曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

タグ:小説

8月11日。朝から炎暑なるも畑に出る。9月の用意を出来るうちにやっておかないと、秋になってまたばたばたしないといけない。池の西側は何をどこへ植えたのかこの二、三年分があやふやになって連作障害を考えるのが面倒くさくなり、今年の秋作はメインを池の東側に決めた。東側のカボチャを引っこ抜き、ネギも引っこ抜き、雑草退治に取り掛かる。
11時前には上がり、特養へ。お昼の食事介助して帰宅。引き続き畑をするつもりだったが、お墓の草抜きが心配になる。お墓は12日にきれいにするつもりだったが、間に合わないような気がして、午後から草抜きに取り掛かる。しっかり除草剤が撒いてあるので、簡単に抜けるとたかを食っていたが、枯れてはいても根はしっかり土にしがみついているので抜けやしない。慌てて草削り用の鍬を取って来て、枯れ草を削り取り、スチールの箒で枯れ草を集めるが滝のように汗は流れ、暑さで眩暈がする。甲子園のグランドもかくやと思うほどの炎熱地獄なり。45分間やって45分休む。シャワーを浴びて、水分補給。これを2回繰り返したが半分も終わらず。
8月12日は午前中お墓へ。昨日上の妹が初盆で帰省。夕方、先に帰省していた妹と二人でお墓の草抜きをしてくれたが草削りしていないので、草削りのやり直しをして、どうにか終了。その足で特養へ。水土日は特養へ行く日。昨日も行ったが、日曜の今日も行く。さつま芋の天ぷらを食べたいと言っていたので、持って行く。もちろんノンアルコールビールも。11時から約1時間半相手をして帰宅。簡単に昼飯を食い、午後は畑に出る。畑も45分やって、45分シャワー&水分補給休憩を2回繰り返す。枯れ草を燃やしたのでダブルで熱い。
夕方、おにぎりを3個食って、特養へ。
夏祭りがあるのだ。今年で3回目になる。6時前に夕食。今日は二度目の食事介助。
夏祭りと言っても、隣の小学校の夏祭りに便乗させてもらうもの。施設側も綿菓子のお店を出して協力。食後1時間ぐらいベッドで休み、暗くなってからお祭りに行く。
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今回のゲストはX+(エクスト)と言う男性二人組。島根県の邑南町出身で邑南町観光大使、出雲市観光大使、島根県ふるさと親善大使、遣島使なる地元密着グループだが、ノリがよくて、CDも結構売れているらしく、この3年のうちでは一番盛り上がっていたのではなかろうか。妻も楽しそうに盛り上がっていた。いつもならすぐに横になると言うのに、一度も帰るとも横になるとも言わなかった。
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綿菓子を食べる。手がべとべとになる。花火を見て8時半過ぎに戻る。
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8月13日。娘夫婦も帰省。朝早くから犬の散歩。隣の田圃。いつの間にかこんなに実っている。その後、お墓に花を供え、線香をあげに行く。花代やはなのきの費用がばかにならない。右の写真の中央がはなのき。母が25年前に田舎に戻って来た時に植えたもの。このはなのきを切ってお墓や仏壇に供える。経費節減になるので、近所の人も貰いに来る。こういう葉っぱには樒(しきみ)とか似たようなものを売っているが、さっぱり見分けがつかない。
初盆なので、我が家は11時半に和尚さんが来る。この夏は10軒くらい新盆の家があるので、和尚さんは忙しい。いつもの棚経は5分ぐらいで終わるが、今日は20分ぐらい。冷茶を一口飲んだだけで次へ回る。午前中にお参りの客が2組。午後にも1組あって、夕方には隣保の新盆参りがある。隣保の12軒がお参りに来る。これが当地のならわし。これでようやくお盆の行事は終了。
台風が来ると言うので、九州から来た妹は和尚さんが終わったら車ですぐに帰る。
娘夫婦も東京から車で来ていたが、明朝はやく帰る。寂しくなるなあ。

今夜、ブログの引っ越しをする。というか、娘婿にやってもらう。

6月26日中国地方がやっと梅雨入りした。統計を取り出してから、島根県が梅雨入りした最も遅い記録が、1968年(昭和43年)の6月24日だから、遅い記録を更新したことになる。梅雨は好きではないが、やっと降ってくれて、これでしばらくは畑の水やりをしなくてすむとほっと一息。
だが、降る前に一仕事あり。26日に梅雨入りするのはほぼ確定的だったので、雨が降る前に枯れ草を燃やす。雨で雑草が伸びると厄介なので、畑の雑草退治もする。最後の枯れ草の山を燃やしている途中で雨が降り出し、何とか間に合う。

6月10日の畑
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(さつま芋)             (じゃが芋)
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5月24日に植え付けたさつま芋(安納芋)に黒マルチを張る。普通は一枚の黒マルチに穴を開けて植え付けるのだが、今回は二枚の黒マルチを左右から張り合わせる。これは去年近所の農家さんがやっているのを見て、真似をしてみた。
じゃが芋(アンデスレッド)は生育が悪く(玉ねぎ)             諦めて投げ出していたのだが、ためしに少し掘ってみたら、案の定ひどい出来。理由は不明。今年のじゃが芋は完全に諦めた。
玉ねぎは坊主が出来る。こんなに坊主だらけになるのは初めて。隣近所もプロの農家の玉ねぎも今年は坊主だらけになっているそうだ。でも、理由がわからない。プロも分からないと言うのが不思議だ。
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(九条ネギ)            (切った九条ネギ)
九条ネギを放りっぱなしにしておいたら、新しい芽が伸び始める。近所の人に「早く切らなくちゃ、遅過ぎるよ」と、言われて、慌てて切る。いつも後手後手。

6月23日の畑
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(なす・筑陽)            (わけぎ)
茄子は早生なので生育が早い。今日29日までに焼きナスにして3回ほど食べる。
わけぎは山ほどできる。乾燥させ、倉庫に放り込んで置いて来年植える。
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(玉ねぎ)             (じゃが芋)
今年の玉ねぎは坊主が出来、その後、茎が立ったままであった。普通、玉ねぎは茎が倒れたら収穫する合図なので、儂は倒れるのを待っていたのだが、待てども待てども一向に茎が倒れない。一体いつになったら倒れるのだろうと思っていたのだが、ふと気が付くと、近所の玉ねぎはいつの間にか収穫し終わっていた。まだ玉ねぎが残っているのはうちの畑だけ。遅い梅雨入りもそろそろの気配があったこともあり、大慌てで引っこ抜く。味は普通。
(じゃが芋)
完全に諦めていた。葉っぱは完全に枯れてしまったが、掘る気もしなくて抛りっぱなしにしていたら、助っ人に来た妹が近所の奥さんにそそのかされて掘ったものである。案の定、アンデスレッド(赤い方)の出来は大きさも数も最低の出来。去年の2割ほどしか出来ず、すべて小粒。近所の奥さんが煮っころがしにして食べろと言うので煮てみたが、ちょっと固かった。右のきたかむいはアンデスレッドより大きいものがあったが、個数は去年作ったはるかの3割程度。
農業は分からないことばかり。

今日、29日は父の49日法要。
法要に来た親戚の農家がトマトをくれたが、今年はなぜか出来がいいと言っていた。出来のいい理由は分からないと言う。プロでもこれだから、儂らに玉ねぎやじゃが芋のことが分かるはずがない。
夜になって、予報通り大雨になる。しばらく雨が続きそう。真面目な人はなにやかや植えたり、種を播いたりしているが、儂は9月までは何もしない。一年中、休みなく作り続けるのはきつ過ぎると思うようになった。

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(7
 
その夜、辰敬は一睡も出来なかった。
 ため息をついては寝返り、いちの姿を思い浮かべては身悶えし、長屋の狭い床を輾転反側した。
 翌日、無駄とは思いながらも、辻が見える小路に出た。
 無論、いちの姿はなかった。
 もう来ないと分かっていても、次の日も、その次の日も、外に出た。
 未練がましいが、本当に最後に最後の時が来て、いよいよ切羽詰まったら、もう一度来てくれるような淡い期待にすがっていたのである。その時は今度こそと胸の内では思いながら。確たる覚悟がある訳でもないのに……。
 数日後の事であった。
 その日も辰敬は京極邸の北頬(つら)の小路に出て、いちのいない辻をぼんやりと眺めていた。
 足元をかさかさと音を立てて枯れ葉が通り過ぎて行くと、その後からふらりと辰敬の横を抜けて行く背中があった。
 はっとその背に辰敬の目は吸い寄せられた。
 侍である。痩身の尖った肩は野っ原で見た牢人の一人を彷彿とさせた。いや、その身に漂わせる荒んだ気配はまごうことなきあの二人組のものであった。
 懐手でゆらりゆらりと辻の方へ歩いて行くのを見送りながら、辰敬は、あの時、いちが「どこかで見た事があるだけや」と言った言葉を思い出していた。
 牢人は辻を渡ると、いちが佇んでいた場所で立ち止まり、京極邸の西頬の小路を眺めた。すると暫くして、京極邸の角からもう一人の牢人が現れた。
 辰敬はあっと小さな声をあげた。
 あの二人組の片方であった。小柄だが猪首でがっしりとした身体をしている。痩身長躯の牢人に近づくと、二人は並んでいま猪首の牢人が来た方角を眺めた。
そして、二人は京極邸を眺めながら、何やらぼそぼそと声を交わした。いかにも他人を憚るような話し方と言い、その目つきと言い、明らかに不審な挙動である。
いちがどこかで見たと言うのは、この近くの事だったのであろう。この二人組はいちが辻に来た頃から出没していたのだ。
もし、この二人組が何者かと問われたら、辰敬は躊躇うことなく盗賊と答えるだろう。
まさに盗賊が京極邸の下見をしているとしか見えなかった。
やがて、二人組は辻を離れると、小路を北に向かった。数日前に目撃した野っ原の方へ引き上げて行くようだ。
 辰敬は後を尾けようとした。
「なにしとるんや。こないなとこで」
 次郎丸だった。
「また叱られるで」
 この若者は雑色のくせに未だに辰敬を子供扱いして、身分も弁えず横柄な口を利く。
 辰敬は舌打ちした。
 次の日からも辻を窺ったが、いちの姿も二人組の姿もなかった。
それから何日かして、辰敬は急ぎの使いに出た。
 用を済ませて戻って来た時、京極邸の正門を横目に西頬の小路をゆっくりと来る二人組を見つけた。
 辰敬は何食わぬ顔をして近づき、二人組の顔を目に焼き付けた。痩せて背の高い方は頬に深い刀傷があり、猪首の男は醜い痘痕面であった。
すれ違う時、二人がにたっと目を合わせたのを辰敬は見逃さなかった。辰敬はどきっと胸が鳴った。意味ありげな嫌な笑みだったのである。
辰敬は行き過ぎるとそっと見送った。
後を尾けたかったが、すぐに報告しなければならない事があった。
その夜、辰敬は無性に胸騒ぎがした。辰敬は一日中屋敷の周囲を見張っている訳ではない。辰敬が気が付かなかっただけで、恐らくあの二人組は執拗に京極邸を窺っていたに違いない。
だが、盗賊であると言う確証はなかったし、辰敬の置かれた立場からすれば、怪しいと言うだけで報告するのも躊躇われた。多少見直されたとは言え、差し出がましい事をしたら疎まれるのは分かり切っていた。
初めて木枯らしが吹いた日の夜だった。
辰敬は眠れなかった。底冷えのする寒さのせいだけではなかった。いちと別れ、二人組を目撃してからと言うもの、眠れぬ夜が続いていたのだ。
かたんと遠くで物音がした。
木枯らしは夜になってもやむ気配がなかった。普段なら何かが飛ばされたのだろうと気にもしないのだが、辰敬の胸は激しく騒いだ。
辰敬は暗い屋根裏を見ながら耳を澄ました。聞こえるのは風の音だけで、先ほどの音は空耳かとも思ったのだが、どうにも気になり、むっくりと起き上がった。
刀を腰にねじ込み、長屋を抜け出した。
新月の夜だったが、満天に氷を散りばめたように無数の星が瞬いていた。その星明かりを頼りに、辰敬は会所と常御殿の方へ向かった。
在京義務のある守護大名たちが皆分国に下向してしまい、手薄になった屋敷がしばしば盗賊の餌食になっていることは、辰敬も聞いていた。
辰敬が上洛した頃は、京極邸も篝火を焚いて、それなりに警備していたが、不幸があってこの方、目に見えて疎かになっていた。嗅覚の鋭い盗賊なら決して見逃さないだろう。
築地塀のある所まで来た。この向こうが会所と常御殿であるが、しんと静まり返り、物音一つしなかった。
辰敬はぶるんと身震いした。寒くて引き返えしたくなったが、何かが辰敬を引き止めた。
 常御殿の奥には吉童子丸や御屋形様達が休んでいる。寒夜に抜け出し、ここまで来たのなら、最後まで見回るべきと思い直したのである。
 築地塀を乗り越える時、まるで自分が盗人になったような気がした。
 会所の庭は深い闇が広がっていた。会所は来客の応接や連歌を催したりする大きな建物である。その大きな建物もしんと静まり返っている。水を打ったような静けさに、辰敬は思わず全身が粟立った。辰敬は祈った。このまま静まり返ったままである事を。ことりとも音がしない事を。
 闇に溶け込み、じっと耳をそばだてた。刀がずしりと重く、腰が沈むようであった。聞こえるのは自分の息と胸の鼓動だけであることを確かめると、辰敬は逃げるように引き上げようとした。その時、みしりと床の軋むような音が闇を揺らした。
 ぎくっと足がすくんだ。
 音は会所の中から聞こえて来た。
 辰敬はそっと振り返り、会所に目を凝らした。
その闇の一番濃く深い所が揺れたように辰敬には見えたが、闇が動く訳がない。動いたのは人影だった。黒い人影はふわりと縁に飛び上がると、会所に消えた。
辰敬は会所の端の部屋の障子が開いていることに気が付いた。
割れ鐘のように心の臓が鳴った。盗賊はすでに侵入しているのだ。
(盗賊じゃ)
 叫ぼうとして愕然とした。声が出ない。必死に声を振り絞り、張り叫ぼうとしても、盗賊のとの字が喉に引っかかって出て来ないのである。
 手も足も強張り動こうとしない。左手はかろうじて腰の刀を掴んだものの、肝心の右手が伸びない。金縛りになっていた。刀も抜けない不甲斐なさが情けなかった。もう大人のつもりだったが、これほど意気地がない男だったとは。早く知らせねばと思うのだが、足が動かない。一歩が踏み出せない。
 その時、辰敬は一つだけ出来る事に気が付いた。その場にしゃがむと石を拾った。刀は抜けないが、石なら投げられる。
 思い切り暗い座敷に向かって石を投げた。
 ばしっと障子が裂け、室内の壁に当たった。一つ投げると、金縛りが解けた。辰敬は手当たり次第に石を拾い、滅多やたらに暗い建物めがけて投げつけた。
石は屋根に、柱に、壁に、板戸に当たっては、深夜の邸内に雷鳴のような音を轟かせた。
 同時にあちこちから人の気配がした。
 慌てふためく気配もした。侵入した盗賊のものに違いない。
「盗賊じゃ」
 声が上がった。
「盗賊じゃ」
 堰を切ったようにあちらこちらから声が上がった。
辰敬もやっと声が出た。石を投げながら叫び続けた。
「出会え、出会え。盗賊じゃ」
 会所の奥で怒声がぶつかり、剣戟が響き渡った。絶叫が上がり、板戸に激突する音が続いた。
 抜き身を下げた三人の盗賊が庭に飛び出して来た。頬かむりをした牢人態である。追って来た京極家の家人達とたちまち斬り合いとなった。
 辰敬は慌てて庭石の陰に隠れた。
常御殿の方からも女達の悲鳴が一斉に上がった。
 どうやら追われた盗賊達が常御殿へ逃げ込んだようだ。
 その時、女たちの悲鳴に混じって金切り声が聞こえて来た。人間の声とは思えぬ、笛が発するような甲高い声であった。吉童子丸の声に違いない。辰敬は庭石の陰から飛び出していた。
 どこをどう走ったかも覚えていなかった。何度か人にぶつかったが、誰にぶつかったかも分からなかった。
 会所を突っ切り、狂ったように叫び続ける声のする方へ闇雲に突進し、暗い納戸に飛び込んだ時、その片隅に蹲る小さな人影を認めた。と同時に、屈強な身体がぶつかって来て、辰敬は弾き飛ばされた。
 その頭上で凄まじい火花が散った。
 二人の男が戦っていた。
 刃が唸り、その一方が片隅へ飛ばされ、小さな人影を押し潰した。絶叫したのは吉童子丸であった。
男は咄嗟に吉童子丸に刃を突きつけた。
「この小童がどないなってもええのか」
「だらあ~っ」
 歯ぎしりした人影は多聞だった。
 闇の中でも小さな影がまるで小鳥の雛のように震えているのが分かる。騒ぎに巻き込まれた吉童子丸は恐怖の余り逃げ回っていたのであろう。
 ふと辰敬の手が硬いものに触れた。手頃な太さの長い桟木である。納戸に番匠(大工)が入っていると聞いていた。何かに使う用材のようだ。
辰敬は握り締めると、そっと上半身を起こし、片膝をついたまま力一杯横に薙ぎ払った。
 脚を不意打ちされた男が悲鳴を上げてよろめいた。
 すかさず多聞が斬り込む。
 辰敬も弾かれたように飛び出し、吉童子丸に覆い被さった。
「若様」
 と抱き締めると、小さな身体が悲鳴を上げながらしがみついて来た。
 そこへ、家人達に追われて別な盗賊が飛び込んで来た。
 明りも追って来て、数人が入り乱れての凄惨な斬り合いが浮かび上がった。
 辰敬の背に鋭い激痛が走った。吉童子丸の爪が突き立ったのである。吉童子丸は悲鳴を上げ続けながら、雛のように震え、子猿のようにしがみついていた。
 この時、辰敬はこの子がこの春に味わった恐怖を思い知った。
 近江の館を高清勢に包囲され、父材宗が自死に追い込まれるほどの戦いは、いま目の前で繰り広げられている斬り合いの比ではなかったろう。
 夥しい血飛沫が飛び、断末魔の悲鳴が上がり、紅蓮の炎が燃え上がる。
 吉童子丸の悲しみの底には、想像を絶する恐怖が封印されていたのだが、今その抑え込んでいた恐怖が噴き出したに違いない。
辰敬は吉童子丸を抱き締めた。
辰敬は骨が折れるのではないかと思うぐらい強く抱き締め続けた。
目の前の斬り合いはとても長い時間に感じられたが、静かになったことに気がついた時、二つの死体が照らし出されていた。あの二人組だった。
辰敬は目を背けた。
吉童子丸は辰敬の腕の中で白目を剥いたまま気を失っていた。
結局、残った死体は五つで、残りの何人かは逃走したと言う事であった。
 
翌日、辰敬は御屋形様の前に召し出された。
いつ以来か、思い出せないほど久し振りの笑顔が向けられた。
「よくぞ吉童子丸を守ってくれた。その方がおらねば殺されておったやも知れぬ」
 傍らに控えていた大方様も美しい顔を綻ばせた。
「礼の言葉もありませぬ」
 辰敬は上気した顔を床にこすりつけた。
「それにしても、あのような夜更けによくぞ賊に気づいたものや。いったいどうしたわけや」
 辰敬は京極邸の周りをうろつく怪しい二人組に気が付き、ずっと気にかけていたのだと答えた。
「あっ晴れ、見上げた心掛けや。褒めて取らす。褒美をやろう。辰敬、何でも良いぞ。望みのままに取らす。欲しいものを言うが良い」
 その言葉を聞いた瞬間、辰敬の目の前にぱっといちの顔が浮かび上がった。
「私は頂く訳には行きません」
「なんやと」
「私より御褒美にふさわしい者がおります。実は怪しい二人組に最初に気がついたのはその者です。その者にこそ御褒美を下されたくお願い申し上げます」
「誰や」
「いちと申します」
「いち……おなごか」
「はい」
「何者や」
「筆法の師の娘にございます」
「そう言えば、その方、どこぞの公家に書を習っておると聞いた事がある。公家の娘とな……」
 俄かに興味を覚えたようで、
「幾つや」
「十五になります」
「なんと十五の公家の娘が盗賊を見破ったと言うのか」
「いえ、そう言う訳では……たまたまその二人組を見かけた時に、いちがどこかで見たような気がすると言ったのでございます。でも、その一言がなければ、私も二人組に注意を払うような事はなかった訳でございまして……」
「その方の言う事は分かったようでよう分からん。初めからよくわかるように話してみよ」
と、根掘り葉掘り問い質され、洗いざらい喋らされてしまった。
「ははは……」
 懐かしい御屋形様の笑い声だった。
「いちとやら連れて参れ。みが直々に褒美を取らす。貧乏公家の借銭など高がしれておろう。きれいさっぱりと払ってやるわ。どのような娘か楽しみじゃ。辰敬、良き娘か」
 顔から火が噴き、辰敬は恥ずかしさの余り面を上げる事が出来なかったが、全身は喜びにうち震えていた。
 その微笑ましい姿に、大方様も柔らかな笑みを注いでいた。

令和1年5月13日、父が病院で息を引き取る。満97歳。
4月24日に主治医から、「連休までは持たない。連休に入るかもしれないが、日数ははっきりとは言えない」と、言われ、妹達を呼び寄せる。子供たちも連休前に休みを取って戻って来る。このまま行けば、連休中に葬式をすることになる。そうなったら、十日も続く連休中にどうやって葬式をしたらいいのか。遠くの親戚などはとてもすぐには来れないだろう。寂しい葬式になってしまうのかと胸を痛める。その一方では、障子の張替えやトイレのドアノブを取り替えたり、家の中の片づけをし、いつでも葬式が出来る準備をしておかなければならない。毎日、病院に行き、普段母親に会えない子供たちは特養にも見舞いに行く。息子はペーパードライバーだから、病院へも特養へも私が運ばなければならない。
先生は連休までと言ったが、その連休に入る。
5月1日に、妹が今日から令和になると教えたら「時代が変わったんだね」と、小さな声で応えたそうだ。だが、こうした会話が出来たのも、連休の初め頃迄で、次第に呼びかけには反応しても、自発的な言葉は出なくなる。長い連休が終わった頃には、呼びかけに答える声が何を言っているのか、よほど耳をそばだてないと聞き取れなくなる。
二度誤嚥性肺炎を起こしたので、鼻からチューブで栄養を摂るしかなかったのだが、父は余程嫌なのだろう抜いてしまうので、いよいよ強い拘束をしなければならなくなる。それまでは儂は見舞いに行った時だけ、拘束を緩めてやっていたのだ。先生は強い拘束は虐待みたいなもので自分としてはやりたくないのだが、どうしますかと相談され、妹達と相談し、拘束はやめることにする。父もまだ意識がある頃は牢屋みたいだと嫌がっていたのだ。チューブをやめ、点滴だけになって、そういう状態が4月の中旬過ぎから続いていたのだ。
鼻チューブを中止して、表情は心なし安らいだように見えたが、先生が言う通り、点滴だけだと弱って行くのは早かった。5月も10日を過ぎると完全に父の言葉が意味不明になる。必死に聞き取ろうとするのだが、何を言っているのか見当もつかない。最後になるかもしれない言葉を理解してやれないことが辛い。救いは先生が苦しむことはありませんといってくれたことだけ。
こうして、大正、昭和、平成、令和を生き抜いた命が消えた。翌日から、私とお寺さんと葬儀社と隣保の四者で葬儀の段取りをする。田舎の事情に疎い私は、ただ皆が決めて行くことに従い、言われた通りに動く。火葬場と葬儀場の都合により、葬儀が先で火葬が後になる。
東京の人なら、それが当たり前の順序だが、出雲では火葬した後に葬儀をする。
手伝ってくれる隣保の人たちも、最近そういう手順の葬儀をしていないので何となくやりにくそう。
私もあたふたしながらも、通夜をすませ、葬儀となり、喪主挨拶となる。
喪主挨拶の内容はいずれその時が来ると分かっていたので、漠然と考えてはいたのだが、ただの挨拶で終わらせたくないと言う思いがあった。その一方ではこういうものは儀礼の範囲でおさめるものではないかと、振り子のように揺れ動いていた。
少し長くなるが、後悔するのが嫌なので、最後には父が残した思い出の言葉を紹介することにした。
「あれは、何年前のことだったでしょうか、ある時、父がふと漏らした言葉がありました。自分のような者がこうしてやって来れたのも、戦争で自分よりも優秀な人たちが皆死んでしまったからなんだよ……」
令和に入り、戦争を体験した人たちは殆どいなくなった。この世代の人たちが消えるとともに消えてしまう言葉を、私は父の言葉として残したかったのであった。
今となってはどうしてこんな話になったのか覚えていない。ただ、父親の意外な一面を見せられて驚いた記憶がある。普通の父親と息子なんて、よそよそしくて、そっけないもので、私なんか心を開いたような会話はした覚えがない。照れ臭いものだ。
だが、最後に「私はこの人の子供でよかったと思いました」と、言ったのであった。
今思い出しても、照れ臭くなるような、喪主挨拶であった。でも、父は喜んでくれたかなと思う。

今回の葬儀では、これまでの隣保の葬儀同様に隣保の世話になった。ただ、多くの親戚がわが家に泊まる事はなかったので、女性陣に台所の世話をしてもらうことはなかった。ご飯を炊いて、精進料理や味噌汁を作ってもらうことはしなかったのだが、配膳棚や机は葬家を持ち回りで移動するので、一年前に葬儀のあった家からわが家に運び込む。
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左が机と配膳棚。           右が食器類の入ったケース
我が家の西の縁側に置いてもらう。次に隣保のどこかで葬式があるまではわが家で預かり続けることになる。一年先か、二年先か、もしかしたら数年間は預かり続けることになるかもしれない。
JAの葬儀社の社員が言っていた。こんなに隣保の人が動いてくれるお葬式は初めて見ましたと。

と、言う訳で、この一ヶ月はブログを書く気にもならず、畑をやる気も失せておりました。ようやく復帰しましたが、まだ本調子には遠く、ぼちぼちとやって行こうと思います。畑も近所の人に励まされて、今日、安納芋を20本植えたところです。

昨日19日昼過ぎ、妻の外泊を大過なく終え、特養に送り届ける。3月の外泊で風邪を引かせてしまい、特養に戻ってからも約1週間具合が悪く、特養の看護士さんやスタッフの人たちにも迷惑を掛けたので、今回は絶対に風邪を引かせないように細心の注意を払った。特養からの申し送り事項で、水分を摂ろうとしないので、水分が不足しないように注意して欲しいとも言われていたので、お茶、牛乳、ヤクルト、リンゴジュース、オレンジジュース、カルピス、コーラ、ミルクティー、スープ、味噌汁、エンシュア、もちろんノンアルコールビールにノンアルコールのサワーと、思いつく飲料を取りそろえ、手を替え、品を替え、やれ飲め、それ飲め、時にはおだてて何とか5泊6日を過ごす。飲むたびに何cc飲んだかも記録する。だが、いくら頑張っても一番飲んだ日で600㏄強が精一杯であった。
コップで飲むのが下手になり、ストローで飲むのが効率的になった。
飲むだけでなく、食べる方も手が掛かるようになった。
敢えて割りばしを使わせているのだが、はさむのが出来なくなって、いまやどうにかはさめるのはサラダのレタスぐらいなものになってしまった。手先の機能が衰えたのと、視野が狭くなって見えにくくなっているような気がする。
割りばしを使わせて運動機能を維持させたいのだが、儂も相手をするのが疲れてしまい辛くなってしまった。つい、フォークやスプーンに頼るのだが、フォークもうまく刺せないので、儂が刺して妻に持たせる。
好物のカレーも昔は自分ですくっていたが、今はうまくすくえないので、儂がすくってやるのだが、スプーンを口に運ぶまでに半分はこぼしてしまうので途中までは支えてやらないといけない。
体幹も衰えた。車椅子に移乗する時や着替えをするときはベッドの端に座らせるのだが、右手で支えを握らせていても、すぐに体が倒れる。昔は支えに掴まっていなくても座っていられたのだが。
何をするにも手がかかり、時間が掛かるようになった。
それに加えて、今回は両親の体調にも気が休まることなし。
父は再入院してからどんどん具合が悪くなり、外泊中にも病院へ出向き、主治医と面談しなければならず。一方、母はと言えば、よりによって妻が外泊前に風邪を引いてくれる。5日薬を飲めば治るだろうと思っていたが、その5日目に妻が戻って来てもまだ具合が悪い。熱は下がったが、咳をし、喉が痛むと言う。訪問医に電話し追加の薬を出してもらう。結局、外泊の間中に完治せず。91歳にもなるとかくも時間がかかるものなのか。妻の外泊中、うつりはしないかとひやひやのし通しであった。
妹の助っ人に合わせて、妻を外泊させたのであるが、妹がいてくれたおかげでどうにか過ごすことが出来た。
特養を後にした時は心底ほっとした。その解放感がどれだけのものかは数字が示してくれた。
妻が外泊中も、妹が夕食後の食器洗いなどをしてくれるので、毎晩散歩していたのだが、その時間が32分~33分かかっていた。ところが昨夜は同じコースを30分弱で歩いたのであった。歩いていても自分でも身体が軽く、足が進むのを感じ、人の体とは何と正直なものかと思ったのであった。

妻のこのような肉体的な衰えは精神面にも反映して来たようで、最近は妻のおしゃべりがつまらなくなった。儂を親戚や知り合いの誰かと思い込んで、儂が否定しても、それに対する反応が以前ほど強くない。時には反応しないこともある。話をしていても、昔のように鋭い台詞や、妻らしい冗談を聞くことも少なくなったような気がする。どきっとさせられるようなことも、切なくなるようなことも言わなくなった。
聞くのも辛い事も言われたが、今となっては懐かしく思う。そんな昔の言葉を思い出してみる。

2006年10月の語録より

「左手に触るな、痛いんだから」
・・・・・・・・・・・・・
「あっ、お父さんと話してたのか。〇〇君(従弟)かと思ってた」
・・・・・・・・・・・・・・・
パット交換時
「起きてたの?」
「おむつ替えて」
替えたら
「ああ、気持ちいい、ありがとう」
2006.10.3
「私は愛一筋、お父さんは文学一筋」
「俺だって愛一筋だよ」
「ありがとう……」
2006.10.4
「お父さん、〇時からお風呂行くよ。その後、パーマ行くよ」
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左足を動かすと
「持ち上げるな、痛い」
2006.10.6
「一生懸命作ったんだよ」
「モモちゃん(犬)、吸ってみる?これ、一生懸命の味だよ」
2006.10.7
「お父さん、今日、正月だよ。私、お雑煮作らないでひましている。お昼、お雑煮にしようか」
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「お父さん、奈良に連れて行って。今年は行くよ」
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「私もお父さんと二人修学旅行に行ってるようなもんだね。ああでもない、こうでもない」
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「最近後悔することばかり。一度荷物まとめて熊本に帰りかけたけど、戻って来た(涙声で)」
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「私も小さい時から本を読むこと好きだったの」
2006.10.8
「お宅の奥さんには言って来たの?」
「俺の奥さんはお前だよ」
「う~ん」
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「恵子さんだっけ、なんて名前か忘れちゃった。あんまり頭のよさそうな名前じゃなかった」
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「誕生日のカードほどつまらんものはない。なんでつまらんことしか書いてないの」
「そうか、お母さんならいいこと書くからね」
「たいしたこと書いてない」
2006.10.9
「うちの下の子、何ていうの」
「〇ちゃんしかいないよ」
「〇ちゃんの下の子、この前、生まれたよ」
2006.10.12
夜パット交換時、寝ぼけて「ああ、さっぱりした」
身体を動かすと「いて、て……」
2006.10.13
「今日あたり、パパちゃんが来るかな」
「パパちゃん、死んだんだろう」
「ううん、それとなく現れるの」
2006.10.14
「いいねえ、お父さんは。鼻がすっと高かったもんね。鼻たかかったのね、昔は。脚本家だからって鼻高かったのね」
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「痛い、足の骨が折れていることを分かっていないんだから。それでも医者かと言いたい」
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「何か年末のごちそう出して」(いつも年末か正月のつもりでいる)
おむつ交換時、寝ぼけて
「おしっこが出る」「いいよ」「いいよじゃないよ」
2006.10.16
「本当に車椅子人間になっちゃったね」
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「出会ったのは運命だったのね」
「よかったか」
「死ぬ時、考える。よくなかったら、ばけて出る」
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「お父さん、布団の中でいっしょにねんねしよう。あったかいから」
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「お父さんの若い時の写真を見たくなっちゃった。26年見てないから。忘れちゃった」
2006.10.26
「今年も一年お世話になったねえ。病気ばかりしてたから」
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「モモの散歩、行って来る」
「正月から散歩か。よかったね、モモちゃん。今年もお父さん散歩行ってくれるよ」
2006.10.28
「健診、悪いところなかったよ」「顔が悪いと書いてなかった?」
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「お父さん、初売りでダイヤの指輪買って」
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おむつ交換時
「こんなかっこうでお風呂行くの恥ずかしいけどしょうがないの。風呂あがってオムツでうろうろしているの私だけ」
2006.10.30
「私も〇〇(息子)の孫を抱きたいよ。可愛いかろうね」
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「お父さんも足切ったらこの痛みわかるよ」
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「目玉焼き作って、お父さんの愛情の詰まった目玉焼き食べたくなったんや」
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「家に帰ったら指揮されること多くて。カボチャをここへ置けとか。私、口に入ればいいのだから」
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「でもね、嬉しかったよ。お父さんがいない時、〇〇(息子)と〇ちゃん(娘)が来て、自分たちが大学へ行けたのはお母さんのおかげだと言ってくれたの」
2006.10.31
「お父さん感謝してるよ。でも言わないからわからないでしょ」


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