夏の第二波が下火になり、9月初めからパネル越しに15分の面会が出来るようになって一回面会した。10月7日には東京から娘が来たので施設の外から窓越しの面会をした。その後、県外者と濃厚接触したので最低2週間空けないと面会できないので、十分間隔を取って11月4日にパネル越しの面会をした。 

会議室で待っていると車椅子で連れて来られて会うなり「足が長くなったわね」と言われた。

帰京した娘が贈ってくれた誕生祝いの靴下を「はいているね」と言ったら「ちゃんとはいてるわよ」と返される。

娘の話になって、

「〇〇ちゃん美人になってるよ。曽田の本家に似て足が長いしすらっとして(うそばかり言う)。お父さんと泣きついて来るかも。だっこしてあげて、泣かないでよ、可愛いからね」

「〇〇ちゃん、パパよ、パパよ」

「あの子に会うと涙が出る。ハリアップ ヒヤ カムヒヤ」

「〇〇ちゃん、足の骨折ってだいじょうぶ。骨接ぎして貰えばよかったのに、こんなに痛いのに」(自分の足が痛いのが混同しているようだ)

この日はとてもよく喋った。

「よくしゃべるね」

「しゃべるわよ。お父ちゃんとお母ちゃんの家に行ったらもっとしゃべるわよ」

「コロナがはやっているの知ってる」と聞くと、

「全国放送でやってる。不用心だからよ。なんでも拾って食べる。あれがいけないのよ」

看護士さんの話では食事も摂れているし、水分もしっかり摂っている。

「今日は一杯飲んでカレーライス食べよう。なっちゃん、ウィスキー買って来たからいっしょに飲もうね」

「元気そうで安心したよ」

「元気よ、すごく元気」
一週間に一回のパネル越しの面会と一週間に一回の東京からの娘のスマホ面会を交互に行っていて11月18日がわしのパネル越し面会。この日は寝ている所を起こされたのか眠たそうであまり御機嫌がよろしくない。

「ママちゃん、いつ来るの」

「熊本は遠いからね」

「遠いの?ここから」

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どこかへ行くと言うので「今日はどこへ行くの」と聞くと、「立ったばかりの家へ行くの」と、家の話になって、「新しいお家出来た?新しいお家つれてって下さい。プールのついてる」

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「パンがほしい、高いお金払って買って来て」

何が食べたいのか聞くと、ジャムパンが好きと言う。

面会の時は何かしら差し入れすることにしていて、朝食用に卵サンドを買って来た。その方が少しでも栄養になるかと思ったのだが、次回からはジャムにしよう。

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娘のことになって「私が産んだ子だからかわいい。時々間違えるの、ママて。お母さんと言わないといけない」

急に、「陽の当たる部屋へつれてってください」「陽の当たる所へ連れてって」と、言い出す。

ちょうどこの日は全国的に暑い日で、出雲は25.7℃。最も遅い夏日で、11月の最高気温だった。(翌日は26.4℃にもなった)

去年だったら車椅子散歩をして一杯に陽を浴びることが出来ただろうにと思うと、可哀想で胸が痛くなる。すると、帰り際、職員さんが天気がいいので外まで車椅子を押してくれてバイバイする。思いがけず陽に当たることが出来た。少しでも陽を浴びることが出来て自分が日光浴したように嬉しくなる。職員さん、有難うございます。

トリミング1606130690553車の中から写す。小さく写っているのが妻。
Inked3753_LIこの絵は前回紹介した韓国の若者が描いてくれた。

娘が持っていてスマホで撮ってラインで送ってくれた。
『私が日本へ来てから今まで手伝ってもらって本当にありがとうございます。この絵は上手ではないですけど心からの小さなプレゼントです。〇〇より』と、書いてある。原文通り。
日本語が達者になっているから知り合ってから一年以上経っていると思うが、娘も儂も妻が倒れる前に貰ったものか、妻が倒れた後お見舞いにくれたものか記憶が定かでない。病室に行ったら置いてあったのかもしれないと娘は言う。17年ぶりの懐かしい絵だ。彼には明るい母子に見えたのだろう。

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ついに我が愛車「三菱ミニカ」を廃車にした。妹達が手伝いに来てくれた時は二台必要だったが、3月からはコロナで帰郷できず。母もグループホームに入ったので、もし帰郷できるようになっても以前のように長逗留することもない。維持費もばかにならないのでネットで廃車の手続きをした。本当に無料だった。ためしに車に値段がつくか問うてみたらもう値段はつきませんと言われた。9年前、帰京した時は母の車が一台しかなく、病院通いには福祉車両を手配しなければならないのがわずらわしかった。ちょうど沖縄で働いていた娘が東京勤務になったので娘が沖縄で乗っていた中古のミニカを譲り受けたのだ。その頃はまだ妻を助手席に抱えて移すことができ、車椅子は折りたたんで後部に積めたので、妻の乗り降りは大変だったけれど狭い道でもちょろちょろ走ってくれるので暫くは随分重宝した。雨の日や寒い日は悲惨だったが、頑張ってくれたおんぼろ軽である。わしにとっては仲間と言うか戦友みたいな車だった。妻の体幹が弱くなり車椅子を背の高いものに交換したらもうミニカには乗せられなくなり、母も車の運転をしなくなったので母の車を下取りに出してホンダのNBOX+を購入。それからは妻の移動はNBOXになったが、車は二台必要でミニカはわしの愛用車になった。あちこち悪くなって修理代も馬鹿にならず、近所の修理屋からいつになったら買い替えるのと言われていたのだが、妻の為に頑張ってくれた車をどうしても手放すことが出来ず乗っていた。ここに至ってマフラーがバリバリ言い出したのでとうとう手放すことにしたのだ。思い出の品が出て来ることもあれば、車とともに消えて行く思い出もある。

3波がひどくならないことを願っている。今日は出雲空港の職員が一人コロナに感染した。
日曜日には母が一時帰宅し一緒に昼ご飯を食べ、妻とはパネル越し面会をしている。正月ぐらいは母を帰宅させてやりたいし、妻とも面会したい。三度目の面会規制をしなくてもいいように願うばかりだ。