第四章 初陣(5

 

 牢から出された次郎松は一言も詫びがないと怒っていたが京極邸から出て行こうとはしなかった。長屋をねぐらに賭場通いの日々に戻ったが、百年に一度の運気に水を差され、その後はいい目が出ないとぼやいていた。それでも初戦の赫々たる戦果が忘れられず、未だ御守の力を疑う気配はなかった。辰敬は次郎松には申し訳ないがぼろ負けして多胡博打を忘れてくれる事を願った。

 その後、辰敬は夜の警固を勤めながら深夜の庭で一人剣術の稽古を始めた。顧みて武士たる者が無為な日々を過ごしていることに気が付き愕然としたのである。随分無駄な時間を過ごしたものだ。勿体ないと悔やんだ。座禅も組んだ。見よう見まねだがこの年十五歳になる若者は真剣であった。

 午前中は寝て午後は長屋の部屋に籠もり先ずは四書五経に取り組んだ。だが辰敬はこれまでまともな学問はして来なかった。公典に四書五経を教わったと言っても、しわくちゃの反古の一枚から始まったもので、子供にも分かる処世訓程度のものであった。学問と呼べる深さには到底届いてはいなかった。改めて取り組むとちんぷんかんぷんで乏しい知識と経験を総動員してこんなことを言っているのかと想像するのが精一杯であった。

だからと言って師につくことは躊躇していた。都にいればこそ名僧知識や学者にはことかかない。親もそのような師から学ぶのを期待しているのは分かっているのだが……。そこにこそ上洛した意義があるのだが……。もし厳しい師についてしまったら寝ころんで本を読んでいる事など出来ないだろう。

実は辰敬は四書五経を放り出し、日がな寝転がって草紙類を読み耽っていたのだ。公典のところで反古の断片ではあったがこの類の本が面白いことは知っていたので虜になるのに時間はかからなかった。後は手あたり次第に軍記物や往来物、和歌集や連歌集、源氏物語に、果ては天文、暦、算学書、農業書など文字が連ねてあるものは片っ端から読み耽った。京極邸の納戸には今や誰も読まなくなった書物が埃を被っていたのである。

 辰敬は寝食を忘れ本の世界に没頭した。何物にも代えがたい至福の時間だった。こうして多くの本を乱読しているうちに、辰敬は武士の子にしては妙な本ばかり読むようになった。それは天文や暦、算学、医学、薬草、農学などの実用書の類であった。

 田舎育ちの辰敬は小さい時から虫捕りに明け暮れていた。百姓の目を盗んでは麦畑にもぐり込み雲雀の巣を捜したものだ。雪や雨の多少で作物の出来不出来を予想したし、山の味覚もいつどこに何が実るかは掌を指すように分かっていた。そんな子供だったから出雲の田園を思い出しながら農業書を読んでいると、都と出雲では同じ作物でも種まきの時期も違えば育て方も違う事がとても面白く思えたのであった。

 地方によって枡の大きさが違う事にも驚かされた。都に出て来て漠然と出雲とは枡の大きさが違う事に気がついていたが、その違いを深く考えた事はなかった。地方によってこんなにばらばらだったとは。

 多胡家の石見中野の知行高は四千貫であった。なぜ貫高で表わすのか子供の頃何となく疑問に思った事があったが辰敬はようやくその訳が分かった。都のある山城の百石と出雲の百石では枡の大きさが違うから、同じ百石でも実収入に差が出てしまう。これを銭に換算しておけば山城の百貫も出雲の百貫も収量は異なっても実収入は同じだ。不公平はなくなる。土地の価値は米の石高では正確に表せない。銭に換算して何貫の米が取れるかで決まるのだ。凄い発見ではない。至極当たり前の事だが自分で気がついた事が嬉しかった。

 辰敬はさらに考える。どうして、土地によって枡の大きさが違うのだろう。不便ではないか。統一すればいいのに。なぜ統一しないのだろう。誰も考えなかったのだろうか。そんなはずはない。誰もが統一した方がいいと思っているに決まっている。これは公方様の役目ではないのか。公方様が日本中に号令すればいいことではないか。どうして公方様は統一しないのだろう。公方様はその重要性に気が付かないのだろうか。だったら誰かが教え強力に推進すればいいではないか。どうして誰も教えないのだろう。こんなにいいことをどうしてやろうとしないのだろう。それが(まつりごと)ではないのか。辰敬は枡の大小からそんなことを考える若者だった。

 米の作り方、野菜の作り方、水の管理、堰の作り方、肥料の作り方、天気予報、暦の見方、薬の作り方、病気の予防、虫害や鳥獣害対策、道中の用心、信仰……日常生活のすべてに亘って、知恵が詰まっていた。辰敬は感心した。何と分かりやすく役に立つ情報ばかりなのだろう。知恵の宝庫だった。こんな世の中なのに、庶民は逞しく生きている。無法の世に生活の知恵で張り合っている。名もない庶民の息遣いが聞こえて来るのだった。

 

 六月、突如、三好之長が如意ヶ岳に陣を敷いた。如意ヶ岳は東山連峰の東大文字山の頂きを占める山塊である。そこからは鴨東から鴨川を越えた京の町が一望に見渡せる。

 俄かに都は騒然となった。

 近江の六角氏を頼った前将軍足利義澄は、琵琶湖湖岸に浮かぶ九里(くのり)氏の本拠水茎(みずくき)岡山城(現在の近江八幡市)に庇護されていた。同じ近江に潜伏している前管領細川澄元や三好之長らと共に中央復帰の計画を進めていたのである。

 辰敬は本を投げ出し鴨川の堤へ走った。

 正面に大文字山を望み、如意ヶ岳の辺りに目を転じながらいちの身を案じた。もし三好勢が攻め下りて来たら、いちの寮があるであろう辺りは戦場になるが、そんな事は土倉の泉覚坊も百も承知。もう今頃は退避しているだろう。己が無力が哀しい。遠くにあっていちを思い続ける事の切なさを噛みしめていた。

 管領細川高国は直ちに反撃した。高国勢は高国の被官衆に大内義興と畠山尚順の被官衆が加わり、総勢二万を越える大軍であった。折しも嵐を思わせる梅雨の大雨の中、高国勢がぬかるむ山肌に足を取られながら如意ヶ岳によじ登るとすでに三好勢は逃げ去っていた。後には弓矢や具足、盾、鑓などがことごとく捨てられていた。暴風雨と予想を越えた大軍に戦意を喪失したのだろう。三好之長はまたもや身を隠してしまった。

 将軍足利義尹は義澄一派を一掃するために近江に潜伏する細川澄元と三好之長らのあぶり出しにかかった。義尹は将軍御内書を伊賀、美濃、伊勢、越前に発し、山門にまで出兵を促した。まともに立ち向かっても勝ち目のない事を悟った足利義澄は起死回生の謀略を巡らした。

 

 十月、深夜。

 武家御所の寝殿で就寝中の将軍義尹が賊に襲われた。同朋衆半阿弥の手引きで、夜討ち上手の円珍なる者ともう一名が太刀と長刀で義尹に斬り付けたのだ。義尹は前夜に酒宴があり酔って寝ていたにもかかわらず、賊に気がつくと咄嗟に灯火を消し太刀を取って防戦した。番衆は誰一人として助けには来なかった。呆れた事に番衆も酔っ払って寝込んでしまい襲撃に気がつかなかったのである。

 義尹の寝衣は乞食と見まどうほどにぼろぼろに切り裂かれ、全身に七ヶ所とも八ヶ所とも九ヶ所とも言われるほどの刀傷を受けたが奇跡的に浅手ですんだ。乳母日傘で育った将軍だったら一太刀で落命していたであろう。やっと掴み取った将軍位への執着が義尹の必死の防戦を支えたのだ。流浪を重ね艱難辛苦を舐め尽した将軍だからこその奇跡であった。

 賊が逃亡した後、血まみれの義尹に呼ばれ、番衆は初めて襲撃を知った。前代未聞の大事件に都中が仰天した。

 この暗殺未遂事件は義澄が円珍に依頼したものであった。円珍は時宗の悪党で忍びの心得があった。夜討ち上手の異名を取るぐらいだから名うての暗殺者だった。前将軍派は乾坤一擲の非常手段に訴えたのである。阿修羅の如く斬り付けた太刀の一つが、後一寸深ければ暗殺は成功していたであろう。失敗の報を受けて義澄は天を仰いで切歯扼腕した。

 辰敬も驚いた事は言うまでもないが事件そのものよりも気になる話があった。

 それは円珍たちが武家御所を脱出した時、気がついた門番達が追おうとしたら何処からともなく飛礫が襲いことごとく門番達を打ち倒したと言う話であった。その話を聞いた瞬間、辰敬は飛礫を放ったのは石童丸ではないかと思ったのである。

 かつて辰敬は石童丸の飛礫の正確無比かつ凄まじい威力を目の辺りにした。闇の中でも飛礫を打つと石童丸が豪語したのも聞いた。根拠はそれだけだが辰敬には石童丸以外の人間は考えられなかった。闇の中で百発百中の飛礫を打てるのは石童丸をおいて他にはいないと思っていた。となると石童丸は武士に取り立てられたのだろうか。

 深夜の京極邸で遭遇した石童丸が、

「武士になる」

 と言った顔がまざまざと甦った。

 阿波細川家とか三好家に奉公が叶ったのであろうか。前将軍義澄の(かち)走りにでもなれたのであろうか……。はっきりしていることは、将軍暗殺と言う重大な任務の一端を担うほどに腕を買われたと言う事実だ。辰敬は石童丸が着実に己が目的に向かっていることを確信した。顧みて辰敬はどこへ向かっているのか。何をなさんとしているのか。

 

 永正七年の年明け早々、怒りに燃える義尹は義澄討伐の号令を発した。北近江の守護京極高清と手を結び、雲竜軒という遁世者を大将とする軍団を南近江へ送り込んだのである。

 突然、京極高清の名が登場し、家中は最早表舞台に立つことがなくなった悲哀を改めて噛みしめたのであった。どっちが勝っても京極家に影響はないのだが、義尹方が勝ったとしても高清にだけは手柄を挙げさせたくないのが家中の正直な気持だった。

 その願いが通じたのか、甲賀に逃げ込んだ六角氏は甲賀の国人衆と共に反撃し、幕府軍を壊滅させた。大将の雲竜軒も討ち取られる始末だった。

 次郎松はそれ見たことかと大喜びした。 何でも討伐失敗の方へ賭けてかなり儲けたらしい。これには後日談がある。その話を聞いた家中の侍が、そんな賭けがあったのならなぜ教えなかったのかと次郎松に因縁をつけ、酒手をふんだくったと言うのだ。

「牢にぶち込み、殴る蹴る、さんざん痛めつけておいて、なんちゅう奴らや。貧すれば鈍すとはこのことや」

次郎松の怒るまいことか。

 

一方、細川澄元は六角氏や甲賀の力を得て幕府軍を撃退したものの近江滞在の限界を知り、態勢を立て直すために三好之長とともに本国の阿波に戻った。

 義澄は水茎岡山城に残った。

 水に囲まれた琵琶湖の城から南東の甲賀山地までは指呼の間と言ってよい。危なくなったら六角氏と共に甲賀の山中へ逃げ込めばよい。甲賀の国人衆に守られている限り安全な事は証明された。

甲賀は国人衆の連合体からなる国であった。横の繋がりが強く古来より独立自尊の気風に富み、外敵に対しては常に結束して当たった。山地で地形は険しくその地形を利して戦う甲賀衆にいつの時代も攻め手は翻弄された。どれほどの大軍をもってしても甲賀攻めは失敗の歴史であった。

 澄元と之長が近江を去ったので表面上は平和が戻ったように見えたが、義澄と澄元達は近江と阿波から都を挟み撃ちにする作戦を新たに練っていた。

 

 六月の末、侍部屋の前を通りかかった辰敬は鷲尾に呼び止められた。

「柱立をしたそうやな」

 柱立とは建物を建てる時、基礎を固めその上に柱を立てる事を言う。手斧始め、柱立、上棟式と続く、建築における重要な区切りの儀式である。

 鷲尾が言う柱立とは杵築大社造営の事である。辰敬にはまだ報せが届いていなかったので今初めて知ったことになる。一昨年の秋に造営の宣言があり、着工したのが去年の五月、順調に進んでいると聞いていたのだが鷲尾の薄笑いが気になった。

 この男がこのような嫌味な笑みを浮かべる時は決まって出雲がらみの話題であった。

 身構えると果たして、

「さすがは悉皆入道殿と感心しておったのやけど、何や、聞いたところによると、正殿の柱が足りんかったそうやないか。北西の端の柱が間に合わんかったのや」

 心の臓がどきんと鳴った。さすがに不安になる。その不安を煽るかのように侍部屋から聞えよがしの声が続いた。

「尼子殿も参拝した正殿立柱やと言うのにみっともないことやなあ。都じゃありえん話や」

「そら、出雲じゃ、ええ柱も集まらんかったんやろう」

「せやなあ、都やったら、木曾を筆頭に伊勢や紀伊、丹波の良材が集まる。海を越えて四国からも運ばれて来るよってなあ」

「尼子殿も威勢のええこと言わはった割には、正殿の柱も揃えられんとはなあ。(おお)(やしろ)はちゃんと出来るんかいなあ」

 鷲尾がいかにも心配そうな顔をした。

「入道殿に責めが及ばねばよいが。わぬしの親父殿はその前に腹を切ったりしかねぬ。そう言う御仁と聞いとる。心配やなあ」

 散々に脅されて辰敬は二、三日眠れなかったが、八月に入ってすぐ最後の柱が無事に立ったとの報が届いた。

誰も何も言わなかった。

 造営奉行亀井秀綱や父の忠重が責任を問われる事もなかった。ことさら騒ぎ立てるほどの事ではなかったようだが、鷲尾は嫌味を忘れなかった。

「考えてみたら、尼子殿の御縁に連なる者を咎めるはずがあらへんわなあ」

 その少し前に辰敬の姉の袈裟は経久の次男孫四郎に嫁いでいて、鷲尾達は忠重が造営奉行になれたのも娘のお陰と陰口をきいていたのであるが、それから暫くして経久が伊予守に任官し、孫四郎が細川高国の偏諱を受けて国久と名乗ると諦めたかのように黙ってしまった。

 

 その頃、本国阿波に戻った細川澄元は兵力の回復に努める一方、前典厩家・摂津分郡守護だった細川政賢や淡路守護細川尚春、和泉上守護細川元常らとの結びつきを強めていた。

永正の錯乱後、澄元を支持したため高国によって典厩家を追われた細川政賢は言うに及ばず、細川尚春も細川元常も細川一族では家格の低い野洲家の高国が一人だけ突出して出世した事に反発していたのである。

澄元は細川一族を切り崩し、播磨守護赤松義村をも味方に付ける事に成功した。

こうして反撃態勢は着々と整えられ、明くる永正八年となった春、満を持して足利義澄が挙兵した。

義澄は若狭や近江の有力な武士や寺院などに盛んに書状を送った。大内義興を牽制する為、九州の大友氏にも大内氏の背後を突くように出兵を促す書状を送った。

義澄に呼応して、細川澄元も大和や和泉、河内などの諸将に忠節励行を督促した。

近江と阿波から戦いの狼煙が立ち昇り、近畿の情勢はにわかに風雲急を告げた。

七月十三日、細川澄元と三好之長は阿波を発向、泉州堺に上陸した。

先陣の大将は細川政賢で、細川元常・山中為俊らを率い、高国方の深井城(現在の堺市)を落とした。

河内では澄元と連携する畠山義英が、高国派の宿敵畠山尚順を打ち破り高屋城へ入った。

精強な阿波兵が鋭気を養い、態勢を立て直して攻め寄せたのであるから、澄元勢はたちまち和泉・河内を制圧した。

一方、淡路守護細川尚春は摂津に上陸、播磨守護赤松義村も摂津に攻め込んだ。尚春の淡路衆は兵庫口で敗れたものの、赤松勢は破竹の勢いであった。

日々もたらされる情報に、京極家中は尻の落ち着かない日々を過ごしていた。そこへ大内義興が石見の諸将に上洛を要請したとの報せがもたらされたから邸内はにわかに浮足立った。

家中のみならず、都の人々は皆、いま幕府を一手に支えている大内氏の強大な軍事力を絶対視していた。大内軍がある限り都は安泰と楽観していたので、大内義興が援兵を請うたことに驚いたのである。

辰敬も意外に思った。

三好之長が如意ヶ岳で一戦も交えずに逃げ出した体たらくを思うとどうにも信じ難いのだが、どうやら澄元派の勢いは本物らしい。

澄元勢ばかりに気を取られていると、連携する近江の足利義澄が背後から突いて来るは必定。さしもの大内義興も在京軍だけでは前後の敵には対応しきれないのであろうかと不安になって来た。

辰敬は現政権を支持している訳ではない。どちらが天下を取ろうとどうでもよかった。漸く世の中が治まったと思ったのにまた戦いになるのが嫌だったのだ。都が戦場と化す光景は想像したくなかったのだ。

数日後、石見の諸将と共に尼子経久も数百の兵を率いて上洛するとの報せがもたらされた。

「わぬしはどないするんや」

 上目遣いにじろりと辰敬を窺う鷲尾の目はいい加減にこの邸から出て行ったらどうだと言わんばかりだった。即ちそれは戦に加わる事を意味していた。尼子殿が自ら兵を率いて出陣するのであるから当然辰敬も参陣すべきではないのかと言っているのだ。それは辰敬にとって初陣を意味する

初陣。

その言葉がずしりと軋んで辰敬の胸に居座った。息苦しいほどに重い言葉だった。覚悟はしていた。武士の子ならいつかはこの日が来る事を。もうすぐ十七歳になる辰敬にとっては遅いぐらいだ。

出雲にいたら尼子武士の子としてその日に向かって生きているようなものだが、都にいるとつい忘れてしまう言葉だった。

御屋形様が健在ならば家中も辰敬について口を挟む事はできなかった。しかし、御屋形様亡き今や京極家にとって辰敬はただの他所者である。尼子の禄を食むのだから。ましてや悉皆入道の子ならば当然参陣するのだろう。いやそうすべきであろうと、鷲尾同様に辰敬を厄介払いしたい家中は皆辰敬自ら初陣を望んで出て行く事を期待していた。

意地悪な視線であった。

家中が尼子方の加勢する現将軍が負ける事を望んでいるのは明らかだった。辰敬が初陣で死んでも同情する者など一人もいないだろう。残酷な運命の物語を望む、それが若者であればあるほど喜ぶ野次馬の冷酷な視線だった。

辰敬にとって一番暑い夏だった。

熱暑で煮えたぎる頭の中を初陣という言葉だけが嵐のように駆け巡っていた。言葉では判るのだが自分が鎧兜で身を固め戦場を疾駆する姿がどうにも浮かばなかった。

辰敬は家中の屈折した期待と初陣の不安に耐えながら、やがて来るであろうの日の前に立っていた。その日は確実にやって来ると己に言い聞かせて。