曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 辰敬家訓の周辺

多胡辰敬の子孫と言う方とメールのやり取りをしたのは去年のこと。先祖のことをよく知らないので調べていたらこのブログに出会い、コメントを下さったのがお付き合いの始まりだったのだが、昨日、急な事だけど父子で津和野に来て、今日久手の円光寺に行くので会えないかとのSMSが入る。勿論、大喜びで素っ飛んで行く。我が家からは車を飛ばして30分強。国道9号線の道の駅「ロード銀山」で落ち合う。
御子孫は85歳の18代目と40代の19代目。このお二人が多胡辰敬の子孫にして、津和野藩の家老の末裔かと思うと、歴史と会っているという実感に浸っているような気がする。辰敬の子孫と知らなければ温厚な優しい老父と父思いの息子にしか見えない。普通の親子に見えるのも時の流れであり、でもふとした瞬間に時の流れをつないでいる人たちなんだなあと感じるのも楽しいものであった。こういう人たちと会うことはないから余計にそう思うのだろう。道の駅の中でしばらく談笑して、父子は円光寺へ行かれるので一旦別れる。
私は岩山の下にある叔父の家へ行く。しばらくして父子は円光寺の若い住職を伴って叔父の家に立ち寄られる。この住職は二年前に先代が亡くなった跡を受けて円光寺に入られたばかりで、多胡父子が私の話をしたら、ぜひ会いたいと仰って同道されたよし。私もいつか会いたいと思っていたので望外の久手行きになった。多胡父子、住職、叔父と私とで岩山を眺めながらしばし話す。叔父が矢床(恐らく矢場のことだと思う)の地名が残っていること、移築する前の円光寺があった場所や波根湖のことなどを話してくれる。せっかくお会いできたので聞きたいことなど山ほどあったのだが、急いで津和野に戻らないといけないので今後ともよろしくとお別れする。
お二人は辰敬が自害した山に手を合わせて車で津和野に帰られる。手を合わせる親子の後ろ姿にまた歴史を感じる。その時、思い出したのが私が75年目の恩返しをしている、このブログにも登場した親戚のおばさんの話。このおばさんには岩山のある刺鹿(さつか)に住む友達(87歳)がいて、その人は子供の頃、親から岩山を拝むように言われ、毎日岩山を拝んでいたと言うのだ。叔父にその話をしたら叔父はそんな話は聞いたことがないと言う。でも、昔は拝んでいた人がいたことは事実である。昭和の初め頃にはまだ辰敬を敬う風土が残っていたのだろうと思う。
別れ際に住職に円光寺所蔵の辰敬を描いた掛け軸の話をしたら、文化財で保存が大変なので今は厳重にしまってあって、その代わりレプリカの掛け軸を常時飾ってあると聞く。レプリカならいつでも見ることが出来るのでまたの日に来ることにして、今日は帰りに辰敬の碑を見に立ち寄る。
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円光寺入り口
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円光寺本堂
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お寺の墓地に建てられた田湖家累代之碑。これは明治44年に円光寺25世が建てたもの。田湖となっているのは多胡がどんな字かわからなくて、調べた結果、その資料が間違っていたために田湖になってしまったものらしい。お寺の住職といえば知識人だと思うのだが明治末年頃には名は知られていても正確な苗字すらも分からなかったのである。今は久手の小学校では郷土史をきちんと教えるので小学生でも知っているのに。いい時代になったと思うのだが、私としては郷土史レベルを越えてもっと多くの人に知って欲しい人である。

小説を載せるに当たって
          (辰敬の時代の出雲・石見・安芸)
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舞台となる地域が馴染みの薄い土地柄なので、少しでも理解の役に立つようにと思い、地図を作成してもらいました。小説の冒頭に登場する城や寺社、有力な武将の勢力図です。大雑把なもので、正確なものではないことはご了解ください。
月山富田(がっさんとだ)城は尼子氏の本拠。
吉田郡山城は毛利氏の本拠。
岩山城は多胡辰敬。
余勢(よせ)城は多胡氏。
出雲大社は古来杵築(きづき・きつき)大社と呼ばれていたが、明治になって出雲大社に改称された。
小説では杵築大社と出雲大社を併用しています。
出雲大社は出雲の一の宮、鰐淵寺(がくえんじ)は出雲の一の寺です。ともに大きな勢力でした。
この時代、斐伊川は西流し大社湾に注いでいる。現在のように東流して宍道湖に注ぐようになったのは、寛永12年(1635年)の洪水以後です。

一回にどれだけの分量を掲載するか悩みました。改ページもなく延々と読むのは如何にも大変そうなので、400字原稿用紙で20枚以下にして、2週間おきに載せようかなと思っています。今は余裕がありますが将来的にはそれより短い間隔で載せるのは辛くなりそうなので。きりのいいところで話を切れないので、読みづらいかもしれませんがご容赦ください。
とりあえず始めてみて検討します。
明日、第一回を載せます。











多胡辰敬の家訓と言われるものは26条(項目)ある。短いものはほんの数行から、長々と書き連ねたものまである。その一番目は読み書きの大切さを説いている。
「人と生まれて文字文章が書けないのは誠に見苦しい」
「意味の通った文章が書けず、情のこもった内々の手紙まで代筆させ、女性の元へ遣わすのは、人の皮を着た畜生同然である」
家訓の冒頭いきなりこの文章に出会い、私は思わずにたりと笑った。
ラブレターも自分で書けないようでは、人とは言えないぞと戒めているのだ。
戦国時代の出雲にこんな武士がいたとは。一体どんな男だったのだろう。どんな育ちをして、どんな教養を身につけたのだろう。たちまち多胡辰敬と言う武将の虜になってしまった。
こんな文章を書くぐらいだから、この人はラブレターを書いたことがあるに違いない。連歌の達人として知られていたから、そのラブレターにはきっと恋の歌が認めてあったに違いない。どんどん想像が膨らんだ。
さらに、この家訓の魅力を深めているのは、実はこの家訓は誰に書いたものか分からないことにある。
家訓と言うからには子孫に残すものであるが、これはどうも多胡家の子孫のために書いたものではないらしい。研究者にも色々な意見があるようだ。
一体誰のために書いたのか。
そこを明らかにすることが、私の拙い小説のテーマにも通じると思っている。

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           「岩山の麓から日本海を望む」
中央から右に波根(はね)湖があったが、戦後干拓されて水田になってしまった。
波根湖には尼子の水軍があったようだ。波根湖を渡ればすぐに出雲国であるから、岩山はまさに石見国と出雲国との境を守る位置にあったのである。




























イメージ 1春のように天気が良かったので、母を連れて母の実家へ行く。出雲市から西へ、大田市までは車で30分。母を実家へ残し、私は母の実家の裏山の岩山へ登る。
鉄塔の横から尾根伝いに登るとちょうど標柱の真上辺りが岩山の頂になる。わずか20分ほどで頂に着く。小さな山である。
標柱には「武将多胡辰敬の居城岩山城遠望」とあるが、そこに城があって、人が住んでいたわけではない。城と言っても砦である。普段は麓に住んでいて、戦いの時だけ砦に立て籠もる。






イメージ 2頂きの岩には柱を立てるために穿った穴がある。
毛利の大軍を相手に絶望的な戦いを挑むために築いた砦の跡だ。
この穴をじっと見ていると、戦が日常であった時代の悲哀が惻惻と伝わって来る。そういうものを肌に感じたくて来たのかもしれない。
4年前に来た時は3つ、4つあったのだが、土に埋まってこれ一つしか残っていなかった。
山は低くても景観はいいのだが、雑木が生い茂って、頂きからは何も見えない。今日は日本海も綺麗だったのに、頂きからの景色が撮影できなかったのが残念だ。

標柱がある道沿いに辰敬が創建したと言われる円光寺がある。私は創建と言うより移築したのではないかと思っている。このお寺には辰敬の肖像画がある。母の実家のお墓もあるので、墓参りの後、辰敬の小説が無事に進行することをお祈りする。
ところで、以前のブログで辰敬に最初に注目したのは、柳田國男と書いたが、もしかしたら和辻哲郎かもしれない。出典を忘れたので確認できず。ごめんなさいです。
柳田は民俗学者、和辻は哲学者。柳田と思い込んでいたが、どうも和辻ぽいなあ。


私が書いている小説の主人公多胡辰敬(たこときたか)の五代前の先祖には多胡重俊と言うとんでもない人物がいる。その頃の出雲の守護大名は京極氏で、重俊は京極氏に仕えていた。将棋名人として知られていたが、強いのは将棋だけではなかった。双六(すごろく)や賽(さい)など、ありとあらゆる博打で無敵を誇り、余りの強さにその名は都のみならず日本六十余州に轟き渡り、多胡博打の名を奉られた。重俊をあがめ、あやかろうとする者達は、重俊の絵姿を床の間に飾ったほどだと言う。
その将棋の才は、子の重行、高重と受け継がれ、多胡家は代々博打名人の家と知られるようになった。次の俊英は応仁の乱で大手柄を挙げ、石見の国、中野(今の邑南町)の余勢(よせ)城の城主となるが、バクチ打ちの一家とみられるのを嫌い、将棋を禁じ、一切のバクチも禁じた。
その孫が辰敬だが、なぜか辰敬は子供の頃から将棋が強いことで知られていた。
祖父が禁じ、父も出雲大社の造営奉行をしたほどの人物なのに、なぜ辰敬が子供の頃から将棋の才を示したのか。
そこが面白いところであり、想像力を掻き立てられたところです。




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