これは25年前、父が小学生の孫(儂の姪っ子)に求められて書いたものである。姪っ子のクラスで戦争のことを知る授業があって祖父母に聞いたり、書いて貰ったりしたのだそうだ。去年、父の葬儀が終わった後、姪っ子がコピーを送ってくれた。父が昔何やら書いたことは耳にしていたが、すっかり忘れていた。読んだのも初めてである。8月15日に紹介しようと思っていたので、母の手記(この時、母も短い文章を書いていた)も併せてアップしました。旧仮名遣いや誤字、当て字、文章のおかしいところもあるが、直さないそのままの方が時代の息遣いを感じさせるので98%ぐらい忠実に転載しました。

太平洋戦争とおぢいさん

 

どうして、この太平洋戦争が起こったかについては、戦後、沢山の本に書いてあるが、その原因の根深さは、戦争に突入した昭和十六年十二月八日の時点では、おぢいさんは十九歳の大学生に過ぎなかったので、どうにも解きようのないものだった。

 何の予報もなしに、いきなり大防風雨が襲ったようで、ただ狼狽し、ニュースをききながらウロウロしていた始末で、おそらく殆どの日本人がそうであったのではなかろうか。

 兵隊に行く前であるが、戦争がどのようなものであるかは、日清、日露戦争の本を読んでいたので、おぢいさんも少しは知りかけていた。国家の名で、殺人という平和な時には、最大の悪業が、堂々と行われる。そして殺し合う相手との間には個人的に、何の怨みもないのに、その殺人の量が多いいほど手柄であり、忠誠心(国につくす心)を計る尺度となって勝利者が決まっていく、という野蕃な矛盾におどろきながらも、戦争の始まった十二月八日の時点では正直に言って、いよいよ戦場におもむき、命をかけて働かねばならぬ時が来たと、武者震いを感じたことを思い出す。

 戦争に突入してから後まる二年、即ち昭和十八年までは学生として、灯火管制のウス暗い明かりの下で、食べものも不自由であったが、勉強を続けていた。

 然し、政府は戦争が始まって二年目の昭和十八年九月に、全国百校の大学、高等学校、高等専門学校に在学中の学生に対する徴兵猶予を停止するという非常措置を発表した。

 この時、理工、医科系の学生は例外的に猶予され、そのまま学生でいられたが、おぢいさんのような文科系であったものは徴兵の対象となったのである。

 徴兵検査の時、陸軍か海軍かの志望を聞かれ、それを叶えられたものもいたが、大部分は軍の方針できめられたものが多く、陸軍は昭和十八年十二月一日に入営、海軍は十二月十日に入団と決められ、おぢいさんは軍から決められた呉の大竹海兵団に入団した。

註(陸軍は軍隊に入るのを入営と言い、海軍は入団と言ふ)

 我々新兵はいづれも二等兵(陸軍)またわ二等水兵(海軍)からスタート、全員が漏れなく階級は最下位から叩きあげとなった。

 勉強をしていた学生になぜ徴兵猶予停止という非常措置がとられたかと言ふと昭和十八年は日本にとって、負け戦を決定づけた年であった。

 先ず二月にガダルカナル島から日本軍は退き、四月には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、五月にはアッツ島で日本軍(守備隊)が玉砕した。そして、十一月にはマキン、タラワ両島の日本守備隊が玉砕した。こうした情勢のもとで、施行された徴兵猶予停止に対し、学生は“やむをえない”という実感のなかに、日本の歴史始まって以来の国難に身を投じなければならないと言ふ義務感がわいたのである。

 学徒出陣の正しい記録は残っていないようだが、陸海軍に入隊した学徒兵は総数でおよそ十万人、そのうち約十八%が海軍と推定される。

 航空隊への志願者は優先的にかなえられたが、他の兵科は志望を問われることなく、一方的に決定されたのである。

 訓練期間中の生活については、苦しかった数多くの手記が残っているが、大多数が黙々と耐え抜いたことは事実である。

 つらい局面においては、命ぜられたことに疑問持つこと自体が、辛さを増すので、すべて肯定的に受け止めるように自分に言い聞かせたものである。

 さて十二月十日呉の大竹海兵団に入団してからは海軍独特の月々火水木金々(即ち休日なしの)の激しく又厳しい訓練を受けたが、余りの激しさに耐え切れず、自ら死を選んだ者(自殺した者)さえいた。

 戦争にのぞむ場合“死”は大前提である。この場合“どうせ死ぬる”からと希望を失い将来を悲観して、日々を刹那的に過ごした兵隊と、これとは逆に生死を超越して、全力を以って日々の訓練に励み耐えた者との両極端に分かれたが、おぢいさんは、兎に角猛烈に頑張り、二ヶ月の訓練を終えた時、新兵(何百人いたのか覚えていないが)の中で三番の成績で海兵団長より賞状と記念品(万年筆)を貰ったのである。

 このような表彰があることが、事前に分かっておれば、これを目指して頑張った兵隊が沢山いたことと思うが、全員知らず、おぢいさんも、この表彰が新兵全員の前であることを、その前日に上官より知らされたのである。

 人間はどんな場合でも人が見ていようがおるまいが、陰、日向なく懸命に努力すると誰かが、これを認めて呉れていると言ふ“生きた教訓を”体験した。

 そして、戦争が終わって、社会人になってからも殆ど“誰にも語らず”守り続けたが、これは誤りのない教訓であることが、一層よくわかって七十五才を迎えている。

 今から、ふり返って見ると、この頑張りが命ながらえて今日を迎えている原因であると思っている。

 と言ふのは、幸いにも成績がよかったので海兵団より藤沢長後にあった海軍電波学校に入学を命ぜられたのが、昭和十九年二月であった。

 この電波学校では、その当時の最先端の新兵機、電波探知機について、その知識と操作を教えていたのである。

 何分にも戦争中に出来た新兵機なので特殊な知識と技能を必要とするため、中身の濃い教科が課せられたのである。

 教わったのは、数学、電気理論、真空管理論などの高度な教課を勉強させられた。

 何分にも学生は文科系ばかりだったから教える方も、教えられる方も必死の日々であった。

 夜も十二時前に寝ることもなく、六ヶ月の教育を受けた。

 最初の三ヶ月は普通科と言って、ヤゝ平易な教育であったが、この教科終了時点で机を並べた戦友が沢山、第一線(即ち戦艦、航空母艦、その他の艦隊、及び南方の航空基地等)の配置につかされたのである。

 そして日が経つに従って次々と戦死の報が入って来たのである。

 この時おぢいさんは、引き続き高等科に進み更に三ヶ月の教育を受け、この教科を終えた時には、いよいよ第一線の砲弾の下に命をさらすのかと、血をおどらせながら出動の命令を待っていたところ

 命令は期待した第一線出動ではなく、予期もしない、新兵の教育係で学校に残り第一線とは無縁の教員として、教壇に立つことになった。

 この時ほど人間の運命の岐路を思い知らされたことはなかった。

 この教員生活は約一年近く続いたが、教える兵隊は、年配者が多く(この頃は若い兵隊は皆、第一線に配属されていたゝめ)教えても、理解力に乏しく、又なかなか覚えない、なかには授業中に居眠りする者さえをり、之を許すわけにはゆかず、竹の棒で厳しくヒッパタイたものである。

 この様な兵隊の質を見た時に、これでは役に立たず、教壇の上から、既に日本危うしを痛切に感じたものである。

 この一年近い教員生活の後は、いよいよ第一線出動要員として、部下十名をもらい茅ヶ崎海岸の松林の中にあった電波学校の出動要員の訓練場で毎日激しい実践さながらの訓練を行ったのである。

 これは終戦の年昭和二十年のはじめである。この頃は日本国内には敵を迎え撃つ飛行機は殆どなく、毎日の様にアメリカの艦載機が超低空飛行で襲来し、機関銃の掃射を受けたものであるが、カスリ傷一つ受けなかった。

 この茅ヶ崎での訓練中、既に銃は一つもなく、アメリカの本土上陸の際は竹で作った槍で戦うのだと、本気で子の訓練を繰り返したのである。この状況下で最早や日本の敗戦はハッキリしていたのである。

 この後、終戦直前に茅ヶ崎より部下と共に伊丹の海軍特攻基地(現在の大阪飛行場)防衛のため、現地え着任、間もなく終戦を迎えたのである。


〇ちゃん、いよいよ夏休みも終わり、新学期が始まるね。楽しい夏休みを過ごしたことゝおばあさんと話合っているよ。
〇ちゃんから頼まれた戦争の事のおへんじが、大変おそくなってすまなかったね、何分にも五十年も前の出来事なので記憶がウスレていたり、断片にしか思い出せなかったりで、一生けんめい記憶をよびもどしながら書きました。
どうしても思い出せぬところは、図書館に行って調べ、間違いのないようにまとめました。
〇ちゃんのこの”頼み”によって、おぢいさんは海軍時代のことを文章で残すことが出来、大変喜んでいます。若し、この”頼み”がなかったら、多分何の記録も残さず、人に話すこともなく、故人となったことでしょう。
乱ぼうな字、又むずかしい字を使っていますが、お父さんお母さんに聞いてください。


  

 

                 原子爆弾の投下の日

 

私は一九四四年十六歳の時旧制女学校三年生の生徒が呉海軍工廠へ動員学徒として勉強も捨てゝ国のために働かされていました。

爆弾投下の其の時は私は病気をして居ました。呉の軍港の山側の寄宿舎は焼け出され、居を替え呉の隣の狩留賀町吉浦中学校の寮へ移り近くの病院え通うため隧道の中を歩いて居ると、ピカは見えずドーンだけが聞こえました。

暗い隧道から出て見ると、今頃云われている「木の子雲」でしょうね、しっかりと十六歳で見たあの雲は不気味でした。

病院に着くと爆弾にやられた人々、虫の息の様な大人、子供、真黒い顔、出て居る所は水ぶくれ、着衣は縦にサケてボロボロの姿に驚きました。

私は治療が終わり、病院を出ると広島方面から何十台ものトラックがムシロに死人の人を一人々々巻き、丸で材木でも積んで有る様な形で、満載して、山の方へ走り去りやがて遠くで煙が上がっていました。

一生忘れることはないでしょう。

 

※旧制女学校三年とは

 今の中学三年生です。

 

※十六才と云っても満で十五才です

 

別紙のコピーは私達の事が出ていましたので大切に切抜きしていましたのでコピーしました。

参考になると喜びます。

                  おばあさんより

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註:別紙のコピーとは新聞記事のコピーのこと。母たち津和野の女学校の動員学徒 が記事になったことがあったらしく、そのコピーを送ったようだが、姪っ子はそのコピーを失くしてしまったそうだ。我が家にはあるかもしれないが、母はどこにしまったかもう覚えていないだろう。
母たちは終戦後広島経由で帰郷。その時、原爆投下直後の広島で残留放射能を浴びたので今も「被爆者手帳」を持っている。 


儂が父から聞いた話の断片はもう少しナマナマしい。機銃掃射を受けてカスリ傷ひとつ受けなかったと書いているが、儂が聞いた話では砂浜に突っ伏したら、すぐ身体の横を銃撃が走り抜け 、間一髪助かった。後少しずれていたら生きてはいなかったと言っていた。

 表彰された話も、皆、どうせ死ぬのだからと自暴自棄的になっていたが、自分は二人兄弟で二人とも死んだら家が絶え、親が悲しむと思ったので必死に勉強したと言っていた。その後弟は戦死している。表彰されることは知らなかったという記述と矛盾するところもあるが、一生懸命に勉強した動機の一つにそういう部分もあったのだろう。小学生の女の子に向けて書いたのでそこまでは触れなかったのかもしれない。
断片でしか知らなかったことを、こうしてきちんと記録に残してくれたことに感謝した8月15日であった。