第四章 初陣(1

 

 辰敬が御屋形様は民部様に殺されたようなものだと思うのだから、いわんや京極家中においてはをや。

 邸内で辰敬はますます孤立して行った。

 御屋形様下向後も存命中はそれほどでもなかったのだが、死後は辛く当たられる一方であった。

(いつまでいるのだ。もう用はない。早く出雲に返れ)

とまで言われた。

 だが、辰敬は誰に何と言われようと、御屋形様亡き今こそ御奉公の真価を問われていると思っていた。

御屋形様は死んでもその魂はこの邸に留まっている。いつの日か吉童子丸も戻って来るだろう。その時のためにもこの邸を守らねばならぬ。それが御屋形様の御恩に報いることであり、御奉公ではないのかと。

辰敬が知っている多聞ならしたりと頷いたであろうが、多聞は相変わらず出仕しなかった。

 多聞はあの女と一緒になって人が変わってしまったようだ。

 こうして家中の憎しみの籠もった視線を一身に浴びていると、多聞がいてくれたらと切実に思うのだが、辰敬はもう多聞を恃むのは諦めていた。

 多聞の事は考えない事にしていたが、一人ぼっちは辰敬に嫌でも考える時間だけはたっぷりと与えてくれた。

(どうして御屋形様の死がこんなにも悲しいのだろう)

 将棋の才を愛で、歴史絵巻の如き英雄武将の活躍や逸話を沢山物語ってくれた。あろうことか都へも呼んでくれた。門外不出とも言うべき代々證文も見せてくれた。

田舎の子にとっては信じられないほどの至福を与えてくれた人なのだから悲しいのは自然の感情だ。

 でも、ここで少し立場を変えて考えてみたらどうだろう。

御屋形様が誇る佐々木一族こそ、多くの国を滅ぼし、多くの命を奪い、多くの人々を悲嘆の底に突き落として来たのではないのか。

 だからこそ、佐々木一族の栄華が続き、京極家の繁栄がもたらされたのではないか。

あの代々證文に記された京極家の歴史は夥しい血で贖われて来たのだ。御屋形様もその血塗られた歴史を受け継ぎ、自らも血みどろの戦いを繰り広げて来たのだ。

 民部様も文明十六年に守護代を追放された時、御屋形様に殺されていたかもしれない。

 もしはあり得ないが、もし、あの時、御屋形様が民部様を殺し、名実ともに出雲の守護であり続けたなら、辰敬はあれほどまでに御屋形様が好きになっていただろうか。

 否。

出会いすらなかったであろう。

 将棋の強い子供として召し出されたかもしれないが、褒美を頂戴して終わりであったろう。

思うに、好きになったのは、初めて会った日に、御屋形様の目に光る涙を見たからであった。将棋に負けて悔し泣きする辰敬を羨ましいと言い、自分は泣く事も忘れたと呟いた老人に心惹かれたからであった。

親子兄弟が戦で死んだのを泣く大人達は沢山見て来たが、そんな理由で泣いた大人を見たのは初めてだった。

いちを好きになったのとは違った。

いちを好きになった時は、姿を垣間見ただけで、胸が破裂しそうなくらい苦しかった。側にいるだけで恍惚として、それを最高の幸せだと感じていた。

御屋形様も側にいるだけで幸せだったが、それはとても静かで心安らぐものだった。何も飾らず、己を作らず、素のままの自分でいることが出来た。

御屋形様が嘘偽りのない、正直な姿を見せてくれたからだと思う。

いちを好きになったのは女を好きになったのであり、御屋形様を好きになったのは人を好きになったのだ。と、今になって思う。

同情や憐れみは後からついて来た。

御屋形様が出雲に失意の下向をしていたのを知ったのはもっと後のことだった。北近江も出雲も失った老人であることを。

その老人は背負いきれないほどの荷を背負い、押し潰されそうになりながらも、見果てぬ夢を追っていることを知り、辰敬はますます好きになったのだと思う。

 辰敬は自分でも武士の子としては優し過ぎると思っていた。

その後も、奈落の底に落ちるように、悲運の坂を転がり落ちて行く御屋形様を見ていると、子供とは言え、何かしてあげなくてはいられなかった。及ばずながら少しでも力になりたいと心から思った。それが好きになった人へのせめてもの恩返しだと思った。

そして、ようやく御屋形様の唯一の希望である吉童子丸の守りになれ、吉童子丸のよき兄になれるかと思った時、辰敬の願いは水泡に帰してしまった。

 

 師走に入れば、正月の準備が始まるのだが、二年続けて喪中の正月を迎える京極邸は静かなものだった。

 その日、出仕して御用部屋に入ると、常にも増して憎しみの籠もった視線が迎えた。

「御出世やなあ」

 鷲尾が皮肉たっぷりの言葉を浴びせた。苦手の多聞がいないので、近頃はかさにかかって意地悪をして来る。

 訳も分からず当惑していると、

「何や、聞いとらんのか。真っ先にわぬしに報せが届いていると思ったのになあ」

「ほんまにわぬしの親父殿はたいしたもんや」

「あやかりたいものや」

 普段は口も利かない者達も嫌味を浴びせて来る。

 どうやら父の忠重の身に変化があったようだ。出世と言うからには昇進したのだろうが、辰敬には出雲からの報せはまだ届いていなかった。やっかみと憎しみの入り混じった顔を見ると、訊くのも業腹なので辰敬は逃げるように部屋を出た。

 

 結局、多聞に聞くしかなかった。

 だが、風早町へ近づくにつれ足取りが重くなった。それはそうだ。多聞の事は考えない事にしていたのだが、こうして風早町に向かっていると、女と暮らす多聞の姿が浮かび上がり、腸が煮えくり返るのであった。

辰敬を恥を知れと叱ったくせに、自分は女を、しかもよりによって尼僧を連れ込んでいたのだ。確かにあの女は不思議と心に響く経を読んだが、だからと言って許す気にはなれなかった。多聞がふしだらで汚らわしく思えてならなかった。今では多聞を完全に見損なっていた。そんな多聞と本当は顔を合わせたくはないのだ。会っても一体どんな顔をして話をすればいいのか。

町屋の間の細い路地の入口まで来たところで、辰敬の足は止まってしまった。

 よほど引き返そうかと思ったが、父の事は知りたい。

 踏ん切りがつかず、ぐずぐずしていると、

「おっ」

 吃驚したような声に振り返ると、多聞が突っ立っていた。辰敬に遭遇して思わず声を上げたようだ。

辰敬も驚いたが、その目は多聞が抱えている女物の小袖に吸い寄せられていた。古着屋で買って来たのであろう。尼僧には派手過ぎる、嫌でも目につく色模様である。多聞が選んだのであろうが随分趣味が悪いと辰敬は思った。

 多聞はばつの悪い顔を隠すかのように、ことさら明るい声を上げた。

悉皆(しっかい)入道殿は大層な御出世じゃなあ。祝着々々」

 忠重は悉皆入道を号していた。やはり多聞は知っていた。

多聞にまで嫌味を言われたような気がして、辰敬はむっとした。

 多聞は怪訝な顔をした。

「何の用じゃ。御出世の報告か」

「我は知らんのじゃ。お邸でも皆出世したと言うが、父上はどうなさったのじゃ」

 噛みつくように、早口で一気に吐き出した。

 多聞は意外な顔をすると、古着を抱えたまま、この前と同じ寺の境内に入って行った。

 そして、以前の見慣れた仏頂面に戻ってこう言った。

「杵築(出雲)大社造営奉行に任じられたのじゃ」

 ぽかんとした辰敬の顔を見て、如何にそれが大変な任務か、多聞は噛んで含むように教えてくれた。

「任じられたのは亀井能登守秀綱様と多胡悉皆入道忠重様のお二人」

 辰敬は驚いた。亀井秀綱は尼子経久の側近中の側近である。重臣の筆頭である。守護代を追放された経久を支え、苦難の二年を共にした、経久の最も信頼の篤い武将である。

 その亀井秀綱と並んで奉行に任じられるとは。

「亀井様は立場から言えば総奉行じゃな。現場で実際の指揮を執るのは入道殿じゃ。出世と言うよりも、大変な重責を負う事になられたのじゃ。ま、それだけ民部様が信頼を置いておられる訳じゃ」

 例によって一言皮肉を付け加える事を忘れない。

「一口に大社(おおやしろ)を築くと言うが、これは遷宮と言って、何十年に一度、本殿を造りかえる大事業じゃ。莫大な経費と時間を要す。杵築大社は出雲国の一の宮じゃ。古来遷宮は国を挙げての事業であり、出雲の国主の務めじゃった。古くは出雲国国司が務め、武家の世となっては、出雲守護佐々木家が務め、それは京極家に受け継がれたのじゃ。しかし、余りにも大事業であり、出雲の国が明徳の乱で乱れた後は、京極家の力を持ってしてもなし難く、最後に遷宮が行われてから、百年近く途絶えておったのじゃ。それを民部様が復活させようと発願されたのじゃ」

 多聞にしては珍しく饒舌であった。

「出雲の国主の務めなら、それは吉童子丸様の務めじゃないのか……」

 素朴な疑問だった。

 返事はなかった。

「吉童子丸様は守護職を譲られたのじゃろう」

 実は辰敬は政経死後の仕置がどうなっているのか知らなかった。吉童子丸が守護に任じられたなら、家中も晴れやかになるだろうに、そんな雰囲気もないので、疎んじられている事もあって訊くに訊けないまま、何となく妙に思っていたのだ。

 疑問をぶつけると多聞は険しい目を向けた。

「そうじゃろう。じゃったらおかしいのじゃないのか……」

 重ねて問うと、

「言うな」

 怒ったような声に辰敬は一瞬怯んだ。

「えっ……いや、あのう、譲り状と代々證文を多賀様と民部様に託されたのじゃから」

「よう判らんのじゃ、わしも……」

 多聞はため息を漏らした。

「吉童子丸様が守護として披露された話は聞いておらん。聞いておる事はただ一つ。民部様が預かった代々證文を写し取られたと言う事だけじゃ」

 辰敬は驚いた。

「写し取った……」

 その意味がすぐには分からなかったが、あの古色を帯びた文書の一つ一つが真新しい紙に、書き写されて行く光景を想像すると、身体の内から言い知れぬ震えが込み上げて来た。

 あの代々證文は京極家の宝。御屋形様にとっては分身とも命とも言うべきものではないか。それを平然と写し取る行為に、辰敬は死後も尚御屋形様が冒涜されているような気がしてならなかった。

「なして、そげなことを」

「写しを取る事は必ずしも非難されることではない。紛失すると困るので写しを取るし、関係者が多い場合は何通も写しを取る。それは案文と言い、正本と同じ価値があるのじゃ。ただ、民部様が写した意図はあからさまじゃ。尼子家は京極家から分かれた家じゃ。佐々木一族を継承する資格があることを、代々證文を保持する事で証明したいのじゃろう」

「と言う事は、民部様は吉童子丸様を守護としては認めていないと言う事じゃないか。御屋形様の遺言はどうなったのじゃ」

 多聞は答えなかった。

「吉童子丸様と大方様はどうなさっているのじゃろう」

 それは辰敬がずっと心に掛かっていた事だった。

「治部様御寮人は御屋形様と治部様を弔うために、平浜別宮に庵を建てて入られたと聞いておる」

 平浜別宮は平安時代に京都の石清水八幡宮を勧請して創建したので、別宮と称されている。安国寺の近くにあり、由緒ある神社である。

「すると吉童子丸様は守護所にお一人でおられるのじゃろうか」

「さあ……もしかしたら多賀様か、あるいは京極家ゆかりのどなたかの邸に引き取られているのではなかろうか」

 どこにいようとも寂しいことには変わりはない。どれほど荒み苦しんでいる事か。その時の姿を知っているだけに、吉童子丸の絶望的な孤独を思うと、身を引き裂かれるような気がした。すぐにも飛んで行って、抱き締めてやりたかった。

 そんな辰敬の気持ちを知ってか知らずか、多聞は現実と言うものを語った。

「形の上では吉童子丸様が守護じゃろう。じゃが、幕府は出雲の仕置は民部様に任せておる。そうしなければ政が立ち行かぬからじゃ。民部様は最早国主と同じ役割を果たしておいでなのじゃ。民部様は正式には守護ではないが、自らは国主と思っておられる。出雲の誰もがそう思っておる。じゃからこその大社造営なのじゃ」

 きっと鋭い目が辰敬に当てられた。思わずたじろいだ程の、怖いような顔だった。

「年が改まったらいよいよ造営が始まるじゃろうが、実はな、杵築大社造営の発願はもっと前の九月の半ばになされていたのじゃ」

 悔やむ声に変わった。

「わしも知らなかった。御屋形様がお亡くなりになった後で知ったのじゃ。重ね重ねの不忠者よ」

 嘲るように顔を歪めた。

「女に魂を抜かれて、腑抜けになっておったからじゃと言いたいじゃろう」

「えっ、いえ、そんな……」

 ずばりと言い当てられて、辰敬はしどろもどろになった。人の事を言えた立場ではない。いちの事ではどれだけ恥を晒したか。

 それよりも、辰敬が驚いたのは、九月の半ばと言えば、御屋形様が病で伏せっていた頃と聞いていたからだ。

その疑問に答えるかのように、多聞は吐き捨てた。

「あたかも御屋形様が病に倒れるのを待っていたかのように、大社造営を宣言されたのじゃ」

 何とむごい振る舞いではないか。死の床にある老人に対して、余りにも無慈悲で、残酷な仕打ちではないか。

「勝ち誇ったように宣言されたのじゃろうな。御屋形様にはなしえなかった大社造営を民部様がやるのだと。どちらが国主かこれで分かったろうと言わんばかりにな」

 そう続ける多聞の顔は悲痛だった。

「御屋形様はどんな思いで聞かれたのじゃろう……」

 辰敬は切なくて、胸が塞がった。

「復讐じゃよ。民部様は追放されて、逃げ回た二年の苦難を忘れてはおられん。いつかは恨みを晴らす。その一念で出雲を切り取って来られたのじゃ。同情や憐れみなど欠片もあるものか。見事に復讐を果たされ、さぞ満足であられたろうよ」

 辰敬が難じるような目を向けると、多聞はひたと見返した。

「勘違いするな。御屋形様は民部様に膝を屈したのではないぞ。憐れみを請われたのではないぞ。これだけは忘れるでないぞ。御屋形様は最後まで民部様と戦われたのじゃ。いかに民部様が国主然と振舞っても、御屋形様は決して認めぬ。守護はあくまでも吉童子丸様と命を賭けて主張されたのじゃ。多賀様と民部様のお二人に譲り状と代々證文をお預けになったのがその証じゃ。預かったのはお二人じゃが、その事は、天と地と出雲のすべての民が見ているのじゃ。民部様はすぐにも守護職を望んでおられたじゃろうが、すぐにはなれんじゃろう。結局出来る事と言えば、代々證文を写し取るぐらいの事だったのじゃ。栖雲寺殿京極宗濟(政経)こそ戦国の武将だったのじゃ」

 その言葉に辰敬ははっと多聞を見返した。

 今の辰敬にとってはどれだけ救いの言葉になった事か。多聞が辰敬の知っている多聞だった事もちょっぴり嬉しかった。