曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 巨匠脚本家・我が師松浦健郎

直木賞が発表されたが、その時期が来ると、昔、師匠が文芸春秋の編集長だった神林吾郎(故人)から、「松浦君、直木賞をあげるよ」と言われたと言う話を思い出す。
師匠の若い頃の話だ。師匠がどの映画会社に出しても通らなかった時代劇の企画があり、それを読んだ神林吾郎が、小説に書いたら、直木賞を上げると言ったのだそうだ。
神林吾郎と言えば、その後、文芸春秋の社長となり、会長となった、名編集長である。文芸春秋のシンボルとも言うべき、伝説的人物である。その人が直木賞をあげると言ってくれたのだ。
だが、その時、師匠は直木賞が何か知らなかったそうだ。今のように受賞した途端、マスコミが殺到し、一躍スターになる時代ではなかったのだ。
「賞金いくらですか」と、聞いたら、その時の師匠の映画の脚本料の何分の一かだったらしい。
映画脚本の何倍もの原稿を書いて、たったそれっぽちでは、とてもではないが書く気にならなかったのだそうだ。師匠は書かなかった。

そして、四半世紀が経ち、私が弟子になった時、
「昔、神林吾郎に直木賞を上げると言われた小説を書く」と、師匠は宣言した。
どういう内容かと言うと、信長と森蘭丸の男同士の愛を描いたものである。
それを聞いて、私は戸惑った。
師匠が企画を提出した頃は、娯楽映画の時代劇と言えば、美男美女の若様やお姫様が悪家老を成敗して結ばれるというようなお話と相場が決まっていた。男の同性愛を描いた企画が通る筈がない。
だからこそ、常に新しい作家を発掘しようとしていた神林吾郎は、新鋭脚本家のとんがった企画に着目したのだ。
しかし、私が弟子になった1970年頃には、信長と蘭丸のそういう関係は通説になっていた。ことさら目新しいものではない。書いたところで評価されるのかどうか、それを危惧したのである。
だが、師匠は書き上げて、神林吾郎に見せたら、直木賞がもらえると本気で思っている節があった。神林吾郎は社長になっていたと思う。弟子になったばかりの若僧が、今更そんな昔のことを持ち出してもとナマイキなことは言えない。
脚本家人生の終わりが見えて来た時、直木賞を貰えたかもしれないチャンスをみすみす逃したことは、師匠にとって、痛恨事だったに違いない。
私は結局、弟子&お礼奉公生活の2割ぐらいは、師匠の直木賞への執念に付き合うことになるのであった。
師匠は早速、書棚から「信長公記」と言う本を取り出し、「これを読んで研究しろ」と言った。太田牛一と言う、信長の旧臣が書いた信長の一代記である。史料価値は高いものであるが、当時はまだ現代語訳がなかった。
高校時代、古文漢文を勉強しなかったことをどれだけ悔やんだか。
物語の舞台は安土であるから、師匠は安土城を復元し、安土の城下町も復元しろと言う。
いくら信長公記を読んでも、城を復元できるほどの記述はない。城下に至っては街道があって、南に馬場がある程度の記述しかなかったはずだ。
私は模造紙を買って来て、縦横の線を引いて、安土城の外郭だけでも描こうとした。
だが、長い間に、琵琶湖の湖岸は埋め立てられていて、昔の湖岸線を見当つけるだけでも一苦労だった。
で、師匠は何をしているかと言うと、何もしない。
調査したり、取材するのはすべて弟子の役目なのである。
ふと、何か質問することと言えば、
「信長と蘭丸はどうやって愛し合ったのかなあ。俺はその趣味がないからさっぱりわからねえんだよ」
「知りませんよ。僕だって」
師匠は「はははは」と笑い、私もお付き合いでせつなく笑うのであった。
その頃、企画書はどこへ行ってしまったものか見当たらなかった。
あれば読んでみたいものだ。神林吾郎が直木賞をあげると言った企画書。










































昔、日テレで「11PM」と言う人気番組があった。お色気、競馬予想、麻雀など大人の夜の情報娯楽番組である。大橋巨泉や直木賞作家の藤本義一が司会をしていた。
その11PMで「裏方特集」を放映するので、シナリオライターの裏方である口述筆記の弟子を取材したいと言う話が師匠の所に持ち込まれた。
「お前、TVに出れるぞ。撮りに来るから来い」
すでに独立している頃だったが、こういうお礼奉公なら気も楽だ。
私もTVに出るのは初めてだから、ほいほいと出かけ、取材を受けた。師匠の口述を筆記するところを見せるのだ。速記のスキルなどないから、自分流の略字を作って頑張っているところを撮影された。苦労話もした。
私は真っ先に家族に放映日を教え、親戚中に宣伝しろと伝えた。
なぜなら、独立したとは言え、まだろくに飯も食えず、家族も将来どうなるものやらと不安に思っている頃であったし、親戚中からもろくでもない息子と呆れられていたので、TVにでも出れば、親も少しは安心し、親戚も多少は見直すかと思ったのである。
そして、当日、私はアパートのTVの前でわくわくしながら「11PM」が始まるのを待った。いつもの軽快な音楽とともに始まった。司会は藤本義一であった。
「今夜は裏方特集」
いきなり女の裸が出て来た記憶がある。確かストリップか何かの裏方の話だっと思う。私はえっと思った。
次はピンク映画の裏方の話であったろうか。
記憶は定かではないので、順番も違っていると思うが、とにかく、次から次へと紹介されるのは、エッチな仕事の裏方ばかりであった。
私はTVに出ることに舞い上がり、11PMがどんな番組であるかすっかり忘れていたのだ。こんな画面を家族や親戚がいつ俺が出て来るのだろうと固唾をのんで見ているのかと思うと居たたまれなくなった。恥ずかしくて顔から火が出る。頭を抱えた。
待っても待っても俺たちの登場シーンは出て来ない。ひょっとして俺たちの分はカットされたのではないかと思った時、番組の最後の最後になって、やっと短く紹介された。ほんの申し訳程度に。ほっとしただけで嬉しくもなんともなかった。早く終わって欲しかった。
最後に藤本義一が言った。藤本義一も小説家になる前は多作の脚本家であったから、「私は松浦さんを良く知っていますが、曽田君も早く一人前の脚本家になってください」
全国放送で言われたのだから、恥ずかしいのなんのって。

まだ、後日談がある。
しばらくして、高校のクラス会があった。同級生の女の子が、
「曽田君、見たわよ。11PM」
「ええっ、見たの、あれ」
「びっくりしちゃったわよ、いきなり曽田君が出てくるんだもん」
またまた恥ずかしい思いをしたのであった。












今年最後のブログ、師匠のトンデモ話にしようか、ちょっといい話にしようか迷ったが、後者にした。
 
「この言葉はなあ、ベルレーヌが一夜にしてパリの文壇で有名になった時の感慨を言ったものなんだよ」
師匠の口からフランスの詩人の名が出て来て吃驚した。これほどミスマッチな取り合わせはない。弟子時代、師匠が読書しているところは見たことがなかった。ましてや詩やフランス文学なんて。万葉や古今新古今さえ口にしたことはなかった。銀座で豪遊したり、女優と浮気したり、プロデューサーをぶん殴ったり、そんな武勇伝ばかりだったから。
「選ばれたる者の恍惚と不安。いいものだぞお」
師匠は遠くを見る目で恍惚と呟いた。
脚本家デビューした時、未来の巨匠も不安はあったそうだが、その何十倍も恍惚とした喜びに浸ったと語った。
「俺はなあ、お前にもこの言葉を味わってもらいたいのだよ」
そう言う師匠の目は確かに愛弟子を慈しむものであった。心からの声だった。こんなことを面と向かって言われたら、給料を払うと言って払ってくれない師匠であっても、もう少し頑張ってみようかなあと思う私であった。

この時のことは忘れられなくて時々思い出していた。ベルレーヌの言葉とともに。
師匠が死んだ後も。長い間ずっと。
ふと先年、何気なくこの言葉を調べてみた。
すると、この言葉は、ベルレーヌの「信仰詩集」の中にある詩の一節と分かった。
ベルレーヌは敬虔なキリスト教信者で、ここに言う「選ばれたる者」とは、「神に選ばれた者」であり、「恍惚と不安」とは、神に選ばれた信仰者の心を表す言葉だったのである。信仰に関わる深い言葉で、師匠が言うように、文壇や社交界のような世俗で有名になることとはまるで違っていたのだ。
私はのけぞった。何十年も信じていたのに。
「先生、違ってるじゃないですか」と叫んでいた。
師匠とベルレーヌなんておかしいなあと思っていたことが当たっていたのだ。
師匠はどこでどう間違ったのか、完全に意味を取り違えていたのだ。いかにも師匠らしいと言えば師匠らしいのだが。
だが、今では私は師匠が思い込んでいた通りに受けとめようと思っている。
師匠ほどの「恍惚と不安」は味わってはいない。もし、味わったとしても、師匠の何十分の一である。でも、師匠には伝えたい。最初の時代小説が出た時は嬉しかったですよと。特に妻が倒れた年に書いたものだから。シナリオでは師匠を追い抜けなかったので、小説では追い抜こうと思っていたのだが……。もう少し頑張って師匠を追い抜きたい。

始めたばかりのブログで勝手もわからず、好きな事を書き散らし、何でもありの内容に戸惑われた方もいらっしゃると思います。来年からは、小説「石見岩山城主多胡辰敬」を掲載しつつ、書き続けて行こうと思っております。来年もよろしくお願いいたします。













「お前、昔、有馬記念で儲けたと言ってたよなあ。俺もやってみようかなあ」
と、師匠が言ったのが、1973年も暮のこと。私が弟子になってまる3年目であった。
この年、私は師匠の後押しで「非情のライセンス」と言う「天知茂」主演の刑事ドラマを2本書き、なんとかライターの第一歩を踏み出したところであった。
これで食えるわけがないので、東映のプロデューサーが子供番組を紹介してくれて、「キカイダー01」の脚本を一本か、二本書いた程度で、例のお礼奉公が始まったところでもあった。
早速、予想紙を買って来て、仕事そっちのけで、素人の師匠に馬券の買い方をコーチしながら予想した。師匠も何点か予想したのだが、ふと、馬名に銀座で馴染みだったホステスの名前があることに気が付いた。一人はチドリと言うホステスで、馬名はニットウチドリ。もう一人の名は忘れた。馬名も忘れたが、ホステスの源氏名が入っていた。
「先生、そんな馬券、どぶに捨てるようなものですよ」
なんたって、その年は「ハイセイコー」が人気の有馬記念である。当時のハイセイコーと言えば、ディープインパクト級の超人気馬である。地方の大井競馬から中央競馬に挑み、中央のエリート馬たちを蹴散らす姿は、庶民の圧倒的支持を集め、歌まで出来た。
反対したのは私だけではない。私の高校の同級生Iも反対した。Iは事情があって、中国語の講師をしながら、まだ大学に通っていた。時間に余裕があるし、脚本家の手伝いも面白そうだからと暇な時に出入りするようになっていたのだ。
渋谷の場外馬券は1000円券しか発売しない。今みたいに100円単位では買えないからこそ、みすみすどぶに捨てるような馬券は買わせられない。
師匠は「そうか」と、素直に別な馬券に買い替えた。
そして、翌日は高校のクラス会でもあった。同級生の女の子の自宅でやるアトホームな珍しいクラス会だった。
私とIはTVで有馬記念を観戦した。競馬はいつもあれよあれよと言う間に決まる。
私とIは蒼ざめた。何とニットウチドリが2着。もう一頭のホステス馬は来なかったが、同枠の穴馬ストロングエイトが1着。ハイセイコーは3着だった。
枠連は万馬券。師匠のホステス馬券を買っていれば、13万円になっていたのだ。
翌日、Iは大学。私一人、お礼奉公の出勤。
もう師匠と顔を合わせることが出来なかった。
「来たじゃねえか」
ただひたすら謝った。不在のIが恨めしかった。お前も反対したのに。俺一人が謝らなきゃならないなんて。
それ以来、私はどんな素人が、どんな馬券を買おうとも、一切口は挟まない。
師匠はその後、何回か馬券を買ったが、そのうち興味を失ってしまった。
今でも「先生、ごめんなさい」と謝りたい。万馬券を取って喜んでもらいたかった。
でも、当ててたら、味をしめて、もっと深い傷を負っているような気がする。






戦前の師匠の略歴は、満州映画協会に入社し、渡満したこと。帰国して、東宝に入社し、終戦を迎えたことしか知らない。その間、いつ徴兵検査を受けたのか、いつ徳川夢声に会って、役者を諦め、シナリオライターを目指すようになったのかは、聞いたかもしれないが、知らない。
満映では「麻薬撲滅の啓蒙映画」を作っていたそうだ。カメラを担ぎ、ケシ畑(アヘンの原料)を撮影するため、満州の山の中を歩き回ったと言っていた。満州はとても寒く、寮の便所では、大便の山が凍り付き、とんがり帽子のように突き立っていたとも言っていた。
その満映でのエピソード。
ある日、まったく偶然に、満映の玄関で、満映の理事長甘粕正彦に出くわした。
師匠は吃驚したそうだ。「あれが、あの有名な甘粕憲兵大尉か」と。
「小っちゃな男だったぞ」師匠が小さいと言うのだから、かなり小柄な男だったのだろう。
関東大震災後の混乱の中で、無政府主義者大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥の橘宗一(6歳)が、憲兵に拉致され、殺害される事件が起きた。この実行犯が甘粕憲兵大尉率いる一味であった。世を震撼させた大事件で、甘粕事件とも呼ばれている。
甘粕の背後には黒幕がいるのではないかと大問題となった。戦前の日本軍国主義の暗部を象徴するような事件であった。
甘粕は大杉の背後から首を絞めて殺害。伊藤野枝も同様に殺害したと自供。宗一少年には手を下してはいないと言うも、三人の死体は井戸から発見された。
甘粕は裁判にかけられ懲役10年の判決が下ったが、2年目に大赦で釈放されると、あろうことか夫婦でパリへ留学。バックアップしたのは陸軍と言われている。その後、満州で暗躍し、師匠が満映で働いていた頃は満州映画協会の理事長におさまっていたのだ。
この処遇を見れば、明らかに黒幕がいたと思われる。
師匠が甘粕を見たのは、後にも先にもこの一回だけで、二度と甘粕を見ることはなかったと言う。理事長なのに、その動静すらも耳には入らなかったそうだ。
昭和20年ソ連軍が侵攻して来ると青酸カリで自決。
辞世の句が「大ばくち もともこもなく すってんてん」
こんな男に殺された大杉栄や伊藤野枝、宗一少年が哀れだ。
もっともっと満映時代の話を聞いておけばよかったと悔やまれてならない。

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