第四章 初陣(2)
 

 年が明けて、ようやく出雲から文が届いた。

 大社造営奉行を拝命したので辰敬も心して勤めよと認めてあったが、文面からだけでは一体誰に対して勤めるのかさっぱり判らなかった。亡き御屋形様にか、京極家にか、尼子家に対してなのか。

 出雲にも戻れるように取り計う。そう遠くはないと思うのでしばし待てとの事だったが、造営奉行になった父はそれどころではないのではないかと辰敬は当てにしない事にした。と言うか、出雲に戻りたいのかどうか、自分でもよく分からなかった。京極邸にいるのは辛いが、都と別れたいのかと問われると正直別れたくはなかった。

 最後に嬉しい報せがあった。いや、正確には吃驚仰天したと言うべきか。

 姉の袈裟の縁談が決まったのだが、相手はなんと尼子孫四郎だったのである。

 民部様の次男である。昔、富田の守護所の近くで、新宮党の少年達に袋叩きに遭った時、止めに入った少年である。

 よりによって大好きな姉が尼子家に嫁ぐ事になろうとは。運命の皮肉に辰敬は複雑な心境であった。だが、姉のためには素直に喜んでいいと思った。男らしく大人っぽい少年だった孫四郎は、きっと凛々しい若武者になっている事だろう。民部様は好きになれないがあの孫四郎なら異存はない。袈裟の良き夫になる事は間違いない。辰敬にとっても、良き義兄となることであろう。

 まだ公表されていないので他言はならず、重々心得ておくようにと念押ししてあった。

 途端に辰敬は気が重くなった。

 この縁組が公けになった時の周囲の反応を想像したのだ。造営奉行拝命に続き、尼子家の縁に連なる栄誉を周囲はどう思うか。出雲でさえ羨望の眼差しを浴び、すり寄る者あらば、激しく嫉妬の炎を燃やす者もいるだろう。ましてや、この京極邸においてはをや。

 辰敬は読み終えた文を燃やした。

 

 この文が来ても来なくても辰敬は自分なりの御奉公をしようと決意していた。家中の誰とも顔を合わせたくなかったので、今後は夜の警固に専念し、昼間の出仕は一切しないと宣言した。文句は返って来なかった。それどころか辰敬が毎夜勤めるのをいいことに当番を怠ける者が出る始末だった。

 辰敬が詰め所や門番所に立ち寄っても高鼾で眠り込んでいる者もいた。士気の衰えは目も当てられなかった。律儀に巡回しているのは辰敬一人だけである。

 だが、暗い静かな邸内を見回っていると、どこからともなく吉童子丸の喚声が聞こえて来た。蹴鞠の弾む音も聞こえて来た。濡れ縁に立つ御屋形様の笑みも幻のように浮かんで来た。懐かしい思い出が次々と甦り、夜の独りの見回りこそ、亡き御屋形様への御奉公にふさわしいと思えた。

月のない、墨を流したような真っ暗な夜だった。京極邸の長い塀に沿ってぐるりと回り、常御殿の裏手に差し掛かった。いつもの決まった巡回路だが、足を拾うように歩いていると、風に乗って遠く西の方から人の騒ぐ声が聞こえて来た。

 辰敬は耳を澄ました。火事なら、風下だから、すぐに皆を起こさなければならない。だが、騒ぎはこちらに向かって来るかに見えたが、途中で向きを変え、次第に遠ざかって行った。火事ではなかったようだ。盗人か追剥が追われているのかも知れぬ。安堵した途端、大きな欠伸が出た。さすがに眠い。夜回りに専念し始めた頃は気持も張り詰めていたが、若い身にも連夜の疲れが積り重なる頃だったのであろう。

 まだ夜は長い。しんしんと冷えて来る。辰敬は思わず胸前を掻き合わせた。身を縮めると震えながら、俯くように歩き出した。

その途端、常御殿の塀を曲がったところで、どすんと辰敬は人にぶつかった。思わずわっと声を上げた。相手も驚いたようだったが、次の動きは素早かった。黒い人影はさっと態勢を立て直すと、右手を突き出し、辰敬の口を抑えた。その勢いでのしかかるように辰敬を仰向けに押し倒すと、素早く背後に回り、左の腕を首に回した。

 辰敬は倒れたまま片手で口を塞がれ、もう片方で万力のように首を締められていた。 両足が背後から腰に絡みつき身動き一つ出来なかった。騒がれないように絞め殺そうとしているのだ。明らかに人殺しに長けた者の技だ。辰敬は背筋が凍りついた。喉仏が今にも潰されそうだった。

 辰敬は無我夢中でもがいた。

 何かの弾みで、辰敬の口に男の手の指の一本が入った。何指か分からなかったが、思い切り辰敬は噛みついた。

 うっと呻いて、男が怯んだ。

 辰敬は必死に抜け出すと、起き上るや腰の刀を抜いて斬りつけた。

「だらあっ」

 その声にはっと男が見上げた。

「わぬしは……」

 男は転がって間一髪、辰敬の一撃をかわすと、起き上りざま、地面を斬り付けた辰敬の太刀を蹴飛ばした。

 慌てて辰敬が太刀に飛びつこうとすると、その前にぬっと男が顔を突き出した。

「待て、俺や」

 聞いた事のある声だった。

 目が慣れると、

「わぬしは……」

 石童丸だった。

 確かに鼻がぶつからんばかりのところにあるのは石童丸の顔だったが、辰敬が怪訝な顔をすると、石童丸はにたりと笑った。

「もう河原者やない」

 確かに頭には小さな烏帽子を被り、小袖に短袴の雑色のようななりをしている。

 夢にも忘れた事のない、あの禍々しい河原者の姿はどこを探しても見つからない。変わらないのは闇の中でも光っている鋭い眼光だけだった。

「驚いたようやな」

 にやりとその目が笑った。

 河原者をやめたと言うが、そう簡単にあの身分から抜け出す事が出来るものなのだろうか。

「今年の祇園会は散々やった……」

 ぽつりと呟いた。

「大内の兵が出張って来よったんや」

 思い出すのも忌まわし気に吐き捨てた。

「さすがに強かった。侍所の侍とは比べものにならん。まるで歯が立たんかった」

 身体が震えていた。

「仰山仲間が殺されてしもうた」

 その声も濡れていた。

 今年の印地で河原者が負けた話は辰敬も耳にしていたが、御屋形様達が出雲に下向して間もない事もあり、石童丸に思いが至る事もなかったのであった。

「俺も命からがら逃げた。今思うと生きとるのが不思議なくらいや。必死に逃げ回りながら思うたんや。河原者はつまらん。もういやや。絶対に河原から抜け出したるとな」

 その目がぎらぎらと光っていた。

 負けまいと辰敬は言い返した。

「それで、盗人になったんか」

「あほう、俺は侍になるんや」

「侍」

「やっぱり侍や。この世は侍のもんや。侍にならんとあかん。侍になって、皆を見返してやるんや。河原者と見下した奴らを見返してやるんや」

 闇さえも焼き尽くす、火を吐くような声だった。

「ところで、ここは誰の邸や」

「京極家や」

「何やて……」

 驚いたように目を丸くした。

「わぬし、京極家中やったとは。因縁やなあ……昔、河原者をいじめた侍所所司の邸やったとは……」

 暗い邸内を見回すと、

「さすがに広いが……幽霊が出そうや。噂には聞いとったが落ちぶれたもんやなあ」

ふんと鼻で嘲った。

 辰敬は敢えて尼子家中とは訂正しなかった。

 その時、西頬が騒がしくなると、石童丸がはっと身を固くした。正門の門番との押し問答が風に乗ってかすかに聞こえて来る。この邸に逃げ込んだ者を目撃した者がいるので改めさせろと要求しているようだ。

「ちっ」

 と石童丸が舌打ちした。

「何をしたんや」

「大内兵を殺したんや」

「えっ」

「仇討ちや。市中見回りの大内兵を見たらどうにも我慢できんようになったんや。一人が立ち小便しよったんで、後ろから丸太ん棒で殴りつけてやったんや」

 表にいるのは大内の追手だった。かなりの人数のようだ。すると、正門の方から辰敬を呼ぶ声がした。

「我を呼んどる」

 はっと二人は顔を見合わせた。

 石童丸は落ちている刀にぱっと飛びつくと、辰敬に突き付けた。

「下手なことを考えるんやないで」

 辰敬は喉元の切っ先を見下ろしながら、必死に言い返した。

「返事せんとかえって怪しまれるぞ」

 石童丸は迷ったがふと刀を下ろし、辰敬の前に顔を突き出した。

「ようし、ほなら、取引や」

辰敬が怪訝な顔をすると、石童丸は探るように問いかけた。

「わぬし、いちが今どこにおるのか知っとるのか」

 思いがけない言葉に自分でも激しく動揺したのが分かった。忘れたつもりでいたのに、その言葉を聞いた途端、木屑に火がついたように心が燃えあがってしまったのだ。

 辰敬は首を振った。

 知っているのは土倉の狒狒爺の嫁になった事だけで、土倉の名も場所も知らなかった。諦めるために敢えて聞こうともしなかったのだが、今更のように未練の強さを思い知らされた。動揺を見透かしたように、石童丸は下卑た声で囁いた。

「ええおなごになっとるでえ……」

 辰敬を呼ぶ声が近づいて来た。

「うまく追い払ったら教えたる。ええな、変な考えは起こすんやないで」

 辰敬は正門まで行くと、異常はなかったことを告げた。大内兵の追手は不服気に引き上げた。

 辰敬が戻って来ると石童丸はにやりと迎えた。

「東山山荘の近くに結構な寮を建ててもろうてなあ、そこで暮らしとるのや」

 将軍義政が建てた銀閣寺へ行く途中の静かな所だと言う。

「偶然に知ったんや。鴨川の印地で負けて、大内兵に追われて逃げる途中、逃げ込んだ別荘の中におったんや。遠くから見ただけや。もちろん向こうも気がついとらん。俺もすぐにそこを出て、近江の坂本まで逃げたんや。後になって調べたら、二条大路の泉覚坊と言う土倉の寮と分かったんや。ま、後は自分で確かめるんやな。ほなら、そろそろ行くわ」

 と、行きかけて、

「この刀、もろておくで。また大内の田舎もんと出食わさんとも限らんよってな」

 落ちていた鞘を拾い、刀を納めると腰にさした。

「ところで、わぬしとは長い因縁やのに、名を聞いとらんやったな。なんちゅう名や」

「多胡辰敬」

「たこ……おもろい名やな。またどこかで会う事もあるかもしれへん。その時は、見とれよ。俺は立派な侍になっておるからな」

 言い捨てると石童丸は肩を揺すって闇の中に消えた。

 

 明け方、警固を交代すると、辰敬は長屋の裏で湯を沸かす。冷や飯に湯をぶっかけると、凍てついた空きっ腹に湯漬けを流し込み、倒れるように寝込む。起きるのは昼過ぎである。 その後、暗くなるまで、辰敬は暇を持て余していた。

 出雲からの文で言われるまでもなく、多胡家の恥にならぬよう勤めなければならないことは判っていた。時間はあるのだから学問をしなければならないことも。武芸にも励まねばならないことも判り過ぎるくらい判っていた。だが、文机に向かう気にもならず、いくら気持を揮いたてても木太刀を握る気も起きなかった。疲れと寝不足のせいではない。石童丸に出食わしてからこの方、ずっとこんな状態だったのである。

『ええおなごになっとるでえ』

 その声が頭にこびりついて離れなかった。

 春まだ遠い底冷えのする長屋で、辰敬は衾にくるまって美しい女になったと言ういちを夢想していた。虚しい事だと言い聞かせ、振り払おうとするのだが、振り払おうとすればするほど反って夢想を掻き立てられるのであった。

 夢想の中でいちはいつも後ろ姿だった。美しい小袖を着て、腰まで届く長い黒髪が揺れている。だが、いちは決して振り返らなかった。大人の女になったいちが、どんなに美しい女になったのか、見たくもあれば見たくもなく、夢想する事さえ息苦しくなり、悶々とのたうち回るのであった。他人には見せられない、こんな不様な姿を情けなく思うのだが、そう言う時は決まってこう言い訳していた。

(多聞さんだって……)

 いや、多聞ほどひどくはないと言い訳を重ねた。多聞のように勤めを放棄するほど堕落はしていない。己が本分は果たすと我が身を揮いたて、凍てつく夜の邸内に出て行くのであった。

 そんな夜勤明けのある朝、辰敬は二条大路の扇屋まで使いを頼まれた。去年、将軍義尹入洛の行列を見物した大店である。政経が生前に注文した扇があったのだが、突然の下向に続く急死で、納品が宙に浮いていた。それをどうしたものか問い合わせて来たのだ。

京極家では受け取る事にしたが、その返事の使いを鷲尾が辰敬に押し付けたのである。

辰敬は不承不承用を済ませたが、扇屋を出た二条大路でふと石童丸の言葉を思い出した。石童丸はこの先にいちが嫁いだ土倉があり、店の名を泉覚坊と教えた。

西へ向かってひとりでに辰敬の足が動き出していた。店を見るだけのつもりだった。後になって思うと魔が差したとしか言えなかった。行ってもいちがいないことは聞いていた。眠いし疲れてもいたから、店の場所が判ったらすぐに戻るつもりだった。

西洞院大路と交叉した辻の北東の角地に土倉泉覚坊はあった。辰敬は店の角に立った。二条大路面が八間、西洞院大路面は六間。高々とうだつをあげた大店である。並びの店が間口二、三間であるから、その大きさが一際目につく。屋根も庶民の町屋が薄いぺらぺらの曽木板を屋根竹で押さえ、石の重しを乗せたのに対して、泉覚坊は冬の光を浴びてぴかぴかに光る真っ平らな板葺きである。西洞院大路面の店先には大きな甕が並び酒の匂いを漂わせていた。泉覚坊は酒屋も兼ねた土倉酒屋であった。何よりも辰敬を驚かせたのは店の奥に聳える二階家であった。都でもまだ二階家は珍しかった。恐らく本邸であろう。本邸に並んで屋根の高い質蔵が二棟と酒の醸造蔵も見えた。

(いちはこんな大店の御寮人になってしまったのか……)

少年の想像を越えた威容に声を失い、魂を抜かれたように立ち尽くしていた。やがて背けるように目を転じると、虚ろな目に西洞院大路の中央を流れる西洞院川が映じた。北で堀川から分れた川で南流している。堀川ほど大きく、深くもない。枯れ草の斜面を降りると、清らかな流れに染物が泳いでいる。

ここから南は染物が盛んで、さらに南へ下ると、紙梳きの町で、古紙や反古を梳き直して宿紙を作っている。

目の前の西洞院川に掛かる板橋を渡って行くと、次が油小路である。南へ下って行けば、多聞の家までそう遠くはない。ぼんやりとそんな事を思い浮かべていると、不意に店先にばたばたと数人の奉公人達が飛び出して来た。

振り返ると、奉公人達は二条大路を東から来た法体の男にぺこぺこと頭を下げた。

男は二人の供を連れている。

頭は剃り上げ、白いものが混じる眉毛の下には黄色く濁った眼がとろりと光っている。腫れたように顔は膨らみ、二重の顎にうっすらと胡麻塩の無精髭が伸びている。店先の甕のような体躯を大儀そうに引きずっている。冷たい風が吹くと、老年に差し掛かった不健康な身体を練絹の衣に首まで埋めた。

この土倉の主に違いない。

都の土倉の多くは山門の坊主が山を降りて経営している。それ以外に相国寺などの寺の坊主や、公家の家司、武士の家臣、有徳の町人なども経営しているが、その数は圧倒的に山門出の坊主が占めている。この男も恐らく比叡山の沢山ある山坊の一つの坊主だったに違いない。悪相だ。強訴をしたり、借金の取り立てをしたり、乱暴狼藉を恣にする叡山の山坊主がそのまま齢を取ったように思えた。

 目の下の隈を見る迄もなく、朝帰りは明らかだった。

 昨夜はいちを……。凍てつく夜を震えながら見回っていた、あの頃に……。考えたくもなかった。来なければ良かったと思った。なぜ来てしまったのかと後悔した。あんな男の慰み者になっているなんて。

(ああ、思うまい。思うまい)

 淫らで忌まわしい光景を振り払うように激しく頭を振ると、男が暖簾を潜る前に、その場を逃げるように離れていた。