ネットで2日に上原正三さんが亡くなっていたことを知る。享年82歳。肝臓ガンだったとある。訃報はいつも突然だ。新米の駆け出し脚本家の僕が東映に出入りし始めた頃、東映の子供番組は上原正三さんと長坂秀佳さんが二人で仕切っているような状態で、二人でそれぞれ2、3本の番組のメインライターとなって書きまくっていた記憶がある。僕ら新人はその隙間に潜り込んでなんとか仕事にありついていた。僕は初めは長坂さんがメインを務めていた番組(多分『キカイダー01』とか、『刑事くん』だったと思う)から始めたので、飲みに誘われたり、飲んだ後、長坂さんの新居に泊めてもらったりした。その後、上原さん担当の番組に加わったのは『ゴレンジャー』からだったと思う。
だが、上原さんはその頃はあまり酒が強くなく、僕も飲める口ではないので、打ち合わせをした後一杯ということはなかった。というより、上原さんは忙し過ぎて酒なんか飲んでいる暇はなかったのである。上原長坂の二人が書きまくっていた量は子供番組とは言え、その執筆本数は僕には常軌を逸していると思えた。キャラクター商売の旨味に局や制作会社、代理店、玩具や菓子、雑誌などのスポンサーが砂糖に群がる蟻のようにこの手の番組に殺到した。イケイケどんどんの時代でこの先さらにバブルに至るとは誰も知らなかった。
若くて生意気な僕は先輩のそんな書きっぷりを濫造ではないかと批判し、ひそかに僕流の書き方で越えたいと惧れを知らぬ野望を抱いた時期もあったが、長坂さんはやがて『特捜最前線』のライターになり、僕も戦隊シリーズのメインライターになったら、上原さんは当然他の番組のメインライターになるのでご一緒になる機会がなくなってしまった。
上原さんが沖縄出身で、円谷プロでウルトラマンの脚本を書いていたことは当然知っていたが、年代的にリアルタイムにウルトラマンは見ていなかった。ただ、沖縄出身の上原さんが、ウルトラマンに籠めた差別や不条理への怒りなどが話題にされるようになると、あの多作の上原正三とは本当はどんな人なんだろうと興味を持つようになった。しかし、別な作品をやっているので話をする機会がないまま時が過ぎて行った。
そして、僕も家族を養う身になって、初めて上原正三さんに親近感を覚えるようになった。筆一本で家族を養う立場になったら、多作を批判されようが、何と言われようと、書いて書いて書きまくるしかないのである。上原さんの場合、その原点は沖縄の戦争にあったろうことは想像がつく。生き抜いて、命を繋ぐことの大切さを身をもって知った人だからこそ、妻の為、子供の為に書きまくったのだろうと。
「子供が喜ぶものを僕は書くんです」そうもおっしゃった言葉を思い出す。
その上原作品にうちの子供たちもどれだけお世話になったか。我が家では幼い子供さえも「うえしょうさん」と呼んでいたのだ。
そうして、交わることなくお互いのライター人生の終わり近くになって、ひょんなことから杉村升(太陽にほえろ、特撮の脚本家)に誘われて、高久進さん(キーハンター、Gメン75の脚本家)、上原さんと僕の四人でゲームシナリオの会社をやることになった。さすがに年齢的に高久さんと上原さんはゲームは無理で名前をお借りするだけになってしまったのはいまもっても心苦しく思っているが、その時、上原さんが軽井沢の別荘に招待してくれたことは忘れられない思い出になっている。
僕は別荘を見た時正直仰天した。筆一本で豪邸の他に別荘まで購入していたとは。一体この人はどれだけの脚本を書いたのだろうと。沖縄人の逞しさを思い知らされた。
この時、昼ごはんに僕がネギ炒飯を作った。刻んだネギを醤油に漬けて最後に炒めると、和風テーストになる。美味いと喜んでもらえた。酒を飲んで楽しい一夜を過ごした。この頃は上原さんも少しは飲めるようになっていた。今思うとこういう時に上原さんの原点ともいうべき沖縄の話を聞いておけばよかったのだが、高久さんや杉村さんもいてそういう話をする雰囲気ではなかった。ただ楽しいだけの夜だった。結局、それが上原さんや高久さんと親しく過ごすことが出来た最後だった。上原さんも高久さんも、僕より若い杉村さんも皆故人となってしまった。
近くにいたのに、遠くて、多作作家の心の扉を叩きたかったのにとうとう機会を逸してしまった。いつかお会いできたら、同じ子供番組を書いていたライター同士、心を割って話したかったのですと申し上げたかった。

そのネット記事の終わりに、2018年に上原さんの少年時代を描いた小説「キジムナーkids」(現代書館)で坪田譲治文学賞受賞とあった。
すごいではないか。80歳を前にして小説を書いておられたのだ。おそらく病をおして書かれたのだろう。遺作である。僕は早速Amazonで購入する。そして、亡き上原さんに言う。「僕が一番の読者になります」と。