5月3日に亡父の3回忌を行う。命日は連休後なのだが連休中にやればひょっとして働いている娘も参加できるかもしれないと思って早めたのである。ところが日本中がご覧の通りの惨状。去年の第一回の緊急事態宣言時よりも酷い。出雲もずっとゼロだったのに最近はゼロの日が珍しい。東京の娘もテレワークで家から一歩も出てない状況。帰郷どころではない。儂の妹たちも帰郷出来ず。親戚も殆どが80歳以上。去年の一周忌も呼ばなかったのに呼べる訳がない。この一年、出雲の葬式は家族葬で流れ焼香がすっかり定着して、法事法要などにも人を呼ばず身内で済ませてしまうのが当たり前になってしまった。日取りを決めた時から3回忌もせめて去年の一周忌同様母と二人でやれたらいいなあと思っていたのだが、3月末に外出解除になった母が4月29日から5月末までまた外出禁止になってしまった。
何とひとりぼっちの三回忌になってしまったのである。(去年は母はまだグループホームに入所していなかった)半ば覚悟していたとは言えたった一人の三回忌はさすがに世間体が悪い。声を掛ければ来てくれるところもあるにはあるのだが、昨今の風潮に慣れてしまった人たちに声を掛けるのもかえって迷惑かなと思い遠慮した。家族葬に見られるように何事も内輪で済まそうと言う流れはコロナ禍を機にもう変わらないと思う。
で、百回忌であるが、これは父の曾祖母の年忌である。毎年正月過ぎてお寺に納める課当金の報せと一緒に年忌の通知が来るのだが、そこに父の3回忌と〇〇院の100回忌の報せがあったのである。3回忌があることは当然知っていたが、100回忌には驚く。〇〇院とは誰かも分からぬ。慌てて調べて父の曾祖母と分る。我が家にたった一枚だけ写真が残っているお婆さんだ。だが、その時点ではやってもやらなくてもいいのだろうぐらいにしか考えていなかった。なにしろ100回忌だから。
3回忌の日にちを決めにお寺に行った時、奥さんに「ところで100回忌をやる人はいるのですか」と念のために聞いてみたら、「はい、皆さん、なさいますよ」と、あっさり言われて、心の中で『そうなんだ』と認識を改める。
と、いう訳で本日は3回忌と100回忌を併せて行う。昨日までの雨が嘘のように晴れてくれる。
出雲では葬儀が終わった後はすべて黄色の水引の金封を使う。
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御布施、御膳料(直会をしないので)、御焼香料、御塔婆料を一つずつ包む。〇〇院さん分は御膳料はないので三つ。会わせて金封が七つと言う凄いことになった。父の遺影とその曾祖母の一枚しか残っていない写真を見ながら供養していると父からは2分の1、その曾祖母からは16分の1の血を受け継いでいるのかと感慨深いものあり。
そして、50回忌とは何かと言うと、母の父親の年忌である。儂の4つ年上の叔父から電話があって、5月7日が50回忌になると言う。儂にとっても母方の祖父である。夏休みに母の里では可愛がってもらった。おじが言うには親の50回忌に子供6人が全員健在なのはなかなかないことでもあり、本来なら子供たちが集まりたいのだが、この御時世なのでそれは叶わない。せめて本家にお供えを送りたいので賛同してくれるかとの相談。無論、異論はないので母の代理として承る。
3回忌が終わった後早速お供えを買いに行き荷造りをする。そこへ儂からの贈り物を入れる。
実は一時外出で戻って来た母が昔の写真を見ていたことがあった。その中に父親が42歳で出征した時の家族写真があったのである。そこには母の両親や妹達や弟達も映っている。電話してきたおじは1歳か2歳で16歳ぐらいの儂の母(長女)に抱かれて写っている。この写真は母の弟妹全員に明日発送する。
今や死後50年経てば墓じまいしてもよいと言われている時代である。現に妻の実家は誰も跡を継ぐ者はいないので墓じまいを考えているが、一方では50回忌や100回忌をするところもある。33回忌までやれば後はしなくてもいいと言われているが、50回忌や100回忌が出来ることは幸せなのかもしれない。
考えても見るがいい。この薫風天に満つ5月に大都市ではコロナに罹っても病院に入れず自宅で死んでいる人がいる。残された家族は一周忌や三周忌をどんな気持ちで迎えることになるのだろう。