多胡辰敬の子孫と言う方とメールのやり取りをしたのは去年のこと。先祖のことをよく知らないので調べていたらこのブログに出会い、コメントを下さったのがお付き合いの始まりだったのだが、昨日、急な事だけど父子で津和野に来て、今日久手の円光寺に行くので会えないかとのSMSが入る。勿論、大喜びで素っ飛んで行く。我が家からは車を飛ばして30分強。国道9号線の道の駅「ロード銀山」で落ち合う。
御子孫は85歳の18代目と40代の19代目。このお二人が多胡辰敬の子孫にして、津和野藩の家老の末裔かと思うと、歴史と会っているという実感に浸っているような気がする。辰敬の子孫と知らなければ温厚な優しい老父と父思いの息子にしか見えない。普通の親子に見えるのも時の流れであり、でもふとした瞬間に時の流れをつないでいる人たちなんだなあと感じるのも楽しいものであった。こういう人たちと会うことはないから余計にそう思うのだろう。道の駅の中でしばらく談笑して、父子は円光寺へ行かれるので一旦別れる。
私は岩山の下にある叔父の家へ行く。しばらくして父子は円光寺の若い住職を伴って叔父の家に立ち寄られる。この住職は二年前に先代が亡くなった跡を受けて円光寺に入られたばかりで、多胡父子が私の話をしたら、ぜひ会いたいと仰って同道されたよし。私もいつか会いたいと思っていたので望外の久手行きになった。多胡父子、住職、叔父と私とで岩山を眺めながらしばし話す。叔父が矢床(恐らく矢場のことだと思う)の地名が残っていること、移築する前の円光寺があった場所や波根湖のことなどを話してくれる。せっかくお会いできたので聞きたいことなど山ほどあったのだが、急いで津和野に戻らないといけないので今後ともよろしくとお別れする。
お二人は辰敬が自害した山に手を合わせて車で津和野に帰られる。手を合わせる親子の後ろ姿にまた歴史を感じる。その時、思い出したのが私が75年目の恩返しをしている、このブログにも登場した親戚のおばさんの話。このおばさんには岩山のある刺鹿(さつか)に住む友達(87歳)がいて、その人は子供の頃、親から岩山を拝むように言われ、毎日岩山を拝んでいたと言うのだ。叔父にその話をしたら叔父はそんな話は聞いたことがないと言う。でも、昔は拝んでいた人がいたことは事実である。昭和の初め頃にはまだ辰敬を敬う風土が残っていたのだろうと思う。
別れ際に住職に円光寺所蔵の辰敬を描いた掛け軸の話をしたら、文化財で保存が大変なので今は厳重にしまってあって、その代わりレプリカの掛け軸を常時飾ってあると聞く。レプリカならいつでも見ることが出来るのでまたの日に来ることにして、今日は帰りに辰敬の碑を見に立ち寄る。
円光寺入り口
円光寺本堂
お寺の墓地に建てられた田湖家累代之碑。これは明治44年に円光寺25世が建てたもの。田湖となっているのは多胡がどんな字かわからなくて、調べた結果、その資料が間違っていたために田湖になってしまったものらしい。お寺の住職といえば知識人だと思うのだが明治末年頃には名は知られていても正確な苗字すらも分からなかったのである。今は久手の小学校では郷土史をきちんと教えるので小学生でも知っているのに。いい時代になったと思うのだが、私としては郷土史レベルを越えてもっと多くの人に知って欲しい人である。
御子孫は85歳の18代目と40代の19代目。このお二人が多胡辰敬の子孫にして、津和野藩の家老の末裔かと思うと、歴史と会っているという実感に浸っているような気がする。辰敬の子孫と知らなければ温厚な優しい老父と父思いの息子にしか見えない。普通の親子に見えるのも時の流れであり、でもふとした瞬間に時の流れをつないでいる人たちなんだなあと感じるのも楽しいものであった。こういう人たちと会うことはないから余計にそう思うのだろう。道の駅の中でしばらく談笑して、父子は円光寺へ行かれるので一旦別れる。
私は岩山の下にある叔父の家へ行く。しばらくして父子は円光寺の若い住職を伴って叔父の家に立ち寄られる。この住職は二年前に先代が亡くなった跡を受けて円光寺に入られたばかりで、多胡父子が私の話をしたら、ぜひ会いたいと仰って同道されたよし。私もいつか会いたいと思っていたので望外の久手行きになった。多胡父子、住職、叔父と私とで岩山を眺めながらしばし話す。叔父が矢床(恐らく矢場のことだと思う)の地名が残っていること、移築する前の円光寺があった場所や波根湖のことなどを話してくれる。せっかくお会いできたので聞きたいことなど山ほどあったのだが、急いで津和野に戻らないといけないので今後ともよろしくとお別れする。
お二人は辰敬が自害した山に手を合わせて車で津和野に帰られる。手を合わせる親子の後ろ姿にまた歴史を感じる。その時、思い出したのが私が75年目の恩返しをしている、このブログにも登場した親戚のおばさんの話。このおばさんには岩山のある刺鹿(さつか)に住む友達(87歳)がいて、その人は子供の頃、親から岩山を拝むように言われ、毎日岩山を拝んでいたと言うのだ。叔父にその話をしたら叔父はそんな話は聞いたことがないと言う。でも、昔は拝んでいた人がいたことは事実である。昭和の初め頃にはまだ辰敬を敬う風土が残っていたのだろうと思う。
別れ際に住職に円光寺所蔵の辰敬を描いた掛け軸の話をしたら、文化財で保存が大変なので今は厳重にしまってあって、その代わりレプリカの掛け軸を常時飾ってあると聞く。レプリカならいつでも見ることが出来るのでまたの日に来ることにして、今日は帰りに辰敬の碑を見に立ち寄る。
円光寺入り口
円光寺本堂
お寺の墓地に建てられた田湖家累代之碑。これは明治44年に円光寺25世が建てたもの。田湖となっているのは多胡がどんな字かわからなくて、調べた結果、その資料が間違っていたために田湖になってしまったものらしい。お寺の住職といえば知識人だと思うのだが明治末年頃には名は知られていても正確な苗字すらも分からなかったのである。今は久手の小学校では郷土史をきちんと教えるので小学生でも知っているのに。いい時代になったと思うのだが、私としては郷土史レベルを越えてもっと多くの人に知って欲しい人である。