曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

3月16日に、左鼠径ヘルニアの手術は終わったが、実は色々と問題が起きている。
問題なく無事に終わったと思っていたのだが、数日経つと何やら調子が悪いことが起き始めた。最初に気づいたのは鼠径部の微かな膨らみ。触ったら昨日までなかったふくらみを感じたのである。気になり始めたら気になるので毎日触っていると確かに微妙に膨らんで行く。
そこでハッと思い出したのが、術後の主治医の話。
「精管の先端の細い血管が絡まってこびりついていたので切断して剥がしました。これを残しておくと膨らみのためにメッシュ(腸が飛び出している穴をふさぐための網)をうまく縫い付けることが出来なくなるからです。よくある手術で、これ単独の手術もあるぐらいですから心配ありません。メッシュもきちんと張り付けました」
と言われていたのだが、私はすぐにここが悪化したのだと思った。手術が失敗したのだと。膨らみは一気に大きくなり鼠径部に拳大にまで成長した。
4月2日が術後初めての外来の日だったが、私は待っていられないので、3月31日に外科の外来を予約する。主治医は診察日ではなかったので、別な外科の先生が診てくれたが、一目見るなり、「ああ、水がたまっているんです。よくあることなんですよ」
術後水腫と言って、腸が移動したためにお腹の中に空間が出来て、そこに水が溜まるのだそうだ。
「ちくっとするだけですから」と部分麻酔もしないで水を50ccほど抜く。
ほっておけば水は吸い込まれて消えると言われて、ほっと胸をなでおろしたが、こう言ったことが起きるならどうして一言言ってくれなかったのかと腹が立った。
だが、これで終わった訳ではない。平行してもう一つ厄介ごとが起きていたのである。
それが、便秘である。術後4日間、便が出ない。出したいのだが、術後はトイレでいきむことは厳禁なので自然に出るのを待つしかない。
5日目の3月21日に、対策をAIに聞いたら、水分を一日に1~1.5ℓとれという。白湯やお茶やコーヒー、牛乳を朝から飲みまくり、夕方、やっと5日目に便意を催すも、自然に排便できない。いきめないので、どうしたかというとトイレのお湯の洗浄水をおしりにあてた。するとその刺激で排便できたのである。しかし、水分だけでは心もとないので、
3月24日
かかりつけ医に中性脂肪の薬を貰いに行った時に、事情を話して酸化マグネシウム250㎎を出してもらう。以降、水分1.5ℓと酸化マグネシウム250㎎で過ごすが、とにかく便が硬くて辛い日々が続く。出そうだと思ってもいきめないのが辛い。
そうこうしていると4月2日の主治医による術後の初外来がある。
術後水腫はまた膨らんでいて、この日は30ccの水を吸い取る。酸化マグネシウムがきかないと先生に訴えたら、大健中湯という漢方を追加で出してくれる。
かくして酸化マグネシウムと大健中湯と水分1.5ℓ、加えてAIで便秘対策のメニューを調べて食生活の面からも対策するが、便秘は悪くなるばかり。
4月9日
主治医、診察日。術後水腫はまた膨らんでいて、今日も50cc抜く。
便秘の悪化を訴えたら、酸化マグネシウム250㎎は一番弱い、しかも朝夕だけでは効果ないと言われ、
酸化マグネシウムは朝昼夕、500㎎を服用することになる。
私は妻の介護で酸化マグネシウムは随分妻にのませたのでその威力はわかっているつもりだ。これだけのめば何とかなるのではないかと思っている。
便秘も最悪だったので、病院で便摘してもらったがそれでも出ないので、最後は浣腸してもらってやっとすっきりした。尾籠な話ですまん。多分、これで明日から心機一転できると思う。もちろん水分1.5ℓは継続する。

今年の桜を追跡しようと思って、いつもの散歩コースの川沿いの桜の一本を私の標本木にした。
3月26日
PXL_20260325_230819723.MPPXL_20260326_221056394
ようやくつぼみがふくらみ出した。数本並ぶ桜の一番手前の木である。
3月27日に松江で開花するが、こちらはまだつぼみがふくらみかけたがなかなか開花しない。
3月29日
PXL_20260329_222428381PXL_20260329_222456876
ようやく開花するも満開には程遠い。
3月30日
PXL_20260330_222517311.MPPXL_20260330_222453896
花はすこしふえるが、満開には遠い。
3月31日に松江では満開になったというのに。
この日の夕方、鶴のおばあさんが救急車で運ばれる。年が明けてから一度も会っていない。だいぶ弱っているとは聞いていたのだが。
4月1日
娘が孫と斐伊川土手の花見に行こうと言うので娘の車に同乗して斐伊川土手へ行く。
PXL_20260401_015935695.PORTRAIT.ORIGINALPXL_20260401_015828625.PORTRAIT.ORIGINAL
奥出雲の雲南市の入り口、木次(きすき)線の木次駅のすぐ前が斐伊川土手の桜並木のスタート地点。
PXL_20260401_014329021PXL_20260401_014950872.PORTRAIT.ORIGINAL
斐伊川土手は満開。出雲でも有名な桜の名所だが、今日は天気が悪く、寒くて途中で雨も降り出し、人出は嘘のように少ない。車椅子で孫を抱いた娘の隣に立っているのが同行してくれたブラジル人のヘルパーさんのFさん。ご主人が日系でこの女性は純粋なブラジル人。私がヘルニア術後で車椅子を車に積み下ろしできないので来てくれたのだ。ちゃんと仕事に就いて働きたいと言うので、娘と二人三脚で、ポルトガル語の通訳の力も借りて、勉強して資格をとり、ヘルパーになったのだ。日本語もうまく、勉強家でとてもいい人なのである。毎年、ここは見物客で埋まるがこの日は閑散。雨も強くなり、寒いので這う這うの体で引き上げ、娘の家で昼ご飯を食べる。
PXL_20260401_225256552PXL_20260404_223159572
4月1日
同じ日の夕方。斐伊川土手の桜と比べたら天と地の違い。私の標本木は右の写真の一番右端。実はこれで4分咲き程度。一番左端の木だけが7分咲き程度になっている。それ以外の木は4分から6分程度。我が家のあたりでもみなそろそろ満開になりそうなのに、ここの10本だけはやけに遅い。その中でも私が選んだ標本木だけが遅いのだ。
ツルのおばあさんの家は奥から二番目の家。今年は桜を見ることは出来ない。
4月5日
PXL_20260405_032838999.MP
我が家の池のそばで見つけた羽化できなかったオニヤンマ。昨夜の春の嵐で吹き飛ばされてうまく羽化できなかったのだ。せっかくここまで育ったのに。我が家の池はギンヤンマの宝庫だったが、オニヤンマも卵を産んでいたことを初めて知る。
4月6日
PXL_20260406_071638322
花が半分程度しか咲かない。よく見ると枝の半分くらいはつぼみが全然大きくなっていないことに気が付く。固く閉じたまま。病気なのかもしれない。ここの10本のうち、半分くらいは満開になったのに、私の標本木をふくめた半分ほどの勢いがない。このあたりのほかの桜はとっくに満開になって明日にも散りそうな勢いで咲き誇っているのに。ここの桜だけが勢いがない。ここは川沿いで寒いので桜は毎年遅い傾向があるのだが、今年ほどはひどくなかったのに。
寂しい桜の季節になってしまった。
鶴のおばあさんの具合はよくないらしい。
【追記】
4月9日。花冷え。
PXL_20260408_230157505PXL_20260408_230347366
川側と道路側から見た光景。一番手前から4本目あたりの桜の咲き方が極端に悪い。一番奥の木は満開。町内のほかの桜は全部満開で、ちらほら花びらがひらひら舞い落ち始めているのに。去年は全部の木が満開で母と見物したことを思い出す。どうしてこんなことになったのか?恐らく植えっぱなしで誰も世話をしていなかったから何らかの原因で木が弱ってしまったのだろう。この調子では来年はもっと悪くなるだろう。夜、外は大雨。雷もなっている。今夜は花散らしの雨。帰郷して15年、毎年愛でていた桜も今年で終わりかと思うと寂しい春である。

ようやく多胡辰敬に出版報告に行く。場所は大田市久手町の辰敬ゆかりの円光寺。ここには県の有形文化財の辰敬坐像の掛け軸がある。実はこれまで観たことがなく、この機会に拝観するのも目的の一つだったのである。辰敬の菩提寺とか創建したとか言われているが、私は岩山城の近くから移築したと思っている。
PXL_20260330_042903523 (1)PXL_20260330_042823451.MP
左)国道9号(山陰道)の道の駅ロード銀山から見た岩山。
右)その正面に見える円光寺。
PXL_20260330_052445844
円光寺の山門。
PXL_20260330_050245124PXL_20260330_050252627.MP
辰敬坐像。島根県の有形文化財である。これは複製で本物は県の博物館に預けて保存してもらっている。ガラス板に光が反射して見えにくい。字が薄れて読みにく惟高(いこう)妙安という戦国出雲では有名な相国寺の高僧の賛がある。日付は天文22年とあるが、その年に妙安が出雲で書いた訳ではない。そもそも絵と賛が同じ時に書かれることはほぼない。天文22年と言えば、辰敬が岩山城で自害する9年前である。辰敬も60ぐらいのはずだ。この絵はいかにも若すぎる。妙安も天文9年ごろに京都の相国寺に戻っているはずだ。思うに辰敬が若い時の絵を京都の妙安に送って賛を入れてもらったのではなかろうか。
出版の挨拶文と本を数冊持参して、和尚さんに渡し、地元の人たちへの宣伝をお願いする。和尚さん、快く聞いてくれる。
そりゃあ本は多くの人に読んでもらえたら嬉しいが、私は一番に地元の人に読んでもらいたいのだ。そして、もっともっと辰敬を知ってもらいたいと思っている。正確には家訓ではないが、辰敬家訓と言うものを読んでもらいたいと思っている。極論すれば自分の本より、辰敬家訓を読んでもらいたいとさえ思っている。なぜなら、辰敬家訓には辰敬の肉声が詰まっているから。この人の肉声を聞いたら、400何十年も前の武士の声を聞いたら、きっと心を動かされるものがあると思っている。温かいよ。優しいよ。そして、今の人にも通じるくらい合理的な考えをする人なんだよ。私はこの人の家訓を宣伝するために小説を書いたのではないかと今になって思っている。
この後、近くまで来たのので母の実家へ行く。マルコはいつもいっしょ。
PXL_20260330_043640098PXL_20260330_052244214.MP
左)円光寺の前の道を岩山の方へ行くと、すぐ近くに刺鹿(さつか)神社がある。小学生の頃、夏休みになると母の実家でまるまる一月過ごした。石見神楽の大蛇(おろち)退治を観たのを今も覚えている。この神社の向こう側に大田方面からの山陰道(昔の)が伸びている。
右)これが昔の山陰道。電信柱の方が山陰道。私が小学生の頃はもっと細かった。山陰道はここから左(岩山方向)へ曲がる。
高速道路が出来て風景が一変した。
PXL_20260330_044246766PXL_20260330_044218772左)高速道路の下をくぐると江谷川にぶつかる。左におそらく辰敬の屋敷があったと思われる。母の実家はこの屋敷跡にいつの頃からか、どこかから移って来たものらしい。
右)橋を渡ると、旧山陰道はすぐに岩山にぶつかり左折する。
PXL_20260330_044340791
旧山陰道は高速道路が出来るまでは岩山のやますそを現在の国道9号方面へ延びていたのだが、高速道路に断ち切られてしまった。この道が旧山陰道だったことなんてすぐに忘れられてしまうだろう。辰敬が自害して今年で464年目。ここまで毛利の大軍が来たなんて、小説を書いた本人さえ信じられない。円光寺の辰敬坐像は何を思っているのだろう。

↑このページのトップヘ