曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 小説「石見岩山城主多胡辰敬」

第四章 初陣(2)
 

 年が明けて、ようやく出雲から文が届いた。

 大社造営奉行を拝命したので辰敬も心して勤めよと認めてあったが、文面からだけでは一体誰に対して勤めるのかさっぱり判らなかった。亡き御屋形様にか、京極家にか、尼子家に対してなのか。

 出雲にも戻れるように取り計う。そう遠くはないと思うのでしばし待てとの事だったが、造営奉行になった父はそれどころではないのではないかと辰敬は当てにしない事にした。と言うか、出雲に戻りたいのかどうか、自分でもよく分からなかった。京極邸にいるのは辛いが、都と別れたいのかと問われると正直別れたくはなかった。

 最後に嬉しい報せがあった。いや、正確には吃驚仰天したと言うべきか。

 姉の袈裟の縁談が決まったのだが、相手はなんと尼子孫四郎だったのである。

 民部様の次男である。昔、富田の守護所の近くで、新宮党の少年達に袋叩きに遭った時、止めに入った少年である。

 よりによって大好きな姉が尼子家に嫁ぐ事になろうとは。運命の皮肉に辰敬は複雑な心境であった。だが、姉のためには素直に喜んでいいと思った。男らしく大人っぽい少年だった孫四郎は、きっと凛々しい若武者になっている事だろう。民部様は好きになれないがあの孫四郎なら異存はない。袈裟の良き夫になる事は間違いない。辰敬にとっても、良き義兄となることであろう。

 まだ公表されていないので他言はならず、重々心得ておくようにと念押ししてあった。

 途端に辰敬は気が重くなった。

 この縁組が公けになった時の周囲の反応を想像したのだ。造営奉行拝命に続き、尼子家の縁に連なる栄誉を周囲はどう思うか。出雲でさえ羨望の眼差しを浴び、すり寄る者あらば、激しく嫉妬の炎を燃やす者もいるだろう。ましてや、この京極邸においてはをや。

 辰敬は読み終えた文を燃やした。

 

 この文が来ても来なくても辰敬は自分なりの御奉公をしようと決意していた。家中の誰とも顔を合わせたくなかったので、今後は夜の警固に専念し、昼間の出仕は一切しないと宣言した。文句は返って来なかった。それどころか辰敬が毎夜勤めるのをいいことに当番を怠ける者が出る始末だった。

 辰敬が詰め所や門番所に立ち寄っても高鼾で眠り込んでいる者もいた。士気の衰えは目も当てられなかった。律儀に巡回しているのは辰敬一人だけである。

 だが、暗い静かな邸内を見回っていると、どこからともなく吉童子丸の喚声が聞こえて来た。蹴鞠の弾む音も聞こえて来た。濡れ縁に立つ御屋形様の笑みも幻のように浮かんで来た。懐かしい思い出が次々と甦り、夜の独りの見回りこそ、亡き御屋形様への御奉公にふさわしいと思えた。

月のない、墨を流したような真っ暗な夜だった。京極邸の長い塀に沿ってぐるりと回り、常御殿の裏手に差し掛かった。いつもの決まった巡回路だが、足を拾うように歩いていると、風に乗って遠く西の方から人の騒ぐ声が聞こえて来た。

 辰敬は耳を澄ました。火事なら、風下だから、すぐに皆を起こさなければならない。だが、騒ぎはこちらに向かって来るかに見えたが、途中で向きを変え、次第に遠ざかって行った。火事ではなかったようだ。盗人か追剥が追われているのかも知れぬ。安堵した途端、大きな欠伸が出た。さすがに眠い。夜回りに専念し始めた頃は気持も張り詰めていたが、若い身にも連夜の疲れが積り重なる頃だったのであろう。

 まだ夜は長い。しんしんと冷えて来る。辰敬は思わず胸前を掻き合わせた。身を縮めると震えながら、俯くように歩き出した。

その途端、常御殿の塀を曲がったところで、どすんと辰敬は人にぶつかった。思わずわっと声を上げた。相手も驚いたようだったが、次の動きは素早かった。黒い人影はさっと態勢を立て直すと、右手を突き出し、辰敬の口を抑えた。その勢いでのしかかるように辰敬を仰向けに押し倒すと、素早く背後に回り、左の腕を首に回した。

 辰敬は倒れたまま片手で口を塞がれ、もう片方で万力のように首を締められていた。 両足が背後から腰に絡みつき身動き一つ出来なかった。騒がれないように絞め殺そうとしているのだ。明らかに人殺しに長けた者の技だ。辰敬は背筋が凍りついた。喉仏が今にも潰されそうだった。

 辰敬は無我夢中でもがいた。

 何かの弾みで、辰敬の口に男の手の指の一本が入った。何指か分からなかったが、思い切り辰敬は噛みついた。

 うっと呻いて、男が怯んだ。

 辰敬は必死に抜け出すと、起き上るや腰の刀を抜いて斬りつけた。

「だらあっ」

 その声にはっと男が見上げた。

「わぬしは……」

 男は転がって間一髪、辰敬の一撃をかわすと、起き上りざま、地面を斬り付けた辰敬の太刀を蹴飛ばした。

 慌てて辰敬が太刀に飛びつこうとすると、その前にぬっと男が顔を突き出した。

「待て、俺や」

 聞いた事のある声だった。

 目が慣れると、

「わぬしは……」

 石童丸だった。

 確かに鼻がぶつからんばかりのところにあるのは石童丸の顔だったが、辰敬が怪訝な顔をすると、石童丸はにたりと笑った。

「もう河原者やない」

 確かに頭には小さな烏帽子を被り、小袖に短袴の雑色のようななりをしている。

 夢にも忘れた事のない、あの禍々しい河原者の姿はどこを探しても見つからない。変わらないのは闇の中でも光っている鋭い眼光だけだった。

「驚いたようやな」

 にやりとその目が笑った。

 河原者をやめたと言うが、そう簡単にあの身分から抜け出す事が出来るものなのだろうか。

「今年の祇園会は散々やった……」

 ぽつりと呟いた。

「大内の兵が出張って来よったんや」

 思い出すのも忌まわし気に吐き捨てた。

「さすがに強かった。侍所の侍とは比べものにならん。まるで歯が立たんかった」

 身体が震えていた。

「仰山仲間が殺されてしもうた」

 その声も濡れていた。

 今年の印地で河原者が負けた話は辰敬も耳にしていたが、御屋形様達が出雲に下向して間もない事もあり、石童丸に思いが至る事もなかったのであった。

「俺も命からがら逃げた。今思うと生きとるのが不思議なくらいや。必死に逃げ回りながら思うたんや。河原者はつまらん。もういやや。絶対に河原から抜け出したるとな」

 その目がぎらぎらと光っていた。

 負けまいと辰敬は言い返した。

「それで、盗人になったんか」

「あほう、俺は侍になるんや」

「侍」

「やっぱり侍や。この世は侍のもんや。侍にならんとあかん。侍になって、皆を見返してやるんや。河原者と見下した奴らを見返してやるんや」

 闇さえも焼き尽くす、火を吐くような声だった。

「ところで、ここは誰の邸や」

「京極家や」

「何やて……」

 驚いたように目を丸くした。

「わぬし、京極家中やったとは。因縁やなあ……昔、河原者をいじめた侍所所司の邸やったとは……」

 暗い邸内を見回すと、

「さすがに広いが……幽霊が出そうや。噂には聞いとったが落ちぶれたもんやなあ」

ふんと鼻で嘲った。

 辰敬は敢えて尼子家中とは訂正しなかった。

 その時、西頬が騒がしくなると、石童丸がはっと身を固くした。正門の門番との押し問答が風に乗ってかすかに聞こえて来る。この邸に逃げ込んだ者を目撃した者がいるので改めさせろと要求しているようだ。

「ちっ」

 と石童丸が舌打ちした。

「何をしたんや」

「大内兵を殺したんや」

「えっ」

「仇討ちや。市中見回りの大内兵を見たらどうにも我慢できんようになったんや。一人が立ち小便しよったんで、後ろから丸太ん棒で殴りつけてやったんや」

 表にいるのは大内の追手だった。かなりの人数のようだ。すると、正門の方から辰敬を呼ぶ声がした。

「我を呼んどる」

 はっと二人は顔を見合わせた。

 石童丸は落ちている刀にぱっと飛びつくと、辰敬に突き付けた。

「下手なことを考えるんやないで」

 辰敬は喉元の切っ先を見下ろしながら、必死に言い返した。

「返事せんとかえって怪しまれるぞ」

 石童丸は迷ったがふと刀を下ろし、辰敬の前に顔を突き出した。

「ようし、ほなら、取引や」

辰敬が怪訝な顔をすると、石童丸は探るように問いかけた。

「わぬし、いちが今どこにおるのか知っとるのか」

 思いがけない言葉に自分でも激しく動揺したのが分かった。忘れたつもりでいたのに、その言葉を聞いた途端、木屑に火がついたように心が燃えあがってしまったのだ。

 辰敬は首を振った。

 知っているのは土倉の狒狒爺の嫁になった事だけで、土倉の名も場所も知らなかった。諦めるために敢えて聞こうともしなかったのだが、今更のように未練の強さを思い知らされた。動揺を見透かしたように、石童丸は下卑た声で囁いた。

「ええおなごになっとるでえ……」

 辰敬を呼ぶ声が近づいて来た。

「うまく追い払ったら教えたる。ええな、変な考えは起こすんやないで」

 辰敬は正門まで行くと、異常はなかったことを告げた。大内兵の追手は不服気に引き上げた。

 辰敬が戻って来ると石童丸はにやりと迎えた。

「東山山荘の近くに結構な寮を建ててもろうてなあ、そこで暮らしとるのや」

 将軍義政が建てた銀閣寺へ行く途中の静かな所だと言う。

「偶然に知ったんや。鴨川の印地で負けて、大内兵に追われて逃げる途中、逃げ込んだ別荘の中におったんや。遠くから見ただけや。もちろん向こうも気がついとらん。俺もすぐにそこを出て、近江の坂本まで逃げたんや。後になって調べたら、二条大路の泉覚坊と言う土倉の寮と分かったんや。ま、後は自分で確かめるんやな。ほなら、そろそろ行くわ」

 と、行きかけて、

「この刀、もろておくで。また大内の田舎もんと出食わさんとも限らんよってな」

 落ちていた鞘を拾い、刀を納めると腰にさした。

「ところで、わぬしとは長い因縁やのに、名を聞いとらんやったな。なんちゅう名や」

「多胡辰敬」

「たこ……おもろい名やな。またどこかで会う事もあるかもしれへん。その時は、見とれよ。俺は立派な侍になっておるからな」

 言い捨てると石童丸は肩を揺すって闇の中に消えた。

 

 明け方、警固を交代すると、辰敬は長屋の裏で湯を沸かす。冷や飯に湯をぶっかけると、凍てついた空きっ腹に湯漬けを流し込み、倒れるように寝込む。起きるのは昼過ぎである。 その後、暗くなるまで、辰敬は暇を持て余していた。

 出雲からの文で言われるまでもなく、多胡家の恥にならぬよう勤めなければならないことは判っていた。時間はあるのだから学問をしなければならないことも。武芸にも励まねばならないことも判り過ぎるくらい判っていた。だが、文机に向かう気にもならず、いくら気持を揮いたてても木太刀を握る気も起きなかった。疲れと寝不足のせいではない。石童丸に出食わしてからこの方、ずっとこんな状態だったのである。

『ええおなごになっとるでえ』

 その声が頭にこびりついて離れなかった。

 春まだ遠い底冷えのする長屋で、辰敬は衾にくるまって美しい女になったと言ういちを夢想していた。虚しい事だと言い聞かせ、振り払おうとするのだが、振り払おうとすればするほど反って夢想を掻き立てられるのであった。

 夢想の中でいちはいつも後ろ姿だった。美しい小袖を着て、腰まで届く長い黒髪が揺れている。だが、いちは決して振り返らなかった。大人の女になったいちが、どんなに美しい女になったのか、見たくもあれば見たくもなく、夢想する事さえ息苦しくなり、悶々とのたうち回るのであった。他人には見せられない、こんな不様な姿を情けなく思うのだが、そう言う時は決まってこう言い訳していた。

(多聞さんだって……)

 いや、多聞ほどひどくはないと言い訳を重ねた。多聞のように勤めを放棄するほど堕落はしていない。己が本分は果たすと我が身を揮いたて、凍てつく夜の邸内に出て行くのであった。

 そんな夜勤明けのある朝、辰敬は二条大路の扇屋まで使いを頼まれた。去年、将軍義尹入洛の行列を見物した大店である。政経が生前に注文した扇があったのだが、突然の下向に続く急死で、納品が宙に浮いていた。それをどうしたものか問い合わせて来たのだ。

京極家では受け取る事にしたが、その返事の使いを鷲尾が辰敬に押し付けたのである。

辰敬は不承不承用を済ませたが、扇屋を出た二条大路でふと石童丸の言葉を思い出した。石童丸はこの先にいちが嫁いだ土倉があり、店の名を泉覚坊と教えた。

西へ向かってひとりでに辰敬の足が動き出していた。店を見るだけのつもりだった。後になって思うと魔が差したとしか言えなかった。行ってもいちがいないことは聞いていた。眠いし疲れてもいたから、店の場所が判ったらすぐに戻るつもりだった。

西洞院大路と交叉した辻の北東の角地に土倉泉覚坊はあった。辰敬は店の角に立った。二条大路面が八間、西洞院大路面は六間。高々とうだつをあげた大店である。並びの店が間口二、三間であるから、その大きさが一際目につく。屋根も庶民の町屋が薄いぺらぺらの曽木板を屋根竹で押さえ、石の重しを乗せたのに対して、泉覚坊は冬の光を浴びてぴかぴかに光る真っ平らな板葺きである。西洞院大路面の店先には大きな甕が並び酒の匂いを漂わせていた。泉覚坊は酒屋も兼ねた土倉酒屋であった。何よりも辰敬を驚かせたのは店の奥に聳える二階家であった。都でもまだ二階家は珍しかった。恐らく本邸であろう。本邸に並んで屋根の高い質蔵が二棟と酒の醸造蔵も見えた。

(いちはこんな大店の御寮人になってしまったのか……)

少年の想像を越えた威容に声を失い、魂を抜かれたように立ち尽くしていた。やがて背けるように目を転じると、虚ろな目に西洞院大路の中央を流れる西洞院川が映じた。北で堀川から分れた川で南流している。堀川ほど大きく、深くもない。枯れ草の斜面を降りると、清らかな流れに染物が泳いでいる。

ここから南は染物が盛んで、さらに南へ下ると、紙梳きの町で、古紙や反古を梳き直して宿紙を作っている。

目の前の西洞院川に掛かる板橋を渡って行くと、次が油小路である。南へ下って行けば、多聞の家までそう遠くはない。ぼんやりとそんな事を思い浮かべていると、不意に店先にばたばたと数人の奉公人達が飛び出して来た。

振り返ると、奉公人達は二条大路を東から来た法体の男にぺこぺこと頭を下げた。

男は二人の供を連れている。

頭は剃り上げ、白いものが混じる眉毛の下には黄色く濁った眼がとろりと光っている。腫れたように顔は膨らみ、二重の顎にうっすらと胡麻塩の無精髭が伸びている。店先の甕のような体躯を大儀そうに引きずっている。冷たい風が吹くと、老年に差し掛かった不健康な身体を練絹の衣に首まで埋めた。

この土倉の主に違いない。

都の土倉の多くは山門の坊主が山を降りて経営している。それ以外に相国寺などの寺の坊主や、公家の家司、武士の家臣、有徳の町人なども経営しているが、その数は圧倒的に山門出の坊主が占めている。この男も恐らく比叡山の沢山ある山坊の一つの坊主だったに違いない。悪相だ。強訴をしたり、借金の取り立てをしたり、乱暴狼藉を恣にする叡山の山坊主がそのまま齢を取ったように思えた。

 目の下の隈を見る迄もなく、朝帰りは明らかだった。

 昨夜はいちを……。凍てつく夜を震えながら見回っていた、あの頃に……。考えたくもなかった。来なければ良かったと思った。なぜ来てしまったのかと後悔した。あんな男の慰み者になっているなんて。

(ああ、思うまい。思うまい)

 淫らで忌まわしい光景を振り払うように激しく頭を振ると、男が暖簾を潜る前に、その場を逃げるように離れていた。

第四章 初陣(1

 

 辰敬が御屋形様は民部様に殺されたようなものだと思うのだから、いわんや京極家中においてはをや。

 邸内で辰敬はますます孤立して行った。

 御屋形様下向後も存命中はそれほどでもなかったのだが、死後は辛く当たられる一方であった。

(いつまでいるのだ。もう用はない。早く出雲に返れ)

とまで言われた。

 だが、辰敬は誰に何と言われようと、御屋形様亡き今こそ御奉公の真価を問われていると思っていた。

御屋形様は死んでもその魂はこの邸に留まっている。いつの日か吉童子丸も戻って来るだろう。その時のためにもこの邸を守らねばならぬ。それが御屋形様の御恩に報いることであり、御奉公ではないのかと。

辰敬が知っている多聞ならしたりと頷いたであろうが、多聞は相変わらず出仕しなかった。

 多聞はあの女と一緒になって人が変わってしまったようだ。

 こうして家中の憎しみの籠もった視線を一身に浴びていると、多聞がいてくれたらと切実に思うのだが、辰敬はもう多聞を恃むのは諦めていた。

 多聞の事は考えない事にしていたが、一人ぼっちは辰敬に嫌でも考える時間だけはたっぷりと与えてくれた。

(どうして御屋形様の死がこんなにも悲しいのだろう)

 将棋の才を愛で、歴史絵巻の如き英雄武将の活躍や逸話を沢山物語ってくれた。あろうことか都へも呼んでくれた。門外不出とも言うべき代々證文も見せてくれた。

田舎の子にとっては信じられないほどの至福を与えてくれた人なのだから悲しいのは自然の感情だ。

 でも、ここで少し立場を変えて考えてみたらどうだろう。

御屋形様が誇る佐々木一族こそ、多くの国を滅ぼし、多くの命を奪い、多くの人々を悲嘆の底に突き落として来たのではないのか。

 だからこそ、佐々木一族の栄華が続き、京極家の繁栄がもたらされたのではないか。

あの代々證文に記された京極家の歴史は夥しい血で贖われて来たのだ。御屋形様もその血塗られた歴史を受け継ぎ、自らも血みどろの戦いを繰り広げて来たのだ。

 民部様も文明十六年に守護代を追放された時、御屋形様に殺されていたかもしれない。

 もしはあり得ないが、もし、あの時、御屋形様が民部様を殺し、名実ともに出雲の守護であり続けたなら、辰敬はあれほどまでに御屋形様が好きになっていただろうか。

 否。

出会いすらなかったであろう。

 将棋の強い子供として召し出されたかもしれないが、褒美を頂戴して終わりであったろう。

思うに、好きになったのは、初めて会った日に、御屋形様の目に光る涙を見たからであった。将棋に負けて悔し泣きする辰敬を羨ましいと言い、自分は泣く事も忘れたと呟いた老人に心惹かれたからであった。

親子兄弟が戦で死んだのを泣く大人達は沢山見て来たが、そんな理由で泣いた大人を見たのは初めてだった。

いちを好きになったのとは違った。

いちを好きになった時は、姿を垣間見ただけで、胸が破裂しそうなくらい苦しかった。側にいるだけで恍惚として、それを最高の幸せだと感じていた。

御屋形様も側にいるだけで幸せだったが、それはとても静かで心安らぐものだった。何も飾らず、己を作らず、素のままの自分でいることが出来た。

御屋形様が嘘偽りのない、正直な姿を見せてくれたからだと思う。

いちを好きになったのは女を好きになったのであり、御屋形様を好きになったのは人を好きになったのだ。と、今になって思う。

同情や憐れみは後からついて来た。

御屋形様が出雲に失意の下向をしていたのを知ったのはもっと後のことだった。北近江も出雲も失った老人であることを。

その老人は背負いきれないほどの荷を背負い、押し潰されそうになりながらも、見果てぬ夢を追っていることを知り、辰敬はますます好きになったのだと思う。

 辰敬は自分でも武士の子としては優し過ぎると思っていた。

その後も、奈落の底に落ちるように、悲運の坂を転がり落ちて行く御屋形様を見ていると、子供とは言え、何かしてあげなくてはいられなかった。及ばずながら少しでも力になりたいと心から思った。それが好きになった人へのせめてもの恩返しだと思った。

そして、ようやく御屋形様の唯一の希望である吉童子丸の守りになれ、吉童子丸のよき兄になれるかと思った時、辰敬の願いは水泡に帰してしまった。

 

 師走に入れば、正月の準備が始まるのだが、二年続けて喪中の正月を迎える京極邸は静かなものだった。

 その日、出仕して御用部屋に入ると、常にも増して憎しみの籠もった視線が迎えた。

「御出世やなあ」

 鷲尾が皮肉たっぷりの言葉を浴びせた。苦手の多聞がいないので、近頃はかさにかかって意地悪をして来る。

 訳も分からず当惑していると、

「何や、聞いとらんのか。真っ先にわぬしに報せが届いていると思ったのになあ」

「ほんまにわぬしの親父殿はたいしたもんや」

「あやかりたいものや」

 普段は口も利かない者達も嫌味を浴びせて来る。

 どうやら父の忠重の身に変化があったようだ。出世と言うからには昇進したのだろうが、辰敬には出雲からの報せはまだ届いていなかった。やっかみと憎しみの入り混じった顔を見ると、訊くのも業腹なので辰敬は逃げるように部屋を出た。

 

 結局、多聞に聞くしかなかった。

 だが、風早町へ近づくにつれ足取りが重くなった。それはそうだ。多聞の事は考えない事にしていたのだが、こうして風早町に向かっていると、女と暮らす多聞の姿が浮かび上がり、腸が煮えくり返るのであった。

辰敬を恥を知れと叱ったくせに、自分は女を、しかもよりによって尼僧を連れ込んでいたのだ。確かにあの女は不思議と心に響く経を読んだが、だからと言って許す気にはなれなかった。多聞がふしだらで汚らわしく思えてならなかった。今では多聞を完全に見損なっていた。そんな多聞と本当は顔を合わせたくはないのだ。会っても一体どんな顔をして話をすればいいのか。

町屋の間の細い路地の入口まで来たところで、辰敬の足は止まってしまった。

 よほど引き返そうかと思ったが、父の事は知りたい。

 踏ん切りがつかず、ぐずぐずしていると、

「おっ」

 吃驚したような声に振り返ると、多聞が突っ立っていた。辰敬に遭遇して思わず声を上げたようだ。

辰敬も驚いたが、その目は多聞が抱えている女物の小袖に吸い寄せられていた。古着屋で買って来たのであろう。尼僧には派手過ぎる、嫌でも目につく色模様である。多聞が選んだのであろうが随分趣味が悪いと辰敬は思った。

 多聞はばつの悪い顔を隠すかのように、ことさら明るい声を上げた。

悉皆(しっかい)入道殿は大層な御出世じゃなあ。祝着々々」

 忠重は悉皆入道を号していた。やはり多聞は知っていた。

多聞にまで嫌味を言われたような気がして、辰敬はむっとした。

 多聞は怪訝な顔をした。

「何の用じゃ。御出世の報告か」

「我は知らんのじゃ。お邸でも皆出世したと言うが、父上はどうなさったのじゃ」

 噛みつくように、早口で一気に吐き出した。

 多聞は意外な顔をすると、古着を抱えたまま、この前と同じ寺の境内に入って行った。

 そして、以前の見慣れた仏頂面に戻ってこう言った。

「杵築(出雲)大社造営奉行に任じられたのじゃ」

 ぽかんとした辰敬の顔を見て、如何にそれが大変な任務か、多聞は噛んで含むように教えてくれた。

「任じられたのは亀井能登守秀綱様と多胡悉皆入道忠重様のお二人」

 辰敬は驚いた。亀井秀綱は尼子経久の側近中の側近である。重臣の筆頭である。守護代を追放された経久を支え、苦難の二年を共にした、経久の最も信頼の篤い武将である。

 その亀井秀綱と並んで奉行に任じられるとは。

「亀井様は立場から言えば総奉行じゃな。現場で実際の指揮を執るのは入道殿じゃ。出世と言うよりも、大変な重責を負う事になられたのじゃ。ま、それだけ民部様が信頼を置いておられる訳じゃ」

 例によって一言皮肉を付け加える事を忘れない。

「一口に大社(おおやしろ)を築くと言うが、これは遷宮と言って、何十年に一度、本殿を造りかえる大事業じゃ。莫大な経費と時間を要す。杵築大社は出雲国の一の宮じゃ。古来遷宮は国を挙げての事業であり、出雲の国主の務めじゃった。古くは出雲国国司が務め、武家の世となっては、出雲守護佐々木家が務め、それは京極家に受け継がれたのじゃ。しかし、余りにも大事業であり、出雲の国が明徳の乱で乱れた後は、京極家の力を持ってしてもなし難く、最後に遷宮が行われてから、百年近く途絶えておったのじゃ。それを民部様が復活させようと発願されたのじゃ」

 多聞にしては珍しく饒舌であった。

「出雲の国主の務めなら、それは吉童子丸様の務めじゃないのか……」

 素朴な疑問だった。

 返事はなかった。

「吉童子丸様は守護職を譲られたのじゃろう」

 実は辰敬は政経死後の仕置がどうなっているのか知らなかった。吉童子丸が守護に任じられたなら、家中も晴れやかになるだろうに、そんな雰囲気もないので、疎んじられている事もあって訊くに訊けないまま、何となく妙に思っていたのだ。

 疑問をぶつけると多聞は険しい目を向けた。

「そうじゃろう。じゃったらおかしいのじゃないのか……」

 重ねて問うと、

「言うな」

 怒ったような声に辰敬は一瞬怯んだ。

「えっ……いや、あのう、譲り状と代々證文を多賀様と民部様に託されたのじゃから」

「よう判らんのじゃ、わしも……」

 多聞はため息を漏らした。

「吉童子丸様が守護として披露された話は聞いておらん。聞いておる事はただ一つ。民部様が預かった代々證文を写し取られたと言う事だけじゃ」

 辰敬は驚いた。

「写し取った……」

 その意味がすぐには分からなかったが、あの古色を帯びた文書の一つ一つが真新しい紙に、書き写されて行く光景を想像すると、身体の内から言い知れぬ震えが込み上げて来た。

 あの代々證文は京極家の宝。御屋形様にとっては分身とも命とも言うべきものではないか。それを平然と写し取る行為に、辰敬は死後も尚御屋形様が冒涜されているような気がしてならなかった。

「なして、そげなことを」

「写しを取る事は必ずしも非難されることではない。紛失すると困るので写しを取るし、関係者が多い場合は何通も写しを取る。それは案文と言い、正本と同じ価値があるのじゃ。ただ、民部様が写した意図はあからさまじゃ。尼子家は京極家から分かれた家じゃ。佐々木一族を継承する資格があることを、代々證文を保持する事で証明したいのじゃろう」

「と言う事は、民部様は吉童子丸様を守護としては認めていないと言う事じゃないか。御屋形様の遺言はどうなったのじゃ」

 多聞は答えなかった。

「吉童子丸様と大方様はどうなさっているのじゃろう」

 それは辰敬がずっと心に掛かっていた事だった。

「治部様御寮人は御屋形様と治部様を弔うために、平浜別宮に庵を建てて入られたと聞いておる」

 平浜別宮は平安時代に京都の石清水八幡宮を勧請して創建したので、別宮と称されている。安国寺の近くにあり、由緒ある神社である。

「すると吉童子丸様は守護所にお一人でおられるのじゃろうか」

「さあ……もしかしたら多賀様か、あるいは京極家ゆかりのどなたかの邸に引き取られているのではなかろうか」

 どこにいようとも寂しいことには変わりはない。どれほど荒み苦しんでいる事か。その時の姿を知っているだけに、吉童子丸の絶望的な孤独を思うと、身を引き裂かれるような気がした。すぐにも飛んで行って、抱き締めてやりたかった。

 そんな辰敬の気持ちを知ってか知らずか、多聞は現実と言うものを語った。

「形の上では吉童子丸様が守護じゃろう。じゃが、幕府は出雲の仕置は民部様に任せておる。そうしなければ政が立ち行かぬからじゃ。民部様は最早国主と同じ役割を果たしておいでなのじゃ。民部様は正式には守護ではないが、自らは国主と思っておられる。出雲の誰もがそう思っておる。じゃからこその大社造営なのじゃ」

 きっと鋭い目が辰敬に当てられた。思わずたじろいだ程の、怖いような顔だった。

「年が改まったらいよいよ造営が始まるじゃろうが、実はな、杵築大社造営の発願はもっと前の九月の半ばになされていたのじゃ」

 悔やむ声に変わった。

「わしも知らなかった。御屋形様がお亡くなりになった後で知ったのじゃ。重ね重ねの不忠者よ」

 嘲るように顔を歪めた。

「女に魂を抜かれて、腑抜けになっておったからじゃと言いたいじゃろう」

「えっ、いえ、そんな……」

 ずばりと言い当てられて、辰敬はしどろもどろになった。人の事を言えた立場ではない。いちの事ではどれだけ恥を晒したか。

 それよりも、辰敬が驚いたのは、九月の半ばと言えば、御屋形様が病で伏せっていた頃と聞いていたからだ。

その疑問に答えるかのように、多聞は吐き捨てた。

「あたかも御屋形様が病に倒れるのを待っていたかのように、大社造営を宣言されたのじゃ」

 何とむごい振る舞いではないか。死の床にある老人に対して、余りにも無慈悲で、残酷な仕打ちではないか。

「勝ち誇ったように宣言されたのじゃろうな。御屋形様にはなしえなかった大社造営を民部様がやるのだと。どちらが国主かこれで分かったろうと言わんばかりにな」

 そう続ける多聞の顔は悲痛だった。

「御屋形様はどんな思いで聞かれたのじゃろう……」

 辰敬は切なくて、胸が塞がった。

「復讐じゃよ。民部様は追放されて、逃げ回た二年の苦難を忘れてはおられん。いつかは恨みを晴らす。その一念で出雲を切り取って来られたのじゃ。同情や憐れみなど欠片もあるものか。見事に復讐を果たされ、さぞ満足であられたろうよ」

 辰敬が難じるような目を向けると、多聞はひたと見返した。

「勘違いするな。御屋形様は民部様に膝を屈したのではないぞ。憐れみを請われたのではないぞ。これだけは忘れるでないぞ。御屋形様は最後まで民部様と戦われたのじゃ。いかに民部様が国主然と振舞っても、御屋形様は決して認めぬ。守護はあくまでも吉童子丸様と命を賭けて主張されたのじゃ。多賀様と民部様のお二人に譲り状と代々證文をお預けになったのがその証じゃ。預かったのはお二人じゃが、その事は、天と地と出雲のすべての民が見ているのじゃ。民部様はすぐにも守護職を望んでおられたじゃろうが、すぐにはなれんじゃろう。結局出来る事と言えば、代々證文を写し取るぐらいの事だったのじゃ。栖雲寺殿京極宗濟(政経)こそ戦国の武将だったのじゃ」

 その言葉に辰敬ははっと多聞を見返した。

 今の辰敬にとってはどれだけ救いの言葉になった事か。多聞が辰敬の知っている多聞だった事もちょっぴり嬉しかった。

 

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(13

 

「えっ」

「死期を悟られたのじゃ」

 多聞は震えていた。声も身体も。握り締めた両の拳も。

「ああ、わしはなんちゅう不忠者じゃ……大馬鹿者じゃ……」

 その拳でがんがん頭を殴りつけたが、はっと我に戻ると辰敬の胸倉を掴んだ。

「御屋形様の病は何じゃ。ご容態は。余命はいかほどじゃ」

 辰敬は首を振った。

「詳しい事は何も……安国寺に伏せっておられるとしか」

 多聞は愕然とした。

「なに、御屋形様は富田ではないのか。守護所におられるのではないのか。一体どういうことじゃ」

「我もそう思っちょったのじゃが……」

「儂とした事が、そんな事も知らなかったとは……ああ、御屋形様に申し訳が立たぬ……」

がっくりと首が折れたように項垂れてしまった。

 それについては、辰敬も意外に思ったものだ。下向した政経一行は富田城下へ入るのが当たり前である。そこに守護所もあるのだから。それなのになぜ富田から北西に遠く離れた中海の湖岸に近い安国寺にいるのであろうか。

考えられる事は幾つかあった。御屋形様は守護所に入ったものの体調が悪化し、死期を悟って安国寺に移られたのかも知れぬ。もしかしたら出雲に辿り着いた時にすでに容態が悪くそのまま安国寺に入られたのかも知れぬ。一番考えたくないのは、御屋形様が守護所に入ることを拒否され、安国寺に追いやられたことである。民部様ならやりかねないと辰敬は思った。

 安国寺とは、室町幕府を開いた足利尊氏が、天平時代に聖武天皇が国家鎮護の為に日本全国に建立した国分寺のひそみに倣って、一国に一寺を定めたものを言う。

 だが、国分寺のように新しい寺を建てるだけの財力がなかったので、各国においては由緒ある古刹が安国寺と改称された。

 出雲国においては竹矢郷内の円通寺が安国寺とされた。

 この辺りは、中海から宍道湖へ続く水路の南に広がる豊かな田園地帯(現在の松江市)で、古代には出雲国国衙があった場所である。古来より政治経済の中心地であり、鎌倉の世になってからは、守護所は長い間この地にあった。

安国寺は御屋形様の宿所としてふさわしい格式ある寺と言ってよいのだが、その竹矢郷すらもすでに尼子家の直轄領となっている。

そのような地で最期を迎える無念さいかばかりであったろうか。

確かなことは長旅が失意の人の命を縮めたのである。御屋形様がそのような旅をしなければならなかったのは民部様のせいなのである。御屋形様が死んだら、殺したのは民部様だ。全身の血が音を立てて煮え立ち、噴き出さんばかりに逆流した。わなわなと全身が震えた。

 それなのに、御屋形様は民部様に吉童子丸様の後見を頼まざるを得ないのだ。

 震えが止まらなかった。

 ふと気がつくと、多聞の背中が去って行くところだった。がっくりと肩を落とし、よろよろと遠ざかって行く。多聞のそんな姿を見るのも初めての事だった。

 あの家に戻って行くのだ。

 見送りながら、辰敬はあのあばら家の中の垂れ下がった筵の向こうには確かに人の気配があったことを思い出していた。

 多聞の狼狽えようは尋常ではなかった。辰敬は直感で女だと思っていた。

 多聞が出仕しない理由がやっと判った。多聞にとっては一番縁遠い存在だと思うのだが、多聞とて大人の男だ。女が出来ても不思議ない。しかし、あんまりではないか。いちへの未練を捨てきれない辰敬をあれだけ叱っておきながら、自分は女を作っていたとは。辰敬は憤慨した。

 女にうつつを抜かしていなければ、国元の異変にも気付かないほどの失態は犯さなかったはずだ。

 家中から遠ざけられていたとは言え、同罪の自分は棚に上げ、辰敬は多聞を責めた。

(だらずは多聞さんじゃ。見損なったぞ)

 それにしてもどんな女を引きずり込んでいるのか。御屋形様を案じながらも、多聞を狂わせた女が気になる辰敬であった。

 

悲報は追いかけるようにもたらされた。

十月も終わり近く、その年の最初の木枯らしが吹いた夜であった。

早馬が京極邸の門を叩いた時、辰敬は来るべきものが来たのを悟った。

 覚悟は出来ていると思っていた。しかし、御屋形様の死を告げ、『譲り状と代々證文は多賀伊豆守様と民部様に預けられました』と告げる使者の言葉は、一瞬にして辰敬をただの少年に引き戻した。

 わあっと辰敬は叫ぶと駆け出していた。声と一緒に涙が吹き出していた。

 辰敬は泣きながら暗い夜道を走った。

 木枯らしに負けない大きな声で、わあわあ泣きながら走っていた。武士の子のその年にしては恥ずかしい大声で。

不意に譲り状の文言が何処からともなく聞こえて来た。

 

譲り与う

一 惣領職の事

一 出雲隠岐飛騨三箇国守護職の事

一 諸国諸所領の事

 右 孫の吉童子丸に譲与するところ実正なり 領知を全うすべきの状くだんの如し

 永正五年十月二十五日  宗濟

  佐々木吉童子丸 殿

 

幻聴ではない。辰敬にははっきりと聞こえた。それは御屋形様の悲痛な声であった。今際(いまわ)(きわ)の、命を振り絞る最後の声であった。心あらばと尼子経久にすがる声だった。

 遠い空の果ての出雲から聞こえて来るのだと辰敬は信じた。

 同時に代々證文の束が、御屋形様に初めて見せて貰った日の光景とともに瞼に浮かび上がった。

 唐櫃の蓋を開けた時、ふわりと湧き上がった古紙と墨と紙魚の匂いも漂って来た。

 あれは御屋形様の命とも言うべき紙の宝物だ。それを、今際の際に民部様に託す御屋形様のお気持ち。如何ばかりであった事か。

 辰敬は胸が引き裂かれそうだった。

 泣いた。

(誰憚ることはない。我はそれくらい悲しいのじゃ。泣きたいのじゃ。泣くしか出来ないから。出雲まで届けと泣かせてくれ。木枯らしよ、我の声を届けてくれ)

と、泣きながら走った。

 多聞のあばら家の前まで来た。入り口に揺れる筵の隙間から、微かな明りが漏れていた。本当なら飛び込んで行きたいところだったが、躊躇わせるものがあった。立ち止まり、声を掛けようとしたが、嗚咽で声にならない。

 すると、筵の向こうから、ぬっと多聞の顔が現れた。

 驚いた事に多聞は赤い目をしていた。明りは薄暗かったが、細い小さな目も腫れ上がっているのが判った。

 二人は黙ったまま見詰め合った。その鼻先に線香の匂いが漂って来る。

 多聞はすでに知っていたのだ。

 あの後、多聞は相変わらず邸には姿を見せなかったが、何処からからすぐに情報が入るように手配していたのだろう。

「入ってもらったらええのに」

 女の声だった。

 ぎくっとしたのは多聞の方だった。ばつが悪そうな顔で引っ込んだ。

 尚も躊躇っていると、

「お入りなさい。遠慮せんと」

 女の声が促した。

 辰敬はおずおずと筵をめくった。

 じりじりと燃える油皿の明りの中に、白い頭巾を被った若い女が坐していた。若いと言っても二十四、五か。お世辞にも美人とは言えない。一目見ていちとは若さも違うが、比べものにならないと思った。化粧気のない瓜実顔に憂いが漂い、寂しげな女であった。もっと美しい、男を狂わせるような魔性の女を勝手に想像していたので、辰敬は拍子抜けした。考えてみれば、多聞と絶世の美女の取り合わせはあり得ない話だ。多聞とは似合いかも知れぬが、多聞はこの女のどこに虜になったのだろう首を傾げざるを得なかった。

どんな経緯があったのか、何をしている女なのか窺い知れなかった。頭巾を被っているが僧衣はまとっていない。身にまとっているのは色模様の小袖である。この季節なのにまだ単衣の古着である。が、女の手には数珠があり、膝の前には線香が煙を燻らせている。

 多聞は神妙な顔で女の斜め後ろに坐すと数珠を取り出した。背を向けたままぶっきら棒に言った。

「御屋形様の御冥福をお祈りしようとしていたところじゃ」

辰敬ははっとなると、慌てて多聞の背後に座った。土間のそこまで筵は敷いてなくて、冷たい土の上だったが、弔いと聞いたら冷たさも忘れた。

女は低い小さな声で経を唱え始めた。

 その声を聞いた瞬間、辰敬はこの女が紛れもなく尼僧と知った。まさかと思っていたが、尼僧を連れ込んでいたとは。辰敬は驚き、呆れ果てた。

 咎めるような目で多聞の背を睨みつけたが、それは一瞬の事であった。土間に読経が響き渡ると、たちまちその声に引き込まれてしまったのだ。

 しっとりとした声がしみじみと胸に沁み入ったのである。悲しみを優しく包み込む声だった。こんな素晴らしい読経は聞いた事がなかった。魂の読経と感じ入った。

多聞は微動だにしなかった。そのいかつい岩のような身体にも、読経が沁み込んで行くのが辰敬には見えるような気がした。

 いつしか多聞と女へのわだかまりは忘れていた。

辰敬は手を合わせ、御屋形様の冥福を一心に祈った。だが、御屋形様を思えば思うほど、祈ろうとすればするほど、悲しさが込み上げて来るのであった。

 御屋形様の期待に何一つ答えられなかった事が悲しかったのだ。御屋形様にあれほど可愛がってもらったのに、自分はその何十分の一もお返しが出来なかった。御屋形様が病の床にあることも知らなかったとは。

 吉童子丸にも何もしてあげられなかった。

 鞠探しも諦めたも同然であった。余りの不甲斐なさが申し訳なくて、悔恨の涙がこぼれ落ちた。

 もっともっと出来た事があったろうに。

 こんな涙しか出ない事に。こんな声しか出ない事に。こんな泣き方しか出来ない事に。心の底から泣きたかったのに。そう思った途端抑えに抑えていたものが破裂した。

 不意に読経が止まった。

 白い頭巾が微かに揺れた。多聞の目もこちらを窺っていた。

 大きな声を上げてしまったようだ。身を縮めると、

「人はみな悔恨で泣く」

 辰敬ははっと多聞を見詰めた。

(そうか、多聞さんも……)

 白い頭巾もそっと頷いたように見えた。

 辰敬はほっと救われたような気がしたものの、すぐにも逃げ出したくなった。それは恥ずかしかったからだけではなかった。

 読経が途切れたのを潮に、

「だんだん」

 と頭を下げると、女の怪訝な顔を尻目にあばら家を出た。

「有難うと言う意味じゃが……」

背後に多聞の声が聞こえた。

辰敬は自分が邪魔者のように感じたのだ。

 あの家には多聞と女の二人だけの、他人を拒絶する空気が満ちていたのである。

 だが、冷たい夜道で、辰敬は一人になった事を悔やんだ。

悔恨がいっぱい詰まった悲しみを、さっきまでは三人で支えていたのに、今は一人で背負わなければならなかった。その重さがずしりとこたえたのだ。押し潰されそうだった。

 この重さに耐え、押し潰されずに生きて行くことなんて出来るのだろうか。

胸を一杯に塞ぐ大きな岩のような悲しみが消える事などあるのだろうか。

 時が経てば……。

 いちを忘れたように。

 辰敬は首を振った。

(いや、本当に忘れた訳ではないけれど)

 日々にいちが疎くなって行くのは確かだった。

 そんな風に御屋形様も遠くへ行ってしまうのだろうか。

 御屋形様を忘れる日が来るとしたら、そう思ったら、ぞくっと身体が震えた。

 そうはなりたくない。

 足許をかさかさと枯れ葉が追い抜いて行くと、夜道の先に吸い込まれるように消えた。

 その暗い道がまるで冥府への入り口に見えた。そう言えば、出雲には黄泉の国への入り口があるのだった。

 その道を一人行く御屋形様の寂しげな後ろ姿が不意に浮かび上がると、また込み上げて来るものがあった。

 

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(12

 

 甲高い声が辰敬の耳を貫いた。

「若様」

必死になだめるのはおまんの声である。

「御屋形様も大方様もお待ちになっておられます」

「嫌じゃと言うたら嫌じゃ」

「そのような聞き分けのないことを仰せになられては困ります。涼しいうちに出立いたしましょう」

「鞠がなければ行かぬ」

 辰敬ははっとなった。

 二人で遊んだあの鞠の事に違いない。父材宗の形見の品でもある。

「捜します。必ず見つけ出して、後からお送りいたします」

「嫌じゃ。いま持って行くのじゃ。鞠がなければ行かぬ」

 暫く遊んでいなかったが、吉童子丸にとってあの鞠は大切なものであり続けたのだ。奥に閉じ籠っていたが、本当は辰敬と蹴鞠をしたかったに違いない。

 辰敬の胸にじんわりと熱いものが込み上げて来た。

 父の遺品で、楽しい思い出の籠もった鞠。そのかけがえのない鞠が、荷造りの混乱で行方が分からなくなったのであろう。

「鞠を持って行くのじゃ」

 悲鳴に似た叫び声が上がった時、辰敬は見送りの列をかき分け、玄関に駆け込んでいた。

 式台に飛び上がり、次の間に走り込むと、仁王立ちで抗う吉童子丸の前にがばっと両手をついた。

「吉童子丸様、辰敬にお任せ下さい」

 吉童子丸は驚いたように目を見開いた。

「辰敬が捜します」

「辰敬……」

「お約束します。見つけ出し、必ずお届けします」

 心底からそう思ったのだ。そうしなければいけない。それが自分の使命だとおもったのである。その気持が届いたのか、 

「本当じゃな」

 すがりつくような目で吉童子丸は叫んだ。

「あの鞠だぞ。本当に見つけて、お前が持って来てくれるのじゃな」

 鞠を蹴り合っていた時の顔に戻っていた。どんな難しい鞠も必ず蹴って返してくれる辰敬を信じて疑わぬ目をしていた。

 辰敬はうっと返事を呑み込んだ。たとえ見つけても、辰敬が届ける事はあり得ないであろう。

辰敬はひれ伏すしかなかった。

 吉童子丸が出て行くまでひれ伏し続けた。

 その気配が玄関に降りると、辰敬は奥へ駆け込んだ。

 すぐにも鞠を見つけてやりたかった。

 今なら間に合う。吉童子丸に手渡す事が出来るから。

 だが、奥はまるで嵐が通り過ぎた跡のような有様だった。長櫃や唐櫃、様々な箱や行李、入り切れなかった衣類や家財道具が片づけ切れないまま無造作に置いてあった。

 吉童子丸の部屋も納戸も、棚の中も慌ただしい旅立ちである事を物語っていた。

 辰敬は手当たり次第に動かせるものは動かし、蓋のあるものは片っ端から開けて回った。

 まだ間に合う。走れば追いつける。そう言い聞かせながら捜しまわったが、鞠はどこにもなかった。

 小庭にも飛び降りた。転がり落ちているかも知れないと思ったのだ。生い茂る羊歯に首を突っ込み、花や草をかき分け、庭石の後ろを覗き込み、木の根元を犬のように周り、縁の下にも潜り込んだが、どこを探しても見つからなかった。

 もしやと木の枝を見上げたが、引っ掛かっている訳もなく、蝉が鳴いているだけであった。

 どれくらい捜していたのだろうか。まだ間に合う、まだ間に合うと捜しているうちに、ずるずると時が経ってしまったようだ。

辰敬は飛び石の上にへたり込むように尻を落とした。石は火傷しそうなほど熱かったが、暑気と汗でぼうっと上気した辰敬は立ち上がる気力も萎えていた。

 今からでも必死に走れば、遠く行列ぐらいは見送れるかと思うも、手ぶらでは心も足も重かった。

 結局最後まで役に立たない家来だったなあと自嘲しかけて、また慌てて自分に向かって言い直した。いや、これが最後だったらたまらない。そして、誓ったのであった。

「必ず見つけますけん」

 祇園会の最中にも辰敬は鞠を捜し続けた。

 今年も印地騒ぎがあったが、侍所の兵士など出る幕もなく、大内の兵が出動すると、たちまち鎮圧してしまったと言う。河原者達は散々に蹴散らされたらしい。

 

 大内義興は祇園会が終わると周防へ戻ると言い出した。その頃までには、義興と共に上洛した諸将は殆どが帰国していて、義興も長居する気はなかったのである。

 仰天したのは、義尹と高国であった。

 再任した義尹を支えるのは近国を抑える高国と、西中国と北九州を抑える義興の軍事力であるが、実質的には義興が一手に支えていると言ってよい。その義興が帰国してしまえば、義尹と高国の政権が瓦解するのは目に見えていた。

 義尹と高国は必死に義興を引き止めたが、ここで力になったのが後柏原帝であった。

 帝は「天下一変すべし」と憂慮し、内大臣三条西(さね)(たか)を義興の宿所に派して帰国を断念させたのであった。

 七月二十三日、大内義興は「管領代」格として、従来の六分国に加えて山城守護に任じられた。「管領代」とはこれまでにはなかった役職で、義興の為に作られたのである。いかに義興に頼っていたか分かろうと言うものだ。

 左京大夫大内義興は右京大夫細川高国と力を合わせ、義尹政権を支える事になったのである。

 諸人は二人を両京兆と称した。

 

 主が去った京極邸の寂しさは言語を絶した。

 材宗の死後も残っていた奉公人達も次々と去り、一人消える度に壺や花瓶などが消えて行く有様だった。

 辰敬は邸の警固の他に、これ以上持ち去られないように、道具類や調度品を蔵にしまう仕事が増えた。だが、この作業は鞠を捜し続けていた辰敬にとっては好都合だった。邸中の部屋に出入り出来たからであるが、鞠は一向に見つからなかった。

 それでも辰敬は諦めなかった。吉童子丸との約束は忘れていなかった。鞠はいつも心の中にあったのである。

 夜の警固は以前にも増して力を入れなければならなくなった。少なくなった人数で当番をこなして行くのは若い辰敬でも辛かった。

 その上、夜回りまでもが持ち逃げするのだから油断も隙もあったものではない。

 ある夜、香炉を持ち逃げしようとした奉公人を見つけ、辰敬は追い詰めた。刀に手を掛けると、中年の雑色は居直った。

「ろくに給米ももろとらんのや。長年のお手当がわりにもろて何が悪いのや」

 辰敬は刀を抜く事が出来なかった。

 広い京極邸の闇は夜毎に広く深くなって行くようだった。大文字の送り火が過ぎてから、材宗の幽霊が出ると言う噂が囁かれるようになった。

 吉童子丸と御寮人に会いたくてさ迷ううちに、あの世に戻れなくなったのだと、奉公人達は囁き合った。

 ある者は高清への恨みを吐く血まみれの亡霊を見たと言い残して、恐怖の余り邸から逃げ出してしまった。

 辰敬も真夏にも関わらず、深夜の邸内で、背筋がぞくっとするような目に何度も遭った。

 正直亡霊は恐かった。こんな時、多聞がいてくれればと切実に願った。

 実は多聞はこのところ邸に姿も見せず、夜回りすらしていなかったのである。

 御屋形様たちが下向してから、邸内で多聞の姿を見たのは、数えるほどしかなかった。

 京極家における多聞の身分は曖昧で、ただ働きをしていたのだから、出仕しなくても文句は言えない。御奉公の気持ちが萎えるのも分かる。だが、多聞は御屋形様から都に留まり、邸を守れと命じられているのである。これまでのひた向きな御奉公ぶりを知っている辰敬としては、この掌を返したような懈怠がどうにも合点が行かなかった。

 多聞は邸外に家を借りて通っている。

 今は邸も閑散とし、辰敬の住む長屋も殆どが空き部屋になっているから、移って来てもいいはずだ。移って来てくれたらどれだけ心強いことか。

 同じ長屋になぜか次郎丸は残っていた。

「雨露しのげる所はそうそうないよってなあ」

 この男も奉公を怠り、何をしているのか判らない。何やら外稼ぎをして、長屋を宿代わりにしている。許せない事だが、そのたくましさと要領の良さには、辰敬も感心せざるを得なかった。

 次郎丸はお喋りで事情通だったので、ある日、多聞への疑問を投げかけて見た。

 次郎丸はぶるぶると顔を振り、

「知らん、何も知らんでえ」

 と、とぼけると、首をすくめながらにたっと意味ありげな笑みを浮かべた。

「あの御仁は怖いよってなあ」

 口に蓋をしてしまったので、話しはそこで終わってしまった。

 何やら事情があるらしいことだけは判ったが、それが何かは見当もつかなかった。

 暑い夏はあっという間に過ぎ去り、寂しい邸には秋の訪れも早かった。

 その秋も深まった十月も二十日を過ぎたある日、寂しい邸内が俄かに騒然となった。政経が吉童子丸に家督を譲るらしいと言う報せがもたらされたのである。

 辰敬は邸を飛び出した。

 すぐにも多聞に知らせようと思ったのだ。

 多聞の住処は知らないが、以前に誰かが、多聞は天神山を出す町から通っていると言っていたのを思い出したのである。天神山は乱後に新しく作られた山で、町の名もすぐに分かった。

風早町と言い、綾小路の東西に面し、北は油小路、南は五条坊門小路の間の町であった。町内に公家の風早家があり、その屋敷に祀られていた天神像を勧請して、天神山を建てたものである。

 西へ一町行くと、都の水運を担う運河、堀川が南流している。

 京の町は路を挟んだ向かい合う町屋で一つの町を構成する。だから碁盤の目のように区切られた四角形の一つは、東西南北四つの町が背中合わせに囲んでいることになる。すると中央に四角い空き地、中庭が出来る。

 そこが四つの町の住人達の共有の広場となり、井戸や厠、物干し場もあれば、木や花も植えてあり、畑などもあった。

 多聞の住処は風早町の東頬の町屋の間から奥へ入った共有地の中にあった。教えられたのは小さな藁葺きのあばら家だった。小屋と言った方がふさわしいみすぼらしさを前にして、辰敬は立ちすくんだ。

 多聞が扶持を辞退して奉公していることを思い出したのである。こんなあばら家に暮らしていたとは。なればこそ、京極邸の長屋に移って来ればいいのにと今更のように思うのだが、多聞の一徹さを誰よりも判っているのも辰敬であった。

 狭い入り口に筵が垂れ下がっている。

 京極邸の御長屋のような片開きの戸ではない。

 辰敬はその筵に顔を近づけ、おとないを入れた。

「申し、多聞さん」

「だ、誰じゃ」

 余程驚いたらしい。多聞とは思えぬ取り乱した声がして、何やらばたばたする気配がした。

「あ、あのう、辰敬じゃ」

 筵の端から多聞が顔を突き出すと、

「何の用じゃ」

 噛みつくような勢いで怒鳴った。余りの剣幕に辰敬はたじろいだ。

 その時、多聞の肩越しにちらりと狭い屋内が見えた。京極邸の長屋のような片土間ではない。床はなく、土の上に筵が敷いてあるだけである。その土間の半分を仕切るように、張り渡した竹から二枚の筵が垂れ下がっていた。

当然、その向こうは見えないのだが、その筵がゆらりと揺れたように見えたのである。

「何の用か聞いておるのじゃ」

 多聞は苛立っていた。

「あ、あのう、出雲からの知らせじゃ。御屋形様が吉童子丸様に家督をお譲りになされるらしいと……」

 しどろもどろに答えると、

「何じゃと……」

 みるみる多聞の顔から血の気が引いて行き、顔面蒼白になった。

「ちょっと来い」

 表に出るやぐいと辰敬の袖を掴み、凄い力で引っ張って行く。一瞬、辰敬はあの家から辰敬を引き剥がそうとしているのではないかと思った。

「詳しく説明せえ」

 近くの寺の境内に入ると、多聞は怖い顔で辰敬を見据えた。辰敬は多聞が怒った顔は何度か見たが、これほど恐ろしいと感じたのは初めてだった。

「惣領職と出雲・隠岐・飛騨の守護職、諸国の所領をお譲りになされ、多賀伊豆守様と民部様に吉童子丸様の行く末を御相談なさったとか」

呻き声が漏れた。

「御屋形様は長くないぞ」

 

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(11

 

暫くは京極邸でも行列見物の話で持ち切りであった。

 かつて義尹(よしただ)が十代将軍義材だった時、政経がわずか一年で北近江を召し上げられたわだかまりも、苦節十五年の復活の前には薄らいでいた。義尹は没落した者や悲運の底にある者にとっては希望の星となっていたのである。家中の会話の端々にも義尹にあやかりたいと言う願望が滲み出ていた。

 辰敬と吉童子丸はいつものように庭で虫捕りに励んでいた。

「あっ」

と吉童子丸が声を上げた。

 足許から一匹の子猫が飛び出すと、御殿の縁の下に駆け込んだ。

「待て」

 蜻蛉釣りの竿を投げだすと、吉童子丸は子猫を追い駆け、縁の下に潜り込んでしまった。

 辰敬も慌てて後に続いた。

 吉童子丸は夢中になると後先見えなくなるところがあった。四つん這いになり、闇雲に追いかけて行く。

 辰敬は雲の巣と吉童子丸が巻き上げる埃に閉口しながら続いた。

 と、不意に吉童子丸が止まった。

 目の前に埃を被った鞠があった。

「こんな所に鞠が……」

 辰敬は指先でそっと埃を拭った。

「蹴鞠じゃ」

「蹴鞠……」

 吉童子丸は移り気で気が変わるのも早い。埃まみれの鞠を抱えて引き返した。

 庭へ這い出して来ると、辰敬は吉童子丸に代わって埃を払った。随分長い間、放置されていたようだ。

 辰敬は二、三度足でぽんぽんとついて見せた。鞠は蹴る度に埃を上げながら弾んだ。

吉童子丸が目を丸くした。

「上手いな。辰敬」

「若様もやってみますか」

吉童子丸は真似して蹴ろうとしたが、見事に空振り、尻もちをついてしまった。

思わず辰敬は笑った。

吉童子丸はむっと辰敬を睨みつけた。

自尊心を傷つけてしまったのだ。このところ機嫌が良かったので辰敬は油断していた。吉童子丸は一旦機嫌を損ねると、相変わらず厄介であった。

辰敬はそっとため息をついた。

その時、縁側から声が上がった。

「おや、まあ、その鞠は……」

 奥に仕える老女であった。

 降りて来ると、鞠を拾い上げて懐かしそうに撫で回した。

「亡き治部少輔様がお若い時に蹴っておられた鞠でございますよ」

 材宗の遺品と知って辰敬は驚いた。

 吉童子丸の表情も僅かに動いたかと思うと、吉童子丸はいきなり老女から鞠を奪い取り、さっと辰敬の目の前に突き出した。

「教えてくれ」

 辰敬は思わず吉童子丸の顔を見返した。

 真剣な目があった。

 辰敬は笑顔で受け止めた。

 老女も目を細めると辰敬にそっと目配せして立ち去った。

 おまんに頼んで捜して貰うと、材宗が子供時代に使っていた鞠沓(まりぐつ)出て来た。

 辰敬と吉童子丸は会所の鞠庭(まりにわ)を使う事を許された。

 亡き父の古ぼけた鞠沓を履き、吉童子丸は蹴鞠の稽古に熱中した。正直、筋は良くない。でも一生懸命さは伝わって来る。辰敬は相手をしていて気持ちが良かった。辰敬にとっても、正式な鞠庭で鞠を蹴るのは初めての事であった。

 お手本を見せると、吉童子丸は素直に感嘆した。

「うまいな、辰敬は」

「若様もすぐに上手くなります」

「早く辰敬のようになりたいな」

「稽古は嘘をつきませんけん。一にも二にも稽古でございます」

 その言葉に励まされ、吉童子丸の汗が飛び散り、明るい声が弾けるほどに、辰敬の心は別なもう一つの庭に飛んでいた。

 高々と弾む鞠は辰敬と公典の間を飛び交っていた。見事に受けた辰敬に公典は感嘆した。互いに声を掛け合い、蹴り合った懐かしい二人の蹴鞠であった。だが、その場にいるのは鞠を蹴る二人だけではなかった。もう一人いた。姿は見えないけれど、いつも辰敬に熱い視線を送っていたいちが。辰敬は常にいちの視線を感じていた。辰敬は公典と蹴鞠をしていたのではない。心は背中のいちと蹴鞠をしていたのだ。どんなに楽しかったことか。

 が、我に返ると、もはや辰敬の背にいちの熱い視線はない。辰敬は甘く切ない思い出を忘却の彼方に追いやった。忘れたつもりなのに、折に触れて甦る思い出を切なく思いながら。

「どうした、面白くないのか」

 不愉快そうな目が睨みつけていた。

「我が下手だから」

 辰敬は狼狽した。

「いえ、あの、ちょっと考え事をしていまして……申し訳ありません……」

 己が事で、折角の楽しみを台無しにしたのでは、守りとして申し訳が立たない。

 辰敬は鞠を蹴る事に集中した。

 鞠が弾めば、声も弾む。吉童子丸が明るくなれば、家中も、御屋形様も、皆明るくなるのだ。そう言い聞かせながら一心に鞠を蹴っていて、ふと何か物足りない事に気がついた。

 何だろうと思ったがすぐに気がついた。それは御屋形様の視線だった。庭で遊ぶ二人にいつも注がれていた視線が、そう言えば、先だってからかずっと途絶えていた事に気がついたのである。御屋形様の姿を見なくなったのは、民部様が入京した頃からであろうか。

何かあったのだろうかと、辰敬もさすがに不安に思った時、突然、御屋形様と民部様が会うと言う報せが邸内に走った。

経久は近郊の寺を宿所としている。政経の輿は経久の宿所へ向かった。

実権は失ったとは言え、未だ出雲守護は京極政経であり、尼子経久は守護代である。守護の方から守護代の宿所に出向く事に、家中は複雑な表情だったが、政経が戻って来ると衝撃の表情に変わった。

御屋形様の出雲下向が決まったのである。

吉童子丸と大方様も伴なう。

一報を聞いた時、辰敬の胸に湧き上がったのは、

(潮時かもしれない)

と、言う思いだった。

土倉の御寮はんになってしまったいちと同じ都にいても辛いだけである。出雲に戻ればいつしか忘れてしまうだろう。それが一番いいと思えたのだが、辰敬は一緒に戻る事が許されなかった。

追って沙汰があるまで留まるように命じられた。どうやら出雲の意向が働いたらしい。

多聞は主家を離れた経緯があるので出雲へ戻る訳にも行かず、御屋形様から都に留まり、邸を守るように命じられた。

 吉童子丸は泣いた。

 辰敬と一緒でなければ出雲には行かぬと抵抗したそうである。が、泣いても無駄と知るとまた奥に閉じ籠ってしまった。

 御屋形様が思い詰めた顔をしていたのも、暫く姿を見せなかったのも、出雲下向を考えていたからだったのだと辰敬は知った。

 それにしても、今なぜ下向なのだろう。なぜ辰敬は一緒に戻る事が出来ないのだろう。

 辰敬は多聞の後ろ姿が目に入ると、居ても立ってもいられず追いすがった。

 多聞は辰敬の顔を見下ろすとちょっと首を傾げてみせた。そんな事も分からないのが意外と言うように。そして、人影のない所まで誘うといかつい顔を向けた。

「御屋形様は健康に自信を失っておられるからのう。今が下向する最後の機会と思われたのじゃろう」

 そこで言葉が途切れた。答えになっているようで答えになっていない。次の言葉を待っていると、多聞は遠くに目をやり呟くように言った。

「吉童子丸様に出雲守護職を譲る為に」

 一瞬、辰敬は耳を疑った。現実のものとは思えない言葉が通り過ぎて行ったように聞こえたのだ。すると、その後を追いかけるように多聞のため息が通り過ぎて行った。

 確かに辰敬も思う。御屋形様と吉童子丸がこのまま都にいても何の展望も拓けない事を。

もし御屋形様が死んだら、吉童子丸がこのまま都の片隅で忘れ去られた存在になってしまうのは火を見るより明らかだ。

今の御屋形様には最後に残った出雲守護職を取り留めることしか頭にない。その為には出雲に下向し、御屋形様こそが出雲守護であり、跡を継ぐのは吉童子丸である事を主張しなければならない。たとえ誰も耳を貸そうとしなくても。正当は主張しなければならないのだ。幕府から認められた出雲守護は今もなお京極家であることを。黙ったらその時点で出雲守護ではなくなるのだ。

だから御屋形様は出雲へ行くのだ。這ってでも。老骨に鞭打っても。

(我こそ出雲守護)

御屋形様は妄執の人となっている。

 政経と尼子経久の間でどんな話がされたのかはいつも判らない。政経の方が数歳年上で、経久が少年時代には人質として上洛し、京極邸で共に過ごした時期があったと聞いている。二人には二人にしか判らぬ思いがあるはずだ。

今の経久にとって歓迎する下向ではないことは辰敬にも分かる。経久にしてみれば、京極家にはこのまま静かに都の塵となって消えて貰うのが一番いいに決まっているのだ。

下向は迷惑以外の何物でもないのだが、依然、出雲では政経の下向を無下に拒否し難い理由があるのだろう。

辰敬の帰国が許されない訳である。

御屋形様を慕い、吉童子丸からは慕われる辰敬は目障りなのだ。

それにしても、未だ半人前に過ぎない辰敬に対して何と大人気ない仕打ちだろう。

 辰敬は憤りを抑える事が出来なかった。

 

 慌ただしく下向の支度は進んだ。

七月に入り、足利義尹が征夷大将軍に返り咲いた。亡命十五年。四十三歳の復活である。

 細川高国が細川氏の極官である右京大夫に任じられ、管領となるのは自明のことであったから、専ら京雀の関心は義尹復権に最も功のあった大内義興がどれほどに遇されるかに移っていた。

 折しも祇園会が間近に迫り、町衆の祇園囃子の稽古にも熱が入った。

 今年の祇園さんは復活以来最も盛大なものになるだろうと京雀は寄ると触るとその話で持ち切りだった。昨日よりも今日、今日よりも明日、否が応でも日に日に期待で胸は膨らむ一方であった。

町衆は準備の段階から競い合った。山や鉾も町の面子と誇りをかけ、贅の限りを尽くして飾り立てた。揃いの小袖も誂えた。もう祭が始まったのではないかと錯覚するくらい、町中お囃子や歌や踊りの稽古で湧き立った。

 だが、京極邸では祭り見物の桟敷が設けられることはなかった。

 遠く近くうるさいほどのお囃子が流れて来る中で、ささやかな別れの宴が設けられたのである。

 辰敬や多聞は呼ばれなかった。

吉童子丸は依然ぐずり続け、奥に閉じ籠ったままであった。連歌の座が設けられる事もなく、宴も寂しかった。政経から形見の品を賜る時は皆泣いた。

 その赤く腫れぼったい目をさらに赤くして、京極邸は出立の朝を迎えた。祇園会が終わってからでは暑くなり過ぎるし、祭に近過ぎては混乱に巻き込まれるおそれがあるので、吉日のこの日が旅立ちに決められたのである。

その日も暑くなりそうな朝で、東の空が白み始める頃から蝉が鳴き出していた。

昨日のうちから三基の輿と山のような荷駄が出発を待つばかりとなっていた。御屋形様と吉童子丸、大方様の三人が輿に乗り込めばいよいよお別れとなる。

辰敬はあの日以来、御屋形様たちと顔を合わせていなかった。いつかは出雲に戻る身であるが、いつまた会えるかは皆目見当もつかなかった。

もしかしたら御屋形様とは最後の別れになるかもしれない。思わず(よぎ)った不吉な考えを振り払うと、見送りに並んだ家人達の後ろから首を伸ばした。

別れの言葉は言えなくても、御屋形様と吉童子丸と大方様のせめて後ろ姿だけでも目に留めておきたかったのである。

家人達の動きが慌ただしくなった。いよいよ出立の時が来たのだ。

と、その時、玄関の奥が不意に騒がしくなった。

「嫌じゃ。行かぬ」

 

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