第三章 戦国擾乱(じょうらん)(9

 

 京極邸では喪に服した静かな正月であった。

 連夜続いていた吉童子丸の発作も、この頃には一日おき、二日おきと遠のいていた。

 ある夜、襖越しに吉童子丸の眠れぬ気配を感じた辰敬はそっと声を掛けた。

「眠れませぬか」

 返事はなかったが、もぞもぞ動く気配は続くので、

「失礼します」

 そっと襖を開けるとぴたっと気配は止んだ。

射し込む薄明かりに、暖かそうな麻の衾を顔まで引き被った吉童子丸の寝姿が浮かび上がった。衾の下の瞼がぴくぴくと動いている。

辰敬はにたっと笑った。

「何か物語でもいたしましょうか」

 目を閉じたまま返事はない。

「物語はお嫌いですか」

 ぎろりと片目が開き、

「当たり前じゃ」

 背を向けると、

「三年寝太郎や一寸法師などくだらぬ。馬鹿にするな」

 怒ったような声に辰敬は破顔した。女房衆が語る話にうんざりしていたのだ。六歳で御屋形様の前で将棋を指した辰敬は、明けて八歳になる吉童子丸の幼さを物足りなく思っていたのだが、ようやく手応えのある声を聞く事が出来たのである。

 辰敬の胸中に懐かしい物語の泉が滾々と湧き出でると、たちまち胸一杯に溢れんばかりに広がって行った。

 辰敬は寝所に入ると、吉童子丸の傍らに坐し、身を乗り出した。

「なれば、とても面白き物語をして差し上げましょう。三年寝太郎や一寸法師のような作り話ではございません。この世にあった、本当の物語でございますよ」

 うっすらと片目が開いた。疑わしそうな目であった。

「若様は京極家の御先祖様のお話をお聞きになった事がございますか」

「……忘れた」

 恐らくこれもおまんや女房衆から聞かされたのであろうが、黴臭い話であったろうことは想像がつく。興味なさそうに衾に潜り込もうとしたので辰敬は焦った。

「それは勿体のうございます。草紙などよりもっともっと面白い話が山ほどありますのに。一度聞いたら二度と忘れぬ話ばかりでございますよ。公方様を初め、高名な武将や偉い人たちがいっぱい登場するお話でございますよ」

「汚い。唾がかかる」

 吉童子丸が手を払った。

「あっ、申し訳ございません」

 しかめっ面で辰敬を睨むと、

「……さっさと話せ」

 辰敬は思わず声を張り上げた。唾を飛ばさないように。

「今を去る事、三百年以上も昔の事でございます。公家の世が終わり、源平の戦いを経て、武士の世となる時のお話でございます。若様は京極家の御先祖様は佐々木姓を名乗っておったことはご存知ですか」

 吉童子丸はちょっと小首を傾げ、微かに頷いた。

「宇多天皇の皇子敦実親王の曾孫源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住したので、佐々木氏を称したのです。佐々木一族は繁栄し、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた時、大いに力となったのです。その佐々木一族の名を高め、今も語り継がれるのが『宇治川の先陣争い』でございます」

 辰敬は昔、富田城下の守護所で、御屋形様の話を聞いた時の事を思い出しながら話を継いだ。

「源義経が宇治川まで攻め寄せた時、源義仲は対岸に陣を敷きました。宇治川は急流で知られた大きな川です。轟々と音を立てて流れる川の向こう岸には、弓を揃えた大軍が待ち構えています。さしも勇猛な義経勢も渡河を躊躇った時、敢然と先陣を名乗り出たのが、京極家の先祖佐々木定綱の弟四郎高綱だったのです。すると、その時、『あいや、待たれい。佐々木殿』と、功名は譲らじと名乗り出たのが梶原(かげ)(すえ)なる武将でした。高綱は名馬生喰(いけづき)、景季は名馬(する)(すみ)にうち跨り、我先にざんぶと流れに乗り入れたのです」

 ふと辰敬の声が止んだ。余りの静けさに気勢を削がれたのである。面白くないのであろうか、心配そうに辰敬はそっと吉童子丸の表情を窺った。衾の下から覗く目が、先を促していた。

 辰敬の声が弾んだ。

「『はいどう、はいどう。負けるな、生喰』ところが、飛び来る矢を交わそうとした時、生喰が流され、高綱は後れを取ってしまったのです。『しまった。このままでは負ける』さあ、高綱はどうしたでしょう……」

 吉童子丸がぬっと顔を出すと首を傾げた。

「……咄嗟に景季に声を掛けたのです。『梶原殿、腹帯が緩んでおりますぞ』景季が思わず馬の腹帯に気を取られている隙に、高綱はまんまと景季を追い越したのです。これを騙したとは言いますまい。嘘も方便です」

 辰敬は御屋形様と同じ事を言ったのに気が付き、無性におかしかった。

「高綱は降り注ぐ矢をものともせず、見事に先陣を果たすと、義仲勢を散々に蹴散らしたのじゃ

 いつの間にか出雲弁丸出しとなり、唾が飛ぶのも構わず、喋り続けていた。

 こうして辰敬の物語は連夜に亘って続き、いつしか女房衆の間でも面白いと評判になっていた。

 宿直するのは辰敬だけではない。女房衆も控えている。吉童子丸の寝所から漏れて来る物語に、皆、聞き入っていたのである。

 物語は進み、御先祖様の中でも、最も楽しく、最も胸躍る人物。目も眩むほど光り輝く、桁外れな武将。京極導誉の婆娑羅ぶりを語っていた或る夜のことであった。

音もなく襖が開き、ふわっと御屋形様が現れた。青白い顔をして、白い絹の寝衣にくるまった御屋形様は、季節外れの冬の幽霊のように見えた。

「大層な評判と聞いてな、みも聞きとうなったのや」

 そう言いながら入って来ると、政経は吉童子丸の傍らに座ろうとして、ぐらりとよろめいた。近習が咄嗟に支えて座らせたが、政経は軽く咳き込んだ。

「御屋形様、今宵は冷えまする。御無理はいけませぬ。次の機会にしては如何でしょうか」

 近習は心配したが、

「わぬしは心配症やなあ。温かくすれば大丈夫や」

 手あぶりを運び込ませると、政経は手あぶりを抱き抱えるようにして暖を取り、辰敬の話に聞き入ったのであった。

 このところ体調が優れないと聞いていたので、辰敬は御屋形様の様子を気にしながら話を続けた。

 やがて、眠ったように目を閉じた青白い顔にうっすらと紅が差し、時折り相槌を打つように頷くのを見て、辰敬は少し安心した。

 導誉の物語の一つが一段落したところで、御屋形様が目を開けると、辰敬に向かって感じ入った声を発した。

「よう覚えておるのう」

 じっと見詰め、あのたまらなく柔らかい、辰敬が大好きな笑みを浮かべた。

「その方にはたくさん話して聞かせたものや。まさかあの時の話をその方がこうして吉童子丸にしてくれるとはのう……思ってもみなかったことや。たくさんたくさん話して聞かせた甲斐があったと言うものやなあ」

 辰敬ははにかむように頷いたが、心の中は誇らしさで一杯だった。本当は胸を張って自慢したい気分だった。

出雲の守護所の二年間、辰敬は御屋形様の語りを一言半句聞き逃すまいと、全身を耳にして吸収したのである。長じて得た知識も加わり、御屋形様の話は辰敬の血となり肉となって、五体に沁み込んでいるのだと……。

昔、辰敬に注がれたのと同じ慈愛に満ちた目が、今また孫の吉童子丸に注がれるのを見て、辰敬も御屋形様の話を聞いた時の幸せを噛みしめていた。

語り部は変わったが、出雲の守護所の座敷が、時を経て都の一部屋に甦ったようであった。

 辰敬はまた導誉の物語に戻ったが、喋っているのが自分ではないような気がしていた。自分の身体を通して、御屋形様が吉童子丸に話しかけている。無性にそんな気がした。身ぶり手ぶりや口ぶりは、御屋形様そっくりになっていた。話の途中で、いたずらっぽく笑いかける時の目つきまで。

 

 数日後の昼下がり、珍しく暖かい日であった。辰敬は政経に召し出された。

 政経の傍らには吉童子丸が坐し、政経の前に一抱えほどの平たい四つ脚の唐櫃があった。四つ目結いの紋の入った漆塗りの唐櫃である。

 政経は体調もいいのだろう、機嫌も良かった。

「今日はのう、お前達にとっておきの物を見せてやろうと思ったのじゃ」

 思わせぶりに、吉童子丸と辰敬の顔を見ると、にやりといたずらっぽく笑いかけた。

「我が京極家の宝じゃよ」

 辰敬と吉童子丸は思わず政経を見詰めた。

「開けてみよ」

 辰敬は膝行すると、両の手をおずおずと差し伸べた。胸の内は期待ではち切れんばかりであった。

 京極家の宝とは……一体どんな物がはいっているのであろうか。

 触れたら指の跡がつきそうな蓋を、震えながらそっと持ちあげると、ふわっと辰敬の良く知っている匂いが湧き出るように舞い上がった。

 古紙が放つ特有の匂いである。それも、墨と紙魚の沁み込んだ大量の紙が放つ匂いであった。

 辰敬はそれが公典の為に集めていた反古の匂いとは異なる事にすぐに気がついた。遠い遠い昔の匂いを嗅ぎ取ったのである。

 果たして現れたのは古色を帯びた沢山の文書の束であった。

 黄ばんだ紙に残る墨痕を一目見ただけで、辰敬はずしりと重さを感じた。墨で書かれた文字に過ぎないのだが、金や銀にも負けない輝きと重みが滲み出ているのだ。辰敬はそれが歴史の重みと言うものである事を理解できる年齢になっていた。

「佐々木一族の代々證文や」

(代々證文)と、辰敬は胸で反芻したが、吉童子丸は当惑した顔で眺めていた。

 政経は二人の顔を見比べると、吉童子丸に分かるように優しく説明した。

「我が佐々木一族の歴史を語る文書や」

 文書は包紙に入っているが、その包紙も破れかけた物もあった。新しい包紙は取り替えて包み直したものであった。

包紙のない文書もあって、竪紙の立派な文書もあれば、折紙や簡略な切紙の文書もあった。裏打ちして修理した文書もある。

「そうやな、まずはこれや」

 政経は一通の文書を取り上げて広げた。

「出雲守護職の事。

早く先例に任せ、沙汰致すべきの状、くだんの如し。

康永二年八月二十日

佐々木佐渡大判官入道殿」

 と読み上げると、辰敬に問うた。

「この佐々木佐渡大判官入道が誰か判るか」

「佐々木導誉、後の京極導誉でございます」

 間髪を入れず答えると、御屋形様は嬉しそうににこりと頷いた。

「等持院様足利尊氏公が佐々木導誉に出雲守護職を沙汰するようにと命じた文書や。実はな、それ以前に佐々木高貞が高師直の陰謀で滅ぼされたのや。それを再び我が佐々木家が取り戻したのや。これ以降、出雲は紆余曲折はあったが、佐々木家即ち京極家のものとなったのや」

 政経はその後も次々と佐々木家に下された文書を見せてくれた。流石に鎌倉の世が始まった頃の文書は残っておらず、末期の文書が数通あるだけで、殆どは室町幕府が開かれる頃からのものであった。

所領を安堵する書状が山のようにあった。戦の感状もあれば、佐々木家が幕府や幕府高官に送った書状もある。名のある武将達の名がきら星のように連なっている。

佐々木家が分国の有力者や寺社に発給した文書もある。相論を裁いた判決文もある。段銭の徴収を命じる文書もあった。

 初めは圧倒された辰敬も、文書を見せられるうちに虚しさを抑える事が出来なくなった。

 この多くの土地はもはや失われ、多くの人達も京極家から離れてしまっていた。

されど……。

「……佐々木一族の血と汗の歴史や。佐々木一族の命や。それゆえ、佐々木一族の棟梁が所持する事になっておる。これこそが佐々木一族棟梁の証し。我が京極家こそが佐々木一族の正統を証する物や。金で値はつけられぬ。どんな宝にも勝る宝なのや」

 この文書は御屋形様にとっては宝物なのだ。何物にも代えがたい紙の宝物。

 変色して黄ばんだ紙の宝物は、障子越しの明りを受けて白く輝いていた。梅の香も忍び込み、その一枚一枚に愛しむかのようにはかない香りを移した。

 縁先で鶯が啼いた。

 その日の夕刻、辰敬が常御殿を退出しようとした時、多聞に呼び止められた。

「ちょんぼし(少し)聞きたい事があるのじゃが……」

 辰敬の記憶では多聞が不意に現れた時はいつも何かがあって、叱られる羽目になっていた。普通に世間話すらしたこともなかったので、こんな風に、しかも遠慮気味に声を掛けられると何だか妙な気分がした。何だろうと先を行く多聞に付いて行くと、多聞は空を見上げた。

「わぬし、代々證文を見せて頂いたそうじゃなあ……」

「はい」

 多聞の足が止まり、

「で、どうじゃった」

 ついでのように聞いて来た。

「はあ……」

 漠然とどうかと問われても、どう答えたものか困惑していると、

「どんな物じゃったかと聞いておるのじゃ。間近で見たのじゃろう」

 多聞が振り返った。

「ああ、はい、黴臭かったです」

 多聞の眉が曇った。ため息を漏らすと、蔑むように辰敬を見下ろした。

「それがわぬしの……」

 多聞は絶句した。その目にありありと浮かぶ失望の色を見て、辰敬は失言を悟った。

慌てて言い直したが、

「京極家の宝物じゃ」

 かえって間の抜けた事を言ってしまった。

「そんなことは分かっておる」

 多聞は憤然とした。

(しまった。また多聞さんを怒らせてしまった)

 狼狽した辰敬はさらに言わずもがなの事を口走ってしまった。

「あのう、多聞さんは見た事がないのですか」

 多聞はむっとした。

 辰敬は俯き、首を竦めた。

(何て馬鹿な事を言ってしまったのだろう)

気まずい沈黙が続いた。

「果報者め」

 言い捨てると、多聞は足早に立ち去った。

 その後ろ姿を見て、辰敬は多聞が焼きもちを焼いていた事を知った。辰敬ごときが代々證文を見せて貰った事が羨ましかったのだ。

(多聞さん、まるで子供みたいだ)

辰敬は笑ってはいけないと思いながらも笑みを禁じえなかった。あの黴臭い黄ばんだ文書は多聞にとっても紙の宝物なのだ。

その紙の宝物を特別に見せて貰った喜びを、辰敬は独り噛みしめるのであった。