曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 出雲石見いまむかし風土記

12月13日、1年ぶりに安来の月山富田城へ行く。歴史資料館に富田城のジオラマが出来たことを知り、何としても見に行かねばと思っていたのだが忙しくてなかなか行けなかった。このところの好天気に誘われ、思い切って富田まで車を飛ばす。京羅木山の南の山腹を越える古道を想像するのが楽しいので、一年前と同じ432号線を走って広瀬に出る。
1576218876738天気がいいので城址の木が見える
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資料館野外の模型。
1千畳平。2太鼓壇。ここで刻を知らせる太鼓を打った。3花の壇 4山中(さんちゅう)御殿。城主の居館があった。 5七曲り。険しい登り道。 6三の丸。 7二の丸。 8本丸。
A菅谷口。 B御子守口。 C塩谷口。 富田城に入る道はこの三つ。
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北から見た富田城。
イは新宮党の本拠。尼子国久館跡。尼子最強軍団新宮党の本拠。毛利元就の策略にかかって、尼子晴久に攻められ滅びる。これによって尼子氏は滅亡の道を辿る。
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南から見た富田城。C塩谷口。
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安来歴史資料館に展示されたジオラマ。これを見たくて来たのだが、これは江戸時代初めの堀尾氏時代の復元ジオラマである。高石垣が築かれ、屋根は瓦葺きになっている。尼子氏時代には高石垣はなく、屋敷の屋根も板葺きか茅葺である。だが、このジオラマを見れば、山の尾根筋に無数の削平地を作り、そこに曲輪を作り、城の防備としたことが分かる。武家屋敷も山の中に集められていることがわかる。恐らく尼子時代もこのように家臣団の屋敷は山の中にあったと思われる。これは戦国時代の城のかたちとしてはとても珍しいものである。
戦国時代、城は詰めの城と言って、戦いの時だけに籠るもので、普段は山の下に住む。このように山の中に居館を建て、家臣団も住まわせるのは、他には南近江の守護大名六角氏の観音寺城など数えるほどしかない。
富田城のある月山(がっさん)も、観音寺城もとても大きい山で、拡がりを持っているという共通点がある。戦国時代の山城作りは山の形も変わるほどに掘って、削ってを徹底する。削平地が沢山できれば曲輪も沢山できる。自然とそこに家を建てるようになったのではないだろうか。
Bの御子守口から4の山中御殿に行く道自体はだらだらと上るゆるやかな道で、七曲りのような急峻な細い道でもない。今も山中御殿跡近くに民家もある。このような山容の特性が作り出した城なのかと推測している。
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A菅谷口入り口               B御子守口入り口
道が狭くて対向車とすれ違えないと注意が出ていたので引き返す。数年前に初めて来た時は無謀にも侵入し、無事山中後殿に辿り着きそのまま下って、Bの御子守口に出た。菅谷口から入った道は険しく曲がりくねっていた。
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C塩谷口入り口
手入れしてなくて荒れている。民家の裏で、その先侵入止めの竹が置いてあったので入らず。

1→2→3→4→5→6→7→8の道順で月山山頂を目指す。
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1千畳平                   2太鼓壇から下を見る
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3花の壇                   花の壇から山中後殿へ
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4山中後殿入り口             御殿敷地奥を望む(東側)
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御殿敷地奥の雑用井戸         御殿敷地奥の菅谷口へ通じる出入口
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御殿北側                  御殿西側の塩谷口へ通じる出入口
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七曲り登り口
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七曲り途中の山吹井戸。奇麗な湧水。
七曲りは昔は整備されてなくて、足元は悪く、急坂部分の手すりもなかったように思う。昔は山中御殿まで車で来たが、今回は千畳平から歩いているので喘ぎながら登る。一年間、夕食後の30分の散歩をしていたからこそ登れたと思う。すれ違った地元の人から、頂上に着いたら十分に休んでから降りないと膝を痛めますよと忠告される。
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6三の丸石段                三の丸から二の丸を望む
尼子時代にはこのような石垣はない。
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7二の丸から京羅木山を望む。     二の丸から本丸を望む
富田城を攻めた大内義隆や毛利元就は富田川をはさんだ京羅木山に陣を構えた。
二の丸と本丸の間は深い堀切で隔てられている。山頂を深く掘って作ったものである。この二の丸からは備前焼の大きな甕が三つ見つかっている。水をためたのではないかと言われている。
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二の丸下の本丸へ通じる道       8本丸
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本丸奥の勝日高守神社。        本丸から中海を望む
遠く霞んで見えるのが島根半島。写真ではよく分からないが島根半島の美保関まで見える。右手から美保関に向かって伸びる弓ヶ浜(出雲国風土記で国引きの綱の役目をした)も見える。こうして見ると安来の港がいかに天然の良港だったかよくわかる。美保関では船の帆の大きさで通行税を決めていた。
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左の写真。手前の山はジオラマで青線で囲った部分の一部。 ジオラマでは小さな削平地が沢山あったが、堀尾時代にはすでに放置されていたのでこのように木々が鬱蒼と生い茂っている。
右の写真。山頂から3花の壇4山中御殿を見おろす。
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大土塁                     御子守口へ下りてゆく途中の景色
左の写真。山中御殿から御子守口へ降りる途中にある長さ130m、頂上部幅20メートルもある大土塁。山中御殿を守るために作られた。
右の写真
御子守口へ降りる道の途中は階段状に田圃が続いている。こういう所もジオラマを見ると、一部には家臣団の屋敷があったのだろう。写真向かって左側は切り立った崖で曲輪もあるが、右側にも武家屋敷がなければ守りにはならないことに気が付く。
お昼は二の丸でコンビニで買ったお握りを食べ、ゆっくり休んで降りるも、七曲りを降りたところで足がよろめき思わず手すりにしがみつく。

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12月1日出雲弥生の森博物館で『古代出雲人人骨DNAから日本人のルーツを探るプロジェクト研究報告会』が行われた。これは『東京いずもふるさと会」が猪目洞窟(出雲市)と小浜洞窟(松江市美保関)出土の人骨のDNA解析プロジェクトをクラウドファンディングで立ち上げたもので、その解析結果の講演会である。
前日熊本から戻ったばかりだったがこの講演を聞き逃す訳には行かない。当日は特養へ行き妻の昼食介助をして、夕方にはショートステイをしている母を迎えに行く、その間の時間に幸いにも出席できた。
最初の報告は斎藤成也国立遺伝学研究所教授。
現代出雲人のDNA分析。3代前まで出雲に暮らしていることが明確な40人のDNAを他の地域と比較したものである。その結果は出雲はDNA的には東北や鹿児島に近いことが分かる。言語学的にも出雲弁と東北弁はいわゆるズーズー弁で似ていると言われていた。儂もなぜこんなに離れているのに言葉が似ているのか不思議でならなかったが、教授は鮮やかに解説してくれた。
すなわち、旧石器時代に始まった日本列島への渡来は従来は2段階と言われていたが、実は3段階に渡っていて、3回目の渡来人は北九州から瀬戸内海、近畿、関東へと列島中心部を進んだのではないか。するとどういうことが起きるかと言うと、渡来人が進んだ中央に延びる長いベルト地帯はより混血が進む。
教授は面白いことを言う。「渡来人は都会を目指すのです」なるほどと思う。蘇我氏は日本のどこに上陸したか知らないが、彼らは政権の中央に辿り着いている。先進地帯ではDNAの変化が他地域よりは当然大きくなる。
周辺地域は取り残される訳である。出雲も東北も鹿児島も取り残されたのである。離れた出雲と東北とどんな交流があったのだろうかとばかり考えていたのがとんだ的外れだった訳だ。目から鱗とはこのことである。
よくアイヌとオキナワは似ていると言われている。これも取り残されたDNAと考えれば納得が行く。
教授は古代史は門外漢のはずなのに、日本人のDNA変遷のエポックメーキングに「スサノオ」と「国譲り」と「大和政権の国造派遣」を上げる。「スサノオ」神話に象徴されるような出来事、「国譲り」神話に象徴されるような出来事、「国造」は大和朝廷の地方支配。これらがDNAの変遷にあずかっているのではないかと。科学者の立場からの論は新鮮で歴史の専門家とは異なる説得力を持つ。教授はこうも言う。「私は年代はいい加減だと思いますが、系図と言うものはある程度は信じていいものではないかと思っているのです」
妙に説得力があるのは、DNA解析に話が面白かったからか。
神澤秀明博士は国立科学博物館人類研究部研究員。
猪目洞窟の出土人骨の報告。猪目洞窟はこのブログでも以前紹介した、出雲国風土記で『黄泉の国』の入り口と語られている洞窟である。昭和23年に発見された人骨が『弥生の森博物館』に収蔵されている。
6体のうち3体が縄文系、3体が渡来系と分かるが、資料年代は1000年もの幅がある。
そのうち2体の核ゲノムは現代人より縄文的であったそうだ。現代人の中にある縄文人の割合は10パーセントなのだが、出土人骨は15パーセントであったそうだ。
残り4体のDNAも良好なので、これらから核ゲノムデーターが解析出来たら、猪目の弥生から古墳時代と現代出雲人のゲノムを比較し、山陰地方の遺伝的変遷が出来るそうだが、後2年はかかるらしい。
この記事の何十倍ものデーターや資料をレジュメとしてもらっているのだが、とても紹介しきれないので簡単な記事で申し訳ありません。

3月2日。大社文化プレイスうらら館だんだんホールにて、
出雲大社御遷宮完遂記念
文化庁平成30年度戦略的芸術文化推進事業として
『古代出雲は、日本の最先端を走っていたのだ!―出雲文化と歴史のトークショー』
が行われた。出演は辰巳正明國學院大學名誉教授と、あのと言うか、何かと話題の社会学者古市憲寿。
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マスコミ的に話題の人が来るせいか、珍しいことに入場券もネットで申し込んで抽選待ち。当選のお知らせを印刷して持って行かねばならなかった。600席が満席だと主宰者は言っていたが、儂の隣は空いていたから、御大層に事前申し込み、抽選なんて面倒なことはしなくてもよかったのでは。

冒頭の「出雲大社御遷宮完遂記念」について一言。知らない人は、「えっ、まだ御遷宮していたの?」と、思われるかもしれないが、無理もない。誰もが平成25年の本殿遷座で「平成の大遷宮」は終わったものだと思っていたのだ。そういう儂も。
ところが、大遷宮が終わった途端、観光客ががたっと減った。儂もブログに書いたことがあるが、あの騒ぎは何だったのかと言うくらい寂しくなった。慌てたのは関係者である。本殿遷座が終わった後も、境内や境外の御社殿の修造は続いていたので、御遷宮はまだ終わっていませんと宣伝しなおしたのである。と、儂は聞いている。
間違っているかもしれない。お膝元の人間がおとしめるようなことを言うなと叱られたら、ゴメンナサイである。
その修造もようやく終わったので、「出雲大社御遷宮完遂記念」と銘打ち、「文化庁平成30年度戦略的芸術文化推進事業」と、これまた聞いたことのない、大層なトークショーが行われた次第。
辰巳先生は初めて聞く名前で、考古学や古代史の専門家ではなさそうだし、古市憲寿に至っては、「この人、古代出雲について語れるのかな?」と、半信半疑余り期待しないで聴講した。
ところが、辰巳先生の基調講演で不安は吹き飛んだ。
先生は万葉や中国文学研究がスタートだった人らしいが、後年、文化の変遷が歴史を動かして行くと言う視点に立って、歴史を読み解いて行った学者と知る。
分かりやすい例を挙げると、出雲に加茂岩倉遺跡と言う多数の銅鐸が出土した遺跡がある。先生は銅の時代は銅に神が宿ると考えた時代である。長く続いた銅の時代はやがて鉄の時代に変わる。加茂岩倉遺跡は丁度その時代に当たる。
「埋められた沢山の銅鐸は古い文化である銅の文化を埋葬したものと考える」と、言われたのだ。その瞬間、長い間、胸につかえていたものがすーっと消える。胸に落ちたと言うやつだ。加茂岩倉の銅鐸については多くの学者がいろんな説を唱えていたが、どれも今一つ納得が行かなかったのだが、「古い文化の埋葬と言う概念」は、まさに衝撃だった。一つのことを考え続けて来た人とはすごいものだなあとしみじみ思わされる。
この時代はまた、ヤマタノオロチの尻尾から鉄剣が出て来る神話が作られるのである。
儂はこれまで古事記は大和朝廷が出雲の神話を簒奪し、統一国家の歴史に組み込んで行ったものだと言う考えからどうしても離れられなかったのだが、東アジアを含めた大きな文化の変遷を受け入れた時、出雲の神話も大和朝廷の神話も変わらざるを得なかったのだと認識を新たにしたのであった。
ヤマタノオロチは古い文化の神(動物神)⇒これがスサノオと言う新しい文化の人格神にとってかわられたのだ。
国譲りは、文化交代の時代に、土着民の代表たるオオクニヌシが高天原の理解者として国を譲ったことを意味する。高天原は葦原の国(土着民)を正しく養う責任があると言う考えに立っていた。これらはみな東アジアの思想を反映したもので、一島国の神話もその文化交代の洗礼を受けたのだ。そう考えると、古事記や日本書紀を支配者に都合がいいように書かれた歴史書であると言う考え方などとても表面的でなものと思わざるを得ない。もちろんそういう一面があったにしても、意識していたのかどうか分からないにしても、新しい時代に生きている人々が作り上げたものが古事記だったのかなと思った。
ここで、印象的だった辰巳先生の言葉を紹介する。
「神話のある国は幸せです。帰ることろがあるのです」
それに続けて、
「中国には神話はありません。儒教の国になったからです。孔子が怪力乱神を語らずと言ったために、漢民族は自らの神話を消してしまったのです」
全部は紹介できないが、示唆に富む、久しぶりに刺激的な講演だったことを報告します。
この先生を前にしては、古市氏の役割はトークショーのショーの部分だけ担当したようなものであった。受けた話を二、三紹介する。
前夜の古市氏の宿は、出雲大社の前の老舗旅館「竹野屋」。ここが竹内まりやの実家とは知らない氏は、何で竹内まりやのポスターが貼ってあるのか分からなくて不思議に思ったと明かしたら、地元の人たちには大いに受けた。
続けて、芥川賞落選ネタ。
芥川賞の選考前に、古市氏は林真理子と対談した。そこで、林真理子が芥川賞選考委員である某作家をこき下ろした。実はその作家と林真理子は仲が悪く、林真理子はその人が大嫌いだったので、「連載エッセーで吉祥寺のパスタが美味しいなんてくだらないことしか書かない」とけちょんけちょんにこき下ろしたのだそうだ。
落選後、古市氏は「林真理子とあんな対談したから落とされたのだ」とからかわれたと話したら、聴衆は爆笑していた。吉祥寺のパスタがうまいと言った作家が誰かは教えてくれなかった。誰なんでしょうね。儂は調べる暇はないし、興味もないけれど、なんとなくあの人かなと思っている作家がいる。
もう一つ、落選ネタ。
「私は落選した後、好感度が上がったんです」
これも受けた。
去年の秋からずっと、興味のある講演があったが聴講どころではなかった。久しぶりにいい刺激を受けた。学問の力はすごい。人間を豊かにしてくれる。

守護所とは守護大名の領国統治の拠点、政庁である。出雲で言えば京極氏の出雲経営の本拠である。だが、室町時代の守護大名には在京義務があるので、京極氏が出雲に常駐することは出来ない。そこで守護代に出雲の統治を任せる。それが尼子氏である。教科書で学んだように、守護代が守護大名から実権を奪い、戦国大名となって行く。尼子氏もその代表的な例である。私はその政治状況の中で、京極氏の守護所がどこにあり、どこへ移って行ったかをずっと調べていたが、未だに守護所の場所は特定できていない。
ただ、この辺りにあったであろうと言う研究者たちの見解はほぼ一致している。
その場所は松江市の「平浜別宮(八幡宮)=現在の武内神社」あたりである。JR山陰線東松江駅の西側から南側にかけての一帯で、意宇川の河口で中海に面している。室町時代には八幡津(中海の港。美保関を通って日本海に出る)や八幡市場があり、政治経済の中心地だったのである。問題はそこから先である。応仁の乱を経て、(出雲でも東軍の京極氏は西軍の石見の山名氏や国人層と戦いを繰り広げていた。平浜別宮が西軍勢力に奪われることもあった)出雲も地殻変動を起こし始めた時、果たして守護所はいつまでも昔通りの同じ場所にあり続けたのであろうか。
政治や経済の中心は富田城(守護代尼子氏の拠点)のある富田(安来市広瀬町)に移って行く。応仁の乱の混乱時には、京極氏も富田城に籠って戦っている。
研究者の中には、守護所はどこか特定できない(守護所は軍事施設ではない)し、いつ移ったかもわからないが、富田城周辺に移ったのではないかと言う人もいる。
実は私もその考えに与していて、ひそかに目星をつけている場所がある。
かねてより、足を運んで、この目で確かめてみたいと思いながら、なかなかその機会がなかったが、12月16日の日曜日、「風土記講義」が終わった後、安来の富田城へ行くことにした。
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(左)安来市広瀬町に向かう山道    (右)正面が広瀬町富田城址
   松江側から手前安来に登る。      手前が富田川(飯梨川)
   右手が京羅木山             
この山道は432号線。松江の意宇平野側から、京羅木山の南側を越えて、安来市広瀬町に至る道である。戦国時代には富田城を攻める軍勢は富田川(現在の飯梨川)を挟んだこの京羅木山に陣を敷く。天文11年(1542)、大内・毛利の連合軍は出雲に攻め込み、京羅木山に一年間布陣するも退却した。永禄5年(1562)、毛利が出雲に攻め込んだ時もここに布陣し、永禄9年(1566)、富田城は落城する。
昔から富田と出雲松江方面を結ぶ道だったそうなので、この道も以前から一度通ってみたかったのである。
ナビなしのおんぼろ軽で、スマホも持ってないので、道路地図頼りに走るが、道を間違え、荒神谷博物館を11時半に出て、9号線からどうにか432号線に辿り着き、雨が降り出した中、1時に富田城に到着。
432号線は古代出雲の周辺部をぐるっと回る道であった。途中「意宇川」を越える。
橋のたもとに、上流熊野大社の案内あり。ここもいつか行ってみよう。
イメージ 3←新宮谷の南谷。
右手手前に富田城がある。
新宮谷は富田城の北側にある谷で、北谷と南谷の二つに分かれていて、奥の山から下って来て一つになる。
新宮党と呼ばれる尼子最強軍団の拠点で、往時には多くの寺や武家屋敷があったと言われている。尼子経久の次男尼子国久が率いていたが、天文23年(1554)、経久の跡を継いだ尼子晴久に討滅されてしまった。新宮党盟主尼子国久の居館はこの左側の谷、北谷にある。
なぜ、新宮谷へ来たかと言うと、これが今回の目的で、ここに京極氏の「守護所」があったのではないかと前々から思っていたからである。
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南谷に入り、富田城菅谷口の前を通り過ぎ、600mほど行くと右手、富田城から続く山の麓に「十二所神社」がある。尼子氏が勧請したと言われているが、確かなことは分からない。入り口の鳥居から200mほど行くと古錆びた神社がある。無人の小さな神社だが、鳥居の前は箒の目が残っている。
「守護所」と言う建物の性格上、神社や寺の近くにあるものなので、私はこの古い神社の近くにあったのではないかと思うに至ったのである。富田城とは近過ぎず、遠過ぎもしない。「十二所神社」の他にも、多くの寺や神社があったらしいことは地名から窺える。新宮党のど真ん中というのは気になる所だが、新宮党が強大になるのは後年のことである。
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建物はこの二つと倉庫のようなものが一つ。戦国時代まで遡れるものはなかったように思うが、詳しく調べたらあるのかもしれない。昔はもう少し広かったかもしれない。
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(左)神社を出た東側         (右)参道
神社の裏は山。裏山を越したところにあるのが月山で、富田城が築かれている。
参道の両側は屋敷跡と思われる石積みが幾つも連なっている。古くは武家屋敷があったと思われる。ぐるりと眺めて「守護所」を想像してみた。
イメージ 10帰り道、すぐ近くに「山中鹿之介」の屋敷跡がある。
7年前に来た時には、富田城に登り、新宮党跡と山中鹿之介の屋敷跡は見ているのだが、折角来たので、ついでに覗いてみる。
7年前に来た時は、荒れ放題で手すりもなかったが、きれいに手入れされていた。

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7年前は草ぼうぼうで足を踏み入れることも出来なかったが、荒れ果てていた方が兵どもが夢の跡でよかったような気がする。残念なのは今の若い人たちは山中鹿之介と言っても誰一人知らないことだろう。滅びた尼子家を再興するために孤軍奮闘した武将です。織田信長が毛利を攻めた時、御家再興を目指す鹿之介たちは毛利攻撃の先兵として利用される。その冷徹なやり口に対して、同じ毛利攻めの指揮をとっていた秀吉は同情的であったと言われている。本能寺の変が起きる4年前に毛利に殺される。もう少し頑張っていればと思われる。

帰りは、もう一度432号線を逆に走る。目的地はかつて守護所があったであろう「平浜別宮」である。富田からの道筋と距離を確かめるためである。富田からはだらだらの曲がりくねった山道であったが、「駒返し」という所にはトンネルがあったから、
昔はもっときつい山道だったであろう。下りは急で一気に降りると、最初の信号を右折して北上する。古代出雲の国衙跡はこの道の左手に広がる。すぐに9号線に出て松江方向へ走る。意宇川を越えれば「平浜別宮」。ぶんぶん飛ばしたから、富田を出て25分で到着する。うっかり距離を測り損ねたので正確には分からないが20㎞強ぐらいであろうか。
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創建は平安時代の終わり頃らしい。この地が京都の石清水八幡宮の社領だったので平浜別宮と呼ばれ、出雲国の八所八幡宮の総社となる。 境内社として、武内宿禰を祀った武内神社があり、今では「武内さん」と呼ばれて親しまれている。
案内図の右上が平浜八幡宮。中央の茶色部分が国衙跡だから、いかに古代出雲の中心部に近かったか分かる。水色の川は意宇川。
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とても大きな神社である。7年前にも来たが久しぶりにお参りする。やるき達磨があったので、やる気が出るように水をかける。
古い文書には、京極政経の子、材宗(きむね)の「御れう人」が八幡にいると記されているそうだ。材宗は北近江で同族の京極高清と戦って破れて死ぬ。北近江を失った政経は出雲に下向。その時、材宗未亡人も子の吉童子丸を伴って出雲に下向したと思われる。ここでいう「八幡」が漠然と八幡領を意味しているのか、平浜八幡の中に庵を作って住んだのかは分からない。
近くには「安国寺」があり、京極政経が葬られている。こういう事実を鑑みると、没落したとはいえ、京極氏の「守護所」は八幡領にあり続けたと言えなくもない。
いつの日か、古文書が発見されるか、守護所跡が発掘されることを待つしかないのか。

先日、出雲市塩冶町在の親戚のお葬式があった。そこで、儂が「曽田」の発祥を探っていて、塩冶に「曽田」と言う地名があることを話したら、後日、親戚の一人が「出雲塩冶誌」のコピーを送ってくれる。その小地名の項に、
〇中世、塩冶八幡宮への寄進状に「そたノ後」
〇慶安4年(1651)塩冶村御検地帳に「そた」
〇明治9年・下塩冶村道水路取調帳に「曽田堤」
が、あることが分かる。その人が、「出雲塩冶誌」を作った人を紹介してくれたので、今日(7日)、大雨の中訪問する。
元公民館長のIさんは82歳翁。ワープロが出始めた頃から古文書を解読する作業を進めていて、膨大な資料を作っておられた。ワープロ化されていることがどれだけ後学の者に役立つことか。頭が下がる。独学で古文書の勉強をし、塩冶の土地台帳の古いものが広島大学にあるので、何度も広島大学に通ったと言われる。儂に見せたいものがあると用意されていた資料もあり、不自由な体でコピーも取って下さる。
「曽田」関係のみならず、御維新で官軍が出雲を通過する時の緊張した様子を知らせる資料や、検地の時、百姓が「うそいつわりは申しません」と血判した資料などのコピーを見せてもらう。これは珍しいものらしい。
しかし、Iさんをもってしても、曽田の地名の謂れや苗字との関係は不明。
出雲図書館にIさんたちがまとめた「出雲市民文庫」があるので、読むことをすすめられる。その足で図書館へ。

市民文庫3に、
〇寛正3年(1462室町時代)9月「日御碕神社神田打渡状」に、「貮段神東村(塩冶村の前身)、坪者多田曽田在」との記述を発見。

市民文庫6には我が菩提寺の高円寺(臨済宗)の先代住職の話が載っている。
我が現住所は出雲市荒茅町というが、その前身は古荒木村と荒木村と茅原村が明治に合併して出来た荒茅村である。住職曰く。「塩冶から荒茅に移ってきた曽田姓で代数が大きい家は菩提寺は塩冶の神門(かんど)寺(浄土宗)です」
神門寺を菩提寺にする曽田を三人くらいすぐに名前が出て来る。いずれも古い家だ。

その日、偶然、その話を補強する話を教えてくれる人あり。
荒茅の南に、また別な曽田さん(菩提寺は高円寺)がいるのだが、その人で12代目。儂と同じ歳。その人の家には、「自分たちが荒茅に移った時、塩冶から5人一緒に移った」と言う言い伝えがあるそうだ。それが、全員曽田姓だったかどうか分からない。実は儂も12代目である。となると、5人一緒の開拓グループの中にわが家も入っているようだ。状況証拠しかないけれど、我が家の先祖は、出雲の中心塩冶郷(風土記の時代から続く)から、湿地のド田舎に移ったのだ。

ここまで書いて、なぜ曽田の地名が出来たのか、曽田の姓がどうして出来たのかまだ答えが出ないのだが、お待たせしました。いよいよ表題の【「そた」は美女だった】
のお話を紹介する。

市民文庫3に「塩冶村史」からの一部が紹介されている。
『(前略)彼の孝女だけは一心に苗を植えていた。老母を養うために雇われ。賃を得ようと思って田植えをし、一刻も休んではならんと働いているのである。そこで勅使が出雲に下向になさったわけを知らせて、履(くつ)と絵にひきあわせると、この女は丁度作ったように符合したといふ。この女は「そた」といふものであったので、この地を後に「曽田」といふことになったといふ」

「塩冶旧記」によると、
『(前略)王は(夢さとしにより)使者を出して貴女を求めしに、使者玉津の処まで来たりし時、多くの田植え女の中に全身より光のさせる女一人居たり、仍って使者はこれを見つけて「あそこにいるのがソンダ」と云ひてその姫を連れかへれり。それよりこの地を曽田と称するに至れりと称す』

これによると、「そた」と言う名の美女がいて、それが地名の始まりとなるのだが、
にわかには信じ難い。その通りだったら、これほど嬉しいことはないのだが、いかにも作りものっぽい話である。そもそも曽田と言う地名も、姓も日本のあちこちにあるのだから、日本中の曽田がすべてこの話を発祥とするには無理があろうと言うものだ。

このシンデレラに似た話には元ネタらしき話がある。
「日本伝説集」によると、
「光仁天皇は。ある夜、出雲大社の神のお夢を見られた。大神は一枚の画像と一足の履をさずけて、「この美女の画像と履をしるしに、国々に御幸なされよ。世に二つとない美女をえさせられる」と告げた。帝はお喜びになって、お供を連れて旅だった。
(略)
宝亀2年の5月、御輿は出雲の国に入った。神門の原に立つと、遠くに大社の黒い森が霞んでいた。早乙女たちは田植えの手を休め、我先に御幸を迎えようとして道に上がった。この時、苗田にただ一人残って働く処女があった。侍臣の一人が不審に思って声を掛けた。「それなる女、お前も早く来て尊い画像を拝むがよいぞ。富貴を欲しくは思わぬか」処女は「尊いものを拝みとうございますが、雇われる身は、手を休めるわけにはゆきません」と答えた。処女は上朝山の里の生まれで、父は三歳の時に遠国に去り、母の手一つで育てられたが、その母は病床に倒れ、いまは里人の厚意にすがって働いていたのである。
侍臣は律儀な処女に深く感じいった。近づいてみると、その処女はかの画像の美女に瓜二つであった。招き寄せて履をはかせると、それは所持の履にしっくりとあった。
処女はやがて帝につかえるようになり、吉祥姫と呼ばれた。姫は御子を産んだのち、老母が重病になったので上朝山に帰った。帝もその後を追って姫とともにしばらく神門郷の智井の宮に住まわせられた。帝が崩御されたので、所原の王院山に御陵を築いた。それが院の塚である。姫の塚は上朝山にある。

「そた」美女の話は、上記の話を元ネタに作られたと考えるのが自然だろう。
それにしても、なぜ、「そた」と言う名前が出て来たのか?女の名前で「そた」なんて存在するのだろうか。後の話で「ソンダ=尊田」とあるから、こっちのほうが地名の発祥に近いのかもしれない。現時点では、たまたま曽田という地名に住んでいて、曽田と言う人が地名や名前に値打ちをつけるために作った話かもしれないと思っている。
依然として雲をつかむような話である。しかしながら、真偽のほどはさておき、これだけ色々な話が出て来るとは予想外だった。
さらに調べ続けたら、どんな話が出て来るか、楽しみではある。乞うご期待。

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