曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

タグ:日本史

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3月18日。荒神谷博物館の『風土記談義』の一年が終了し、皆勤賞と精勤賞の表彰がある。精勤賞は一回休んだ人が貰う。
私は昨秋、特養の行事で一回休みがあり、皆勤賞はならず。無念であった。
去年は皆勤賞も精勤賞も10人いなかったのに、今年は皆勤賞が22人、精勤賞も17人と大量に表彰される。どうしてこんなに出席率が上がったのだろうかと考えてみたら、前年までの風土記談義は、現存する五風土記の内、播磨国風土記など他国の風土記の講義であった。それが去年の春から満を持して
『出雲国風土記』が始まった。皆、この講義を待っていたのだと思い当たる。誰しもおらが国の歴史には興味がある。
日曜の講義も、出雲東部の川沿いにある神社とその元宮の位置について考察する。マニアックな講義に思えるが、古代人は川を神の通り道と信仰していたという観点に立つと、古代出雲の中心を流れる川の支流域に多くの神社がある理由も分かろうと言うもの。驚いたのはこの神社の場所を一つ一つ特定し、さらにどこから移って来たのか(元宮の特定は重要)を、20年間も岡山から通って調査している原子物理学者がいると言うお話。この人の資料をもとに講義があったのだが、世の中すごい人がいるものだ。
出雲国風土記に登場する、山や川や神社の知識は確実に増えていることを実感する。
講義は月一回だが、関連する本は読むし、他の講演会に出たり、企画展を見たりするから、一年間で勉強した量はかなりなものだ。塵も積もれば山となるである。
イメージ 2左が皆勤賞と精勤賞の副賞。
「懐橘談(かいきつだん)」の復刻解読写本と荒神谷博物館の水田で獲れた赤米。皆勤賞はこれに黒米がつく。
「懐橘談」は松江藩藩儒黒沢石斎が前編を承応2年(1653年)、後編を寛文元年
(1661年)にまとめた出雲国の地誌で、古代出雲国風土記以降初めての出雲国の地誌と言われている。ぱらぱらとめくっただけだが、江戸時代も初期の作であるから、出雲大社の祭神もまだしっかりと素戔嗚尊(すさのおのみこと)になっている。神仏習合時代の仏教支配を受けていた時代の出雲大社のことも書いてある。土地土地の産物などが紹介されているので、風土記と比較したら面白いかもしれない。

この日は、10回目の研修旅行の案内も配られる。
6月5日~7日。「大和路の出雲を訪ねる旅」
個室希望だと50,690円。安くはないが、去年初めて四国旅行をして楽しかったのですぐに申し込む。これだけが年一回の自分への御褒美と思っている。
古代大和にいかに出雲の神々が関わっていたかを訪ねる旅である。
神賀詞(かんよごと・出雲国国造が代替わりする時、天皇に奏上する寿詞)に登場する神社を主に訪ねる。
……
710年平城京遷都
712年古事記完成
713年風土記撰進の詔
716年出雲国26 代国造出雲臣果安(いずものおみはたやす)神賀詞奏上
720年日本書紀完成
724年27代国造出雲臣広嶋神賀詞奏上
726年出雲臣広嶋神賀詞奏上(帰国して1年間潔斎して、再度大和に上る)
733年出雲国風土記完成・編纂したのは広嶋
750年28代国造出雲臣弟山神賀詞奏上
751年出雲臣弟山神賀詞奏上(帰国して1年間潔斎して、再度大和に上る)
……
716年が最初の神賀詞奏上と言われている。
この寿詞の中で、大穴持命(おほなもちのみこと=オオクニヌシ)が自分の分身と3人の子供で、皇孫をお守りすると誓っている。その分身と3人の子供を祀った神社、および関連する神社を巡るのが今回のツアーである。
調べたら車が入ることが分かったので行く神社もあると言う。去年に続きまたマニアックな神社巡りの旅になりそうで、今から楽しみにしている。
それまで忙しいことが多々あるが、このツアーを楽しみにひたすら頑張ろうと思う。

一つは言わずと知れた『黄泉比良坂(よもつひらさか)』
古事記や日本書紀で、死んだ愛する妻イザナミノミコトを追って、イザナギノミコトが黄泉の国へ行くが、妻との約束を破って妻の腐乱した死体を見てしまい、怒ったイザナミノミコトに追われ、命からがら逃げる話に出て来る場所である。
玉造温泉に調べ事に行ったついでに、天気も良かったので、足を伸ばす。高速の山陰道を東出雲で降り、国道9号線を安来方面へ行くと右に案内板があり細い道がある。
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細い道を下り、民家の横を抜けると、黄泉比良坂の道に出る。看板が立っている所は地区の集会所である。アスファルト舗装のただの山道だった。右手が雑木が生い茂る丘で左手は荒れ果てた窪地が続き、その向こうはまた荒れた丘が横たわる。古事記では『いわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)という』とある。
100mちょっと歩くと行き止まりである。この先でイザナギノミコトが次々と迫る追っ手を必死に振り払った坂に続く道とはとても思えぬ。実にのどかな山里の風景であった。
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  岩→








行き止まり。どうやらここが黄泉と現世の境らしい。矢印のところに岩が二つ見える。古事記では『千引石(ちびきいわ)』と言う、千人引きの大岩でイザナギノミコトがイザナミノミコトの追撃を防いだと記されている。
貧相な岩が二つ見える。実は昔はここにこんな岩などなかったのだが、誰かが岩がないのはおかしいと言って、どこからか運んで来て置いたものらしい。なにかで読んだのだがはっきりいつかは覚えていない。そんなに昔ではなかったような記憶がある。
こんなことを勝手にやるのはどうかと思うのだが……。

もう一つの黄泉の穴の入り口は出雲国風土記に出て来る。
その場所は『脳礒(なづきのいそ)』と呼ばれ、今の猪目洞窟と言われている。
猪目(いのめ)洞窟は出雲大社の西側と千家の神楽殿の間の道を登り、くねくね曲がる山道を越えた猪目漁港にある。山を挟んで、出雲大社のほぼ裏手に当たる、日本海に面した洞窟である。
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道路と漁船の奥に見えるのが猪目洞窟である。昭和23年に漁港を広げるための工事をしていたら、洞窟が出現したそうだ、内部からは弥生時代から、古墳時代の風土記作成100年前ぐらいの時代の人たちの人骨などが出て来た。
風土記では『出雲郡宇賀郷』に記されている。『……北海の浜に礒あり。脳礒(なづきのいそ)と名づく。……窟の内に穴あり。人入ることを得ずして、深き浅きを知らず。夢にこの礒の窟のほとりに至らば、必ず死ぬ。故、俗人(くにひと)古より今に至るまで、ここを黄泉の坂、黄泉の穴となづく』
今は途中でふさがれて奥までは行けないそうだ。
昔、藤岡大拙先生の講演を聞いた時、その頃は奥まで行けた時の事を言われたのだと思うが、「奥まで行くと気をつけなさいよ」と、声を潜め、いかにも恐ろし気に言われる。何かたたりでもあるのかと固唾を呑んでいると、「釣り人の野ぐその山がある」と、大笑い。
風土記と記紀では黄泉の入り口が違う。私は出雲人の末裔だから、当然、猪目洞窟を黄泉の入り口と信じた人の方を支持したい。
この猪目と峠を越えた西の鷺浦は泳ぐにも釣りをするにもいい場所で、子供が小さい頃は山を越えてよく遊びに行ったものだ。
ところで、猪目洞窟が黄泉の穴と確定しているわけではない。「大社史話186号」では、鷺浦にも二つほど洞窟があり、それらを測量した人のレポートが掲載されている。それによると脳礒を確定するのは難しいようだ。
鷺浦の「ながらの窟」は、地元では「大国主命の牢屋」「スサノオノミコトの穴」であるという伝承があるそうだ。

今日は出雲弥生の森博物館で「特殊器台」贈呈式があり、その後、講演があり、懇親会を持つ。昨日、風土記講義に出席できなかったのでおっとり刀で出かける。
出雲には紀元後2世紀ごろの四隅突出型の巨大古墳・西谷古墳群がある。
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上の写真は西谷3号墓から見下ろした復元墓。四隅が突き出した珍しい形をしている。同じ頃、吉備には楯築(たてつき)墳丘墓と呼ばれる巨大古墳があった。
その西谷古墳群で発掘された「特殊器台」と言われるものが、実は吉備から運ばれたことが分かっている。
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これが、その「特殊器台」と言われるもので、右の壺を上に乗せる。
これは「楯築サロン」と言う、岡山の考古学グループが中心となって、陶芸家や古代史の専門家の協力を得て、復元作成したものである。
プラスチックのレプリカではない。土から探し、5年間かけてやっと完成したものである。
これを1800年後に、再び吉備から出雲に送ってくれたのである。
30数人の岡山の考古学ファンがバスを仕立てて出雲弥生の森博物館に届けてくれた。
そこで、贈呈式の後、講演会をし、その後、遠路岡山から来てくれた考古学仲間を慰労し、懇親会をすることになったと言う次第である。
講演会では、まず吉備側が前岡山大学教授現国立歴史民俗博物館の松木武彦氏による「出雲と吉備の分かれ道・弥生墳丘墓から古墳の出現へ」と言う題で講演。
出雲と吉備に巨大古墳が出現したのは、倭国師升(すいしょう)等が朝貢して以降、倭国に大
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乱が起きるまでの間で、大乱以後は巨大古墳は一気に大和
に栄え、出雲の巨大古墳は消え、吉備の巨大古墳も大和以下になってしまう。
だが、出雲吉備両国に巨大古墳があった時代、出雲に入った外国の文物や文化の影響は吉備に伝わり、吉備からも特殊器台のようなものが出雲に来ていた。出雲と吉備の確かな交流があったのである。その古代の交流を1800年後によみがえらせようと言う楽しい催しだったのである。
出雲側は、出雲弥生の森博物館の学芸員坂本豊治氏が楯築墳丘墓と西谷3号墓の比較を詳細にされる。
特殊器台は左のように包まれて運ばれたのだが、古代ではおそらく高梁川をさかのぼり、日野川を下って、伯耆から出雲に運ばれたのではないかと言うが、この時代に運んでも壊れるのではないかとひやひやしどうしだったと言う。
これだけ巨大なものは藁をかぶせて焼いたのだそうだが、失敗の連続だったそうだ。古代の運び方すら見当もつかないと。もしかしたら、ばらばらに焼いたものを運んで、つないだのではないかとも言われた。この特殊器台がのちの円筒埴輪の元になったのは確からしい。
その後、いずもの飲み屋で懇親会。見ず知らずの岡山の同好の士と楽しく語らう。
畑の話になったら、万田酵素が効くぞと勧められ唖然となる。本当に効くらしい。大根も大きくなって柔らかく、美味いと力説される。こういう珍説としか思えないことを大真面目に言われると本当に困る。試してみようかと思う自分がいる。
岡山勢は8時過ぎ、バスで帰る。岡山まで3時間。私と話した人はそれから車で一時間かけて帰るのだそうだ。

昨日の講演会の余談(9月19日追記)
鈴木先生は出雲=投馬国説(魏志倭人伝)であった。
北九州から水行20日で出雲(投馬国)水行10日で丹後に上陸。そこから加古川方向へ平坦な地溝帯があり、そこを通れば陸行30日で邪馬台国(大和)に到る。
「瀬戸内航路と言いますけどねえ、その頃、山口や広島は寂しいものです。なんもないんですよ」
この言葉、妙に説得力があった。



8:30ホテル出発。松山から徳島県美馬市を目指す。
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倭大国魂(やまとおおくにたま)神社。
本殿の屋根は前に流れる形式になっている。同行の参加者が教えてくれる。皆、よく知っている。
延喜式の神名帳に出て来る古社らしい。
大国主命を主宰神とする。

この神社を目指す時から、大型バスからマイクロバス2台に分乗する。そうしないと登って行けない山道ばかり、今日一日中走ることになるのだ。

普通の観光客は絶対に来ない神社。
この神社ばかりではない、今日は私たちが行く先々、超マニアック見学集団が訪れたものだから、何者が来たのかと近所の人が出て来て、うさんくさげに眺めていた。
まさか出雲の人間が、出雲の神様の追っかけでやって来たとは思わないだろう。






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道の駅貞光で昼食後、同じ美馬市穴吹町へ。
この日も30度はあったのではないだろうか。
マニアック集団は平均年齢も半端ではない。
階段見ただけで、おおっとどよめくも、ふーふー言いながら登る。

ここから阿波忌部氏の研究家が同行し、阿波の神社や忌部氏について解説してくれる。













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階段を登ったところにあるのが、磐境神明神社。小さな社が五つ並ぶ奇妙な神社。
江戸時代に土の中から見つかったそうだ。
「竹内文書が明かす超古代日本の秘密」という本で、紹介され、私たちとは違うマニアックな人たちの聖地となっているらしい。
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その階段の上から見下ろす「白水神社」



出雲の忌部氏は玉を作って、朝廷に納めていたが、阿波の忌部氏はその玉を磨くための石を出雲に送っていた。














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阿波市土成町
👈「建布津(たけふつ)神社」

イザナミが最後に火の子を産んで焼け死んだ時、怒ったイザナギは妻を殺した火の子を斬り殺した。
その剣が三つに分かれ、その鍔から生まれたのが、建布津神と言われている。
剣の神様である。
この建布津神が1社1座で祭られているのは阿波だけである。
















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吉野川市山川町
👈「忌部神社」

ここから、阿波の忌部氏について、大嘗祭でいかなる役割を果たしたか、また、いかに大嘗祭において、阿波忌部が重要視されたかの話が始まる。
この日は、もうひとつ勝占神社を回る予定だったが、時間がなく、このまま徳島市のホテルへ入り、夕食前に「阿波忌部」の講演を聞く。
30分の予定が1時間近くに。
阿波の古代史研究家も熱い。
忌部氏とは何ぞや。一口で言えば朝廷の祭祀に使う道具類を作って納める部の民なのだが、中央の忌部氏と地方の忌部氏との関係や、大嘗祭における役割など複雑で一度には理解できない。

明日一日、昨夜は眠れなかったので、今夜はぐっすり寝よう。

この上さらに「古文書に親しむ会」にまで出る。出雲中央図書館で月一回第二土曜日に行われる。
以前から、この会の存在は知っていて、出席したかったがとてもそんな状況ではなかった。ようやく都合がつくようになったので出席した次第。3月から5月にかけての講演会ラッシュが一段落すれば、月1回の「風土記談義」とこの「古文書に親しむ会」だけになるから、何とかやって行けるのではないかと気楽に思っていたが、出席して驚いた。
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途中5分のトイレ休息を挟んで、2時間びっしりただひたすら先生の読み下し、解説を聞きながら、必死にメモ。短い質疑応答もあるが、コピーから寸時も目を離すことができない。気を抜いたら、どこを読んでいるのか分からなくなるのだから。
講演会の1時間でも集中するのはきついが、その厳しさは講演会の比ではない。
参加者は私と同年輩か、上の人たちで15名ほど。女性も数名。机の上には6000円する「くずし字辞典」を置き、ぺらぺらとめくっては質疑応答している。先生が思わず感心するような鋭い意見を言う人もいる。
このレベルに達するにはどれくらい時間がかかるのか。
「くずし字辞典」も買わないといけない。


教材は江戸時代の「仇討ちの実録」。
普通のくずし字さえ読めないのに、万葉仮名のくずしがあったり、語順がひっくり返る漢語的な言い回し(被仰→仰せられ)のくずしがあったりする。被仰(仰せられ)程度なら、江戸時代の色々な資料で見慣れているから、楷書なら困ることはほとんどないのだが、くずし字になると慣れが必要だろう。
参ったのは異体字のくずしであった。もうバンザイ、お手上げであった。
参考までに異体字の例をあげると、「最後」の「最」と言う字の異体字は、「ウ」かんむりに「取」と書く。こんな字、これまでの人生で見たことがない。これをくずしたものなどどう読めと言うのか。いやはや、大変な世界であったが、面白い。いつかはすらすらとまでは行かなくても古文書が読めるようになりたいものだ。
次の会まで、一ヵ月あるから、暇な時に読み直してみよう。しかし、また、用事を増やしてしまったなあ。
 

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