曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

タグ:介護

4月22日に「すい臓がんドッグ」でMRIを受け、許容度ぎりぎりの大きさの嚢胞が見つかり、5月に「超音波内視鏡検査」を受ける予定になっていたが、父の葬儀で延期し、6月20日に1泊2日の検査入院した。
実はこの前、6月初めに4月の検査の結果が送られて来た。
カナダに血液を送って、検査してもらった結果である。すい臓がんリスクは『高リスク』と判定される。これは長鎖脂肪酸の長さでガンの進行度を測るもので、悪化すると長鎖脂肪酸が短くなるのだそうだ。
儂の場合これがレベル6と大幅に短く、高リスクと判定された訳だ。
高リスク レベル0~10
中リスク レベル11~25
低リスク レベル26~100
『膵粘液性のう胞腺腫』の疑いがあるので、予定通りに「超音波内視鏡検査」を受けるようにと通知があった。
この検査は、胃の中に超音波内視鏡を通して、より近い場所からすい臓を検査するものである。胃から針を通してのう胞から液も採取して検査もする。今日、午後から検査を受け、結果を言えば『問題はなかった』そうだが、嬉しいような拍子抜けしたような妙な気分になる。
それはそうだろう、6月初めに高リスクと判定された結果をみたら、だれでも「アウト」と思うだろう。儂は今日の結果で、「余命3年」とか「余命5年」と言われるものだと覚悟していたのだ。普通ならショックで落ち込むところだが、儂の場合、それどころではない。女房やお袋より先に死ぬとなるとおおごとである。後に残る者が困らないように、手続きや、銀行や、保険等々出来るかぎり、整理し、分かりやすくして置いてやらないといけない。毎日、年金やマイナンバー、印鑑登録カードなどをまとめる。子供のどちらかが、妻の後見人になる手続きの仕方、後見人の仕事もあらかじめ教えておかないといけない。夜中に目が合わなくて、眠れないのでごそごそと通帳をまとめたりしたので、ずっと寝不足が続いた。
おかげで、今日、麻酔を受けたら、久しぶりにぐっすり眠れた。
明朝、医師から詳しい説明がある。今日のところは喫緊の大事に至ることはなさそうだが、すい臓が万全とは思えないので、今後の注意とか定期検査の必要性とかの説明があるのかなあと思っている。
今回のことで思ったのだが、ぼーっとは生きておれないということだ。何をすべきか、ずっと考えて来た。
イメージ 1
病院の夕食。
朝、昼抜きにしても、とても美味しい夕食だった。
同室の入院患者も年が近いせいもありすぐに仲良くなる。
「病院へ来たら、みんな、なかよくならなくちゃ」と、のたまうおっさんは、看護士さんに向かって、「家で飲んでいる薬は看護士に渡した以外にも、財布に入れて隠しちょるけん」と、言って、看護士を呆れさせ、取り上げられていた。
良くても余命5年を覚悟した身にすれば、明日からは儲けものの人生になると思って頑張ろうと思う。
これは是非申し上げたいことですが、すい臓ガン検診は必ず受けてください。普通の健康診断ではなかなか見つかりません。MRIで見たら、すい臓が立体で映し出されますから一目瞭然(?)です。僕の場合はすい臓がんに特化した健診で4万8千円もかかりましたが、金額の問題ではありません。

21日の朝、面談。
昨日の夕方は、麻酔が覚めたばかりだったので、今朝、先生と面談し、画像も見せてもらう。のう胞の中に結節は見当たらず。これが出来ていたらヤバイとは前もって先生から聞いていた。診断は「早期慢性膵炎」。先生が言うには、この病名を病名として認定するかどうかは、まだすい臓学会でも決まっていないそうだ。儂の場合は半年に1回、MRIで観察することになる。酒と煙草はやらないので、脂肪分の多い食事は控えて様子をみることになる。と、言われても肉はだめだろう以外のことはよく分からないので、早速ネットで調べたら、ナッツ類を食べながらコーヒーを飲むのは最悪と分かる。コーヒーを何十年もがぶ飲みする生活を続けていたが、コーヒーはすい臓には良くないらしい。辛いものが好きだが、香辛料もダメなようだ。コーヒーを飲んで甘い物を食べるのが下戸の唯一の楽しみだったのに……。あれもだめこれもだめはストレスなので、少しずつ食生活を見直して行くつもり。ストレスも避けた方がいいらしい。ところで、話はレベル6に戻るが、これまで異常が見つからなかった人でもそういう数値が出ることもあるそうだ。儂は癌の進行度を表しているのかと思ったがどうもそういうものではないようだ。この歳になって病気にならない人はいない。すい臓を労わり、機嫌を損なわせないように、仲良くやって行こうと思う。

ごめんとかあちゃん(女房)に謝るしかない。今日から外泊の予定だったけれど、朝起きたら疲れていて、こりゃあ外泊しての世話はとても無理だと思い、急遽特養に断りを入れたのであった。先月は葬儀があって、外泊させられなかったので、今月は何としても家に戻してやろうと思っていたのだが、ちょっとスケジュールがきついかなと危惧していたのが、その通りになってしまった。
ずっと病院通いが続き、葬儀、その後の手続きや香典返しなどの手配をして、6月1日に親戚の結婚式があり、二泊三日で上京。上京するに当たっては母をショートステイさせる為に、代表者会議もあったりで、息つく暇もなかった。肉体的にも精神的にも疲れが出るのもやむを得ない。ここは休ませてもらって、来月は……と思うのだが、6月末が49日。それが終わったら、名義変更しなければならず、妻のことで熊本にも行かなければならない用も出来てしまい、そうこうしていると初盆もある。来月も無理かもしれない。落ち着くまでは、特養にはお昼に時々顔を出し、ノンアルビールを差し入れして、いっしょにご飯を食べることで勘弁してもらわないといけないかもしれない。
それにつけても思うのだけど、香典返しなんて外国にはあるのだろうか?
お願いですから、金封には住所を記入してください。出来たら、電話番号と郵便番号も記入していただくと助かります。
帰郷して8年目、田舎で育っていないから、名前を見てもどこのだれかがさっぱり分からない。母の記憶も当てにならず、親戚に電話して、「この人、知ってますか」と訊いている有様である。
女房が元気だったら、てきぱき手伝ってくれたのだろうに……

語録(18)


2006.11.4
「寒くない?」
「寒いよ、一人で寝てるから」
「このベッドは二人寝れないからね」
「稼いで、大きいベッド買って」
2006.11.7
「〇〇ちゃん(娘)がピンポンピンポンて帰って来る気がする。ああいう子だから」
・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お父さん、すっかり老人介護みたいになったね。ごめんね」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「みかんかリンゴを買いに行こうと思って、お金を借りようと思って、誰かなと思って」
(側に居るのは俺なのに、俺の顔を見て)
2006.11.9
「お父さんはお医者になってから優しくなったのね。前はぶっとばしてやろうかと思っていたのに」
2006.11.21
ショートステイから戻って来たので
「帰って来たぞ、帰って来たぞ」と、歌ったら
「ウルトラママ~」と、返して来る。
(この返しの秀逸なところがかつての妻であった)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お父さん、私のこと、よしよししてね。寂しいから」
2006.11.22
「お父さん、慌てるのと急ぐのは違うからね。お父さんはすぐ慌てるから」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「正月はいいね、優しいから」
2006.11.23
「お父さんが疲れたろう、一杯やろうと言ってくれたら嬉しい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「何か変わらないかなと思いながらも昨日と同じ。ちっとも変わらないことあるよね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「この人ずっとこのまま生きて行くんだろうと思ってたら、全然違う人になった。お父さん、ただ紙書く人だと思ったら、立派な脚本家になったんじゃない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
妻が「風来ないよ」と、言うので、「風来ないよ」と、返したら
「どうして同じことを言うんだ。だから、お前の小説は出来が悪いんだ」
(持ち上げておいて、みごとに落とす)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(葬儀のTVを見てて)
「お父さん死んだら、私も一緒に焼いてもらおう。一緒に天国行こうね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「川尻はあの鉄橋が好き、ガードと鉄橋が」
(妻の育った家の近くに鹿児島本線の鉄橋がある)
2006.11.25
「お父さん、(私が)寝とって言うことは一番してほしいの。そこへ座卓を持って来て並べてよ」
(介護している時)
「手が冷たい、今度私もしてやるから」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(救急車の音が聞こえて)
「ご飯の時に看護婦さん可哀想だなと思う。救急隊も御飯の時は乗せなきゃいいのにと思う。あとは寝に入った時がいや。11時過ぎ」


※看護婦だった時のことを思い出しての言葉
2006.12.4
「足の骨が折れたの。なかなか治らないね」


※脳出血で左足が麻痺、拘縮の痛みを骨折と思い込んでいる
2006.12.7
「私がほしいもの愛情。愛がいっぱいほしい」
・・・・・・・・・・・・・・・
「リーフシャワーの下で踊るから写して」
2006.12.12
「パパちゃん、来ないかな」
(病気になってから、よく言うようになった。幼い時に死んだ父親が生きていると思っているのだ)
2006.12.13
「こんなだっこして椅子に座らせてもらっているのを見たら、みんな、曽田さんに甘えてると言うよ。なによ、曽田さんなんて」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「〇○(息子)、だいぶボーナス出たみたいよ。それで、わたしのブレスレッドみて、それいくらしたの、どこで買ったのときいてたよ。買ってくれるのかな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「○ちゃん(娘)が、モモちゃん(メスの豆柴)、片づけさせられてるんじゃないかと言ってたよ。オス犬のドレイになって。私、やめて、そんな話聞きたくないと言ったの」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お父さん、ありがとう。ほんとうに最近親切ばかり」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「またパパちゃんに会えると思うと、うれしくてしょうがないよ、私」
「パパちゃん、私のこと可愛がらすでしょ、○子、○子て」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006.12.14
「みんな呼んで、言いつけてやる」
2006.12.17
(TVを観ていて)
「お父さん、認知症になったらちゃんと介護するよ」
2006.12.18
「私の前で待ってと言わないで。はい、すぐやりますと言う」
2006.12.27
(加湿器の水を替えていたら)
「マメだねえ、本当にありがとうと思ってるよ」


20日。タミフル5日目。今日の夕食後に服用してタミフル終了。儂はもう2日目ぐらいから快方に向かっていて、午前中の「風土記講義」にも行こうかと思ったぐらいであったが、先生からはタミフルを飲み終わっても、最低2日は外出を止められていたので断腸の思いで休む。無欠席記録が途絶えるのが悔しかったが、やっぱりモラルに反することは出来ない。もっとも出席した所で、いつものように楽しく、知的好奇心旺盛に先生の話を集中して聞いてはいられなかったと思う。
父の治り具合が思わしくなく、気が重く、講義どころではなかったであろうと想像がついたからである。
18日から、がくっと食欲が落ちる。熱は下がり、快方に向かっていると安心したのも一時のことで、夕食にはリンゴのすりおろしを食べさせるので精一杯。
19日も、20日の今日も、食べ物を受け付けないと言う。去年の9月に入院する前の症状と同じ。何とか薬をジュースに溶いたり、エンシュアリキッドに溶いたりして飲ませるのがやっと。
インフルエンザの薬で体調が悪いのか、それとも老衰的に体力が落ちて具合が悪いのか儂らでは判断が付かない。妹が訪問医に聞いてくれと言うので、明朝相談することにする。
体力は落ちて来て、ポータブルトイレに行きたくても、もうベッドから身体を起こすことが出来ないので、気配がしたら助けに行く。歩行器で歩くのもおぼつかない。
紙パンツの中にパットを敷いているのだが、歩行器につかまって立たせている間に穿かせてやり、ズボンも穿かせなければならぬ。
今日も一日中隣のダイニングに居て、親父のトイレ行の度に付き合う。
夜、オムツにするとほっとする。ところが本人はオムツにされたのを忘れて、起きてトイレに行こうとする。オムツをしたのだからトイレには行けないと因果を含めるのも辛いものがあるが、こればかりは我慢してもらうしかない。
本当は昼間もオムツにしたいのだが、そうするとわずかばかり残った歩行能力が消滅しそうで、決断できないところなのである。
妹が親父の気持ちを聞き出したところによると、月に何日かはショートステイに行ってもいい、後はヘルパーさんの世話になると言ったらしい。
施設に入ることは頭にないようだ。死ぬまで家に居たいのであろう。
しかし、父は何も分かっていない。ショートステイに行ったら、寝たきりになってしまうのは確実なことを。ヘルパーさんだって、一日中付き添ってくれるわけではないことを。
儂の知り合いの女性は女手一つで、自宅介護で母親を看取った。この人は若くして御主人を亡くし、子育てをし、父も母も最期まで世話をしたのだ。頭が下がる。
この他にも過酷な介護をしている人の話は幾つも耳にする。儂なんか一日で音を上げて逃げ出したくなるようなことをしている人はこの世に一杯いる。
そういう事例を知っているだけに、現状に弱音を吐いてはいられないと思ってはいる。家に居たいと言う親の気持ちは無下には出来ない。
しかし、今のような生活をこれからずっと続けるのかと言われると…
妻の外泊は出来なくなる。それでもいいのか。親父の面倒は最後まで見たとしても、その頃はお袋が今以上に悪くなっているのは間違いない。
儂にもやりたいことがあるのだけれど、諦めなければならないのか。
なるようにしかならん。兎にも角にも、明日、訪問の先生に相談してからでないと。

一番やってはいけないことをやってしまった。
妻が外泊中に病気になってしまったのである。風邪を引いてしまった。大失敗。
11月15日~17日まで、息子夫婦がやっと休みが取れて帰省。妻の外泊は19日~24日。
息子夫婦は二人ともペーパードライバーなので、いつも儂がアッシー君。3歳の男の子がいるので、チャイルドシートを用意して待つ。丁度七五三で、出雲は17日から旧暦の神在月、神迎え祭がある。
妻も孫に会うのを楽しみにしているので、三日間特養に通う。16、17日は息子家族も含め一緒に昼ご飯を食べる。
イメージ 1
だが、最終日の17日には、孫が「ばあばあには会わない」と泣いて拒否する。
特養の雰囲気になじめなかったのと、消毒薬のような匂いが嫌だったようだ。喘息で煙や刺激臭が苦手らしい。最終日だから気持ちよくお別れしたかったから、妻を思うと胸が痛むも喘息の孫も可哀想。
お嫁さんがなんとかなだめてくれて、妻の車椅子を押してくれる。(左の写真)
帰省中も夜中に三時間ほど咳をして眠れなかったそうだ。帰省する前の夜も眠れなかったらしい。そういう話を聞くと、長男も喘息だったので、幼い頃は妻が真夜中でも病院に連れて行ったことを思い出す。
お嫁さんも孫も無理して戻ってくれているので、儂も出来るだけのことはしてやりたくて、孫を連れだして、池でメダカや藻エビ獲りをする。ヤゴまで獲れる。バッタも見つけた。
畑に儂と一緒に「スナップエンドウ」の種も蒔く。息子が田舎をよく見せてやりたいと言うので近所の散歩もした。
神迎え祭前日の16日には稲佐の浜に行く。丁度準備のための作業をショベルカーが始めたところで、まだ閑散として静かな浜辺であった。天気に恵まれた三日間で、一回だけ泣かれたが笑顔で帰京した。疲れが出て喘息が出なければよいがと見送る。
一日休めば、妻の外泊も大丈夫だろうとスケジュールを組んだのであるが、妻を特養に迎えに行き、連れて戻った19日の夜から喉が痛み、咳が出る。
喉スプレーをしても良くならないので、20日の夕方病院へ。立派な風邪でした。
本当ならここで目の前が真っ暗になる所だが、幸いにも妹が18日から助っ人に来てくれていた。この妹は福岡から車で来るので、何か胸騒ぎがした時は必ず予定を前倒しして早く来てくれる。今回もなぜか胸騒ぎがしたそうで、(まさか儂の風邪とは思わなかったであろうが)無理して来てくれたおかげで救われた。
但、妻の世話までは出来ないので、これだけは儂がしないといけない。妻だけではない、老いた親や妹にも風邪をうつしてはいけないから、一日中マスクを二枚重ねして
過ごす。病院でインフルエンザの検査をされた時は、もしインフルだったらどうしようと蒼ざめたものだ。
朝7時に起きるのが一番辛いが、親の面倒を妹が見てくれるので、どうにか切り抜けることが出来た。
儂が風邪を引くのは早春と晩秋と決まっている。早春はもう暖かいと薄着になるのが早すぎて風邪を引く。晩秋はまだ大丈夫と薄着を続けて風邪を引く。来年からはマジで考えないと。
今日24日に妻を送り届けてホッとしたところである。
帰省客の準備を入れると10日間以上、風邪もあって、何もできなかったので、不義理が山のようにたまる。読まなければいけないものが三つ。古文書及び郷土史関連で会わなければいけない人もいる。もう二カ月近く待ってもらっている。畑もイチゴに肥料をやらないといけない。えんどうの種も蒔かないといけない。どれから手をつけたらいいのか。
早く調子を取り戻さないと。風邪だけはぶり返さないように。

要介護1の両親が手間がかかるようになり、要介護5の妻の相手が一番楽になった。勿論特養に入っているからであるが……。先日も好天だったが、今日は風もなく散歩が本当に気持ちが良かった。
イメージ 1特養の近くの小学校へ野球の試合を見に行く。
横断幕まであって、熱の入った応援をしていた。ただの練習試合ではなくて、何かのリーグ戦のようなものをやっているようであった。
特養へ顔出ししても、天気が悪くて外へ出られないと、こっちまで気分が滅入るが、これだけ天気に恵まれると晴れ晴れとした気分になる。
今日のお昼は『カキ飯弁当』を奮発する。おみやげも『たねや』の最中。東京の知り合いが贈ってくれた。いつもはこんな洒落た最中は食べない。口にしたのはいつのことだったか忘れた。皮と餡が別になっていて、挟んで食べる。昼食後に特別サービスで食べさせたらとても喜んでいた。儂も嬉しい。
が、家に帰るとため息の出ることばかり。
発端は10日前に父が仕出かしてくれた。
家では入浴介助までしていられない。浴槽でしりもちをついて立てなくなったこともあり、これからはデイサービスで入浴するようにしたのに、どうしても入ると言ってきかず、母に見て貰っているから大丈夫だと強引に入浴する。湯につかっただけで長湯はしなかったが、母は途中で監視を忘れて引き上げたので、結局儂が上がってからの着替えを手伝う。杖ついて引き上げていったので、後は母に見てもらっていたら
「どうしたの、大丈夫」と、母の声。
何事かと飛んで行ったら、父は部屋の入り口で動けなくなっていて、その場で崩れるように倒れる。儂は咄嗟に背後から抱きかかえるも、支えきれずそのまま父を抱くような格好で倒れる。意識を失い、声を掛けても返事がない。
儂は一瞬死んだかと思った。このまま死ぬのか。人間てこんな風に死ぬのかと思った。倅に抱きかかえられて死ぬならこれもありかとまで思った。その間、数分か。訪問医に電話しようと、当番表を見に行こうとした時、不意に、
「うんこがしたい」と、父が言う。
復活の第一声がそれかよ!人を散々心配させておいて。腹が立ったが、兎に角大事に至らなかったことはよしとしなければと、父を起こし、ポータブルトイレの前まで連れて行ったら、「あっ、出た」だって。思わず天を仰いだ。
翌日、ケアマネに電話し、早速、杖は限界なので、歩行器にし、デイサービスの送り迎えは車椅子にする。ポータブルトイレも便座が温まり、消臭機能もある一番高いやつを購入する。3割負担だから少し助かる。
生活全般も見直し、移動距離を短くするため、父の居室をこれまで妻の病室だった部屋に移し、ベッドも妻のベッドを使うことにする。この部屋ならすぐに玄関に出られるし、台所も隣である。
妻が外泊で戻って来る6日間だけ元の部屋に戻ることにする。
父が倒れた原因は訪問医によると、脱水や血圧の低下が考えられるとのことであった。
やれやれこれで一段落と思ったら、まだ事件は続く。
二日前、朝起きて部屋に入ったら、父が冷たい木の床に屑籠を枕に寝ている。布団は被っていたが。起こしてどうしたのかと聞いたら、ポータブルトイレから戻る時に、ベッドに上がれずに動けなくなってしまったと言う。想像だにしていなかったことに
唖然と言葉を失う。
ベッドは電動で上下できるので、コントローラーの使い方を教えたが、コントローラーの上下の矢印が読めないと言う。目も悪くなっているのだ。トイレとベッドを近づけることで何とか対処しているが、考えなければならない。踏み台が欲しいと父は言うが、上がるのはいいが、今度はベッドから立つとき、ベッドが低くなっているので立ち上がれない恐れがある。どうしたものか。
施設へ入所するにしてもどこも順番待ち。取り急ぎ、介護度の見直しをしてもらうことにする。
そして、もう一人困ったのが母。歯茎が痛むので金曜に歯医者に連れて行く。ためしに病院の名を訊いたら、10年以上通っているのに忘れたと言う。
化膿していたので、三日間昼に飲む薬と、痛み止めを貰うも、もはや薬の管理など出来ないので、儂は家を出ることが出来なくなった。いつかこんな日が来ると覚悟していたが、とうとう来てしまったなあと言うのが実感。昨日の文化の日は、隣保の一畑参りで、みなマイクロバスで参詣したが、儂はとてもじゃないが外出できず。
これからは台所が書斎だ。

↑このページのトップヘ