曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2020年12月

数日前から年末寒波が来て大雪になると言われていた。昨夜のニュースでは山陰地方も平地で40㎝積もるとの予報が出ていてどうなることやらと思っていたら、朝起きて見たら10㎝程度で胸を撫で下ろす。
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昨日、大慌てで買った雪かきと長靴。少し役に立った。
雪見障子越しに見た庭の雪景色。この部屋は長い間妻の居室だった。妻が特養に入った後、体力が衰えた父の部屋となり、父の死後は母の居室になっていたが、その母もグループホームに入り、今は炬燵が一つ。その炬燵から眺めた風景。
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(左)西の部屋(昔の母の居室)から見た庭。
(右)玄関から見た庭。
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 東の畑                    西の畑
手前から(人参)、(サラダほうれん草とサラダ蕪)(ニンニクとイチゴ)(うまい煮大根とサラダ大根)。みんな雪の下。人参は成長が悪くまだ食べられない。サラダほうれん草とサラダ蕪、うまい煮大根とサラダ大根は娘に送ったり、人にあげたりしているが、一人では食べきれそうもない。ニンニクとイチゴは春を待つ。
西の畑のネギはちょっと頭をのぞかせていて、豆類は完全に雪の下。少し繁って見えるのはキャベツ。西の畑はみな春を待つ。
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きんかん。この写真では点にしか見えないが、今年の出来は良くて、実が大きく色つやも良い。味も良い。しっかり肥料をやったからだろう。1週間ぐらい前から毎日5~10個ぐらい取って来ては洗っておいてつまみ食いしている。
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カーポートの前を雪かきをした。
家の前の道もこれなら走れるので、午後イオンへ予約していたおせちを取りに行く。

後は家の中も片づけや掃除、模様替えをし仏壇に花を供える。夕方、お墓にも花を供えに行く。
夕食後、6時40分から今年最後のウオーキングに出かける。少々の雨でもよほどのことがない限り欠かさず続けているウオーキングだが、実は昨夜はさぼってしまった。寒気が南下し、雪の前触れの冷たい風が殴りつけるように吹き付け、心が萎えてしまったのである。
今夜は今年最後のウオーキング。どんな天気でも絶対に行くと心に固く誓っていたので蓑虫のように着込んで出かける。風も昨夜と変わらぬぐらい強く冷たかったが長靴をはいて出かける。車の通る道は雪が溶けているのでまだ歩きやすかったが、新内藤川の歩道に出ると7割方雪道で歩きにくいことこの上なし。鼻水は出る
し、出かけたことを後悔する。よほど引き返そうかと思ったが、昨日に続き今日もまた挫折したら、ナマケ癖が付いてしまうような気がして、ただひたすら寒さに耐えて歩き通す。普段は33分。早くて32分のコースが、長靴だったせいもあって、今夜は37分もかかってしまった。
明日は朝から忙しい。6時半からお寺で修正会(しゅじょうえ)がある。去年初めて出た。今年さぼるのもおかしい。一度出たからにはきちんと出続けるものだと思うから、三が日出席する予定。朝早いので、今夜は「ガキの使い」も見ないで早々に寝る。
コロナで大変な年でしたが、皆さま、良いお年を。

第四章 初陣(8

 

 翌二十三日、長坂城を目指して出陣する前に、辰敬は鎧着初(よろいぎぞ)めを行なった同じ部屋で慌ただしく初陣の儀を執り行った。初陣に臨んで鎧を着るのだから鎧着初めと手順はほぼ同じである。違ったのは鎧を着せ終えた後に胴丸の繰締(くりじめ)めの緒の端を庄兵衛が切ったことであった。引合(ひきあわせ)の緒と繰締の緒は胴丸の合わせ目が離れないよう結びつける紐で、繰締の緒は胴丸の下で結び合わせて腰を締める。この緒の端を短く切ってしまえば胴丸は脱げなくなる。

「一度着けた鎧は死ぬまで脱がぬと言う、決死の覚悟を示す作法でござる」

と庄兵衛は言った。

 鎧着初めと同じように三献を繰り返し、三の盃を置いた時、法螺貝が聞こえて来た。

 遠く近く貝が吹き鳴らされ、鉦が響き渡り、太鼓は雷鳴の如く轟いた。八木城下が揺れた。本隊の出陣ともなると昨日の先発の比ではなかった。宿所の境内にも耳を聾する金鼓貝の音の大洪水が流れ込んで来た。

 否が応でも気分は高揚する。辰敬が濡れ縁を降りると多胡家の郎党達が声を上げて迎えた。辰敬の兜は郎党の一人が持っている。

 そこへ、百足丸が生喰(いけづき)を曳いて来た。その鼻面を覆う面包は黒の練皮、鞍も黒、手綱も黒……。黒鹿毛と言っても、毛色が真っ黒なわけではない。黒味を帯びた赤褐色と言ってよいのだが、黒鹿毛に黒の馬装は暗く沈んで見えた。

半ば予想していたのだがここまで徹底されると呆れるしかなかった。一心同体の生喰ぐらい煌びやかに飾ってやりたかったのだが、考えるまでもなく馬ばかり彩っても辰敬の鎧装束とは釣り合わないであろう。

鞍上鞍下黒一色も雄々しく強く見えることであろうと、辰敬は自分に言い聞かせ鞍の手掛けに手を伸ばした。

しかし、尼子勢の陣列に合流した途端、辰敬の健気な思いは木端微塵に砕かれた。

 馬上の辰敬の見渡す限り、人も馬も旗も目にも鮮やかな彩りに溢れ、金銀細工や金糸銀糸の輝きに目を射抜かれんばかりであった。

 武者たちの鎧の華麗さと言ったらなかった。

 縅絲(おどしいと)一つとっても、緋、紅、赤、萌黄(もえぎ)浅葱(あさぎ)、黒、紺、白絲が縦横無尽に小札を結い、様々な縅毛(おどしげ)の色目を作っていた。肩取縅は上から二、三段の色を変えたもの。匂縅はさらに手が込み、上に行くほど色が濃くなってゆく。逆に裾濃縅は下に行くほど色が濃くなる。褄取縅は角から色目が三角形状に変わって行く。

 さらには文様を染めた絵韋(えがわ)が、兜の眉庇や吹返、胴の肩上(わだかみ)、金具廻などに張り巡らされて、華やかに鎧を飾っている。胴の胸板に張っているのは名のある武士であろう。

 意匠を凝らした様々な鍬形が揺れ、陽光を撥ね返し、まき散らしている。

 鎧装束に用いられる無数の金物も金工の粋が尽され、輝くことを忘れてはいない。

 連銭葦毛の馬が目を引いた。金覆輪の鞍を置き、鼻面には練皮を金糸銀糸で彩った面包を被せ、手綱は朱、小札を赤糸縅で網代(あじろ)に編んだ馬鎧まで着けている。天馬が舞い降りたかと見まどうほどであった。その頭上をはたはたと色とりどりの軍旗がはためき、色の波を作っている。これほど贅を尽くした色彩と光輝の洗礼を浴びたことはなかった。

 皆、戦場で目立つために、己が戦装束に全精力を注ぎ込んでいるのだ。誰よりも活躍し、功名を上げるところを、主に認めて貰うために。辰敬はその剥き出しの欲望に圧倒され、つい己が姿と引き比べて見るのだった。

(いたず)らに目立つことはない」

 そう言った庄兵衛の声が甦ったが、辰敬にはどうしても命を惜しんでいるように聞こえてしまうのであった。

 大内義興と細川高国の連合軍は七日前の退路を逆に進み、洛北鷹峯へ出ると、長坂城を左に見ながら長坂街道を南下し、その日のうちに北山に陣を敷いた。

 総大将の足利義尹(よしただ)は幕府の奉公衆を中心とする兵七千を率いて高雄まで進出し、尾崎坊に滞陣した。ここで戦況を見守るのだ。

 一方、迎え撃つ細川澄元勢は、船岡山の北にある今宮林に、畠山義英勢を率いる河内守護代遊佐順盛河内入道印叟と甲賀の山中為俊、同じく甲賀の竹内衆合わせて三千が陣を敷いた。

 今宮林は長坂街道の東に広がる今宮神社の森である。船岡山の手前で、先ずは南下する敵を阻もうと言う作戦である。

 船岡山には細川政賢が五千の兵を率いて待ち構え、足利義澄亡き後総大将となった細川澄元は、兵五百に守られて上京の小川第に入った。

 

 日が落ちて暗くなると、鷹峯の山腹で一斉に篝火が焚かれた。尼子の陣でも大きな篝火が夜空を焦がさんばかりに炎を上げた。都の敵を威嚇する火だと言う。

 辰敬は山腹の左右に目を転じた。

 篝火の照り返しを浴びて赤く輝く北山の杉木立を通して、漆黒の山腹に数え切れぬほどの篝火が揺れていた。点々と列をなして辰敬の方へ向かって来て、さらに一方へと延びて行く。 

 都の方角から見れば、恐らく火の帯が今にも雪崩れ落ちて来るように見えるのではなかろうか。充分過ぎる威嚇だ。今宮林や船岡山の敵は今夜は眠れまい。都の民も怯えていることだろう。いちもこの炎を洛東の地から見つめているに違いない。あの炎のどこかに辰敬がいると思いながら。

辰敬はここにいると叫びたかった。思わず知らず篝火の前に立っていた。ばちばちと爆ぜる火の粉を頭から浴び、火傷しそうな熱さも忘れて。そこに立てば、いちに見えるのではないかと思ったのかも知れない。そこへ、陣立ての報せがあった。明日の作戦が決まったのである。

夜明けとともに総攻撃が始まる。

今宮林には細川高国勢が当たり、船岡山には大内勢と石見勢等が当たる。ところで、船岡山の主力は細川政賢だが、他に幕府の奉公衆三上三郎と本郷宮内少輔、奉行人松田頼亮の兵が加わっていた。

細川政賢には大内勢が当たり、他は石見勢等が当たることになったのだが、尼子勢は奉行人松田頼亮の陣を攻めることになったと言う。辰敬は腰が抜けるほど驚いた。まさか侍所開闔(かいこう)の松田頼亮が船岡山に参陣していたとは……。尼子勢からはどよめきの声が上がった。明らかに不服の声であった。侍所開闔松田頼亮は文官である。同じ戦って手柄を挙げるなら、幕府の武官である奉公衆を相手にしたいのが人情であろう。幕府の実務官僚の首を取ってどれほどの手柄と言えるのか。

だが、庄兵衛と三郎助だけは無言で目を交わしていた。安堵の目であった。辰敬を無事に返すことしか頭にない二人にとっては、奉公衆相手に戦うよりは、文官相手に戦う方がいいに決まっている。そんな二人の思惑は辰敬にも手に取るように分かったが、今の辰敬は何も感じなかった。

全く別な感情に襲われていたのだ。辰敬は哀しくてならなかった。松田頼亮と会ったこともなければ、見たこともないが、辰敬は二つの理由から、この人物に特別な親しみを抱いていた。一つは頼亮が祇園会を復活させた武士だったからである。町衆と力を合わせ、応仁の乱以後絶えていた祇園会を三十年ぶりに甦らせたのだ。爾来、山鉾巡行の順番は松田邸で籤引きをして決める慣わしになっていた。

辰敬は上洛して初めて見た祇園会の感動を今も忘れてはいない。あの時、辰敬は都にはお祭りの音頭を取る侍がいることに驚き、まるで頼亮に祇園会を見せて貰ったような気がしたのだ。あれから、戦や一揆などで祇園会の挙行が危ぶまれた時も、松田頼亮は常に先頭に立ち、町衆と力を合わせて祭りを続けて来た。そんな愛すべき武士と戦わねばならぬとは。

もう一つの理由は、松田頼亮が代々務める侍所開闔と言う職にあった。京極家が侍所所司を任じられた時は、所司代を務める多賀氏とともに力を合わせて、都の治安を守って来たのだ。京極家とはつながりの深い役職なのである。

 なぜ澄元方に与しているのか、なぜ敗北必死の船岡山に籠っているのか、辰敬には理解の及ばぬことだが、京極家に結びつく良き武士がまた消えて行くことになるのかと思うといたたまれなくなるのであった。

 その肩にそっと手が置かれた。振り返ると庄兵衛の柔らかな目があった。

「今宵はよく寝なされ」

 辰敬の暗い顔を見て、怯えていると勘違いしたものだろう。辰敬は北山杉の根元にもたれかかり、篝火の遠火で暖を取りながら、眠ろうとしたが一睡も出来なかった。

 夜が明けると、皆、立ったままで湯漬けを掻き込んだ。三郎助は立て続けに三杯掻き込んだ。庄兵衛も三杯詰め込んだが、辰敬は一杯が呑み込めなかった。吐き気がした。

 庄兵衛と三郎助は何も言わなかった。もう、その時から辰敬は自分を失っていた。兜を着けられたのも上の空で、百足丸が曳いて来た生喰にどうやって跨ったのかも覚えていなかった。

 法螺貝が吹き鳴らされた。太鼓が轟き、鉦が響き渡ると、周囲が一斉に動き出した。気が付くと辰敬の体も前進していた。生喰の背で揺られながら。

 見下ろすと、遥か眼下の長坂街道を無数の流れ旗の波が下って行くところであった。飾り立てた騎馬武者たちの具足が朝日を浴びて、宝玉の如く光り輝き、槍や長巻の刃が明けの空に眩いばかりの煌めきを放っていた。さながら巨大な戦絵巻が命を吹き込まれて動き出したかのようであった。

 麓から、えい、えい、えい……と曳声の大合唱が、湧き上がって来たかと思うと、攻め太鼓が轟き、無数の旗指物が一斉に西の森めがけて突進し始めた。

 今宮林に細川高国勢が襲いかかったのだ。 真っ先に突っ込んで行くのは、丹波守護代内藤貞正勢だ。負けじと、高国の一の家臣、勇猛で知られた柳本宗雄勢も遮二無二攻め込んで行く。

 隊列の流れが速くなった。今宮林で戦いの火蓋が切られ、船岡山攻めの軍勢の逸る気持ちが隊列を前へ前へと駆り立てたのだ。

 辰敬たちは今宮林の戦闘を横目に船岡山へ突進した。敵の横槍はなかった。それほど高国勢の勢いは凄まじく、敵を森の奥へ押し込んでいた。攻め太鼓が鳴り続けていた。

 船岡山でも法螺貝が高々と吹き鳴らされ、攻め太鼓が轟いた。

大内の猛将陶興房、杉興宣、神代貞綱、弘中興勝、問田弘胤、石見の益田氏、安芸の平賀氏、小早川氏らが一息で呑み込まんと小山に襲いかかった。

尼子勢も松田陣に殺到した。

えい、えい、えい……一斉に曳声を合わせながら。攻め太鼓に乗せて、えい、えい、えい……。

辰敬の左右からも、えい、えいと太い曳声が聞こえて来る。三郎助が叫んでいるのだ。庄兵衛の声も聞こえた。辰敬も叫んだ。体の内から恐怖が込み上げて来て、もう叫ばずにはいられなかったのだが、自分でも声が出ているのか、いないのか分からなかった。

 雨霰と矢が降り注いだ。

 絶叫が上がり、片目を射抜かれた足軽が生喰の脚元に転がって来た。生喰が嘶き、棹立ちになるのに、百足丸がしがみついた。辰敬も必死にたてがみを掴んだ。

 三郎助と庄兵衛も叫びながら、両脇から生喰の手綱を掴むと、総掛かりで馬を宥める。

多胡家の足軽たちが駆け寄ると、楯を高く掲げて主従を守った。

転げまわる足軽を助けようとする者など誰もいない。足軽は哀れな声を上げ続けた。

辰敬は目を背け、耳を塞ぎたくなった。

尼子勢は堀の手前まで押し寄せたものの、堀を越えることが出来なかった。

今宮林は平地の戦いだが、船岡山は山の戦いである。丘と呼んだ方が似合う、小さな山だが、古来から幾つもの空堀が巡らしてある。それらが深く掘られ、柵を二重三重に巡らせ、無数の櫓が林立する城と化していた。

 城攻めには三倍の兵力を要すると言われている。攻撃軍は優にそれだけの兵力をかけているのだが、迎え撃つ側の抵抗は激しかった。

 戦前の予想ほど楽な戦いにはならなかった。

 一進一退の激戦が続き、業を煮やして突撃した大内方の老将問田弘胤が討ち取られるほどであった。

 だが、大内方の歴戦の猛将勇将の波が打ち寄せるような猛攻に、守勢は砂山が崩れるように兵力を抉り取られていた。

 その頃、今宮林の戦いに決着がついた。大将の遊佐順盛が捕まり、山中為俊が討ち取られた。その知らせは船岡山攻撃軍にも伝えられ、一気に士気が上がった。

 船岡山から今宮林の戦況は一目瞭然である。 今宮神社から火の手が上がり、総崩れとなるさまを見た船岡山の守勢もたちまち戦意を失い、総崩れとなった。ここを先途と攻め太鼓が轟き、船岡山は大内方の大津波に呑み込まれた。

 尼子勢も遅れをとらじと攻め寄せたが、たった一つ誤算があった。船岡山総崩れの中にあって、何と松田頼亮一人が踏み止まり、最後の抵抗をしたのである。

「我こそは侍所開闔松田頼亮なるぞ。文筆の輩と侮るなかれ。今こそ筆を剣に替え御奉公いたさん。惜しむらくは我が最期を筆に取るを叶わず。我が最後の御奉公、しかと目に焼き付け、末代まで語り伝えよ」

 残った僅かな手勢で尼子勢の前に立ちはだかると、誰一人として命を惜しむ者はなく、一人でも多くの敵を道連れにせんと阿修羅のごとく挑んで来た。

 それに対して、尼子武者のしたことは圧倒的な数に物を言わせ、一人を大勢で取り囲み、槍で滅多刺しに刺し殺すというものであった。

 戦場には作法も道理もなかった。最後の一人となった松田頼亮が数十人の尼子武者に取り囲まれた時、辰敬は目を背けた。

 次に目に映ったのは頼亮の首を取ろうと殺到する鎧武者達の姿だった。何と浅ましい姿であろうか。辰敬は難じるように庄兵衛と三郎助の顔を振り返った。

 二人とも哀しい目をしていた。そんな目をしても、死んだ者は生き返らぬ。面と向かってそう叫びたかったが、二人の顔はみるみる霞んで見えなくなった。

 戦いは船岡山の南、紫野から上京に移っていた。 逃げる敵を追う戦いは、残敵掃討戦となっていた。

 松田頼亮の思いもかけぬ抵抗に遭い、後れをとった尼子勢は、残敵の首を求めて船岡山を越えた。まさに首の稼ぎ場であった。早く追いつかねばいい首は皆取られてしまう。

 山腹には無数の死体が転がり、草を染める夥しい血に生喰は何度も脚を滑らせた。

 死に行く者の呻き声が、堀の底や、草葉の陰、岩陰など、ここかしこから地獄の亡者の声の如く湧き上がっていた。

 突、瀕死の兵士が幽鬼の如くゆらりと現れると、折れ刀で馬上の辰敬に斬りつけたが、すんでのところで力尽きて倒れた。

が、次の瞬間、生喰が嘶き棹立ちになった。

 その腹から血が噴き出している。折れ刀の先が腹を引っ掻いていたのだ。興奮した生喰は尻撥ねして百足丸を蹴飛ばすと狂ったように駆け出した。辰敬は咄嗟にしがみついていた。

 背後で庄兵衛と三郎助の叫び声がしたが、地響きと二頭の馬の嘶きが交錯した。どうやら追いかけようとして、どちらかの馬が脚を滑らせ、そこへもう一頭が乗り上げ、折り重なって倒れたようであった。

 狂ったように暴走する生喰を止める術を辰敬は持たなかった。振り落とされまいとしがみついているだけで精一杯であった。

 が、生喰が脚を滑らせた時、辰敬の体は宙を飛んでいた。斜面に激しく叩きつけられ、そのまま転がり落ちた。ようやく木の根にぶつかって止まった時、斜面の上に生喰の姿は見えなかった。途中の木の枝に辰敬の兜が引っかかって揺れている。骨が折れたのか節々が痛んだ。辰敬は歯を食い縛り、死体をかき分けるように斜面をよじ登った。

 斜面の上は静まり返り、早くも死臭が漂っていた。早く戻らねば。庄兵衛たちが心配している。引き返そうと、二、三歩進んだ時、近くの茂みを割って、ぬっと一人の雑兵が現れた。

 互いにぎょっと見つめ合った。雑兵に目印の布はなかった。澄元方は槍や鎧などに目印の白い布をつけていた。辰敬たちも赤い布を目印につけていたが、辰敬が肩につけていた目印も失われていた。

 敵か味方か。

「南無……」

 雑兵が叫んだ。

「合言葉や。南無……」

 もう一度繰り返すや否や、雑兵は打刀を抜いて斬り掛かって来た。辰敬は交わすだけで精一杯だった。態勢を立て直し何とか辰敬も打刀を抜いた。

 雑兵は歯ぎしりして刀を構え直した。

 その時、辰敬はあっと声を上げた。

 返り血を浴びて真っ赤に染まった顔は、

「石童丸……」

 

 

 

12月18日午前中に熊本銀行の川尻支店で契約する。買ってくれた「川尻の町並みを保存する会」の代表はまだ若い人。熊本には市からも支援を受けるこういう組織が4つ(?)くらいあるらしい。活動する人材がなかなか育たないようだ。その中でも川尻はこれまで中心になって40年以上も活動していた人から若い人へとうまくバトンタッチが出来ているようだ。年内に荷物を運び出し、家が傾いているので支えを入れるそうだ。どんな建物になるかどのように利用するかはこれから考え、完成するまでには2、3年かかるそうだ。
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隣は売れないで駐車場になっている。路地を挟んだ手前も更地の空き地のまま。完成したら必ず見に来ると約束する。
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通りにあるすぐ近くの御船手渡し場跡。
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路地を入ると水門がある。水門を潜ると渡し場跡。夏休み、ここで子供たちと釣りをした。その頃、九州新幹線はまだ通っていなかった。加勢川と言う川なのだが、もっと小さい川だったような気がして確かめたら、洪水対策で川幅が3倍に拡張されたそうだ。道理で。
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川尻御船手を紹介する案内。御船手とは水軍のこと。川尻の港は「開懐世利(かわせり)」の名で海外にも知られた港だったらしい。肥後水軍の根拠地で、紹介されている船は細川藩の御召御座船。
右の写真は妻の実家の前の通り。左奥に見える建物が「瑞鷹」と言う有名な酒造メーカー。
契約後、2時にお寺さんが来て仏壇供養をするので、その間、家の最期の整理をする。
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階段を上がって2階へ。
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すでに下見して儂が応急修理したところは撤去してあった。
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床の間の柱や欄間は残してくれるのかなあと想像しながら最後の別れをする。妻が育ち、子供たちが楽しい夏休みを過ごした部屋である。感謝しかない。
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玄関を入ったところが一階の居間。玄関の横に水神様。
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玄関を入ると居間の横は広い土間。天井の梁は太い。
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2時にお寺さんが来て、仏壇の供養。魂抜きをする。家を明け渡す時はこれをしないといけない。供養が終わった後、儂は仏壇をレンタカーに乗せて、南区から東区の花立というところにある仏具屋さんまで運び、処分してもらう。普通は仏具屋さんが引き取りに来るのだが、人手不足で出来ないと断られたのだ。運ぶからということで引き取ってもらう。2万円なり。仏具屋さんが引き取りにくる場合は3万円だそうだ。3時過ぎにすべては終了する。夕方の新幹線で博多へ。妹の家に一泊して19日に出雲に戻る。熊本福岡は陽が出て青空なるも出雲は雨が冷たい。雨が降ったりやんだり、雪もちらほらと舞ったり、山陰とはよく言ったもんだ。

今回世話になった人が「曽田さんは熊本が最後だから(自分は最後のつもりではないのだが)」と、妻の友人の所に案内してくれた。一人は川尻に住む妻の高校の二年後輩。儂も何十年も前に会ったことのある人。妻の近況を報告する。いつか出雲に行くと言って下さる。もう一人は市内の人で妻の同級生。この人は十何年前に東京まで見舞いに来てくれた人。この人も出雲に行きたいと言って下さる。いい土産話が沢山できたのだが、家のことを話すとなると母親が死んだことを話さねばならず、どうしたものかと悩んでいる。

熊本の妻の実家が売れることになった。更地にしないと売れないと思い、あれこれ相みつを取ったり、熊本の知り合いに相談したりしていたのだが、売値は340万円なのに解体費用が200万円を超えることがわかる。売れたとしても儲けは140万円にもならない。しかもたとえ更地にしても「売れないよ」と地元の人に言われた。だからと言ってこれ以上放置しておいたらボロ家がいつ崩れるかも分からない。放置し続けて子供たちに後始末させることだけは絶対に避けたい。何としても儂の手で始末するしかない。売れないと分かっていても解体するしかない。そう決意した時、川尻の景観を保存する会からあの家を150万円で譲ってくれないかという話が来る。この会は川の港や米蔵などがあった古い昔の景観を蘇らせて寂れた町を再生させようと活動しているグループで、川尻のあちらこちらで古くて再生するにふさわしい建物をリニューアルして来た実績がある。妻の実家を検分し、大正時代に出来た料亭で、いい柱を使っているので再生リニューアルする価値があると認めてくれたのである。私は200万円出して解体するつもりだったから、一も二もなく申し出を受けることにした。何が嬉しいと言って妻の実家が消滅することなく生き残ることが嬉しかったのである。どのような家に再生されるか分からないが、柱や梁は残る。亡き義母や妻への婿として夫としての責任が果たせる。

1218日の契約に合わせて、17日に出雲を発つ。

ところが、朝6:49発の「特急スーパーおき」に乗るためには、6時頃にタクシーに迎えに来てもらわないといけないのだが、どこのタクシー会社も営業は8時からだと断られる。自家用車で出るしかないのだが2日半以上も駐車場に駐めていたらエライ駐車料金がかかる。しかも雪の予報。急遽、16日の夜にタクシーで駅前のホテルに行き泊まる。

17日の朝、予報では降るようなことを言ってたが大きく降ったのは鳥取の東部で島根は降らず。

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新山口行き「スーパーおき」は指定席1両、自由席1両の2両編成。数年前までは3両か、4両あったのだが。車内もがらがら。
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山口線の徳佐あたりは一面の雪景色。中国山地の西端なので山口県でもこの辺りは雪が積もる。
右は「みずほ」。博多を出たらがらがら。 

山陰線、山口線を走り、新山口から九州新幹線「みずほ」で熊本に着いたのが1157分。

鹿児島本線で熊本から二つ目の川尻へ。そこで、川尻の景観を保存する会につないでくれた知り合いと昼飯。
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川尻の蔵前うどん。ここも保存する会がリニューアルしたうどん屋さん。

看板に使っているのが川尻の川船を裏返したもの。店内は古い家の趣が残されている。 

昼食後、南区役所に案内してもらう。ここで川尻の家の固定資産税の評価証を再発行してもらう。それを明日の契約書を作る司法書士に届ける。

その後、実家へ行く。去年の11月末に来ているので約一年ぶり。去年あらかた整理しているが念のためにもう一度検める。知り合いがもしかしたら儂が熊本へ来るのは最後になるかもしれないからと近所に住む妻の二年後輩の家を教えてくれて、会いに行く。この人とは三十年以上も前に会ったことがあり妻の近況を知らせる。妻の実家にも来てくれて整理しながら色々とお話をする。そのご、その知り合いがもう一軒、妻の高校の同級生の家にも連れて行ってくれる。その人は十二、三年前に東京に見舞いにも来てくれた友人。ここでも小一時間妻の話をして別れる。

明日は午前中、契約。午後はお寺さんに来てもらって、仏壇の魂抜きの供養をして貰う。
駅前の東横インに泊まるがGOTOトラベルで五千何百円かが三千何百円かになり、1,000円の地域共通クーポンまでくれた。

データーを取って来たが少しは良くなっているのだろうが、いまいちはっきりしないので、これまでの経過を数値化してみた。数字にしてみればよく分かるのではないかと。いつものように11月4日~12月11日までのデーターを紹介した後にこれまでを数値化分析してみた。

4日               1:55              5:15
5日                       3:40
6日                     3:05
7日               1:55                 5:50
8日              1:30             4:30
9日                               4:40
10日                 2:15                6:00
11日                   2:40               6:20
12日                                  5:45
13日                             4:20
14日                                 5:05
15日                                  5:20
16日                                  5:10
17日                        3:25
18日                      3:00          5:30
19日                         3:40
20日※                  2:25       4:30        6:50
21日                    2:30                6:20
22日                     2:45             5:45
23日                             4:15
24日                   2:10             5:05
25日          0:55             3:50
26日                   2:05                 5:45
27日※                   2:30             5:30
28日              1:20        3:15
29日                    2:15
30日                        3:00
1日※                 1:55          4:45
2日                       2:45
3日                                       5:40
4日                      2:30
5日                      2:20              5:40
6日               1:20              4:45
7日                            3:25
8日                        2:45
9日                             3:45
10日※                 1:50       3:40
11日                      2:30

11月12日~16日は目が覚めたのが5時頃だから文句なし。ここで治ったと思ったのだが後がいけない。どうしてこの違いが出たのかよくわからない。夕食時の水分量かとも思うのだが(夕食後は水分は殆ど摂らない)、汁物の摂取量なんてそれほど違いがある訳ではない。
※のある日は最悪のパターンの夜。最初に目覚めてトイレに行った後、多胡辰敬の小説のことを考えていたら眠れなくなって、メモを取ったら、次々とアイデアが浮かび、起きてはメモしていたらますます眠れなくなり、ついついトイレに行く悪循環に陥ってしまった。12月1日と10日も表では2回だが、これは3回目を7時起床迄ガマンしていたものである。
そこで、これまでのデーターを①一回起きた日数②二回起きた日数③三回起きた日数④四回起きた日数でまとめてみた。始めたのは7月18日から。

                    ①      ②      ③      ④
7月18日~7月26日(10日間)    1      6       3
7月27日~8月23日(28日間)   11      13       4
8月24日~9月22日(30日間)   18       9       3
9月23日~11月3日(40日間)   18      19         2       1
11月4日~12月11日(39日間)  22       16       1

こうして見ると一番成績が良かったのが8月24日からの30日間と分る。その後、悪くなって11月4日からの39日間は少し盛り返した。まだ始めて5カ月経っていないからもう少し頑張ってみようと思う。

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