第五章 出雲の武士(4

 

 またひとしきり雪が降り、辰敬は屋敷に閉じ籠っていた。気がつくときいのことを考えていた。今頃何をしているのだろう。小屋爺が薬草の煎じ方を教えていたから祖母の為に煎じているのだろうか。薬は効いているのだろうか。

 不思議だった。これまで女のことはいちしか考えたことがなかったのに。去る者日々に疎しと言う。いちが最早去った者だからであろうか。そんなはずはない。そんなことはあってはならないことだった。いちは特別な存在だった。忘れることなどあり得ない。辰敬の心に永遠に生き続ける存在なのに。気がつくときいが滑り込んでいて辰敬を困惑させる。いちは望むべくもない娘であり、辰敬にはきいぐらいの娘が似合っていると言うことなのかと自分を納得させようともしてみるのであった。だからと言ってきいが入り込んで来ることが迷惑なわけではない。心はざわめいているのだ。山陰の陰鬱な日々に(いろどり)を与えてくれているのだ。暗いのか明るいのか分からぬ日々が続き、苦しいのか楽しいのか分からない不可思議な感情を持て余しているうちに二月となった。

 春めいた空が見えた日、辰敬は屋敷を飛び出し小屋に向かった。溶け始めた雪を蹴散らし走るように急いだ。行けばあの顔があるような気がして。勢いよく飛び込んだが振り返ったのは皺だらけの顔だった。 その顔がのけぞらんばかりに驚いた。

「おう、なんと言うことじゃ。待ち人来る。儂の気持ちが通じたのかのう。待っちょったんじゃよ」

 怪訝な顔をすると小屋爺は薬草の入った袋を指さした。

「辰敬殿にこれを玉木様へ届けて欲しかったのじゃ」

「なに、どういうことじゃ」

「御隠居様の使いが来てのう。薬がそろそろなくなるので届けて欲しいと催促があったんじゃ。ああ、言っておくがきい殿が来たわけではないぞ。富田衆のお嬢様がもうこんな所へは一人では来れんけんのう」

 わざわざ念を押し、

「早速、用意はしたのじゃが、儂はもう年じゃけん、御城下まで行くのが辛いのじゃ」

 と、大仰にため息をついてみせた。

 辰敬は戸惑った。いきなり辰敬が現れたら玉木家は驚くだろう。だが、小屋爺はそんなことは百も承知で言っているのだ。小屋爺は御城下まで行くのが辛いと言うが暮れには正月飾りを売り歩いていた。案の定、小屋爺がにたっと笑った。

「迷惑な頼みじゃったかのう。いやなら無理にとは言わん。儂が行くけん。痛む脚を引きずって行くけん。まあ、行けば、きい殿が湯の一杯も下さるじゃろうて。優しいお嬢様じゃけんのう」

 辰敬は年寄のお節介を有難く受け取ることにした。

 

 多胡家の三男坊が乞食同然の爺さんの使いで訪れたので予想通り玉木家は面食らったが隠居所に通された。

 女隠居の隠居所は厠付きで二間ほどの離れだった。老婆が崩れそうな笑みを浮かべて迎えた。

「多胡家の御子息にお届け頂くとはまことにもって申し訳ないことじゃ。小屋爺とやらの薬、よう効きましてのう。この薬なしではもう一日なりとも過ごせませんのじゃ」

「小屋爺はお役に立ったことを喜び、もっと効く薬を用意したのですが、寄る年波でお伺い出来ないことを残念がっておりました。代わりに私が薬の作り方などを教わってまいりました」

「そりゃまたなんだら重ね重ね申し訳ない事じゃ」

 そこへ、きいが茶を運んで来た。

 きいは頬を染めると辰敬とは目も合わせずそっと茶を進めた。

「きいにも感謝せんといかん。たった一人で小屋爺とやらの所まで行ってくれたのじゃからのう」

「はい、まさかあのような所でお会いするとは、私も驚きました」

 老婆はきいを振り向いた。

「何じゃ、お前たちは小屋爺の所でも会っておるのか」

「あっ、は、はい」

 きいはしどろもどろになり辰敬は慌てて弁解した。

「あの、たまたま偶然会ったのです。私は子供の時から小屋爺とは仲が良くて、よく遊びに行ってるものですから。此度、薬をお届けに上がったのも、たまたま遊びに行ったところ、小屋爺に頼まれたからなのです」

 女隠居はしげしげと二人を見比べると、

「それでは申し訳ないことじゃが、多胡様には薬を作って頂くことにして、わらわは母屋で待っておることにしよう。薬研は届けさせるけん、出来上がったら、きいが届けておくれ」

 呆気にとられた二人を尻目にきいの祖母は含み笑いを浮かべながら出て行った。思いがけず二人きりになってしまった辰敬ときいはこの幸運をどうして良いのか分からなかった。だが、その戸惑いの時間も楽しいものであることにすぐに気がついた。目を逸らしてはまた目を合わすのもいいものだった。ようやく何か話しかけなければと思った時、母屋から薬研などの道具が届けられた。

 辰敬はほっとしたように薬研に向かった。無言で薬研を轢き続けた。沈黙をほぐす役割はきいに委ねられた。

「お上手なのですね」

 精一杯の声に聞こえた。

辰敬は口ごもった。尻が無性にこそばゆい。小屋爺から新しい薬草の轢き方を教わって来たと言うのは真っ赤な嘘である。轢き方に何の変わりはない。普通に轢いているに過ぎない。小屋爺からそう言えと知恵を付けられたのだ。小屋爺は玉木家の奥へ入る知恵を授けてくれたのだ。小屋爺の計略は功を奏し、おまけに、これは全く想定していなかったことなのだが、薬に絶大な信頼を寄せる女隠居は辰敬の為に、孫娘の為でもあるのだが、粋な計らいをしてくれたのだ。

だが、武家の若い二人が一つ部屋に居られるのも半刻(一時間)ほどで、その日は話が弾むところまでは行かなかった。

その後、ほぼ一月ごとに辰敬は小屋爺の薬草を玉木家に届けた。玉木家は辰敬が出入りすることを嫌がったが、

「わらわの薬は辰敬殿しか作れないのじゃ」

と、言われたら誰も逆らえなかった。女隠居は玉木家の家付き娘だったので婿の存命中から威張っていた。跡を継いだ倅もこの老母には頭が上がらなかったのである。

 月一回の短い逢瀬だったが打ち解けるのに回数を重ねる必要はなかった。

 葉桜の頃にはきいは都のことを矢継ぎ早に質問した。若い娘だから都の流行りや風俗など根掘り葉掘り目を輝かせながら問い、最後は富田と比べてため息をつくのだった。

 きいの眼差しは尊敬と憧れに変わっていた。

「辰敬様は将棋がお強くて、都でも名を上げられたそうですね。天子様や公方様の前で勝ってご褒美を頂かれたとか」

「だ、誰がそんなことを……」

 辰敬はひっくり返らんばかりに驚いた。

 辰敬は自分の評判を知っている。御屋形様に気に入られたせいで都であたら無駄な時間を過ごした若者と思われていた。学問も武芸も身につかず吉童子丸のお守りも務まらなかった。多胡家の持て余し者と陰口をきかれている。

「嘘じゃ、嘘じゃ。どこからそんな話が出て来るのかさっぱり訳が分からん」

「でも、小さい時から将棋がお強くて、富田ではかなう者がいなかったと聞きました」

「子供の時、少し目立っただけで、話が大袈裟に伝わっているのじゃ。わが家で囲碁将棋のたぐいは禁じられておる。将棋は十年以上も指しとらんのじゃ」

 きいは落胆したが都の匂いを放つ若者への憧れが増すことはあっても減ることはなかった。

 実は辰敬が来る度にきいには聞きたいことがあった。年頃の娘なら誰しも知りたいこと。ましてや好意を寄せる若者になら。じりじりと熱い夏に焼き焦がされていたきいは、初秋の風が吹いた日、思い切ってその言葉を口にした。

「都の娘はみな奇麗なのでしょうね」

 薬研が止まった。辰敬にとって一番危険な話題だった。

「そんなことはない」

 ぶっきら棒に応えるとごりごりと薬研に戻ったが動揺は見抜かれているような気がしていた。女の勘は鋭い。

「でも、皆、申しております。それはそれは美しいと。ことに公家のお姫様はこの世の人とは思えぬくらい美しいと。辰敬様はそんなお姫様にお会いになったことはないのですか」

 固く封じていた蓋はいともたやすく砕かれてしまった。正しくは公家の娘とは言えない。公家に仕える候人の娘だがどんなやんごとなき娘よりも美しい(かんばせ)が蘇った。あの別れた日の哀しい目をそのままに。

「お公家さんとは住む世界が違う。儂らが会うことなどあり得んのじゃ」

 そう言えばいちの面影が消えるかのように必死に否定したが頬が上気しているのは自分でも分かっていた。顔を赤らめて必死に否定する若者を怪しまない者はいないだろう。

「でも、辰敬様ならお出来になるような気がします。御屋形様に気に入られ、子供ながら都へも上られたお方ですもの……」

 切なげな眼をひたと辰敬に当てた。

「隠していらっしゃるような気が……」

 傷つくことを覚悟した捨て身の言葉に辰敬は進退窮まった。否定するのは簡単だがこれ以上否定すればするほどきいを傷つけることになる。目を逸らすことも出来ない。きいの胸の鼓動さえ聞こえて来るような気がした時、不意に静けさが破られた。門の方からばたばたと駆け込む足音がして、

「桜井宗的殿、謀反」

 呼ばわる声が響き渡った。

「何じゃと、桜井殿が」

 辰敬ときいは思わず腰を浮かした。

俄かに屋敷内は騒然となった。

いちの顔を不安が覆った。

 辰敬は残りの薬草を取り上げると、

「残りは屋敷で轢いて、届けさせるけん」

そう言い置いて玉木家を飛び出した。

 城下は蜂の巣を突いたような騒ぎだった。

屋敷に戻ると多胡家も上を下への大騒ぎだった。不在の父悉皆入道に代って兄の正国が大声で下知を飛ばしていた。

 

桜井宗的は阿用城に立て籠もった。

一国人領主の無謀とも思える謀反がどうしてこれほどの騒ぎになるのか。それは誰もが桜井宗的の背後に大内義興がいることを知っていたからである。前年、秋、経久は義興不在の隙を突き、備後大場山城主古志氏を動かし備後の地を窺った。その行為が義興の逆鱗に触れ義興は仕返しをしたのだ。経久がしたことをそっくりそのままお返しをした。出雲ではそう受け止められていた。

そもそも桜井氏の発祥は相模国の御家人土屋氏であった。鎌倉時代に西遷御家人として石見国に赴任した。その後、元の名が桜井だったので桜井と名を改めた。出雲国大東にも荘園があったので、その昔、桜井氏の分かれが移って来た。それが桜井宗的の先祖である。桜井氏は長い間石見にあったので、石見国守護を何度も務めた大内氏とは深い関係があったのである。

阿用城の地理的位置も出雲の急所だった。

出雲西部を流れる大河斐伊川は伯耆国と出雲国の境に聳える船通山(せんつうざん)を源とし、奥出雲を下り雲南の山間(やまあい)を抜けると、出雲平野を潤し杵築大社の岸辺を洗って日本海に注ぐ。

その雲南の中心が木次(きすき)の里である。斐伊川はこの木次の北で西を流れる三刀屋川と合流し、さらに下流で東から流れて来る赤川と合流する。木次の里を中心とした山間に広がるこの流域は山陰と山陽を結ぶ交通の要所で豊かな地であった。

阿用は木次から東の山間にあり、ここにも出雲と備後を結ぶ備後街道が通り、阿用城は街道を望む(とぎ)()山に築かれていた。

桜井氏それほど大きくはない国人領主だが、三刀屋川流域には強力な国人領主三刀屋氏がいて、さらにその奥、備後国と石見国に接して赤穴(あかな)氏がいた。本流の斐伊川上流を支配するのは三沢氏である。たたら製鉄で財をなした三沢氏は奥出雲の王ともいうべき巨大な国人領主だった。

杵築大社と塩冶氏を屈服させ、出雲西部を支配下においた尼子氏は出雲南部の山間地に手を伸ばし、かつては京極氏に属していた三刀屋氏と赤穴氏を服属させたが、三沢氏には手を焼いていた。

これは一国人領主との戦いではない。誰もが大内義興との戦いだと認識していた。もしこの戦いが長引けば、三沢氏は宿願の出雲平野への進出を計ろうとするだろう。そうなったら三刀屋氏や赤穴氏も動揺する。彼らとても昔から地理的にも歴史的にも大内氏との交流は深い。

 経久は阿用城攻めの総大将に長男政久を立てた。これをもってしてもこの戦いを如何に重要視していたか分かる。

 出陣の準備で多胡家も殺気立った。その騒ぎの最中、辰敬はずっと桜井多聞のことを考えていた。

 船岡山の戦いで落馬した辰敬が石童丸に殺されかけた時、疾風の如く現れ間一髪助けてくれたのが多聞だった。思いもかけない再会だった。愛する女と共に伊豆へ下ったはずの多聞がなぜ都へ戻っていたのか。理由を聞く間もなく二人は離れ離れとなり、その後は一度も会っていない。多聞の噂も聞いていない。一体どうしているのか。帰国しているのかどうかも知らない。

 だが、桜井宗的が叛旗を翻したとなったら多聞はほうってはおかないだろう。

 多聞も同じ桜井一族である。支族の末端に連なる傍系の家柄で、桜井姓を名乗っていても家格は低いと聞いていたが、多聞がどんな武士であるか辰敬は分かっている。しかも、なぜか京極家に心を寄せ尼子家には背を向けていた。

(そんな多聞さんなら……)

 そう呟いた時、辰敬は正国に呼ばれた。

 部屋に入ると出陣を控えた武将の顔があった。不肖の末弟を見つめる目はいつも厳しかったが、戦いを前にした目はその比ではなかった。兄が毘沙門天に見えた。部屋の空気も異様に重い。

「わぬしも儂と一緒に出陣するのじゃ」

 えっと叫びかけた声を辰敬はかろうじて呑み込んだ。驚くことではなかった。辰敬はすでに初陣は済ませているのだ。ただ、まだ正式に御奉公もしていない身で、参陣することにためらうものがあったのである。

「父上とも相談し、許しを得た。よいか、此度の戦いはわぬしの将来がかかっておる。その覚悟で臨むのだぞ」

 そう言うことだったのか。辰敬は得心した。いつまでも御奉公の声が掛からないので、戦で手柄を挙げれば認められると父と兄は考えたのだ。

 部屋の空気が一段と重くのしかかって来た。緊張と重圧は初陣の比ではなかった。初陣では手柄を挙げることなど求められてはいなかった。だが此度は手柄を求められている。目に立つ働きをしなければならないのだ。辰敬は悔やんだ。帰国して二年、馬ばかり乗り回していて、刀槍にはそれほど身を入れてはいなかった。

 きいやいちの面影は消え失せていた。

(多聞さんと戦うことになるのか……もし、戦場で会ったら……)

 思い惑う暇もなく急き立てられるように出陣の日が来た。富田衆多胡家の陣立ては馬丁や荷駄担ぎを加えれば総勢五十名に及んだ。一行は母の涙を横目に門を出ると月山富田城の太鼓の壇に集結した。そこで出陣式を挙げると法華経の読経が割れ鐘のように轟く城下を進んだ。尼子氏は経久の代になってから、出陣の前には法華経を読経するのが習わしになっていて城下の寺は一斉に法華経を唱えたのである。

尼子の大軍は二手に分かれ、辰敬たちは京羅木山を越え西へ向かった。辰敬と轡を並べて進むのは此度も三郎助だった。庄兵衛は隠居していた。

もう一方は富田川の西の支流沿いに山道を登り、奥出雲の手前の山中を木次に向かった。

 辰敬たちの軍勢は意宇の平野に出ると、意宇川の上流を目指して進み、途中の熊野大社で武運を祈った。杵築大社が創建されるまでは、熊野大社は出雲の一の宮たる古社だった。

 八幡に背を向けて進む辰敬は大方様に思いを馳せる余裕もなかった。

 二手に分かれた軍勢は出雲を東西に分ける山地を越え、備後街道に達すると南北から阿用に迫り、その日の夕刻には磨石山の麓を埋め尽くした。

 桜井勢は女子供たちを逃がすと麓の武家屋敷を燃やし阿用城に立て籠もっていた。

磨石山を包囲すると戦いの火ぶたが切って落とされたが、籠城勢の何倍もの兵力をもってしても山城の攻略は容易ではなかった。

磨石山は南北に連なる山並みの中でも険しく、麓からの高さはおよそ数十丈(約百七十m)あった。尾根は南北に伸び東側は山地が広がっている。西から攻め登るか迂回して尾根伝いに攻めるしかなかった。だが西面の傾斜はきつく尾根は谷で隔てられ、さらに十重二十重に空堀を巡らし、櫓や柵で鉄壁の防御を誇っていた。大内氏の支援を受けた桜井宗的は軍資金も豊富で兵糧も十分に蓄えられていた。籠城勢の士気は高かった。

 石を落とされただけで尼子の兵士は頭を砕かれ斜面を転げ落ちた。どんな武器よりも石が最強の兵器だった。

 辰敬たちの部隊は尾根に陣取り遠くからこの光景を見おろしていた。悲鳴を上げて転がり落ちる雑兵の姿は痛ましい。辰敬は山城を攻める難しさを教えられた。

 予想通り籠城戦は長引いた。こうなったら向かい城を築いて包囲するのが攻める側の定石である。尼子方は阿用城と谷を挟んだ尾根の頂に向かい城を築いて対峙した。

小競り合いはあったが山肌を血で覆う戦いは止んだ。

辰敬は極度の緊張がほっと緩むのを感じた。この間、遠くからではあるが敵の城に多聞らしき姿を見ることがなかったことも救いになっていた。多聞はどこか遠い国にいるに違いない。そう思うことにした。

 秋も更けた夜のことであった。向かい城で辰敬が眠れぬ夜を過ごしていた時、不意に何処からか笛の音が聞こえて来た。辰敬は起き上がると耳を澄ました。心を掴まれるのに時間は要しなかった。何と妙なる調べであろうか。辰敬のような若輩でも妙手の笛と分かる。夜陰を震わせる嫋嫋たる調べは若者の五体に染み透った。何よりも辰敬を感動させたのはその音の雅さだった。辰敬だけが知っている都の雅が鄙の山の頂を染めていたのだ。目を閉じれんばそこが京の都のように。

(いったい誰が吹いているのだろう)

 笛は櫓の上から聞こえて来た。吹いているのは一人の武者だった。

 その夜から連夜笛は続いた。笛の音は谷を渡り阿用城にも聞こえていた。

敵も味方も聞きほれた。戦いに傷ついた心を癒すかのようにも聞こえたし、長い戦いを楽しむ大将の余裕を見せつけているようにも思えた。

桜井宗的は一人の弓の名手を選ぶと月も星もない真っ暗な闇夜に敵陣に送り込んだ。

その夜も笛の音は流れていた

狙撃手は闇に乗じて谷を渡り向かい城に接近した。辺りは鼻をつままれても分からぬ墨を流したような闇に包まれていた。櫓も政久の姿も見えない。聞こえて来るのはただ笛の音だけだった。狙撃手は向かい城にぎりぎりまで接近すると上空の闇から聞こえて来る笛の音に向けて狙いを定めた。

ひょうっと矢音が闇を切り裂いた。

笛の音が絶えた。

どさっと大きなものが落ちる音がした。

「民部様」

向かい城に絶叫が響き渡った。松明に照らし出されたのは喉を射抜かれた尼子政久の死に顔だった。