曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2020年08月

面会制限がずっと続いていると言うか、さらに厳しくなったので儂は全然面会していない。儂がスマホで面会してもいまいち盛り上がらなくて腰が引けてしまうのだ。特養の担当者は15分のソーシャルディスタンス面会は出来なくなったが、窓越しの面会は出来ますよと言ってくれるのだが、何だか刑務所の面会をイメージしてしまい今一つ乗り気にならない。声が聞こえやすいように少し窓を開けることも出来るそうだが、この暑い時に窓の外に立つのはどうにもツライ。という訳で、週一回の面会機会は娘に譲り、専ら娘がスマホで15分面会して、その様子をラインで送ってくれている。8月は3回面会したが、妻も慣れたのか随分ノリがよくなって、儂も驚いている。
録画して送ってくれるので聞き取りにくい処があるのだが、8月の1週目では「これでもお母さんや」「(娘が)お嫁さんになるまで死ねないの(もう結婚しているのに)」と聞き取れた。
こんなにも母親の気持ちが強いんだなあと思い知らされる。夫との会話が盛り上がらないわけだ。

8月の2週目のやり取りは大いに弾む。

「〇ちゃん~早くかえっておいでね」

「そうだね、あれよねー感染症がおさまったらね」

 「・・・なぁに?」

 「いま感染症がすごいのよ、ウイルスが、いっぱい」

 「感染症?」

 「そうそうそう、お母さん看護師だったからわかるでしょ」

 「あれ、ウイルスでしょ?」

 「そうだよ、ウイルスだよ。インフルエンザよりもっとひどいやつ」 

「ちゃ~んと知ってるのよ~感染症って、パッパッパッパッってうつるの」

 「そうそうそう東京は危ないからね。お母さんに持って帰ってうつしたらね」

 (職員さん)「お母さんに持って帰ったらまずいでしょって。なかなか今行き来がしにくい状況ですね」

でも主人とはキスします~(笑)」

あはは、濃厚接触」
お父さん好きだもんねぇ~(笑)」と、ふざける妻。

と、まあこんな感じ。
これをラインで送ってくれた後に娘が言う。
「お母さんはもう何も分からなくなっていると思っていたけどちゃんとわかっているのではないかと思ったよ。子供に接するように易しい言葉で話しかけたりしていたけれど、普通にちょっと難しいことでもどんどん話した方がいいのかもしれない」と。確かに。教えられた。

3週目は娘も忙しく、4週目の8月25日。
娘がカメラに映った瞬間、「あら、髪切ったのね」
髪を切ったことがすぐにわかる。
これには儂も嬉しかった。目が見えにくくなっているのではないかと心配していたのでスマホの画面でも分かったのだからたいしたものだ。
このところ、毎回、スマホ面会で娘が映った瞬間「キャー、〇ちゃん」から始まっているそうだ。
スマホでの面会になじんだのだろう。
そして、例によっていつもの会話が始まることも。
「正月いっしょに過ごそう。お琴聞かせて。たらたらんたらら~」
妻は若い頃琴を習っていたのだ。

世間では若い人ならコロナにかかっても、老人にうつさなければよしとして経済を回すことを優先するような風潮だけど、クラスターが起きたり、感染者が増えるたびに、面会制限される人たちがいることには誰も目を向けてくれない。マスコミでも高齢者や基礎疾患の人たちへの言及はあるが、面会制限を取り上げることはない。
きっと面会制限なんて大した問題ではないと思われているのだろう。悲しいね。

語録(24)

2007.10.1

(ちょこっとキスしてやったら)

「ヒゲがちくちくした。お父さん、私の柔らかいとこ触るんだから剃っておかないと」

・・・・・・・・・・・・・・・・

「ちっとも好きよと言ってくれない」

「ごめん、忙しくて」

「ひとこと言ってくれたらいいのに、10分も20分もかかるわけじゃなし」

2007.10.2

「ちょっと車に乗せてください」

「どこ行くの」

「デパート、23分でゆくでしょ。お父さん、お金持ってってよ。ジュース飲むんだから」

(儂が立ち上がると)

「どっこいしょと言わないの」

2007.10.7

「隣のおやじ、汚いね。品がないね。いつもお父さん見てるから、汚いね」

・・・・・・・・・・・・・・・

1819なんて目じゃないよ。4050過ぎると、お父さんみたいなのが可愛がってあげると言うと、みな、ついて来るよ」

2007.10.8

「私のまわりにウンチのにおいがする。ちゃんと取ってください」

・・・・・・・・・・・・・・・

(長井さんのニュースから ※TVをみていたのだろうが、どんなニュースか記憶にない)

「死ぬことが自由になることだって。お父さん、そんなこと思わないでよ。書きたくないとか。自由になりたいとか」

※長井さんのニュースと言うのが今となってはなんのことか分からない。

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「寒くない?」

「寒くない。ありがとう。今ので温まった」

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「私が死んだら起こさないでよ。〇子、〇子と起こす?静かに眠りたいから」

2007.10.9

「左足の包帯とって」

(オムツ交換の時。包帯なんかしていないのだが)

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(オムツ交換に行くと)

「うれしいピョン。いきなり現れたから」

2007.10.11

「俺、○○○兄ちゃん(妻の従兄)じゃないよ」

「似てたから」

「どこが似てる?」

「背高いとこ」

「背高いだけ?」

「優しいところ、鼻が曲がっているところ」

2007.10.15

「バスに乗って行こう。車椅子ではどこにも行けないから」

2007.10.24

「〇〇先生、来ないね」

「もう死んじゃったんじゃないの」

「いや、私が料理してると言ったから、来ないの」

2007.10.25

(夜、パットを交換していると、何度も頬っぺたを叩く)

「どうしたの?」

「痛いじゃないか」

(拘縮している方の左足が痛かったのである)

2007.10.26

「行きましょう、お父さん」

「どこへ」

「デパートの風呂場、はい、ありがとう」

2007.10.27

「プールで泣いたことあるよ」

「プールで泣くの?」

「心が広くなる気がするの。涙が出るの」

2007.10.28

「早くアンパン出せ、足痛いの治るから」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

(台所に立っていたら)

「調理手伝おうか、大変そうだから」

・・・・・・・・・・・・・・・

(娘と卒論の話をしていたら)

娘「お父さん、学士号とるの大変なの。思い知らされた」

妻「(娘が)お父さんとそういう話をするの大好きなの」

2007.10.29

「お父さんは疲れている時はきれいな顔をしているね、顔がなくて」

2007.11.1

「かあちゃんとこ(父の姉・大好きなおばさん)行こう」

「かあちゃんは死んだよ」

3年前だが、妻には黙っていた)

「いつ?そんな話しないでよ。どこ行っても泣かなきゃならないでしょ(涙をふく)ママちゃん(実母)、そんなこと言ってないもの」

・・・・・・・・・・・・・・・

「私と今いっしょにいるのお父さん?わあ、嬉しい。知らなかった。いっしょにいてくれてありがとう」

2007.11.2

「あっ、手が動いた。(左手はマヒして動かないのに)あくびしたら、手が動いた」

※この時、本当に動いたかと思ったことを思い出す。

2007.11.3

「足腰使わないと弱くなるね。ちょっと使わないと歩けなくなっちゃった」

・・・・・・・・・・・・・・・

「緑湯に歩いて行くのもいいことだわ。こんなにいい天気なんだから」

※緑湯は熊本の実家の近くにあった銭湯。

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「高幡不動のお墓には出雲や荒茅(出雲の夫の田舎)から来た人の名が書いてあるよ。高幡の人ばかりじゃないよ」

※高幡不動近くの日野市三沢や百草に住んでいたことがある。

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「出雲でいいじゃん。二人仲よく何才になってもいっしょに暮らす。大切なことよ」

※出雲なんか帰りたくないと言っていたはずなのだが……

2007.11.6

「お父さん、女ぐせ悪くなったらだめよ。仕事がうまくゆかなくなるから」

2007.11.7

「早くチョコレートちょうだい。くれないと、また死ぬよ」

2007.11.9

「お父さん、ご先祖様に守られて、いい人生歩んでいる」

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(パット交換時)

「優しいね、優しいね。嬉しい。早くやってくれ」

2007.11.12

「ダンスでも何でもして、○○姉ちゃん(従姉)より楽しいことしよう」

2007.11.14

「一時半ごろから、そこでお父さん幸せそうな顔して死んでたの。『死んでるんです』と言ったの。『どうして〇子さんわかるの?』と、訊くから、『私が殺したんです』と、言ったの」

2007.11.16

「○○ちゃん(娘)にね、『お父さんにもう一度お嫁に行きなさい』と、言われたのと言ったの。(娘は)『もういいわよ』と、言ったんだけど、(自分は)『ハイハイ』と、言ったの」

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「○○ちゃん(高校時代のペンフレンド)が来たら、熱烈歓迎のキスするから、見て見ぬふりしてね」


前回、7月17日から夜間頻尿対策として弾性ストッキングを履き始めてから7月27日までの経過を発表したが、それからの経過を紹介する。毎晩ほぼ11時に寝て、毎朝7時に起きる間にトイレに行った時間である。

27日             2:30
28日      1:40               4:00        6:30
29日     1:05     2:30                 5:30
30日      1:30                       5:05
31日       1:50                        5:20
1日                    3:15
2日                                  5:00
3日                    3:00
4日       1:30                          5:55
5日                         4:00
6日                         4:00
7日                      3:35
8日                       3:45
9日                      3:35
10日                                  5:10
11日                            4:35
12日                     (3:45)         5:30
13日              2:40         4:00       (6:30) 
14日                         4:00
15日             2:00                  4: 40             6:10 
16日                     3:00             6:40
17日                     3:00            6:00             
18日                     3:00           5:30
19日                     3:10            6:00
20日                     3:10          5:10                
21日                      3:25          5:50 
22日                      3:30           6:30
23日              2:30                   5:30

7月27日にトイレに行ったのが1回だけとなり、大喜びしたのであったが、全くの偶然か、何かの間違いだったようで翌日から元に戻ってしまってがっかりした。だが、それも2日間だけのことで、8月の初めからトイレへ行く回数が減り、8月5日から12日の間は僅か1回だけになる。12日の(3:45)は喉が渇いて起きただけでトイレには行ってはいない。なぜ、かくも目覚ましい結果が出たのか?梅雨が明けて急に暑くなったせいで体内の水分が減ったからではないかと素人考え。
実は5日から12日の間は起きた時にはとても喉が渇いていた。去年までなら水分を摂っていたのだが、飲んでしまうとトイレに行きたくなるので必死に我慢していた。夜も8時を過ぎたら水分は摂らないようにしていた。連日の猛暑で脱水の恐れがあるが、脱水の危機より夜間頻尿を治したい一心で出来る限り給水を抑えていたのだ。
その代わり、エアコン嫌いなのに毎晩28℃に設定してこの夏はエアコンをつけて寝ている。一晩中エアコン下で寝るのは人生初めての事。
その後、お盆過ぎて、回数がほぼ2回になったのは、余りに暑くて日中水分を摂り過ぎたせいではないかと思っている。夜は我慢しているが、日中はさすがに我慢できない。それでも従来からしたら給水量は減っているのだが・・・・・・。
お盆以降は起きる回数は2回で起きる時間もほぼ決まっている。そりゃあ夜中1回になった方がいいに決まっているが、3回起きて終日寝不足ですっきりしなかったことと比べたら、2回でもよしとしないといけない。起きる時間も後にずれて来ている。8月2日と10日、12日に5時台にトイレに行っている。ここまで眠れたら御の字である。目指すのはこの時間だな。
こうしてデーターを取ってみて思ったのだが、夏はよいデーターを取るのには向いていないようだ。どうしても日中は水分を取り過ぎるし、夜は体が水分を要求しているのに抑えてしまう。もう少し涼しくなって、普通の生活になった時のデーターを引き続き取ってみる必要がありそうだ。

8月13日の(6:30)は墓参りするために早起きした時間。

これは25年前、父が小学生の孫(儂の姪っ子)に求められて書いたものである。姪っ子のクラスで戦争のことを知る授業があって祖父母に聞いたり、書いて貰ったりしたのだそうだ。去年、父の葬儀が終わった後、姪っ子がコピーを送ってくれた。父が昔何やら書いたことは耳にしていたが、すっかり忘れていた。読んだのも初めてである。8月15日に紹介しようと思っていたので、母の手記(この時、母も短い文章を書いていた)も併せてアップしました。旧仮名遣いや誤字、当て字、文章のおかしいところもあるが、直さないそのままの方が時代の息遣いを感じさせるので98%ぐらい忠実に転載しました。

太平洋戦争とおぢいさん

 

どうして、この太平洋戦争が起こったかについては、戦後、沢山の本に書いてあるが、その原因の根深さは、戦争に突入した昭和十六年十二月八日の時点では、おぢいさんは十九歳の大学生に過ぎなかったので、どうにも解きようのないものだった。

 何の予報もなしに、いきなり大防風雨が襲ったようで、ただ狼狽し、ニュースをききながらウロウロしていた始末で、おそらく殆どの日本人がそうであったのではなかろうか。

 兵隊に行く前であるが、戦争がどのようなものであるかは、日清、日露戦争の本を読んでいたので、おぢいさんも少しは知りかけていた。国家の名で、殺人という平和な時には、最大の悪業が、堂々と行われる。そして殺し合う相手との間には個人的に、何の怨みもないのに、その殺人の量が多いいほど手柄であり、忠誠心(国につくす心)を計る尺度となって勝利者が決まっていく、という野蕃な矛盾におどろきながらも、戦争の始まった十二月八日の時点では正直に言って、いよいよ戦場におもむき、命をかけて働かねばならぬ時が来たと、武者震いを感じたことを思い出す。

 戦争に突入してから後まる二年、即ち昭和十八年までは学生として、灯火管制のウス暗い明かりの下で、食べものも不自由であったが、勉強を続けていた。

 然し、政府は戦争が始まって二年目の昭和十八年九月に、全国百校の大学、高等学校、高等専門学校に在学中の学生に対する徴兵猶予を停止するという非常措置を発表した。

 この時、理工、医科系の学生は例外的に猶予され、そのまま学生でいられたが、おぢいさんのような文科系であったものは徴兵の対象となったのである。

 徴兵検査の時、陸軍か海軍かの志望を聞かれ、それを叶えられたものもいたが、大部分は軍の方針できめられたものが多く、陸軍は昭和十八年十二月一日に入営、海軍は十二月十日に入団と決められ、おぢいさんは軍から決められた呉の大竹海兵団に入団した。

註(陸軍は軍隊に入るのを入営と言い、海軍は入団と言ふ)

 我々新兵はいづれも二等兵(陸軍)またわ二等水兵(海軍)からスタート、全員が漏れなく階級は最下位から叩きあげとなった。

 勉強をしていた学生になぜ徴兵猶予停止という非常措置がとられたかと言ふと昭和十八年は日本にとって、負け戦を決定づけた年であった。

 先ず二月にガダルカナル島から日本軍は退き、四月には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、五月にはアッツ島で日本軍(守備隊)が玉砕した。そして、十一月にはマキン、タラワ両島の日本守備隊が玉砕した。こうした情勢のもとで、施行された徴兵猶予停止に対し、学生は“やむをえない”という実感のなかに、日本の歴史始まって以来の国難に身を投じなければならないと言ふ義務感がわいたのである。

 学徒出陣の正しい記録は残っていないようだが、陸海軍に入隊した学徒兵は総数でおよそ十万人、そのうち約十八%が海軍と推定される。

 航空隊への志願者は優先的にかなえられたが、他の兵科は志望を問われることなく、一方的に決定されたのである。

 訓練期間中の生活については、苦しかった数多くの手記が残っているが、大多数が黙々と耐え抜いたことは事実である。

 つらい局面においては、命ぜられたことに疑問持つこと自体が、辛さを増すので、すべて肯定的に受け止めるように自分に言い聞かせたものである。

 さて十二月十日呉の大竹海兵団に入団してからは海軍独特の月々火水木金々(即ち休日なしの)の激しく又厳しい訓練を受けたが、余りの激しさに耐え切れず、自ら死を選んだ者(自殺した者)さえいた。

 戦争にのぞむ場合“死”は大前提である。この場合“どうせ死ぬる”からと希望を失い将来を悲観して、日々を刹那的に過ごした兵隊と、これとは逆に生死を超越して、全力を以って日々の訓練に励み耐えた者との両極端に分かれたが、おぢいさんは、兎に角猛烈に頑張り、二ヶ月の訓練を終えた時、新兵(何百人いたのか覚えていないが)の中で三番の成績で海兵団長より賞状と記念品(万年筆)を貰ったのである。

 このような表彰があることが、事前に分かっておれば、これを目指して頑張った兵隊が沢山いたことと思うが、全員知らず、おぢいさんも、この表彰が新兵全員の前であることを、その前日に上官より知らされたのである。

 人間はどんな場合でも人が見ていようがおるまいが、陰、日向なく懸命に努力すると誰かが、これを認めて呉れていると言ふ“生きた教訓を”体験した。

 そして、戦争が終わって、社会人になってからも殆ど“誰にも語らず”守り続けたが、これは誤りのない教訓であることが、一層よくわかって七十五才を迎えている。

 今から、ふり返って見ると、この頑張りが命ながらえて今日を迎えている原因であると思っている。

 と言ふのは、幸いにも成績がよかったので海兵団より藤沢長後にあった海軍電波学校に入学を命ぜられたのが、昭和十九年二月であった。

 この電波学校では、その当時の最先端の新兵機、電波探知機について、その知識と操作を教えていたのである。

 何分にも戦争中に出来た新兵機なので特殊な知識と技能を必要とするため、中身の濃い教科が課せられたのである。

 教わったのは、数学、電気理論、真空管理論などの高度な教課を勉強させられた。

 何分にも学生は文科系ばかりだったから教える方も、教えられる方も必死の日々であった。

 夜も十二時前に寝ることもなく、六ヶ月の教育を受けた。

 最初の三ヶ月は普通科と言って、ヤゝ平易な教育であったが、この教科終了時点で机を並べた戦友が沢山、第一線(即ち戦艦、航空母艦、その他の艦隊、及び南方の航空基地等)の配置につかされたのである。

 そして日が経つに従って次々と戦死の報が入って来たのである。

 この時おぢいさんは、引き続き高等科に進み更に三ヶ月の教育を受け、この教科を終えた時には、いよいよ第一線の砲弾の下に命をさらすのかと、血をおどらせながら出動の命令を待っていたところ

 命令は期待した第一線出動ではなく、予期もしない、新兵の教育係で学校に残り第一線とは無縁の教員として、教壇に立つことになった。

 この時ほど人間の運命の岐路を思い知らされたことはなかった。

 この教員生活は約一年近く続いたが、教える兵隊は、年配者が多く(この頃は若い兵隊は皆、第一線に配属されていたゝめ)教えても、理解力に乏しく、又なかなか覚えない、なかには授業中に居眠りする者さえをり、之を許すわけにはゆかず、竹の棒で厳しくヒッパタイたものである。

 この様な兵隊の質を見た時に、これでは役に立たず、教壇の上から、既に日本危うしを痛切に感じたものである。

 この一年近い教員生活の後は、いよいよ第一線出動要員として、部下十名をもらい茅ヶ崎海岸の松林の中にあった電波学校の出動要員の訓練場で毎日激しい実践さながらの訓練を行ったのである。

 これは終戦の年昭和二十年のはじめである。この頃は日本国内には敵を迎え撃つ飛行機は殆どなく、毎日の様にアメリカの艦載機が超低空飛行で襲来し、機関銃の掃射を受けたものであるが、カスリ傷一つ受けなかった。

 この茅ヶ崎での訓練中、既に銃は一つもなく、アメリカの本土上陸の際は竹で作った槍で戦うのだと、本気で子の訓練を繰り返したのである。この状況下で最早や日本の敗戦はハッキリしていたのである。

 この後、終戦直前に茅ヶ崎より部下と共に伊丹の海軍特攻基地(現在の大阪飛行場)防衛のため、現地え着任、間もなく終戦を迎えたのである。


〇ちゃん、いよいよ夏休みも終わり、新学期が始まるね。楽しい夏休みを過ごしたことゝおばあさんと話合っているよ。
〇ちゃんから頼まれた戦争の事のおへんじが、大変おそくなってすまなかったね、何分にも五十年も前の出来事なので記憶がウスレていたり、断片にしか思い出せなかったりで、一生けんめい記憶をよびもどしながら書きました。
どうしても思い出せぬところは、図書館に行って調べ、間違いのないようにまとめました。
〇ちゃんのこの”頼み”によって、おぢいさんは海軍時代のことを文章で残すことが出来、大変喜んでいます。若し、この”頼み”がなかったら、多分何の記録も残さず、人に話すこともなく、故人となったことでしょう。
乱ぼうな字、又むずかしい字を使っていますが、お父さんお母さんに聞いてください。


  

 

                 原子爆弾の投下の日

 

私は一九四四年十六歳の時旧制女学校三年生の生徒が呉海軍工廠へ動員学徒として勉強も捨てゝ国のために働かされていました。

爆弾投下の其の時は私は病気をして居ました。呉の軍港の山側の寄宿舎は焼け出され、居を替え呉の隣の狩留賀町吉浦中学校の寮へ移り近くの病院え通うため隧道の中を歩いて居ると、ピカは見えずドーンだけが聞こえました。

暗い隧道から出て見ると、今頃云われている「木の子雲」でしょうね、しっかりと十六歳で見たあの雲は不気味でした。

病院に着くと爆弾にやられた人々、虫の息の様な大人、子供、真黒い顔、出て居る所は水ぶくれ、着衣は縦にサケてボロボロの姿に驚きました。

私は治療が終わり、病院を出ると広島方面から何十台ものトラックがムシロに死人の人を一人々々巻き、丸で材木でも積んで有る様な形で、満載して、山の方へ走り去りやがて遠くで煙が上がっていました。

一生忘れることはないでしょう。

 

※旧制女学校三年とは

 今の中学三年生です。

 

※十六才と云っても満で十五才です

 

別紙のコピーは私達の事が出ていましたので大切に切抜きしていましたのでコピーしました。

参考になると喜びます。

                  おばあさんより

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註:別紙のコピーとは新聞記事のコピーのこと。母たち津和野の女学校の動員学徒 が記事になったことがあったらしく、そのコピーを送ったようだが、姪っ子はそのコピーを失くしてしまったそうだ。我が家にはあるかもしれないが、母はどこにしまったかもう覚えていないだろう。
母たちは終戦後広島経由で帰郷。その時、原爆投下直後の広島で残留放射能を浴びたので今も「被爆者手帳」を持っている。 


儂が父から聞いた話の断片はもう少しナマナマしい。機銃掃射を受けてカスリ傷ひとつ受けなかったと書いているが、儂が聞いた話では砂浜に突っ伏したら、すぐ身体の横を銃撃が走り抜け 、間一髪助かった。後少しずれていたら生きてはいなかったと言っていた。

 表彰された話も、皆、どうせ死ぬのだからと自暴自棄的になっていたが、自分は二人兄弟で二人とも死んだら家が絶え、親が悲しむと思ったので必死に勉強したと言っていた。その後弟は戦死している。表彰されることは知らなかったという記述と矛盾するところもあるが、一生懸命に勉強した動機の一つにそういう部分もあったのだろう。小学生の女の子に向けて書いたのでそこまでは触れなかったのかもしれない。
断片でしか知らなかったことを、こうしてきちんと記録に残してくれたことに感謝した8月15日であった。


8月12日からひとりでお盆の準備を始める。松江のクラスターで母がグループホームから外出できなくなり、儂の姉妹も帰郷できず、ひとりでやるしかなくなったのである。先ずは盆提灯の組み立てから。
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これは去年儂が新調して、組み立てもやったので楽な作業。この後、確かこの箱だったよなあと、仏壇の横から高月や段盛臺の箱を出す。困ったのは料理を載せる御膳の場所が分からないこと。妹に聞いても去年はお盆の支度だけしたら急いで帰ったので分からないと言う。後片付けは母がしたのだ。困った。電話して母に聞いたところで覚えてはいないだろう。同じ押し入れを三度捜して、一番奥からようやく見つける。午前中はくたびれてここ迄。昼食後、イオンへ花や果物、菓子、盆飾りetcを買いに行く。
帰宅後、花ノ木を切りに表へ出る。
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花をいっぱい買い過ぎたので、花ノ木まで買うのは勿体なさ過ぎる。花ノ木は母が帰郷した時、毎度買うのが勿体ないので、池の側に植えたものである。なかなか売っているような見栄えのいい枝は取れないのだが、今夏はまあまあの枝が取れる。
夕食後、仏壇の花を活けて、高月や段盛、果物などをセットだけしておく。13日の朝に供える予定。
8月13日
7時前にお墓へ行く。
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花立を洗う。これはお墓の前の家の部落水道。いくら使っても一律一軒月千円。ゴミ箱掃除にも使うので隣保は誰でも使える。
去年、父の死後、墓を作った時に墓地も整理した。個人墓の花立は祖父と戦死した父の弟の分以外はすべて撤去して、墓の入り口に新たに花台を作り、ここに花を供え、水をやり、線香を立てれば全員の供養が出来るようにしたのだ。ずいぶん楽になった。それまでは全部の花立に花を供え、固い土を掘って線香を立てるのが大変だった。
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父の墓というか累代の墓。もう個人墓の余地がないので、お墓のアパートを建てた次第。儂も将来入居予定。
赤いのだけがやけに目立っているが、これはほうずき。近年ほうずきは供えたことがなかったがイオンでみたらやけにきれいだったので衝動買いする。一本500円以上して吃驚。来年からは庭の片隅にほうずきを植えようと思う。そう言えば昔はどこの家にもほうずきはあったものだ。
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11時にお坊さんが来るのでそれまでに仏壇の用意。
困ったのが御膳。煮しめを作るのは無理なのでスーパーで買って来たお煮しめのセットから適当にチョイスする。本当はお決まりのメニューがあるのだろうが来年の宿題。豆腐の吸い物は一応作る。醤油を落としてダシを入れて作る。ご飯は冷凍を解凍しようと思っていたのだが、儂のご飯は玄米入り。見た目がよくないのでコンビニに走り、パックご飯を買って来てチンして切り抜ける。隣はドライフルーツ。メロンがドーンとあった方がいいのだが、暑い処に三日も置いておくと傷んでしまうので法事用のドライフルーツを買った。和尚さん、呆れていたかもしれない。
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高月には白玉団子を盛る。これはビニールのパックに入っている。毎年母がエベレストのような団子の山を作っていたのだが今年からパック。本当はパックを外すべきなのだろうか、よくわからん。
今年は茄子の牛と胡瓜の馬も作る。我が家のナスは見栄えのいいものがなかったので、畑先生のナスを貰いに行ったが、ここは大長ナスなので長いものばっかり。ようやく手ごろな大きさのナスを見つけたが随分スマートな牛になってしまった。
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10時前に完了。和尚さんが来る前に障子を閉めて、部屋をギンギンに冷やしておく。コロナの夏なので前もって和尚さんからお経が終わってもお茶出しなどしないでくれと言われている。自分で水筒を用意して回るのだそうだ。接触機会を減らそうという訳だ。
11時前、和尚さん軽トラックでやって来て、軽トラックで次へ。これで来年はもう少し手際よく出来るだろうが、こんなお盆は今年だけにして欲しい。去年の今頃は特養の夏祭りで妻と花火見物したのに、今年はどこからも花火の音が聞こえない。

                   第四章 初陣(4)

 その瞬間、訳もなくどきっとした辰敬は咄嗟に姿を隠していた。なぜ、そんな行動を取ったのかは自分でも分からなかった。身体がそう反応したとしか説明のしようがなかった。多聞を邸で見るのはいつ以来だろう。思い出せないくらい久し振りだが、懐かしさより先に気になることがあった。多聞は門へ向かっていたのである。こんなに早く退出するなんて一体何の用があって来たのだろう。

加えて辰敬の目を引いたのは多聞の歩く姿であった。左手を懐に突っ込みぶらりと肩を揺するように歩いていた。まるで都を徘徊する牢人のようだ。辰敬は多聞のこんな姿は見た事がなかった。多聞はどんな寒い日でも決して懐手はしなかった。片懐手でだらしなく歩く男ではない。辰敬は多聞の後を追った。

 多聞は邸を出ると西へ向かった。女のいる家に帰るのだろうか。後を追いながら辰敬は多聞の左手を突っ込んだ懐が妙に大きく膨らんでいたのを思い出していた。

 多聞は風早町へは戻らなかった。途中から南に下り、都の外れまで来るとさらに西へ向かい、東寺の近くの小さな土倉の暖簾を潜ったのである。辰敬はまるで自分が悪い事をしているかのように道端の小屋陰に身を隠した。

多聞が出て来た。懐の膨らみは消えていた。懐に隠していた物を銭に換えたことは明らかだった。京極邸から持ち出した物を土倉に持ち込んだのだ。

 辰敬は信じたくなかった。いま見た事が幻であって欲しかったが、前を行くずんぐりした岩のような後ろ姿はまごうことなき多聞であった。その背中がこれまで見た事もないくらいしぼんで見えた。辰敬までもしおれたように動けなかった。多聞の姿が視界から消えてからようやく足が動いた。

 辰敬は重い足取りで風早町まで引き返して来ると、ためらいながらもそっと町屋の間の路地に入った。と、奥から激しく怒鳴り合う声がして女の悲鳴が上がった。

 何事かと掛け込むとあばら家の前で十人ほどの侍が多聞を取り囲んでいた。京極家中の者達だった。鷲尾が頭巾を被った女を人質に取り刃を突き付けている。まともに向かったのでは多聞に太刀打ちできないので、女を人質にとって多聞を取り抑えようとしているのだ。多聞の盗みがばれたようだ。

 と、喉元の刃も厭わず、女が鷲尾を突き飛ばし身を翻した。慌てた鷲尾が女を引き戻そうとした時、多聞がその間に飛び込み、たちまち乱闘となった。

女は必死の形相で路地へ逃げて来た。頭巾は剥ぎ取られ、まるで童女のような髪を振り乱し、腿も露わに走って来る姿は異様で、鬼気迫るものがあった。女は辰敬の横を駆け抜けると小路へ飛び出した。辰敬は女を追った。

「こっちじゃ」

女の袖を掴むと小路を駆け抜け、近くの寺へ逃げ込んだ。昨秋来、多聞と二度ほど会った場所である。

二人は境内の奥の苔むした石塔の陰に倒れるように転がり込むと息を潜めた。叫喚から離れた静けさの中で辰敬の背に熱い息だけが(ふいご)のように打ち寄せていた。蹲っていたが追手の気配はなかった辰敬はそっと女を振り返った。そう怯えた顔があった。

「あんな奴ら、束になっても多聞さんにはかなわんけん」

 安心させてやろうと思ったのだが、齢にそぐわぬ童女のような頭がいやでも目に障る。やはり尼であることを隠していたのだ。尼で剃髪するのは禅寺に限られている。多くの尼は尼削ぎと言い、肩の辺りで髪を切り揃えるのが普通である。生え揃わぬ短い髪を見るに、女は禅寺の尼だったに違いない。女が無性に汚らわしく見えた。短いばさばさの髪は勿論の事、化粧気のない疲れの滲んだ顔も。

「なして多聞さんは盗みなんかしちょったんじゃ」

 咎めるような口調になっていた。

「わらわも知らんかった……」

 項垂れると消え入りそうな声で、

「申し訳ない事じゃ……路銀を工面しておられたのじゃろう」

「路銀」

 辰敬は思わず素っ頓狂な声を上げた。

「旅に出るのか」

 女は面を伏せたまま頷き、

「髪が伸びたらと約束を……」

 油っ気のない短髪の頭を恥ずかしそうにすくめた。

「多聞さんと一緒にか。どこへ、なして旅を」

 女はうっと声を漏らすと堰を切ったように泣き出した。大きな声に自分でも驚いたのか、慌てて袂を口に押し当てたが、嗚咽はとめどもなく続き、涙もぼろぼろとこぼれ続けた。 いつになったら泣きやむのか、辰敬が震える肩を呆れたように見ていると、ぽつりと声が漏れた。

「伊豆へ……」

 振り絞るような声を上げた。

「わらわの子が生きておったのや」

女は身を投げ出すように地べたに突っ伏した。辰敬は凝然と女を見詰めていた。尼さんに子供がいたとは。

 ようやく泣きやんだ女が涙ながらに語るには、生国は駿河で本名はすえ。甲斐との国境に接する貧しい山里の百姓の娘だった。

 一帯を知行する領主は先祖が鎌倉以来の御家人の家柄で、駿河の守護大名今川氏の被官であった。すえはその館に端女として奉公に上がったが、水浴びをしているところを猟色に狂った主の目にとまり、その場で犯されてしまった。正室との間に子がなく、側女が産んだ子達も皆虚弱で早世していたので、後継ぎを熱望する主は女と見れば見境なく手をつけていたのだ。

土臭い百姓娘は丸々と太った男児を産んだ。主は狂喜乱舞した。すえは主の宿願を叶える大手柄を挙げたのだが、褒美に小袖を一枚貰っただけで子は取り上げられてしまった。

正室の子として育てられる事になり、主家代々の幼名である松王丸と名付けられたが、正室は悋気が強く異常に嫉妬深い性質だった。子を奪っただけでは飽き足らず、すえを殺そうとしたのである。

 間一髪、刺客に気づいたすえは刃を浴びながらも、必死に山へ逃げ込んだ。その時の傷は背に残り、今も痛む。普通の娘なら死んでいたが、山育ちの生命力がすえを救った。

 谷に落ち気を失って倒れている所を、旅の比丘尼に救われたのである。旅の比丘尼と言えば尼姿で春をひさぐ女である。すえも生きて行くためには身を売るしかなかった。恩義のある比丘尼とともに三年ほど諸国を旅をしたが、片時も我が子を忘れた事はなかった。

我が子の存在がすえを支えたと言ってよい。だが、身を売りながらの旅は余りにも辛く、耐え切れなくなったすえは、都へ上った時に尼寺へ逃げ込んだ。

正真正銘本物の尼になったのである。すえは御仏に仕えながらひたすら我が子の為に祈り続けたが、それから四年近くたった去年の春、駿河の主家が滅んだ事を知った。甲斐の守護大名武田氏の侵攻を受け、一族皆殺しにあったのだ。館に押し込められ、女子供に至るまで、一人残らず焼き殺されたと言う報せだった。すえは半狂乱となり、自らも井戸に身を投げようとしたほどであった。

ところが、それから暫くして、風の噂に松王丸が生きていると知らされた。館が包囲される寸前に、松王丸を救い出した奉公人の老夫婦がいた。老夫婦は夫の故郷の伊豆の僻村へ戻ると、そこで漁師をしながら松王丸を大切に育てていると言うものであった。すえはその噂を聞いた途端、矢も盾もたまらず会いたくなった。

松王丸は七歳になっている。やっと我が子を取り戻す事が出来るのだ。夢にまで見た、親子二人の暮らしが出来る。どんなに貧しくても、どんなに辛くても、我が子と二人なら何の苦労であろうか。どんなに大きくなったことか。我が子に会いたい一心で、すえは尼寺を飛び出したのだが、都を脱け出す事すら出来なかった。

 あの恐ろしい野っ原でならず者に襲われたのだ。真夜中に都の人間なら絶対に通らない場所だが、すえは正常な判断を失っていた。が、御仏に仕えた功徳が残っていた。偶然、通りかかった多聞に救われたのであった。

「桜井様は事情を知ると、わらわを伊豆まで送ってやると約束して下さったのじゃ。わらわの髪が伸びた頃に旅立てるようにと。それまでに支度を整えてやろうと仰せになったのじゃ」

 そこまで語ると、すえはその目をひたと辰敬に当てた。辰敬の心の内はお見通しですよと言わんばかりに。

(桜井様はふしだらな御方ではありませんよ)

 辰敬は目を逸らすと多聞を恨んだ。

(多聞さんはいつもこうだ。一言言ってくれればいいのに。我を子供と思っていたのか)

 すえには辰敬は大人になる子に見えていた。

「……一つ屋根の下で暮らしていたけれど、桜井様と言う御方はですね……指一本」

 咳ばらいがした。振り返ると仏頂面の多聞が立っていた。

「あっ、桜井様」

 すえは思わず多聞の胸に飛び込むようにしがみついた。

「よくぞ、御無事で」

「むむ……」

 涙のすえを持て余す多聞を、辰敬は背伸びした目で眺めていた。視線に気づいたすえが慌てて離れた。仏頂面がほっとしたように一呼吸すると、

「さて、これからじゃが、伊豆へ行こう」

「えっ」

 すえが声を上げた。

 辰敬も吃驚して、思わず問うた。

「路銀は。旅の支度は」

 多聞は首を振った。

「路銀は少し貯めた。支度も少しずつ整えていたが、みな、置いて来た。今頃は奴らに根こそぎ奪われておるじゃろう」

 ちゃりんと袂を鳴らした。

「じゃが、今朝、作った銭がある」

「とても足りんじゃろ」

 関銭だけでも馬鹿にならない。一人一文としても、二人で二文だが、関所はいたる所にあった。公方を筆頭に守護や守護代などの武士、朝廷、公家、寺社を問わず、その領地に関所を作り、通過する者から容赦なく関銭を取り立てた。伊豆まで一体関所だけでも幾つある事だろう。百ではきくまい。二百はあるかもしれない。関銭だけでも四百文だ。野宿ばかりする訳にはゆくまい。宿賃がいる。煮炊きする薪代もいれば、米を買う金もいる。

「なあに、何とかなる。商人の用心棒でもすればよい」

 と安心させるように腰の刀をぽんと叩いた。

 かくなる上は一肌脱がねばならぬ。辰敬はそう思った。

「多聞さん、ちょっと待っちょってくれ。我のところには少しじゃが米がある。上洛した時の旅支度もそのまま置いてある。すぐに持って来るけん」

 辰敬は京極邸の長屋に取って返した。鷲尾達は傷の手当てで大騒ぎしていたので見咎められる事はなかった。

 行李に米や味噌などありったけを詰め込んで引き返して来た。

「わぬしが困るじゃろ」

「次郎松が貸してくれるけん」

 にっと笑みを浮かべると、

「少ないけど」

 六十文ほど入った銭袋を差し出した。

 多聞は目を丸くした。

「何じゃ、これは」

「次郎松がくれた多胡博打の御守代じゃ」

「多胡博打」

 怪訝な顔をする多聞に、辰敬は多胡博打の一件を打ち明けた。

「律儀な奴じゃのう」

 多聞が声を上げて笑った。つられてすえも笑い、辰敬も笑った。

「その御守、儂も欲しいくらいじゃ」

「賭け事はいけません」

 すえが大真面目な顔でたしなめた。

「冗談じゃ」

 早速、多聞は行李を背負い、すえと共に寺を出た。見送りに辰敬もついて行った。多聞は途中ですえに市女笠を買った。

 東海道を下るには粟田口から日の岡の峠を越える。寺を出て、三条大橋を渡り、京の七口の一つ粟田口の関まではかなり歩くが、辰敬にはあっという間だった。それが二人を送って来た辰敬の実感であった。

 出る人、来る人の雑踏の中で、多聞は立ち止まると、辰敬に向き直った。じっと黙って見詰める目は、出会ってから今日までの辰敬の成長を確かめているかのようであった。

「世話になったな」

 大人と認めた声だった。

「達者でな」

 頷いて(多聞さんも)と言葉を返そうとした時、多聞はくるりと背を向け、関所の茅葺き屋根の門に向かっていた。

 すえが両手を胸前で合わせ、

「だんだん」

 にっこりと頭を下げた。辰敬の顔にも笑みが浮かんだ。出雲の言葉で礼を言ってくれたのは、最大限の感謝の気持ちを伝えたかったに違いない。

 街道を遠ざかって行く二人を、辰敬はいつまでも見送ったが、突然の別れをまだ現実のものとして受け入れる事が出来た訳ではなかった。まさか多聞ともこんな別れになってしまうとは。二人の後ろ姿が豆粒のようになった時、別れの寂しさがじんわりと込み上げて来た。どうして大好きな人たちばかり去って行くのだろう。まるで辰敬を置いてけぼりにするかのように。多聞は戻って来るのだろうか。また会う事が出来るのだろうか。一寸先は分からない世の中だった。神のみぞ知る。いや、神さえも見通す事が出来ない世ではないのか。今辰敬に出来る事と言えば、二人の道中の無事を祈るしかなかった。救いは春がそこまで来ている事だった。

辰敬は引き返した。三条大橋に向かってとぼとぼと歩いていると、目は自ずと街道の右手、鴨東の北に広がる野に引きずられていた。

目の端に東山連峰が南北に横たわり、そのなだらかな峰の北にはこれまた見慣れた比叡の山稜が盛り上がっている。緑を増した麦畑と荒れ地が入り混じって広がる平地には、森や林、寺社や集落が浮島のように点在している。

辰敬は自分の目が捜しているものに気がついていた。あの日以来、鴨川を越えることはなかったが、こうして鴨東に足を踏み入れると、否応もなく思い出させられる。深夜の京極邸で石童丸と出食わした時の事を。石童丸は土倉に嫁いだいちが、鴨東の寮に暮らしていると教えた。銀閣寺へ行く途中にあると言った言葉を思い出しながら、辰敬は東山の麓から西へゆっくりと視線を戻した。

遠くのあの屋敷森だろうか、それとも百姓家の向こうの竹林の揺れる屋敷だろうか、それらしい住まいを捜していた。が、立ち止まった足を叱るものがあった。もう一人の自分の声であった。

(未練だぞ。忘れたのではないか)

 声は未練の目をも叱った。

(多聞さんに叱られた事を忘れたのか)

 辰敬は我に返り、今頃は日の岡の峠を登っているであろう多聞に思いを馳せた。

(多聞さんが我を叱った事に間違いはない。御奉公専一を考え、我を思っての事だったのだ……)

 と、己に言い聞かせながらも、その多聞への疑念が湧き上がって来るのであった。

(……多聞さんはどうしてあそこまで尽くすのだろう)

 それは喉に刺さった魚の小骨のように引っかかっていた謎であった。すえを好きになったのなら判る。辰敬が見るに多聞が好意を抱いているのは確かだ。好きな女の為なら当然だと思うのだが、多聞はすえに指一本触れていないと言う。何ヶ月も女と暮らしていながら、指一本触れないのは男として普通ではないことぐらい辰敬の齢になれば判る。もし辰敬がいちと一緒にそんな状況に置かれたら、一日たりとも我慢できなかったであろう。

(触りたいし、抱き締めずにはいられないし……ああ、いけない。またつまらない妄想をしてしまった)

 多聞に思いを戻した。

 すえの身に同情したからかと思ったが、ただの同情からとはとても思えなかった。では、すえが尼だったからだろうか。多聞は尼僧に手を出すような男ではない。だが、すえは尼寺を抜け出したのであり、多聞と暮らし始めてから髪も伸ばしたではないか。もしかして多聞は女嫌いなのだろうかとも思ったが、それにはいかにも無理がある。結局、やっぱり多聞はすえが好きなのだ。好きだからこそ旅を共にするのだと言う結論に納まる。そして、堂々巡りの果てに初めの疑問に戻るのであった。

 好きならどうして指一本触れないのだろう。いやいや、そもそも多聞は好きとも、愛しているとも言わない。そういう男だ。出会ってから、今日までの多聞を改めたて思い出して見た。多聞の人となりを、本当の多聞を知るために。三条大橋が見える所まで来た時、ようやく結論らしいものに辿り着いた。

(多聞さんは好きだったからこそ指を触れようともしなかったのではないだろうか)

 何だか胸に落ちたような気がした。本当に好きな人だったら指も触れられない。多聞ならありそうな事だ。いや、不器用で、口が重く、武辺一点張りの多聞なればこそではないか。 指も触れない、好きとも言えない。それこそが好意を示すことであり、あの人を大切にしていることではなかったのか。

(多聞さんらしい)

 大好きな多聞がそこにいた。いかにも素朴な出雲の田舎武士ではないか。辰敬にはとても男らしく立派なことに思えた。

 翻って我が身を省みてどうだろう。好きとも言えず、手を握る事も出来なかったところは、多聞に似ていた。だが、その後が違い過ぎる。確かに辰敬はいちを失ったが、もし多聞が同じ立場なら、今の辰敬のように未練を残し続けたであろうか。無理矢理忘れようとして、結局、忘れられず、未練たらしく悶々としたであろうか。否、多聞はそんな男ではないはずだ。

 多聞ならどうしたであろうか。岩のような多聞の姿が浮かんだ。秘めた意志がそのまま岩と化したような顔。なにものにも揺るがぬ不動の岩と化した体躯。その時、辰敬は思った。多聞は岩のように動かず、変わらず、その固い身の内に大切なものを守り続けるのではないのだろうか。

 辰敬はいちを忘れようとしていたが、多聞は逆に大切な人を決して忘れたりはしないのではないか。多聞ならその思いを抱き続けるに違いない。決して表には出さず、死ぬまで己一人の内に守り続けるだろう。そうだ。男なら、そう言う愛し方もあるのだ。いや、それこそが一番男らしいのかもしれない。

 そこまでが今の辰敬が到達した地平だった。

 辰敬は思った。いちを忘れてはいけないのだ。たとえいちが人の妻となり、手の届かない所へ行ってしまったとしても、いちが本当に好きで、いちを本当に大切に思っているのならば、忘れてはいけないのだ。何年経とうとも、どんなに遠くにいても、自分の運命がどう変わろうとも、心の奥底にかけがえのない人として大切に守り続けるのだ。

 たとえその気持が伝わらなくてもよい。

 歳月が経ちいちがどんな女になったとしてもいい。辰敬は変わらず、思い続けるのだ。それが本当に好きになった人への誠ではないか。

(多聞さん、そうじゃろ)

 辰敬はきっと唇を真一文字に結び、三条大橋の真ん中をまっすぐ進んだ。

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