曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

カテゴリ: 巨匠脚本家・我が師松浦健郎

JRの旧大社駅の前は車でよく通る。出雲市駅と大社を結ぶ短い大社線が廃線になって27年。今は古い駅舎だけが残っている。絵になるので、TVや映画のロケ地としてよく使われる。マドンナが誰か、何編だったかも忘れたが、『男はつらいよ』でも使われたことがあった。近くまで来ると、いつも思い出すことがある。
JR旧大社駅→「男はつらいよ」つながりで、久々に師匠の話。イメージ 1














それは、40年ぐらい昔のことだ。師匠が後にも先にも一度だけ「男をつらいよ」を映画館で観た時の話である。
私が弟子の時代、師匠が映画館に映画を観に行ったのは、この「男はつらいよ」と、後は洋画を一本だけ観に行った記憶がある。確か「カプリコン1」だったと思う。運転手付きの車で自分だけ観に行き、私は留守番だ。
当時、師匠は映画はTVで日曜映画劇場とか深夜の旧作放映しか観なかった。
起床するのがお昼で、ぐずぐずしているとすぐに夕方になってしまうので、出かけること自体が億劫になっていたように思う。今思うとまだ50代だったのに、糖尿病のせいもあったのかもしれない。
そんな人がなぜわざわざ封切映画を観に行ったかと言うと、師匠に喜劇映画の脚本の依頼があったからだ。依頼して来たのは、砂塚秀夫(故人)と言う、中堅どころの喜劇役者だった。彼がTVにわき役としてレギュラー出演するきっかけ(?)となった連続TVドラマの原作脚本が師匠だったので、その縁で頼んで来たのだ。自分で制作資金をたしか5千万円(?)だったかと思う、用意していた。
断る理由はないが、正直に言って、映画の主演をするほどのネームバリューはないので、作っても大丈夫なのかなあと師匠は首をかしげていた。
同じように首をかしげたのが森繁久彌。
撮影に入って、師匠が現場を観に行った時、森繁久彌に会った。森繁久彌は砂塚秀夫の師匠だったので、特別出演していたのだ。勿論、ワンシーンで無料出演である。森繁久彌は芸能界の大御所俳優である。師匠が脚本を書いた「次郎長三国志」でも、森の石松で出演していたし、東宝映画の喜劇でも、師匠の脚本で出演していたから、師匠とは昵懇の仲である。
「モリシゲがさあ、『あのバカ、なんで映画なんか撮る気になったんだろう』と、俺に言うんだよ」と、師匠は言っていた。
その砂塚秀夫が渥美清の「寅さん」に負けない映画を作りたいと言うので、師匠は一度も見ていないのではまずいだろうと観に行ったという訳だ。


今みたいにビデオもDVDもないから、映画を観たければ、二番館、三番館に落ちるのを捜して観るかか、封切を観るしかなかった。
たまたま最新作を封切したところだった。その「寅さん」のマドンナも誰かは忘れたが、帰宅した師匠は何だか浮かない顔をしていた。
「曽田よ。みんなで写真を撮る場面があってさ、寅さんが『バター』て言ったら、観客がどっと笑ったんだよ。あれ、何で笑ったんだ。俺、さっぱりわからねえんだけど」
私はのけぞってしまった。一から説明してあげた。
「先生、写真を撮る時は『チーズ』と言うんです」
「何で」
「『チーズ』と言うと、口角が上がって笑ったように見えるからなんです」
「ふーん」
「ところが、寅さんが『チーズ』と言うべきところを、『バター』と言ったので、観客は笑ったのです」
さらに、私は解説を続けた。チーズをバターと言うギャグは小学生でも使う。誰でも知っている手あかのついた古いギャグで、今や笑いを取るために使うようなギャグではない。まともにやったら誰も笑わないだろう。でも、これを寅さんが言ったから、観客は笑ったのです。写真を撮る時、チーズと言う、こんなことも寅さんは知らないのかと、皆、笑ったのですと。
師匠はつまらなさそうな顔をしていた。私はそれを見て心配になった。
こんなギャグも知らない人が喜劇の脚本を書いても大丈夫なのかと。

国民的映画となっていた「男はつらいよ」に匹敵する映画がそう簡単に作れる訳がない。
それなのに、師匠は寅さんの舞台が柴又の帝釈天なら、こっちは神楽坂の毘沙門天にしようと決めてしまった。
師匠のマンションが中央線飯田橋駅の南側の法政大学の近くにあり、飯田橋駅の北側は神楽坂で毘沙門天があったのだ。近くて取材も楽だからと言う安易な理由だった。
かと言って、師匠が取材するわけではない。私が取材して回ったのだが、若い私は芸者や花街のしきたりなど何も知らないから、私が調べたことは師匠からみたら噴飯ものであった。「何だ、お前、こんなことも知らなかったのか。恥ずかしい。よくこんなこと聞けたな」とあきれられた。私が取材したことなど全然役に立たなかった。
スケジュールを守らないと予算をオーバーするので、脚本に与えられた時間は一カ月。予算と主演砂塚秀夫では呼べる役者にも限りがあったが、とにもかくにも『毘沙門天慕情』と言う映画が出来た。松竹が二本立ての映画の添え物として買い取ってくれた。この当時、映画会社は二本立てを自社で作るのに四苦八苦していて、メインは自社で作っても、二本目は外注とか、このように買取をしていたのだ。買取なら安く買い叩けるから損を少なくできるからだ。砂塚秀夫も5千万などでは到底買ってもらえず、かなり損をしたのではないだろうか。話題にもならなかった。師匠も当たるなんて夢にも思っていない。出来は脚本を書いた本人が一番分かっているから。

その後、しばらくして、私は師匠が「寅さん」が好きではないことに気が付いた。「寅さん」的な人間は嫌いなのだ。「寅さん」は国民的人気があり、誰にも愛されるキャラクターとされていたが、実は「寅さん」みたいな男は嫌いだと言う人も少数だが確かに居たのだ。
「男はつらいよ」はよくできた面白い映画と師匠は認めるが、自分にはあんな脚本はどう逆立ちしても書けないことは分かっていたのだ。師匠が好きな喜劇は「男はつらいよ」のようなお話ではないのだ。
なぜ、それが分かったかと言うと、ある日、師匠が斎藤寅次郎という映画監督の話をしてくれたのであった。戦前戦後に活躍した喜劇映画の大監督である。この人が、戦前の軍国主義真っ盛りの時代に一本の喜劇映画を作った。
「曽田よ。捨て子を一日に一人拾って来る男の話を作ったんだぜ。お前、こんな話、考えつくか。とんでもない人だよ。斎藤寅次郎は」
その時の師匠は感に堪えない顔をしていた。滅多に人を褒めない師匠が感服していたのだ。
師匠は戦後、その斎藤寅次郎の助監督をした。師匠の記念すべきデビュー作は斎藤寅次郎監督の喜劇だったのだ。
「戦後の成金が登場して来てさ、さっと腕まくりをするんだ。すると手首から腕までびっしりと腕時計をしているんだ。笑っちゃったよ」
その時の師匠の楽しそうな顔といったらなかった。心から尊敬し、愛していたのだ。そして、最後にこう言った。
「この人の真似はできない。俺にはこんな喜劇は作れないと思ったよ」
ここまで書いて、ふと思った。
結局、師匠は喜劇は苦手だったのだろうかと。
いやそうではない。喜劇は難しいのだ。

弟子時代の話。
私が弟子入りした頃は日本の映画界は急速に勢いを失い、斜陽産業とまで言われる時代だった。弟子入りして間もなく大映が倒産し、次に危ないのは日活と目されていた。
かろうじて、東映は任侠映画が「仁義なき戦い」の実録路線に転換し、その後「トラック野郎」のシリーズが続いた。松竹は「寅さん」が当たったお陰で、その後は「寅さん」一本で食って行く。東宝は「日本沈没」などの大作で何とか名門の屋台を守っていた。
映画界の注目は日活の運命であった。どうやら日活はポルノ映画で食ってゆくらしいとの情報が流れた。だが、ポルノ映画なんか作って事がないので、ピンク映画を買って配給すると言う怪しい情報がまことしやかに流れていた。
そんなところに、ある日、ピンク映画の製作会社の社長が師匠を訪ねて来た。師匠の旧知の紹介だったらしい。用件は日活の下請けになり、ピンク映画を作りたいので協力してほしいというものであった。この時期、師匠の名を利用して一儲けを企む怪しい業界人がつてを頼ってはしきりに現れたものだ。
師匠も暇だったし、間に立った人の顔を立て、軽い気持ちで請け負った。
私は嫌な気がした。なぜなら、企画書の第一稿を書くのは私の役目なのだからだ。どこにポルノ映画の企画を書きたい人間がいるだろうか。予感は当たった。
「おい、お前、前に映画の企画書を2本書いたよな。あれ、ポルノに書きなおせ」「えええ~っ」
半年ぐらい前だろうか、私も何か書かねばと思い、休みの日曜日に映画のストーリーを2本作って、師匠に見せたことがあったのだ。青春映画である。
師匠は一読して「まあ、面白いんじゃないか」と、一言。ああしろ、こうしろでもなく、たったその一言で終わった。自信はあったのだが、気のなさそうな顔を見て、その程度の出来だったのだろうなと諦め、もうそのストーリーのことは忘れていた。
それをポルノにしろなんて。自分ではニューウエーブの青春映画のつもりで、それなりに頑張って書いて、愛着がある企画だったのだ。
泣く泣くポルノ風に書き直した。
その途中、参考に自社のピンク映画の試写を見てくれと言って来た。
私も師匠も生まれて初めてピンク映画の試写を見に行った。見たことも聞いたこともない女優、脚本家も、監督も。何と論評していいのか困った。
ところが、社長とプロデューサーはひどく興奮しているではないか。女優のパンティ越しに黒い茂みがぼんやりと映っていたのが映倫を通ったと大喜びしていたのだ。
帰宅した師匠の第一声が、「曽田よ、俺はもう嫌になったよ。あんな連中と付き合うの」
「そうですよねえ」
私はほっとした。これでもう書かなくていいと思ったのだが、師匠は約束してるから、書いて渡してしまおうと言う。
仕方なく、私は書き終えた。
師匠は弟子が書いたものをそのまま出すようなことは絶対にしない人だったが、これは例外で、師匠はろくに手も入れなかった。だが、出来上がった原稿の表紙を眺めていて、
「何か、インパクトがねえよなあ。一発でひきつけるものがないよな」
企画書の頭に一発で目を引き付けるタイトルが欲しいと言う。私はうんざりしたが、こういうところが物書きのさがなんだなあと思った。
「よし、日活ポルノロマンと言うのはどうだ」
「ああ、いいですねえ」と言うことで、この件は終わった。
相手からはその後音沙汰なく、師匠も企画書代を払えとも言わないので、それっきりになってしまった。
すっかり忘れた頃、日活の新方針が発表された。
「日活ロマンポルノ」
新聞でそれを見た師匠が、「日活の奴ら、ぱくりやがったな」
「そうですねえ……」
『ポルノロマン』を『ロマンポルノ』にひっくり返しただけである。
確証はないし、たとえそうだったとしても、ぱくったと言えるのかどうか。
誰でも考えそうな言葉だと私は思ったのだが、師匠はぱくられたと思い込んでいた。
「やられたなあ、は、は、は……」
私も笑うしかなかった。

ブロンドと金髪の違いを知ってますか?
私は知らなかった。実は今もって知らない。
それには理由がある。
 
弟子時代のある時期、シナリオの仕事がしばらくないことが続いた。来る日も来る日も師匠の側で雑談の相手をして、今日も無為に一日を過ごしたとため息をつきながら下宿に帰るのが日課になっていた。仕事がない時ぐらいは自由にさせて欲しいと切実に願ったものだが、師匠の考えでは弟子とは常に側に居るべきものだったようだ。
そんなところに仕事が舞い込んで来た。
東スポのコラムである。東スポと言えば、勿論あの「東京スポーツ」だ。
ン十年間、変わることなく、プロレスとお色気を売り物の編集方針を貫くアッパレな夕刊紙である。家庭には持って帰れない。帰宅の電車の中で広げて読むのもちょっと勇気のいる新聞である。
2017年現在、出雲では前日の夕刊が朝のコンビニで「大阪スポーツ」として売られている。九州では「九州スポーツ」である。名古屋は「中京スポーツ」と言うのがあったような記憶がある。東北北海道は行ったことがないから知らない。
その東スポの仕事だから、まとも(?)なコラムであるはずがない。
師匠が映画界において体験したお色気話を一ヵ月間連載するというものであった。コラムだから文章量はたかが知れている。こんなものを何日もかけて書くのはまどろっこしいので、師匠は2、3日で30本近い話を書き上げ、まとめて渡す約束で書き始めた。
勿論、口述筆記である。久しぶりの仕事とはいえ、こんな仕事の口述筆記に私のやる気が出るわけもない。シナリオの口述筆記なら、勉強になるから必死にやるのだが、東スポのお色気コラムなんか(と、心の中では思っていた)、ただ早く終わって欲しいだけであった。
師匠も楽な仕事で金になるからやっている訳で、さっさと終わらせたい気持ちはみえみえであった。ところが、こんな仕事は簡単に終わると思いきや、師匠は7、8本でネタ切れになってしまった。映画界でさんざん遊び回って、女優なんて片っ端から頂いたと豪語していたのに、
「いくら俺でもそんなにある訳ないよなあ……」
書けない話もあるのだと弁解する。聞けば確かにそれは書けないだろうなという話であった。
仕方ないので、師匠は見て来たような話をでっちあげることにした。映画界でよくあるような話であるが、途端に口述のペースが落ちた。やはり身をもって体験した話と、本数稼ぎにでっちあげる話とでは、お色気コラムの文章一つとっても勢いが違う。やる気のなさが露わになる。
口述筆記する私もそれに合わせるかのようにますますやる気が失せる。
早く終わらせたいのに、やる気の出ない師匠と、これまたやる気のない弟子の地獄のような口述が続く。
そんな口述をしていて、たまたまその当時のアメリカの人気女優のアンダーヘアの色を書く場面になった。
「おい、ブロンドかなあ、金髪かな」と、不意に師匠が聞いて来た。そんなの分かる訳がないから、「そんなのわかりませんよ」と、答えるしかない。
それでも師匠は「どっちだろう」と、自問自答を続け、一向に先へ進もうとしない。
早く進めて欲しい一心の私はいい加減じれていた。師匠がまたもやしつこく「ブロンドかなあ、金髪かなあ」と聞いて来た時、私は思わず「どっちでもいいんじゃないんですか」と言った。私はブロンド=金髪と思っていたから、本当にどっちでもいいと思ったのだ。
その時である。途端に師匠の態度が一変した。持っていた鉛筆をバシッと机に叩きつけると、「やめた」と、一言。
瞬間、私も「しまった、やばいことを言ってしまったようだ」と思うも、後の祭りであった。
壁を睨みつけていた師匠が、私を振り向きぎろりと睨んだ。あんな怖い顔を見たのは弟子時代に3回ぐらいあって、その最初だったからよく覚えている。般若のようであった。
「馬鹿野郎、ブロンドと金髪は違うんだ!」
大声で怒鳴りつけられた。どう違うのかは言わないが、そう言われたら、私としては「そうなんだ」と思うしかない。
「お前になあ、そんなこと言われて、書けるか。俺はもう書かん。やめた」
机の上に足投げ出して、師匠は本当に仕事を放棄してしまったのだ。
私は愕然とした。締め切りは明日なのだ。今夜中に口述し終わり、徹夜で私が清書して、明日の昼前には原稿を渡さないといけないのだ。
師匠が怒った気持ちは分かる。こんな仕事と内心忸怩たるものがあったところに、はからずも弟子までもが投げやりでやる気のない態度を見せたのだ。今で言うところの、キレてしまったのだ。
私は困った。この仕事は約束通りにあげないと、原稿料が予定の日に入らないことになる。そうなると大変困ることになる事情を知っていたから、本当に慌てた。私の失言のせいでそんな事になったら、どんな顔をして弟子を続けたらいいのか。今日追い返されたとしても、明日はどうすればよいのか。
気まずい沈黙の中で、「どうしよう、どうしよう」と、焦りに焦りまくった。途方に暮れた。その時、はっと『あの時の光景』が蘇った。
それは、半年ぐらい前の事だったろうか、師匠が書いたTVの脚本に対して、あるプロデューサーが「お弟子さんが書いたんじゃないんですか」と言ったことがあったのだ。確かにその脚本は私がみても出来の悪い脚本だった。そう言われても仕方がないくらい。師匠はシナリオを書くのに飽き飽きしていた上に、糖尿病も悪くなっていた。気力も体力も失せていたのだ。
しかし、師匠は怒る時は烈火のごとく怒った。
「何だとおっ、俺はなあ、弟子に本を書かせて、それをそのまま出すような真似はしねえんだ」
と、受話器に怒鳴ったのであった。
翌日、その制作会社のプロデューサーは局プロに伴われてやって来ると、部屋に入るや、土下座して謝ったのであった。
私はその光景を思い出したのである。もうこれしかない。
私はがばっと土下座した。「申し訳ありません。どうか口述して下さい。お願いします」と、頭をこすりつけたのであった。
師匠は面食らったようであった。まさか、私が土下座するとは想定外だったらしい。
師匠はしぶしぶ口述に戻ったが、さすがにアンダーヘアーの色のくだりはカットしてしまった。
口述する時は、常に身振り手振り声色まで使う師匠が、仏頂面でエロ話を語るのだ。いやはや気詰まり極まりない地獄のような口述だった。

そんなことがあって、ブロンドと言う言葉と、金髪と言う言葉が、私のトラウマになってしまったのだ。その違いを調べようと言う気も起きず、今日に至ってしまったと言う訳だ。
「師匠、あの時はすんませんでした。ところで、ブロンドと金髪はどう違うんでしょうか。教えてください」
そう言える人間だったらよかったのに、私は若過ぎた。今になって、自分の至らなさを申し訳なかったと思う。師匠はどれだけ不快な気持ちを我慢したことだろうと。

これも師匠の全盛期のトンデモ話。何度も聞かされた。
その昔、映画の脚本を仕上げると、師匠は弟子たちの慰労もかねて、弟子たち全員を引き連れ、吉原に繰り出したそうだ。
その当時はまだ「売春防止法」のない時代である。
吉原と言えば、時代劇でおなじみの女郎がいて、花魁(おいらん)がいて、江戸の男たちが遊びに行く場所であるが、「売春防止法」が施行されるまで(完全施行されたのは昭和33年)は、戦後もなお日本中にこんな場所があったのである。
「みんな、吉原に行きたいものだから、必死に仕事をするんだ」と、笑う師匠。
弟子全員のお遊び代まで、全部師匠持ちなのだから、そりゃあ楽しかろう。徹夜が続いても必死に頑張るだろう。
吉原に乗り込むと、師匠は全員に現金を配る。そして、「時計合わせ」と言う儀式をする。全員輪を作ると、腕を突き出し、腕時計の時間を合わせるのだ。そんな子供じみたことを、大の大人が嬉々としてやったのだ。
「○時間後に集合!散れ!」
師匠の号令一過、全員、馴染みの女の所に突進するのだそうだ。
そして、○時間後に同じ場所に集まり、また揃って帰り、宴会になるのだそうだ。
「売春防止法」が施行されてからはどうしたのか知らないが、私が独立する時、師匠が「俺はお前を吉原にも連れて行ってやれなかったし、銀座にも連れて行ってやれなかった……」と、不甲斐なさそうに言ったから、相変わらず、巨匠は景気よく振る舞っていたのだろうと思う。師匠は師匠とはそう言うことをするのが当たり前だと思っていたのだ。
いくら稼いでいるからと言って、よくもまあそんな無茶が出来たものだと呆れるしかなかったのだが、案の定、弟子たちに給料を払ったら、師匠は靴下一足買う金がなかった時があり、「『俺はいったいなんのために働いているのだ』と、あの時は本気で怒ったぞ」と、言っていた。
それに比べると、我が脚本家仲間の師匠はしっかりしていた。
彼は大勢の弟子がいたが、我が師匠のように給料は払わない。弟子が書いた脚本に手を加え、自分の脚本料から一部を払う。弟子が能力が足りなくて、いい脚本が書けなければ困るのは弟子で、師匠は弟子が食えようが食えまいが関係ない。自分の腹は絶対に痛まない。それどころか、払った脚本料を麻雀で回収していたと言う。
「師匠は無茶苦茶麻雀が強いんだよ。全部巻き上げられちゃうんだ。しかも俺徹夜で台本を届けてへろへろなんだよ。勝てるわけないじゃないか。正直やりたくないさ。でも、師匠に付き合えと言われたらやらざるをえないんだよ」とは、逃げ出した弟子の弁。
逃げ出したくなるのもむべなるかなである。麻雀で弟子から金を巻き上げている間にも、別な弟子たちはせっせと脚本を書いているのだ。
こういうことが出来たのも、時代が映画からTVに変わったからである。我が師匠が映画でやっていたことのTV版大量生産方式なのである。TVで大量の番組が制作されるようになって、必然的に誕生したシステムなのである。但し、皆が皆やっていたことではない。飛びぬけて能力(経営能力を含めて)があった人だからこそ出来たことである。
さらに、TVがアニメの時代になると、脚本家で教室を開く人が現れた。
生徒を集め、授業料をとって脚本を教えるのだ。そこそこの定期収入にはなるだろう。30人集まって、残るのは1人ぐらいか。
その残った見どころのある弟子が脚本を書き、師匠と共同脚本で世に出すのは前者と同じであるが、ここにもう一つ新しい時代の契約が入る。弟子時代の脚本に関しては共同脚本料は払うが、著作権は師匠に帰属するのだ。どういう事かと言うと、アニメが再放送されたり、外国で放映されたり、ビデオになって発売された時の使用料(印税)は師匠のものなのだ。
これを聞いた時、(う~ん)と私は唸った。お見事と言うしかない。
我が師匠と比べたら、この人たちとは金銭感覚と言うか、経営能力と言うか、雲泥の差である。
考えても見て欲しい。我が師匠が給料を払った弟子たちの中には、ライターになれなかった人たちが何人もいたのである。ライターになった人も夜逃げした人がいる。約束のお礼奉公もしていないのだ。それまでどれだけの給料を払って来たことか。すべてどぶに捨てたことになるのだ。だが、師匠は「あいつも逃げやがったか」と笑って、夜逃げした弟子たちに意地悪するわけでも、妨害するわけでもなかったのだ。
その当時、仲間の作家が呆れて、「なんでライバルになる者を育てるのだ」と言ったそうだが、「ライターになりたいと、俺を慕って来る者はライターにしてやりたいんだよ」と答えたそうだ。
だから、後年師匠を励ます会や、死後偲ぶ会をした時は、ライターになれなかった人達も、夜逃げしたライター達も、皆、集まった。
私は教室を開いた作家の事を知った時は、感心したが、真似をしようとは思わなかった。そんな面倒くさい事をしたくなかったのであるが、なによりも私がこの師匠の弟子だったことが大きい。もし弟子を抱えても、私は師匠が私にしてくれたのと同じことをしてやれるかと考えたら、とても真似ができないと思ったのだ。
給料は貰わなかったし、吉原も銀座も連れて行ってもらっていないのだが、私はもっと大切なものを貰ったと思っている。給料も払えない、吉原銀座に連れて行ってやれない分を、師匠は見えない別な形で与えてくれたのだ。給料を払ったり、飲みに連れて行くのはある意味誰でもできる。金さえあれば。
給料が払えない状況の中でも、せめて弟子には何かしてやりたいと考え、常に何かを与え続けてくれた、そんな人のまねを私は到底できないと思ったのだ。ライターになるために。人として成長するために……。思い起こせば、あの時叱られたことも……一杯思い当たることがある。またの機会に紹介したい。

訂正があります。以前、師匠の映画脚本340本と書きましたが、さすがに多過ぎました。TVを含めての本数です。私が弟子になった昭和45年当時では約170本。残りがTVの脚本である。この頃は師匠はもう映画の仕事をしていなかったので、実質映画脚本を書きまくっていた期間は十数年ということになる。意外と短いが、映画全盛期自体が戦後からTV興隆期までの約20年間で、それほど長くはなかったのだ。しかしながら、十数年で170本は驚くべき数字であることには違いない。
TVの本数が少ないように思われるが、師匠は週刊現代に連載小説「悪魔のような素敵な奴」を書き、それがTV化されている。脚本家が週刊誌に連載小説を書くのは今だって破格のことで、よほどの人でないとそんな注文は来ない。TVドラマ「プレイガール」の監督もしている。脚本家が監督するのも破格のことで、今でも滅多にないことである。そして、その監督をしていた時のエピソードが破天荒でぶっ飛んでいる。これもまた、いつか紹介しよう。

戦後の話だと思うが、東宝ではシナリオライターを目指す社員は会社命令で先輩ライターの弟子にさせられたそうだ。会社が本人の意思に関係なく決める。師匠は不服そうだったが、その理由は後で分かった。
師匠は小国英雄の弟子になった。黒沢映画の大脚本家である。当時すでに大御所だったから、共同脚本家たちのまとめ役のような役割を果たしていたと言われている。
ある日、プロデューサーが「そろそろ松浦君にも一本を」と言った。
師匠は嬉しかったそうだ。やっと脚本家になれる。飛び上がるほど嬉しかったそうだ。
ところが小国英雄は「松浦君はまだ早い」と言った。大御所にこう言われたら、プロデューサーは引っ込むしかない。
それはそれは悔しかったそうだ。どれほど悔しかったか。
「俺はその時の悔しさが忘れられなくてさ。だから俺は弟子は早くデビューさせてやることにしているんだよ」と、ビックリするようなことを言った。ビックリはさらに続いた。
「俺はな、一人前の脚本家が10の力が必要だとしたら、7の力をつけたところで独立させてやるんだ。なあに、独立すれば何とかなるものなんだよ。後の3の力は自分で身につければいいのだ」
私は飛び上がるほど嬉しかった。給料払ってくれないことなどどうでもよかった。
何ていい先生だろうと感激したものだ。早く独立させてくれるなら、これに優る喜びはない。地獄の弟子生活ともさよなら出来る。7の力で世に出ることの大変さなどその時は想像もしなかった。
お礼奉公もころっと忘れていた。
割と早く独立させてくれたが、7の力で世に出ることとはこう言うことかと、身をもって知らされた。残りの3を埋めるためにどれだけ辛い思いをしたか。直し直しの連続で死にたくなった。弟子生活の辛さとは比べものにならない辛さだった。弟子なら逃げることが出来るが、もう私は逃げることが出来ないところにいたのだ。
私とシナリオ研究所で同期だった女性と同じ番組で出会ったが、その人は自殺してしまった。
私は7の力で苦労したが、10の力で世に出て苦労した仲間もいる。
彼は有名な作家の弟子だった。その先生は大勢の弟子を抱え、多くの番組を書いていた。弟子が書いた本に手を入れて、共同脚本にする。優秀な弟子がいれば、いるほどたくさんの脚本が出来上がる。となると先生は優秀な弟子ほど手元に置いておきたくなるのは人情だ。一方、優秀な弟子ほど早く独立したくなる。そこに葛藤が生まれ、
我慢しきれなくなった弟子は飛び出してしまう。
しかし、いくら優秀でも、先生の許しを得ずに飛び出しているから、先生の息のかかった場所では仕事ができない。それもまた辛いものがあるのだ。
そうかと思うと、ある女流ライターの例。彼女は女の先生に弟子入りした。しかし、彼女が売れ出すと、激しく嫉妬したそうだ。余りにも嫉妬が激しくて、彼女は逃げ出すかたちで独立した。でも、これはこれで一番ラッキーな独立と言っていいかもしれない。
今になって思うと、苦労したけど、早く独立させてくれた師匠に感謝している。
「俺のために尽くしてくれた弟子は可愛い。だからライターにしてやりたいのだ」
多くの弟子を抱え、多くの脚本を書いた。やっていたことは大量生産の今風だが、根は情の人で、古風な昔の男だった。
お礼奉公も小説のお手伝いや、口述筆記であって、私に脚本を書かせて楽をすることはしなかった。

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