたびに老いを感じさせられるが、職員は歳の割には元気ですよとなぐ覚めてくれる。確かに数えで99歳だが、午後のホールにいるのは長椅子で週刊誌を読む母と母よりは若い男性入居者2人の3人だけである。西部屋入居者の残りの5人はみな自分の部屋で休んでいる。
この施設から、母の日に寄せて何か思い出を書いてくれと頼まれたので、その時に書いた66、7年前、私が小学校5年か6年だった頃の、この年になっても忘れられない出来事を記す。
その頃我が家は山口県防府市という瀬戸内海に面した小さな都市の社宅住まいをしていた。5年生の時はまだTVはなかった。高度成長一歩手前のまだそんなに豊かではない時代だった。
ある日、母が夕食に握り寿司を作ってくれた。私は飛び上がるほどうれしかった。握り寿司はお寿司屋さんでなければ食べられない大人が食べるものと思っていたからだ。もちろん回転ずしなどない。
母は18歳で結婚した。厳しい古風な母から結婚前に徹底的に料理を教え込まれたと言っていたから、料理の腕は良かった。だから散らし寿司や巻きずしやお稲荷さんなどは作ってくれたが、握りずしは初めてだったのだ。
だが、その握りずしは今思うと可哀そうなくらいみすぼらしいものだった。なにしろネタは3種しかなかったのだ。魚はイカと何かの白身の魚だと思う。今のように赤身だのサーモンだのブリだの海老だのイクラ、ウニなどがふんだんにある時代ではなかった。
そして、3つめのネタが・・・・・・・何と、きゅうりだったのである。キュウリをイカや白身の魚にみたてて薄くスライスされたものがのっていたのだ。
私も二人の妹たちも、イカと魚ばかり食べていた。
見ると母はキュウリばかり食べていた。
小学校も高学年になれば、母が子供に美味しいものを食べさせようとしていることは分かるが、親にその行為を見せつけられるのが子供ながらにとても嫌だった。ためしにそっとキュウリの握りを口に入れたが二つ目を食べようとは思わなかった。
たまりかねて「お母ちゃんも食べたらいいのに」と言ったが、母は「こっちがいい」と言ったのか、なんと言ったか覚えていないが、その後もキュウリばかり食べ続けた。
私は母を憎らしく思ったことを覚えている。私は母がきゅうりを食べ続けることが心の負担になっていたのだ。せめて少しでもキュウリ以外のものを食べてくれたらどれだけ心が楽になったか。
その後、自宅で手巻き寿司を食べるようになるまでの長い間、我が家では握り寿司を作って食べることは一度もなかった。

今日も抹茶を立てた後、母は茶碗を私にさしだし、「あんた、飲みなさい」と言う。これはいつものことである。きょうも私に会うなり「知らない人だ」と言ったのに、抹茶を立てた時は必ず起きる押し問答である。これは母が自分が飲むために自分で立てているのだと、口を酸っぱくして言っても、「あんた、飲め」を何度も繰り返すのだ。

昨夜、AIが私に謝った。誤りを認めて謝ったのである。こんなことがあるなんてと驚いたので、そのことを報告する。
私がいま書き直している時代小説は江戸時代の物語だが、その冒頭の占いがこの作品全体を通しての象徴的意味合いを持つ重要な場面となり、占う方も占われる方もその占いの結果を待つ家族にとっても人生を賭けたものになる。

私はその場面を当時の朱子学者が行ったであろう占いの方法で可能な限り忠実に描いたつもりである。(朱子は易経を重んじたので朱子学者はみな占いをよくしたのです)
その途中の結果を本の中で、
「一変の結果は必ず五本か九本が残る」
「二変の結果は必ず四本か八本が残る」
「三変の結果は必ず四本か八本が残る」
と書いた。この内容を説明しようとすると膨大な文章になるので、かいつまんで言うと50本の筮竹の束から1本引いた49本の筮竹を無心に二分して、手順通りに筮竹を4本ずつ引いて行き、残った本数を足すと一回目の結果はどのように二分しても必ず5本か9本になるというものである。
この場合一変で5本残ったので、二変に移る場合は49本から5本を引くと、44本になる。
この44本を二分して、また同じことを繰り返すと二回目は必ず4本か8本が残る。
最後の三変に移る。この時は44本から8本を引いたので36本になった。これを二分して同じことを繰り返すと三回目も必ず4本か8本が残る。この場合は8本が残った。

と、ここまでは良かったのだが、次に陰陽を決めるに当たって、先の手順をAIで確認したら、
「一変の結果は必ず五本か九本が残る」
「二変の結果は必ず五本か九本が残る」
「三変の結果は必ず五本か九本が残る」
思わず目を疑った。そんな馬鹿なである。私は二分する時、何度もいろんな数値で試していて、間違うはずはないのだ。前回、陰陽を決めるところまでは行って老陰、少陽、少陰、老陽のうち少陽であるところまでは辿り着いているのだ。今回は清書するにあたってそれを確認しようとしただけなのだ。
三変とも全部が5本か9本残りでうまくゆくはずがなかろうと、その先を見たらたしかに一変と二変と三変の結果を足した数字は変な数字で、49から引いても少陽を表す28にはならない。ところがAIはその変な数字にわけのわからんもっともらしい補正をしたので、結果は28になって少陽になっているのだ。

茫然とするしかなかった。どっちが正しいのか。
さらにAIに問うと、4余りや8余りがなぜ誤りなのかも書いてある。何回読んでもさっぱりわからん文章なのだが。目の前が真っ暗である。ここまで調べ、ここまで書いて来て、一歩も先へ進めない。
暗澹とした夜が過ぎて行き、もうあきらめて今夜は寝ようと思い、最後にAIに「二変と三変の結果は必ず4本か8本が残ると思っていたのに」と恨み言を書いて送ったら、
画面に「思考中」の文字が浮かぶ。
今回、占いのことを聞くと時々この「思考中」が表示されるのだ。
そして、「自分の思考を見る」と表示されたので、クリックした。すると、

●自分の考えを整理し、計画を作成する。

●訂正と説明
最初の変更は5か9、2番目と3番目は4か8と言う点で混乱があったようです。
実際、2番目と3番目は4か8が正しいです。
私の以前の回答は間違ってました。
構造を簡単に説明し、必要なら表を使って説明します。

●完了

いいところに気づかれました。その理解であっています。私が前に「二変、三変も五か九」と書いたのは誤りでした。ここでいったん整理し直します。

バカヤロー


私の書きかけの本では、一変で5本、二変で8本、三変で8本残ったので、5+8+8=21 49−21=28 となり、老陰(24)少陽(28)少陰(32)老陽(36)であるから、今回の陰陽は陽(少陽)となったわけで、これで正しかったのである。

今回驚いたことは、AIがすぐに間違いを認めたことだ。間違われたら困るのだが。間違うことがあるとはcopilotも認めているが、すぐに訂正するとは思わなかった。訂正したのはいいのだが、問題なのは間違っているのに正しい答えに辿り着いたことではないだろうか。
そのことに私は驚いている。
古代から占いの方法や理論などは変遷し、数字も昔は0は存在しなかったので0の扱いも変わっている。
AIはそれらの理論や0の概念の変化を思考して、間違った前提から正しい答えを出したとしたらこれは恐ろしいことでもある。このあたりの追及となるとそもそも易に疎い私にはこれ以上は無理だ。
以前にも別なことで、AIが明らかに間違っていることがあったが無視した。これからはAIが少しでも変なことを言ったらしつこく追及しなければならないと思った。

3時間の同期会が終わったら、6階から3階のカラオケルームへ移ってのクラス会。同期会には出ないで、クラス会からの出席者が3名いて、男子12名、女子2名の14名になった。学年の最多出席数である。
ここでまた3時間の歓談はカラオケをする訳ではないのでさすがに長過ぎないかと危惧したKSさんが、
今年翻訳出版したⅠ君、3年前に論文集を出版したYSさん、そして去年「多胡辰敬」を出版した私の三人に一人20分のミニ講演会を提案してくれたので、協力することになった。それはいいのだが、I君はニュージーランドの大学で30年日本語を教えていた歴とした大学教授。KSさんは文学博士で6つの大学で講師歴があり、講義や講演には慣れているが、私は人前で講義も講演もしたことがない。いくら級友相手でもびびってしまい、最後におまけのようにちょこっとやらせてもらうことにした。
トップバッターはⅠ君。
『1918年のインフルエンザパンデミック・ニュージーランドの経験から学ぶ』の紹介。
PXL_20260423_010559759PXL_20260423_010620952
これは1918年にニュージーランドでインフルエンザが猛威を振るった時の対策を、コロナ対策などに活かそうと翻訳したもの。
PXL_20260423_010656296PXL_20260423_010734856
左)Encounters between  New Zealand and Japan
これは両国の出会いを寄せた文集でI君が30人の文章を日本で一人でまとめた文集。もちろん英語なので私には読めない。
右)『明治時代のお雇いドイツ人教師であった二人のデルブリュック(兄弟)の日本遠征中の書簡集(1887年~1889年)
これはドイツ語の翻訳である。
彼は初めは東北大学の理学部へ行き、大学院は広島大学で180度違う歴史を学んで、ニュージーランドへ留学。ニュージーランドやオーストラリアで学び続け、ニュージーランドで大学教授になるチャンスを得たと言う。みんな、その破天荒な経歴に驚いていた。だが、彼は一つだけ言わないことがあった。それは受勲していたことである。日本とニュージーランドの交流に尽くしたので勲章をもらっているのだ。もちろんクラスでは彼一人である。そういう床しいところがある男なのだ。
二番目はYSさん。
演題は「源氏物語」と現代。
明治以降、現代に至る〈近代社会〉と呼ばれる歴史的時間の中で私たちの何が失われたのかをわかりやすく話してくれた。
PXL_20260423_011043203.MP
この論文集からの引用もあったのだが、私はクラス会の前にこの本の存在を知ったので、少しだけ読んでいた。書下ろしも含めて15本の論文が収まっているから読みごたえはある。鼠径ヘルニアの手術を受け、予後が思わしくなくて相変わらず進度は遅いが読み通そうと思っている。
書名がいい。『少女たちの〈居場所〉』
帯がいい。「大人になるのは嫌やなこと」(「たけくらべ」)
この声のゆくえを日本文学の中に探る。
少女について、この社会が擁する言葉は実に少ない。だから少女は、憂鬱の宝庫である。(「あとがきより」)

YSさんは始める前に自分の子供時代のことを語った。この本を読んでいた私は、彼女は子供の時から「居場所」のない人だったことを知った。途端にこの本が身近なものになった。少しでも読んでいてよかったと思った。
高校時代、サッカー馬鹿だった私は源氏物語は教科書しか読んでいなかった。みんな、結構読んでいて質問したり、疑問を投げかけたりしていた。私たちの友達はみな優秀だったのだと思った。

そして、最後は私。内容紹介を作っていたので、それを補足する形で私に関する限り、難しい話は一切なし。嬉しかったのはその後だった。なんとKSさんは私たち三人のために寄せ書きを用意していて、みんなに回してくれたのだ。何という心遣いだろう。嬉しかった。KSさんをはじめみんなにありがとうと頭を下げた。
出雲に戻ったら、真っ先に仏壇に供えた。そして妻の位牌に報告した。
PXL_20260420_055231710
「どうだ、いいクラスだろう」と。

↑このページのトップヘ