曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2020年03月

コロナウィルス未感染の県が五県になった。島根、鳥取、富山、山県、岩手の五県である。
27日の隣保の集金会でもその話題に。所得が低くて、人口が少なくて、辺鄙な県ばかりと自嘲する人も。それでも「大社さんが守ってくれているから」が、この土地の人の口癖。嵐が来ても、地震があっても、大社さんが守ってくれたが、果たしてコロナからも守ってくれるのか。
ダイヤモンド・プリンセス号に乗っていたのは島根県では4人と言うのは知っていたが、集金会で〇〇市の〇〇町の夫婦と教えられる。もう一組は✖✖市の✖✖町だと。知らぬは儂だけだった。田舎は狭い。
土日は他県の車が目立つ。「観光客なんて来なくていいよ」と言う人も。
儂も切実にそう思う。家には92歳の母がいて、特養には妻もいる。島根県や出雲市で第一号になることはないだろうが、町内で第一号になる可能性はある。みな、町内で第一号にはなりたくないと言う。儂だって去年父にインフルエンザを染してしまったことをとても悔やんでいる。この上、母や近所に染したら一生言われる。28日、29日の東京の外出自粛要請を受けて、県知事も東京へ行くのは自粛を要請した。とても上京できない。
3月7日に特養は面会制限になったことは前回書いたが、どうにも心配なので、21日と27日には差し入れに行く。
21日は好物の黒豆と豆と昆布を煮たものを。27日はマグロの海苔巻きと豆と昆布を煮たもの。
27日に届けに行った時は職員さんがぎょっとした顔をする。儂がどうしても面会させてくれと頼むと思ったのかもしれない。差し入れとわかり、ほっとしたような表情になったので、恐らく面会希望者と揉めたことがあったのかもしれない。施設も大変だ。千葉の障害者施設のようなクラスターが起きたら本当に恐ろしい。ぴりぴりしたものを感じる。今日30日、面会制限を4月30日まで延長するとの連絡がある。
こんな状況だから、近所では儂が一番コロナ対策をしている。

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首から前回紹介したウィルスシャットアウトをぶら下げ、口は当然マスクなのだが、問題はこのマスクだ。全然手に入らないので何と今は洗って使いまわしている。帰宅したらぶら下げ、横にウィルスシャットアウトをぶら下げる。こうしておけばウィルスシャットアウトから発生する亜塩素酸ナトリウムがマスクに付着しているコロナウィルスを除去してくれるのではないかと思ったからである。
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マスク、ウィルスシャットアウトに続く防衛策第3弾もある。先日ドンキで見つけたマスクガードと言うスプレー。マスク着用十数分前にシュッと一吹きしておくと除菌抗菌作用があると言う。出掛ける時はこれだけ用心しているのだが、島根はまだマスクをしている人が少ない。危機感が足りないと思っているのだが、今日もコメダの隣の席でしきりに咳をする娘がいて腹がたったのなんのって・・・・・・。
ところで、隣の写真は虎の子のマスク、約20枚。去年の残りが出て来たのだ。洗って使い回ししている5枚が限界になったら使おうと思って大切にとってある。これがあるだけでどれだけ心強いか。

『グループホーム見学』
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車で数分の所に新しいグループホームが出来たので見学に行く。母の物忘れがいよいよひどくなり、今すぐ入所しなければならないほどではないが、急速に悪くなった時の事を考えたのである。車が駐っている辺りには施設の喫茶店ができるそうだ。
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内部は昭和風の作りになっていて、とても感じがよかった。思うに母も後二年もしたら完全に認知症になるだろう。だが、その時になって頼んでもすぐには入れないだろう。親の入所先を見つけるだけでこんなに大変だと、儂らの時は一体どうなっているのやら。

『スロープ設置』

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クラウドファンディングで集まったお金で早速スロープを設置しているそうです。TVを観ていたら、外出自粛を無視して出歩いている馬鹿な若者がいた。その一方ではこう言う若者たちもいる。儂は嬉しい。

追記
この記事を載せた後、ネットを見たら、富山で感染者ありとのニュース。残りは4県になった。

追記
31日。山形県でも感染者初確認。残り3県になった。
夕方、母がショートステイから戻る。食後検温したら、37.7℃あり。マツキヨのファイティEXと言う葛根湯に似た薬を飲ませる。明日が訪問医の来る日なのが救い。ただの風邪ならいいのだが。

障害者の自立生活センターを舞台にした本作の試写会や、大阪での先行公開時には、障害当事者のお客様がたくさんご来場くださいました。障害者の方々の中には、呼吸機能や免疫機能などの内部障害をお持ちの方も多くいらっしゃり、コロナウイルスに感染した場合、重症化のリスクが高くなります。この点を考慮し、新型コロナウイルスの感染拡大によって外出を自粛せざるを得ない方たちにも映画を楽しんでいただけるよう、ユーロスペースでの公開期間中に限り、インターネットを利用した映画鑑賞の機会を提供いたします。

 なお、ユーロスペースをはじめとした映画館では、感染予防対策を施した上で本作品を上映予定ですが、今後の新型コロナウイルスの影響によっては、一定期間の休館や、公開日が延期される可能性があります。その場合にもインターネット配信は、実施いたします。

< 映画『インディペンデントリビング』 インターネット配信 >
■ 配信期間:3月14日(土)〜4月3日(金)24時まで
■ 料金:1,800円
■ 上映先リンク: https://vimeo.com/ondemand/filmil
   ※ ご購入から3日間、視聴することが可能です。 
   ※ クレジットカードでのご購入になります。

< 映画館での上映:メイン映画館「ユーロスペース」 > 
◎ 所在地: 〒150-0044渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 3F
   http://www.eurospace.co.jp/

*●*【 いよいよ明日、東京公開!! 】*●*
[東京]渋谷・ユーロスペースにて3月14日(土)〜
[ 月〜金|10:45 / 土・日・祝|10:30 ]
ほか全国劇場にて上映予定です!
※本作は全上映回、バリアフリー字幕、音声ガイド(UDCast)付の上映です。

★ご注意くださいませ!

お一人さま一アカウントでの視聴となります。

 

と、言う訳で、出雲では観ることは出来ないだろうと諦めていたのだが、インターネット(パソコン)で観ることが出来た。妻が倒れてから17年、映画どころかTVドラマすらも観ていなかったのに、久々に映画を観た。この間、映画館に行く暇もなければ、DVDを借りて観る時間もなかった。と言うか、どんないい映画やいいドラマがあっても、観たいと言う気持ちになれなかったのである。だが、この映画(ドキュメンタリー)だけは観たかったのだ。17年間、妻の障害と向き合っていたからだろう。障害を負いながら奮闘している人達の生の姿を観たかった。
以下感想。
車椅子で一杯の自立生活センター。こんなに多くの車椅子の人(それ以外の障害者もいるのだが、介助者も)が集まっていることに圧倒された。こういう場所には行ったことはあるが、これほど沢山、ぎっしり集まっているのを観たのは初めてであった。こんなに大勢の人たちがいるのに、私たちには見えていなかったのである。いや、見ようとしていないと言うのが正直なところだろう。見ぬもの清しとはよく言ったものだ。見なければ、知らなければ、これほど楽なことはないのだから。
だが、現実はそうではない。
「自立生活運動」を理解しようとする時、一番分かりやすいのは、各地の自立生活センターを先頭に立って運営しているのが障害当事者であるということではなかろうか。ここでは障害者当事者が障害者に手を差し伸べすくいあげようとしているのだ。
そのうちの一人は、17歳の時バイク事故で頸椎損傷で首から下が麻痺してしまい、15年間家に引きこもり寝たきりの生活をしていたと言う。ところが介護してくれていた母親が倒れ、途方に暮れた時、自立生活センターを紹介されたのだ。そこで、初めて車椅子に乗ることをすすめられ、いやいや始めた車椅子生活で初めて自分らしく生きることに目覚めたのである。
その人が曰く。「どん底の人たちが立ち上がって行くのを見るのは楽しい」「そういう人たちのために俺は頸損(頸椎損傷)になったのだと思うことがある」
何と言う美しい言葉、見事な言葉ではなかろうか。このドキュメンタリーを観た時、儂はこういう人と出会いたかったことが分かった。
初めて介助を受けることになった障害者に介助者が言う言葉。
「して欲しいことがあったら何でも言って下さい。僕たちはボランティアではないのです。お金を貰っているのですから、何を言ってもいいのです」
ボランティアとはとても崇高な行いをする人と思われている。無償で尽くしてくれる人に対して、障害者の立場だとどうしても遠慮してしまう。こんなこと頼んでいいのかとか。その負い目を簡単に打破する素敵な言葉なあと思った次第である。こういう言葉に出会うのも映画である。
この映画の中に、リハビリを専門に行う自立生活センターが出て来た時、思った。
「ああ、こんな所が17年前にあったら」と。
17年前、妻が10ヶ月の入院、リハビリの後、在宅介護になった時、儂が一番望んだのは最後のリハビリ病院で受けた最高のリハビリを続けたいと言うことであった。だが、在宅になったらそんなリハビリは望むべくもなかった。たとえ、あっても入所できたかどうか分からないし、その頃は今ほど自立生活センターは沢山なかったように思う。
声高に差別や無理解を嘆いたり、批判する映画ではない。監督は自立生活センターで介助者として働いている人。内部の人がありのままをありのままに撮った、とても素朴で、自然で、だからこそ訴える、新鮮なドキュメンタリーだと思う。是非、観て下さい。


第三章 戦国擾乱(じょうらん)(13

 

「えっ」

「死期を悟られたのじゃ」

 多聞は震えていた。声も身体も。握り締めた両の拳も。

「ああ、わしはなんちゅう不忠者じゃ……大馬鹿者じゃ……」

 その拳でがんがん頭を殴りつけたが、はっと我に戻ると辰敬の胸倉を掴んだ。

「御屋形様の病は何じゃ。ご容態は。余命はいかほどじゃ」

 辰敬は首を振った。

「詳しい事は何も……安国寺に伏せっておられるとしか」

 多聞は愕然とした。

「なに、御屋形様は富田ではないのか。守護所におられるのではないのか。一体どういうことじゃ」

「我もそう思っちょったのじゃが……」

「儂とした事が、そんな事も知らなかったとは……ああ、御屋形様に申し訳が立たぬ……」

がっくりと首が折れたように項垂れてしまった。

 それについては、辰敬も意外に思ったものだ。下向した政経一行は富田城下へ入るのが当たり前である。そこに守護所もあるのだから。それなのになぜ富田から北西に遠く離れた中海の湖岸に近い安国寺にいるのであろうか。

考えられる事は幾つかあった。御屋形様は守護所に入ったものの体調が悪化し、死期を悟って安国寺に移られたのかも知れぬ。もしかしたら出雲に辿り着いた時にすでに容態が悪くそのまま安国寺に入られたのかも知れぬ。一番考えたくないのは、御屋形様が守護所に入ることを拒否され、安国寺に追いやられたことである。民部様ならやりかねないと辰敬は思った。

 安国寺とは、室町幕府を開いた足利尊氏が、天平時代に聖武天皇が国家鎮護の為に日本全国に建立した国分寺のひそみに倣って、一国に一寺を定めたものを言う。

 だが、国分寺のように新しい寺を建てるだけの財力がなかったので、各国においては由緒ある古刹が安国寺と改称された。

 出雲国においては竹矢郷内の円通寺が安国寺とされた。

 この辺りは、中海から宍道湖へ続く水路の南に広がる豊かな田園地帯(現在の松江市)で、古代には出雲国国衙があった場所である。古来より政治経済の中心地であり、鎌倉の世になってからは、守護所は長い間この地にあった。

安国寺は御屋形様の宿所としてふさわしい格式ある寺と言ってよいのだが、その竹矢郷すらもすでに尼子家の直轄領となっている。

そのような地で最期を迎える無念さいかばかりであったろうか。

確かなことは長旅が失意の人の命を縮めたのである。御屋形様がそのような旅をしなければならなかったのは民部様のせいなのである。御屋形様が死んだら、殺したのは民部様だ。全身の血が音を立てて煮え立ち、噴き出さんばかりに逆流した。わなわなと全身が震えた。

 それなのに、御屋形様は民部様に吉童子丸様の後見を頼まざるを得ないのだ。

 震えが止まらなかった。

 ふと気がつくと、多聞の背中が去って行くところだった。がっくりと肩を落とし、よろよろと遠ざかって行く。多聞のそんな姿を見るのも初めての事だった。

 あの家に戻って行くのだ。

 見送りながら、辰敬はあのあばら家の中の垂れ下がった筵の向こうには確かに人の気配があったことを思い出していた。

 多聞の狼狽えようは尋常ではなかった。辰敬は直感で女だと思っていた。

 多聞が出仕しない理由がやっと判った。多聞にとっては一番縁遠い存在だと思うのだが、多聞とて大人の男だ。女が出来ても不思議ない。しかし、あんまりではないか。いちへの未練を捨てきれない辰敬をあれだけ叱っておきながら、自分は女を作っていたとは。辰敬は憤慨した。

 女にうつつを抜かしていなければ、国元の異変にも気付かないほどの失態は犯さなかったはずだ。

 家中から遠ざけられていたとは言え、同罪の自分は棚に上げ、辰敬は多聞を責めた。

(だらずは多聞さんじゃ。見損なったぞ)

 それにしてもどんな女を引きずり込んでいるのか。御屋形様を案じながらも、多聞を狂わせた女が気になる辰敬であった。

 

悲報は追いかけるようにもたらされた。

十月も終わり近く、その年の最初の木枯らしが吹いた夜であった。

早馬が京極邸の門を叩いた時、辰敬は来るべきものが来たのを悟った。

 覚悟は出来ていると思っていた。しかし、御屋形様の死を告げ、『譲り状と代々證文は多賀伊豆守様と民部様に預けられました』と告げる使者の言葉は、一瞬にして辰敬をただの少年に引き戻した。

 わあっと辰敬は叫ぶと駆け出していた。声と一緒に涙が吹き出していた。

 辰敬は泣きながら暗い夜道を走った。

 木枯らしに負けない大きな声で、わあわあ泣きながら走っていた。武士の子のその年にしては恥ずかしい大声で。

不意に譲り状の文言が何処からともなく聞こえて来た。

 

譲り与う

一 惣領職の事

一 出雲隠岐飛騨三箇国守護職の事

一 諸国諸所領の事

 右 孫の吉童子丸に譲与するところ実正なり 領知を全うすべきの状くだんの如し

 永正五年十月二十五日  宗濟

  佐々木吉童子丸 殿

 

幻聴ではない。辰敬にははっきりと聞こえた。それは御屋形様の悲痛な声であった。今際(いまわ)(きわ)の、命を振り絞る最後の声であった。心あらばと尼子経久にすがる声だった。

 遠い空の果ての出雲から聞こえて来るのだと辰敬は信じた。

 同時に代々證文の束が、御屋形様に初めて見せて貰った日の光景とともに瞼に浮かび上がった。

 唐櫃の蓋を開けた時、ふわりと湧き上がった古紙と墨と紙魚の匂いも漂って来た。

 あれは御屋形様の命とも言うべき紙の宝物だ。それを、今際の際に民部様に託す御屋形様のお気持ち。如何ばかりであった事か。

 辰敬は胸が引き裂かれそうだった。

 泣いた。

(誰憚ることはない。我はそれくらい悲しいのじゃ。泣きたいのじゃ。泣くしか出来ないから。出雲まで届けと泣かせてくれ。木枯らしよ、我の声を届けてくれ)

と、泣きながら走った。

 多聞のあばら家の前まで来た。入り口に揺れる筵の隙間から、微かな明りが漏れていた。本当なら飛び込んで行きたいところだったが、躊躇わせるものがあった。立ち止まり、声を掛けようとしたが、嗚咽で声にならない。

 すると、筵の向こうから、ぬっと多聞の顔が現れた。

 驚いた事に多聞は赤い目をしていた。明りは薄暗かったが、細い小さな目も腫れ上がっているのが判った。

 二人は黙ったまま見詰め合った。その鼻先に線香の匂いが漂って来る。

 多聞はすでに知っていたのだ。

 あの後、多聞は相変わらず邸には姿を見せなかったが、何処からからすぐに情報が入るように手配していたのだろう。

「入ってもらったらええのに」

 女の声だった。

 ぎくっとしたのは多聞の方だった。ばつが悪そうな顔で引っ込んだ。

 尚も躊躇っていると、

「お入りなさい。遠慮せんと」

 女の声が促した。

 辰敬はおずおずと筵をめくった。

 じりじりと燃える油皿の明りの中に、白い頭巾を被った若い女が坐していた。若いと言っても二十四、五か。お世辞にも美人とは言えない。一目見ていちとは若さも違うが、比べものにならないと思った。化粧気のない瓜実顔に憂いが漂い、寂しげな女であった。もっと美しい、男を狂わせるような魔性の女を勝手に想像していたので、辰敬は拍子抜けした。考えてみれば、多聞と絶世の美女の取り合わせはあり得ない話だ。多聞とは似合いかも知れぬが、多聞はこの女のどこに虜になったのだろう首を傾げざるを得なかった。

どんな経緯があったのか、何をしている女なのか窺い知れなかった。頭巾を被っているが僧衣はまとっていない。身にまとっているのは色模様の小袖である。この季節なのにまだ単衣の古着である。が、女の手には数珠があり、膝の前には線香が煙を燻らせている。

 多聞は神妙な顔で女の斜め後ろに坐すと数珠を取り出した。背を向けたままぶっきら棒に言った。

「御屋形様の御冥福をお祈りしようとしていたところじゃ」

辰敬ははっとなると、慌てて多聞の背後に座った。土間のそこまで筵は敷いてなくて、冷たい土の上だったが、弔いと聞いたら冷たさも忘れた。

女は低い小さな声で経を唱え始めた。

 その声を聞いた瞬間、辰敬はこの女が紛れもなく尼僧と知った。まさかと思っていたが、尼僧を連れ込んでいたとは。辰敬は驚き、呆れ果てた。

 咎めるような目で多聞の背を睨みつけたが、それは一瞬の事であった。土間に読経が響き渡ると、たちまちその声に引き込まれてしまったのだ。

 しっとりとした声がしみじみと胸に沁み入ったのである。悲しみを優しく包み込む声だった。こんな素晴らしい読経は聞いた事がなかった。魂の読経と感じ入った。

多聞は微動だにしなかった。そのいかつい岩のような身体にも、読経が沁み込んで行くのが辰敬には見えるような気がした。

 いつしか多聞と女へのわだかまりは忘れていた。

辰敬は手を合わせ、御屋形様の冥福を一心に祈った。だが、御屋形様を思えば思うほど、祈ろうとすればするほど、悲しさが込み上げて来るのであった。

 御屋形様の期待に何一つ答えられなかった事が悲しかったのだ。御屋形様にあれほど可愛がってもらったのに、自分はその何十分の一もお返しが出来なかった。御屋形様が病の床にあることも知らなかったとは。

 吉童子丸にも何もしてあげられなかった。

 鞠探しも諦めたも同然であった。余りの不甲斐なさが申し訳なくて、悔恨の涙がこぼれ落ちた。

 もっともっと出来た事があったろうに。

 こんな涙しか出ない事に。こんな声しか出ない事に。こんな泣き方しか出来ない事に。心の底から泣きたかったのに。そう思った途端抑えに抑えていたものが破裂した。

 不意に読経が止まった。

 白い頭巾が微かに揺れた。多聞の目もこちらを窺っていた。

 大きな声を上げてしまったようだ。身を縮めると、

「人はみな悔恨で泣く」

 辰敬ははっと多聞を見詰めた。

(そうか、多聞さんも……)

 白い頭巾もそっと頷いたように見えた。

 辰敬はほっと救われたような気がしたものの、すぐにも逃げ出したくなった。それは恥ずかしかったからだけではなかった。

 読経が途切れたのを潮に、

「だんだん」

 と頭を下げると、女の怪訝な顔を尻目にあばら家を出た。

「有難うと言う意味じゃが……」

背後に多聞の声が聞こえた。

辰敬は自分が邪魔者のように感じたのだ。

 あの家には多聞と女の二人だけの、他人を拒絶する空気が満ちていたのである。

 だが、冷たい夜道で、辰敬は一人になった事を悔やんだ。

悔恨がいっぱい詰まった悲しみを、さっきまでは三人で支えていたのに、今は一人で背負わなければならなかった。その重さがずしりとこたえたのだ。押し潰されそうだった。

 この重さに耐え、押し潰されずに生きて行くことなんて出来るのだろうか。

胸を一杯に塞ぐ大きな岩のような悲しみが消える事などあるのだろうか。

 時が経てば……。

 いちを忘れたように。

 辰敬は首を振った。

(いや、本当に忘れた訳ではないけれど)

 日々にいちが疎くなって行くのは確かだった。

 そんな風に御屋形様も遠くへ行ってしまうのだろうか。

 御屋形様を忘れる日が来るとしたら、そう思ったら、ぞくっと身体が震えた。

 そうはなりたくない。

 足許をかさかさと枯れ葉が追い抜いて行くと、夜道の先に吸い込まれるように消えた。

 その暗い道がまるで冥府への入り口に見えた。そう言えば、出雲には黄泉の国への入り口があるのだった。

 その道を一人行く御屋形様の寂しげな後ろ姿が不意に浮かび上がると、また込み上げて来るものがあった。

 

1日に上京して、2日が葬儀、4日に出雲に戻って来たのだが、その2日の夜、大昔の特撮ヒーロー番組の『人造人間キカイダー01(ゼロワン)』のファンだったと言う人と会う。現在50歳。紹介してくれた人の話によると、6歳の時に熱烈なファンだったそうで、どうしても脚本を書いていた儂に会いたいと仰っていて、自分の方から出雲へ行くとさえ仰っていたそうだ。いくら何でも出雲まで来ていただくのは余りにも申し訳ないので、必ず上京する時があるので、その時にお会いしましょうと言っていたのが、思いがけず上京することになり、お会いすることになったのである。
実はその方、Sさんは車椅子ユーザーで、日本の障害者運動の草分けともいうべき人だったのである。
Sさんの履歴を聞いた時、障害者運動の先頭に立って来た50歳にも『オタク』がいるのかと思ったのだが、ニコニコと車椅子で現れたSさんには厳しい戦いを続けて来た闘士の顔はなく、『オタク』の匂いも微塵もなかった。年齢よりも若く見えるとても温厚な紳士であった。
「会いたかったのですよ。会えてうれしいです」
Sさん、曰く、なぜこんなに会いたいと言い続けたかったかと言うと、若い時、Sさんのよき理解者になるであろう人と会うことを楽しみにしていた時があったのだそうだ。ところが忙しいこともあり、近くにいる人だったのでいつでも会えると思っていたら、その人が不慮の事故で亡くなってしまった。その時以来、会いたいと思った人とはすぐに会わなければならないと思い定めたのだそうだ。
Sさんの若い時と言えば、障害の問題を考え、悩み苦しんでおられた頃だろう。その時の理解者がどれだけ大切な存在だったか。失った哀しみがどんなに大きかったことか。その時の気持ちを思うと、会って嬉しいと喜んでくださる姿を素直に有難く受け止めることが出来たのである。こんな儂でも喜んでもらえて、照れ臭いやら面映ゆいやら、いい歳をした同士が笑顔で沢山の話を楽しんだのであった。初対面とは思えない人だった。
『キカイダー01』は1973年の新潟では夜の8時からの放映だったそうだ。儂も思い出す。あの頃は子供番組を東京でも8時から放映していたのだ。6歳のSさんはどうしても眠くなるので親に眠らないように起こしてくれるように頼むのだが、それでも寝てしまって見逃したことが何度もあって、とても悔しかったと今でも悔しそうに語っておられた。そういう話を聞くと、儂だってもう小学生の高学年だったが、「月光仮面」や「白馬童子」「風小僧」「怪傑ハリマオ」「トンマ天狗」などをどれだけ夢中になってみていたことか。それより小さい時はTVなんてなくて、ラジオの「紅孔雀」に夢中だったことを思い出した。子供番組が宝物の時代が誰にもあったのである。
9歳の時、Sさんは原因不明の病で車椅子となり、施設での生活を余儀なくされる。同じような仲間がいたが皆家に帰りたいと泣いていたそうだ。普通の小学校に行きたかったが特別支援学級に通わざるを得なかった。中学に進級する時はどうしても普通の学校に行きたくて申し込んだら、校長先生が理解ある人で校舎を改造して車椅子でも通えるようにしてくれたそうだ。
大学は早稲田を下見に行くが階段が多くてとても通えない。関西学院を見に行ったら、校内に入った瞬間に「あっ、ここなら通える。仲間がいる」と分かったと言う。スロープがあったのだ。実際に数人の車椅子の学生がいて、Sさんはその人達とともにアメリカから始まった『自立生活運動』を起こしたのである。この時、東京でも『自立生活運動』を起こしたグループがあり、Sさんたちはその後西の拠点となったのである。
1990年ごろは、車椅子で電車に乗る闘いをしていたそうだ。その頃は車椅子で電車に乗ろうとすると、駅員から露骨に嫌がられ、拒否されたと言う。
「車椅子の人間が電車に乗らなくてもいいじゃないか。そういう時代だったんですよ」
Sさん、駅へ行く日は、深呼吸して覚悟を固めて家を出たそうだ。駅員と喧嘩をしに行くからだ。
1990年の自分を思い返す。そんな闘いが行われている事なんか何も知らなかった。
あっという間に時間が過ぎ、地下鉄都営新宿線の新宿3丁目の駅へ。
車椅子は早いと聞いていたが、Sさんの車椅子の早いこと。大股で急がないと追いつかない。人込みもすいすいと交わして。「僕たちは東京中の駅のエレベーターを知っているんですよ。仲間と情報交換してるんです」
どの駅にも駅専用のエレベーターがあるわけではない。新宿三丁目も。そういうところは民間のビルのエレベーターを利用して行くのだそうだ。
途中までご一緒して別れる。
「今度、出雲に来てください。うちにはホンダのN-BOX+がありますから」
「はい、必ずゆきます」
何が嬉しかったかと言うと、この年になって出会いがあったことが嬉しかった。

クラウドファンディング「誰でも安心して入れるお店を増やしたい!バリアフリーな街づくり」の結果
2月29日に終了。
目標62万円で始めましたが、最終的に1,056,000円(達成率170%)となりました。

以前、記事にした、車椅子で生きる若者の映画『インディペンデント リビング』、NHKが取材に来たそうです。
「おはようニッポン」で放映されるそうです。12日と聞いた記憶があるのですが、その時は覚えたつもりだったのですが、間違っていたらゴメンナサイ。

島根県ではまだ新型コロナ患者も感染者も出ていないが、この度の学校の臨時休校措置を受けて、特養も昨日から面会規制を敷くようになった。(出雲市と松江市は休校しないのだが・・・勇者だ!それはさておき)厚生省からもお達しがあって特養への出入が厳しくなったのである。家族も不急不要の面会は控えるように要請された。面会の必要がある時はマスク着用が義務付けられ、受付で体温測定された上、看護室の前の洗面で手洗いと消毒をしなければならない。そう言われると儂も行きづらくてお昼の訪問を中止する。確かに特養は老年の弱者ばかりだから、こんな時これまでのように気楽に行けないのは当然だ。
儂にとって辛いのは毎週のマッサージ師までもが訪問できなくなったことだ。うちの妻のように半身不随の身にはどれだけマッサージが気持ちのいいものか、儂の下手なマッサージもどきでも喜んでいるくらいだから、それが受けられないと言うことが自分のことのように辛いのである。
大好きなオニオンスライスやメンチカツ、刺身、ノンアルコールビールも差し入れできなくなる。
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昼食前の日光浴も出来なくなった。出雲は雲が多く、陽が出ることが少ないので(特に冬は)タイミングよく少しでも陽が出たら日を浴びさせるのだが、それも出来なくなった。右の写真が2月26日。2020年初めて外へ出た時の写真。日が陰って5分も外にいなかったが、それでも気分は違う。
問題はマスクだ。コロナ患者は出ていないのだが、出雲にもマスクがない。肝心のマスクがなければ特養に行きたくても行けないのだから。こんな事態になるとは思わなかった数日前から、マスクが手に入らない儂は薬局で「ウィルスシャットアウト」なるものを見つけた。
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これは亜塩素酸ナトリウムがウィルスなどを除菌ブロックするもので、首からぶら下げて使う。有効期間が1ヶ月で値段は800円前後だったと思う。特養のスタッフも知っていて、なかなかの優れものだと言う。自分をウィルスから守るには役に立ちそうなのでお守りのようにぶら下げている。しかし、これをぶら下げていても特養には入れない、なんとかしてマスクを手に入れないと。
そんなところに東京の妻の親戚に不幸があったのである。妻も儂も家族ぐるみでお世話になった方なので、急遽東京へ。
本当はお昼に昼食介助して、最終便で上京する予定だったが、特養に行けなくなったので、お昼の飛行機で上京する。例年ならこの時期は込んでいるのに空席が目立つ。ここから後ろの席はガラガラ。
東京の娘に会ったら開口一番「マスクない?」「ない」「出雲にもないの?」「ない、ティッシュとトイレットペーパーなら多少はある」
マスク騒ぎを甘く見過ぎていた。まさかこんなことになろうとは。困った、困った。本当に困っている。
TVで知った聖書の言葉『遅くなっても待っておれ それは必ずあらわれる』
これまでのように週3は無理でも最低週1は必ずあらわれるから。

久し振りの語録。妻との会話が楽しかった頃

2007.6.2

「いやだなあ、お父さんがあんなにハゲたら」

・・・・・・・・・・・・・・・

「馬には乗ってみよ、人には添ってみよ。お父さんに添ってみてよかったよ。こんなに楽しい思いさせてもらって。さあ、帰って、カレー作ろう」

・・・・・・・・・・・・・・・

二階で音がして。子供部屋がある。

「○○(息子)、駅まで送ってやるよ。○○、学校行くなら準備しなさい。○○君、11時出発だからね。お父さん、言っといて」

・・・・・・・・・・・・・・・

「お父さん、帰りにグラウンドに連れてってよ。○○ちゃん(娘)のやってるところ見たいから」

2007.6.5

(美味しいものを食べて)

「口の中が喜んでいる」

※うまいこと言うなあと感心した。この言葉は印象に残って覚えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・

「痛い」

「……」

「早く、ごめん、ごめんと言え。そしたら許してやる」

2007.6.6

(歯みがきの準備をしていると)

「モモちゃん、お母さん、こんなに幸せなんだよ」

・・・・・・・・・・・・・・・

53○○―37○○てなんだっけ」

「うちの電話番号だよ」

「そうか」

2007.6.7

(お茶をいれてやった時)

「人が幸せと感じる時はみな違うけど、私はいま幸せよ。モモちゃん」

2007.6.9

「お父さんが好きだったころ、牛にだって言いたかったよ。好きな人いるって?私、誰にでも言いたかったの」

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(身障者のTVを見て)

「お父さんがあんなになったら、私、別れるよ。それが、のりみたいにぴたっと貼りついて、一歩歩いたら一歩ついていって」

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「ライフ(近所のスーパー)へ連れて行って下さい。向こうに着いたら、泳ぎに行きますから」

2007.6.29

(貰ったイカ明太を食べて)

「私が食べる姿を楽しそうに見ていました、と(手紙に)書いておこう。きっと幸せだったのでしょう」

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(寝る時に)

「後ろに寝て、私の後ろに、オムツして寝て」

「俺もオムツするの」

「そう」

2007.6.30

「私、75以上になったら生きらんでいいよ。ほっといていいよ」

2007.7.1

「○○(息子)の名前を一生懸命考えてるんだけど、変えるなら、しっかり考えてやらないと」

2007.7.4

「お茶は自分で入れるもんじゃないね。人の入れてもらった方がおいしい」

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「モモちゃん(犬)、○○兄ちゃん(従兄)来てもらってよかったね」

「俺、○○兄ちゃんじゃないよ」

「あっ、お父さんに似た○○兄ちゃんだ」

2007.7.7

介護百人一首をNHKが募集

「お母さんも作ったら」

「食べたのに、まだ食べてないと、またねだる」

2007.7.12

「ヘンな夢ばかり見てる。お化けばかり出て来る」

2007.7.24

「ごはんもう少しちょうだい」

わけてやると

「ありがとう、優しいね、お父さん。私だったら、私の分がなくなるからあげられませんと言う」

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「あれ、今日、○○くん(息子)の誕生日じゃない」

「よく覚えてたな、俺、忘れてたよ」

「私、○○くん、愛してるから」

(実は一日違い)

2007.7.26

「私、よくなったら、私の言うこと聞いてね」

2007.7.27

(パット交換の時)

「ああ、良かった。自分でやるのいやだなと思ってたの」

2007.7.28

「この番組(風林火山)を見るといつもお父さんをソンケーしてるの。古いことちゃんと書いて、一時間あきさせないで見せて」

※そんな尊敬されるようなライターじゃないのに。儂が書いたと思い込んでいる。

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「家に帰ったら、ブルーの水(酒)飲ましてね。じゃこれから車の中で寝ていくから安全運転でお願いします」

2007.7.29

「雷こわいよ」

「子供みたいな」

「子供だよ。お父さんにくっついてしか寝れないから。この頃いっしょに寝てないね。今夜寝る?」

2007.7.31

「起こして」

「起きてどうするの」

「帰るの」

「どこへ」

「自分の家へ」

「ここが自分の家だよ」

「違う、違う」

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「ミカンとリンゴ買ってあるから、自分の家帰るの」

2007.8.2

「ズボンを〈は〉〈か〉〈せ〉、早く〈は〉〈か〉〈せ〉、寝てる間に〈博士〉になっちゃった」

※こういうお茶目な言葉遊びをするのが妻らしい。頭がいいのだ。思わず笑って疲れを忘れる。

2007.8.3

「幸せだなあ、何もしないで、こんなご馳走食べて」

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「お父さんの小説の中には風が吹いているから、風の小説家と名付けよう」

※勿論、読んだわけではない。読めない。この頃、NHKの朝ドラで「風のはるか」を放映していたと思う。朝や昼の再放送をつけていたのでその影響かもしれない。

2007.8.4

「車にのせて」

「どこ行くの」

「川尻(熊本の実家のある場所)いくの。車に乗って寝るの。○○(息子)、○○(娘)、出かけるよと呼ぶの」

2007.8.5

「左足が痛い。スキーで折れたから」

「どの辺が痛い?」

「もものあたり」

「あとでマッサージしてあげるから」

「ありがとう」

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「ちょっと足見て、布団につれてって、足見て。あかりつけて、早く」

2007.8.6

「お父さんに戻ってて」

「なんで」

「別な人と話してるみたいだから」

「どうして?」

「なんだかつっけんどんだから」

※疲れていたのか。そんな印象を与えたことを反省。

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「お父さん、最近なかよくしないね。その方がいいんでしょ」

「なんで」

「きつそうだもの。バタンと寝て」

2007.8.14

「○○ちゃん(娘)の名前、何にするか考えているの」

「いいじゃない、今の名で」

「ちょっと変わった名をつけてやりたいの。あきてきたみたいだから」

2007.8.20

「あっ、お父さんがいた」

「そりゃいるよ」

「会社行かなかったの。よかったね。こんな時間に家にいてくれて」

2007.8.30

「お父さん、お母さん(わしの母親)から何もらった」

「さあ」

「気位の高いとこ、もらったでしょ」

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「お父さんの顔、年取ったね。誕生日の顔してないよ。疲れた顔している」

※わしの誕生日は10月なのだが。

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(御飯の時)

「しあわせだな、私。こんなにしてもらって。こんなに幸せでいいのかしら」

2007.8.31

(夜の12時に)

「お父さん起こして。おぞうに作ったんだから起こして」

「夜の12時だよ」「12時は6時なの」

 

「ううん、6時よ。みんなより早く起きてせっかく作ったんだから起こして。みんなで食べるのが夢なんだから」

「夜の12時だってば」


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