曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2020年01月

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これは江戸川区の東瑞江という街でさまざまな障害を持った人たちが、どこへでも行けて、どこのお店にも入れて、どこのお店でも品物を選べて、買い物が出来る。そういう街を作りたいと言う願いから始めたものです。その第一歩としてまず車椅子でも入れるように段差スロープを購入してお店に設置を依頼する。聾唖の人の為には筆談ボードを購入してお店に置いて貰う。ささやかなスタートですが動き出さなければ何も始まらない。しかし、動き出せば変わる。もし、あなたが街を歩き、どこにでも段差スロープがあり、どのお店にも筆談ボードがあれば、この街がどうい街かすぐにわかるはずだ。障害がある人も、ない人も理解しあって生きている街であることを。街からバリアーがなくなれば人と人のバリアーもなくなる。人と人のバリアーがなくなれば街からバリアーもなくなり、やがては社会も世界も変わって行く。そういうことなのかなあと思います。

段差スロープと筆談ボードが人と街を変えて行きます。62万円でその為の段差スロープと筆談ボードを購入します。皆さまのご協力をお願いいたします。

 

お問い合わせ先(プロジェクト主催者)

NPO法人自立生活センターSTEPえどがわ

133-0065東京都江戸川区南篠崎町3-9-7

TEL03-3676-7422 FAX03-3676-7425

メールmain@step-edogawa.com


ご支援方法
●スマートフォンから
1.プロジェクトページ(http//readyfor.jp/projects/stepedogawa)にアクセスする。
2.「プロジェクトの支援に進む」ボタンを押す、もしくはページ下部までスクロールする。
3.ご希望のリターンの枠内にある「このリターンを購入する」ボタンを押す。
4.ログイン、またはアカウントを作成する。
5.お支払方法(クレジットカード、銀行振込)を選択して「次に進む」ボタンを押す。
6.クレジットカードまたは銀行口座の各情報を入力して「次に進む」ボタンを押す。
7.内容を確認し「支援を確定する」ボタンを押す。

●パソコンから
1.プロジェクトページ(http//readyfor.jp/projects/stepedogawa)にアクセスする。
2.ページ上部右側の「プロジェクトの支援に進む」ボタンを押す、もしくはプロジェクト本文までスクロールする。
3.プロジェクト本文右側からご希望のリターンを選び、枠内の「このリターンを購入する」ボタンを押す。
4.ログイン、またはアカウントを作成する。
5.お支払方法(クレジットカード、銀行振込)を選択して「次に進む」ボタンを押す。
6.クレジットカードまたは銀行口座の各情報を入力して「次に進む」ボタンを押す。
7.内容を確認し「支援を確定する」ボタンを押す。

ところで、皆さんは「読書バリアーフリー法」を知っていますか?
儂もそんな法律があることを知らなかった。先日、「キジムナーkids」について書いた時、この本の最後にテキストデーターの請求券があることに触れましたが、それを読んだ人が、去年の7月に「読書バリアーフリー法」なるものが国会で成立していることを教えてくれたのです。検索すればその内容がわかりますが、法律ですから簡単に理解するのは難しいところがあります。ほかにも重要な事が多々あるのですが、敢えて分かりやすく言うならば、すべての出版物をテキストデーターで目の不自由な人(障害で頁をめくることが出来ない人もいます)が読めるようにしようと言う法律です。教えてくれた人は多くの仲間とこの法律を作るために、国会議員や政党、省庁、業界団体などと交渉を重ねて来た一人です。実はその人たちが、今回の62万円で段差スロープや筆談ボードを購入する運動をしているのです。すぐ身の回りの小さなことから、大きくは法律を作ることまで。地に足の着いた活動をしているからこそ出来ることなのだなあと思いました。
その人はこう言いました。「この法律が出来たので、30年後にはすべての印刷物がテキストデーターで読めるような社会になるでしょう」と。頭をぶん殴られたような気がした。
30年後ですよ。
能天気にいい法律が出来た喜んでいたら、当事者は現実をよく見ているのですね。
30年後とは言わず、20年後、いや10年後、5年後には実現して欲しいものです。そのためにもまずは「街のバリアーフリー」を進めたい。そこからならささやかながら協力もできる。
これからクラウドファンディングに行ってきます。

経過報告2月2日14時現在
415,000円集まっています。後27日。もう少しです。よろしくお願いします。

2月3日21時
530,000円。後26日。あと一息ですね。

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1月16日に出雲オロチ大根を抜く。左はいかにもヤマタノオロチの如く根が伸びていたが、右の二本にはそのような根はなくて細めの大根がすらりと伸びていた。長い方は50㎝以上あった。この二本は引っ張っただけでは抜けなくて、スコップで掘り起こさなければならなかった。どうしてこんなに違いがあるのか?
出雲オロチ大根は海岸の砂浜に生えている浜大根を島根大学農学部で品種改良したものであるから、恐らくまだ新品種としての特徴が安定的に発現しないのではないかと思う。右の二本は日頃世話になっている畑仲間にあげて、左の大根を早速出雲そばの薬味にして食べてみた。
とても固く、すりおろしたものは口がひん曲がるくらい辛かったが、たれに落としてそばをすすったら、ぴりっとした辛味が爽やかで、香りも強く、とても美味しく賞味出来た。からみ餅や鯵の塩焼きにも試してみる。そのままでは辛すぎてとても食べられないので、普通のおろし大根にほどよく混ぜてみたら、結構いける。
畑仲間の報告によると、煮たら辛味は消えたそうだ。とても固いので、大根のきんぴらにするといいかもしれない。次に助っ人に来る妹に作ってもらおうと思っている。
島大で浜大根を品種改良しようと思ったきっかけは、野生の浜大根をおろしてそばの薬味にしている人がいると知ったからだそうである。余程のそば通なのか、世の中には面白い人がいるものだ。儂も試してみたいと思うのだが刺激物は控えている身なのが悔しい。
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1月17日 早生の玉ねぎ           1月18日 きんかん
早生の玉ねぎに化成肥料を追肥する。以前は12月下旬と2月に追肥(晩生の玉ねぎも)と決まっていて、必ず守っていたのだが、一昨年も昨年も玉ねぎの葉に坊主が出来てしまい、追肥の時期が分からなくなってしまった。近年の暖冬傾向のせいなのかとも思うのだが、特に今年の出雲は暖かい。寒い時はしっかり寒い方がいいのに。こんなことで今年の物なりはどうなるやら。今から心配。自信はない。
きんかんは食べごろだが、色は悪く、皮も固い。それでも食べられないことはないので、毎日、数粒食べている。
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1月18日。堆肥作りに石灰窒素を加える。
藁と落ち葉のミルフィーユにぬかを混ぜて堆肥を作っているのだが、問題が一つある。それは藁が腐るのにとても時間がかかることである。たまたま農業雑誌をめくっていたら、米作農家では稲を刈り取ったあとの田圃の切り株や藁くずを早く腐らせるために石灰窒素を撒くと書いてあった。そこで早速石灰窒素を購入。
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上の写真のミルフィーユに、さらに枯れ葉と大量の切り藁を被せ、その上に石灰窒素を真っ黒になるほど撒く。
表面は真っ黒になっていたのだが、水を撒いたので半分以上吸い込まれてしまった。この後、ブルーシートを被せる。この後は時々ブルーシートをめくって、ミルフィーユを引っ繰り返し、水をかけ、足りなければ石灰窒素を加える。秋にはいい堆肥になっていればいいのだが。しかし、いくらいい堆肥が出来てもなあ。出雲に戻って9年目になるが、畑に向き合っていると、9年で気候環境が随分変化したことを感じる。

1月29日追記
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にわか雨が上がった後の、夕方の4時過ぎ、市内から戻って来た時、吃驚するくらい奇麗な虹がWるで出ていたので思わずスマホで撮影する。こんなに間近に、これほど鮮やかな虹を見た記憶がない。中央の道の左側、矢印が我が家。大きい虹が主虹(しゅこう)、おまけの虹を副虹(ふくこう)と言うと、6時半からのNHK松江のお天気お姉さんが教えてくれた。天気予報でニュースになるほどの虹だったようだ。

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読みながら長石監督と「スタンドバイミー」の話をしたことを思い出していた。調べたら「スタンドバイミー」が公開されたのが1987年だったから、戦隊シリーズでは光戦隊マスクマン(これも調べて分かった)を放映していた時になる。東映の大泉撮影所の前の喫茶店(もう名前を忘れた)だったか、撮影所のプレハブの一室だったか、新宿西口の喫茶店「滝沢西口」だったかはっきりとは覚えていない。打ち合わせの前か、終わった後かも思い出せないが、二人きりだったことは確かである。
長石さんは野球帽を逆さに被ったいつものスタイルで、メガネの奥の優しい目を消えてなくなるくらい細くして、「スタンドバイミー、いいよなあ。あんな映画を撮りたいなあ」と、叶いそうもない願いをため息にのせた。儂も相槌を打ち、切ない笑みを返すしかなかった。メインのライターとメインの監督を務めていたが、夢を食べては生きて行けない。
今、読み終わって、長石さんに「うえしょうさんが凄い小説を書いたよ。スタンドバイミーなんか足元にも及ばない、魂が震えるような小説だよ」と、言ってあげたくなった。長石さんにも読んで欲しかった。生きていたとしても、撮れなかったに違いないが、上原さんが命を注いで書き上げたことを喜んでくれたであろう。儂は長石さんを戦友だと思っていた。心の監督だと思っていた。長石さんが喜んでくれたら儂も嬉しいのである。読ませてあげられないのが本当に悔しい。「いいいよなあ。こんな小説、映画にしたいなあ」と言う声を聞きたかったのに。

読む前はこの小説が出版されたことを知らなかったことへの後悔があった。
いくら田舎に引っ込んでしまい、昔の付き合いは殆ど断っていたとは言え、どうして気が付かなかったのかと。2年前に読んでいたら、上原さんに感動を手紙にして送ることも出来たのにと。
だが、読み進み、読み終わって、儂の薄っぺらな言葉などとても恥ずかしくて送れたものではないことを思い知った。
儂は上原さんが沖縄と円谷プロの先輩である金城さんのことをお書きになったのは知っていたが、その後、沈黙を守っておられた。どうされたのか、もうお書きにならないのかとたまに上原さんを思い出すことがあった。
ライターの最後は小説か監督を目指そうとするものが多い。
なぜならTVの仕事は華やかに見えて、ライターは満たされないものを抱え、鬱屈し、疲弊するから。TVの仕事に本当に満足して終える人なんてごく少数ではないだろうか。
上原さんもウルトラマンなどで評価されてはいても、それで納得している人ではないことはお互いに話さなくても同じ仕事をしている同士、手に取るように分かる。
本当にお書きになりたいものがあるはずなのに、どうして書かれないのだろう、もうお書きになる気はないのだろうかと気になっていたのだが、読み終わってやっと分かった。
上原さんは儂ら凡百のライターが抱えている満たされないものなどはるかに越える、はるかに重いものを抱えておられたのだ。儂らからは沈黙に見えたけれど、それは数限りない死者の声に耳を澄ますための静寂だったのではないだろうか。
お亡くなりになったのは残念だが、この本が残ったことは喜ぶべきことだと思う。よくぞ書いて下さった。よくぞ残して下さった。うえしょうさんにしか書けない本です。後世に残すべき本だと思う。
上原さんは本の中で、自分を「びっくり眼」と書いておられた。
確かに上原さんは大きな目が印象的だった。驚いた時や、感心した時は大きな目を更に大きく見開いておられた。儂は最初はなんだかわざとらしく目を剥いて見せているのかなあと思ったのだが、本を読んでわかった。
上原少年はあの「びっくり眼」で戦中戦後の沖縄を見て来たのだ。おそらく少年時代はもっと大きく見開かれたことだろう。
そして、晩年・・・・・・あの大きな目をぎらぎらと光らせながら、小説をお書きになっていた姿を想像したら涙が出て来た。合掌。

この本の最後に嬉しいプレゼントを見つけた。
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上の写真だが、最後のページの隅に「活字で利用できない方のためのテキストデーター請求券」が印刷してあったのである。これは目の不自由な人に「テキストデーター」を送ると、「音声読み上げソフト」で読んでくれるものである。目の不自由な人でも本が読める。これからはすべての出版物で採用すべきと思う。

ネットで2日に上原正三さんが亡くなっていたことを知る。享年82歳。肝臓ガンだったとある。訃報はいつも突然だ。新米の駆け出し脚本家の僕が東映に出入りし始めた頃、東映の子供番組は上原正三さんと長坂秀佳さんが二人で仕切っているような状態で、二人でそれぞれ2、3本の番組のメインライターとなって書きまくっていた記憶がある。僕ら新人はその隙間に潜り込んでなんとか仕事にありついていた。僕は初めは長坂さんがメインを務めていた番組(多分『キカイダー01』とか、『刑事くん』だったと思う)から始めたので、飲みに誘われたり、飲んだ後、長坂さんの新居に泊めてもらったりした。その後、上原さん担当の番組に加わったのは『ゴレンジャー』からだったと思う。
だが、上原さんはその頃はあまり酒が強くなく、僕も飲める口ではないので、打ち合わせをした後一杯ということはなかった。というより、上原さんは忙し過ぎて酒なんか飲んでいる暇はなかったのである。上原長坂の二人が書きまくっていた量は子供番組とは言え、その執筆本数は僕には常軌を逸していると思えた。キャラクター商売の旨味に局や制作会社、代理店、玩具や菓子、雑誌などのスポンサーが砂糖に群がる蟻のようにこの手の番組に殺到した。イケイケどんどんの時代でこの先さらにバブルに至るとは誰も知らなかった。
若くて生意気な僕は先輩のそんな書きっぷりを濫造ではないかと批判し、ひそかに僕流の書き方で越えたいと惧れを知らぬ野望を抱いた時期もあったが、長坂さんはやがて『特捜最前線』のライターになり、僕も戦隊シリーズのメインライターになったら、上原さんは当然他の番組のメインライターになるのでご一緒になる機会がなくなってしまった。
上原さんが沖縄出身で、円谷プロでウルトラマンの脚本を書いていたことは当然知っていたが、年代的にリアルタイムにウルトラマンは見ていなかった。ただ、沖縄出身の上原さんが、ウルトラマンに籠めた差別や不条理への怒りなどが話題にされるようになると、あの多作の上原正三とは本当はどんな人なんだろうと興味を持つようになった。しかし、別な作品をやっているので話をする機会がないまま時が過ぎて行った。
そして、僕も家族を養う身になって、初めて上原正三さんに親近感を覚えるようになった。筆一本で家族を養う立場になったら、多作を批判されようが、何と言われようと、書いて書いて書きまくるしかないのである。上原さんの場合、その原点は沖縄の戦争にあったろうことは想像がつく。生き抜いて、命を繋ぐことの大切さを身をもって知った人だからこそ、妻の為、子供の為に書きまくったのだろうと。
「子供が喜ぶものを僕は書くんです」そうもおっしゃった言葉を思い出す。
その上原作品にうちの子供たちもどれだけお世話になったか。我が家では幼い子供さえも「うえしょうさん」と呼んでいたのだ。
そうして、交わることなくお互いのライター人生の終わり近くになって、ひょんなことから杉村升(太陽にほえろ、特撮の脚本家)に誘われて、高久進さん(キーハンター、Gメン75の脚本家)、上原さんと僕の四人でゲームシナリオの会社をやることになった。さすがに年齢的に高久さんと上原さんはゲームは無理で名前をお借りするだけになってしまったのはいまもっても心苦しく思っているが、その時、上原さんが軽井沢の別荘に招待してくれたことは忘れられない思い出になっている。
僕は別荘を見た時正直仰天した。筆一本で豪邸の他に別荘まで購入していたとは。一体この人はどれだけの脚本を書いたのだろうと。沖縄人の逞しさを思い知らされた。
この時、昼ごはんに僕がネギ炒飯を作った。刻んだネギを醤油に漬けて最後に炒めると、和風テーストになる。美味いと喜んでもらえた。酒を飲んで楽しい一夜を過ごした。この頃は上原さんも少しは飲めるようになっていた。今思うとこういう時に上原さんの原点ともいうべき沖縄の話を聞いておけばよかったのだが、高久さんや杉村さんもいてそういう話をする雰囲気ではなかった。ただ楽しいだけの夜だった。結局、それが上原さんや高久さんと親しく過ごすことが出来た最後だった。上原さんも高久さんも、僕より若い杉村さんも皆故人となってしまった。
近くにいたのに、遠くて、多作作家の心の扉を叩きたかったのにとうとう機会を逸してしまった。いつかお会いできたら、同じ子供番組を書いていたライター同士、心を割って話したかったのですと申し上げたかった。

そのネット記事の終わりに、2018年に上原さんの少年時代を描いた小説「キジムナーkids」(現代書館)で坪田譲治文学賞受賞とあった。
すごいではないか。80歳を前にして小説を書いておられたのだ。おそらく病をおして書かれたのだろう。遺作である。僕は早速Amazonで購入する。そして、亡き上原さんに言う。「僕が一番の読者になります」と。

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(11

 

暫くは京極邸でも行列見物の話で持ち切りであった。

 かつて義尹(よしただ)が十代将軍義材だった時、政経がわずか一年で北近江を召し上げられたわだかまりも、苦節十五年の復活の前には薄らいでいた。義尹は没落した者や悲運の底にある者にとっては希望の星となっていたのである。家中の会話の端々にも義尹にあやかりたいと言う願望が滲み出ていた。

 辰敬と吉童子丸はいつものように庭で虫捕りに励んでいた。

「あっ」

と吉童子丸が声を上げた。

 足許から一匹の子猫が飛び出すと、御殿の縁の下に駆け込んだ。

「待て」

 蜻蛉釣りの竿を投げだすと、吉童子丸は子猫を追い駆け、縁の下に潜り込んでしまった。

 辰敬も慌てて後に続いた。

 吉童子丸は夢中になると後先見えなくなるところがあった。四つん這いになり、闇雲に追いかけて行く。

 辰敬は雲の巣と吉童子丸が巻き上げる埃に閉口しながら続いた。

 と、不意に吉童子丸が止まった。

 目の前に埃を被った鞠があった。

「こんな所に鞠が……」

 辰敬は指先でそっと埃を拭った。

「蹴鞠じゃ」

「蹴鞠……」

 吉童子丸は移り気で気が変わるのも早い。埃まみれの鞠を抱えて引き返した。

 庭へ這い出して来ると、辰敬は吉童子丸に代わって埃を払った。随分長い間、放置されていたようだ。

 辰敬は二、三度足でぽんぽんとついて見せた。鞠は蹴る度に埃を上げながら弾んだ。

吉童子丸が目を丸くした。

「上手いな。辰敬」

「若様もやってみますか」

吉童子丸は真似して蹴ろうとしたが、見事に空振り、尻もちをついてしまった。

思わず辰敬は笑った。

吉童子丸はむっと辰敬を睨みつけた。

自尊心を傷つけてしまったのだ。このところ機嫌が良かったので辰敬は油断していた。吉童子丸は一旦機嫌を損ねると、相変わらず厄介であった。

辰敬はそっとため息をついた。

その時、縁側から声が上がった。

「おや、まあ、その鞠は……」

 奥に仕える老女であった。

 降りて来ると、鞠を拾い上げて懐かしそうに撫で回した。

「亡き治部少輔様がお若い時に蹴っておられた鞠でございますよ」

 材宗の遺品と知って辰敬は驚いた。

 吉童子丸の表情も僅かに動いたかと思うと、吉童子丸はいきなり老女から鞠を奪い取り、さっと辰敬の目の前に突き出した。

「教えてくれ」

 辰敬は思わず吉童子丸の顔を見返した。

 真剣な目があった。

 辰敬は笑顔で受け止めた。

 老女も目を細めると辰敬にそっと目配せして立ち去った。

 おまんに頼んで捜して貰うと、材宗が子供時代に使っていた鞠沓(まりぐつ)出て来た。

 辰敬と吉童子丸は会所の鞠庭(まりにわ)を使う事を許された。

 亡き父の古ぼけた鞠沓を履き、吉童子丸は蹴鞠の稽古に熱中した。正直、筋は良くない。でも一生懸命さは伝わって来る。辰敬は相手をしていて気持ちが良かった。辰敬にとっても、正式な鞠庭で鞠を蹴るのは初めての事であった。

 お手本を見せると、吉童子丸は素直に感嘆した。

「うまいな、辰敬は」

「若様もすぐに上手くなります」

「早く辰敬のようになりたいな」

「稽古は嘘をつきませんけん。一にも二にも稽古でございます」

 その言葉に励まされ、吉童子丸の汗が飛び散り、明るい声が弾けるほどに、辰敬の心は別なもう一つの庭に飛んでいた。

 高々と弾む鞠は辰敬と公典の間を飛び交っていた。見事に受けた辰敬に公典は感嘆した。互いに声を掛け合い、蹴り合った懐かしい二人の蹴鞠であった。だが、その場にいるのは鞠を蹴る二人だけではなかった。もう一人いた。姿は見えないけれど、いつも辰敬に熱い視線を送っていたいちが。辰敬は常にいちの視線を感じていた。辰敬は公典と蹴鞠をしていたのではない。心は背中のいちと蹴鞠をしていたのだ。どんなに楽しかったことか。

 が、我に返ると、もはや辰敬の背にいちの熱い視線はない。辰敬は甘く切ない思い出を忘却の彼方に追いやった。忘れたつもりなのに、折に触れて甦る思い出を切なく思いながら。

「どうした、面白くないのか」

 不愉快そうな目が睨みつけていた。

「我が下手だから」

 辰敬は狼狽した。

「いえ、あの、ちょっと考え事をしていまして……申し訳ありません……」

 己が事で、折角の楽しみを台無しにしたのでは、守りとして申し訳が立たない。

 辰敬は鞠を蹴る事に集中した。

 鞠が弾めば、声も弾む。吉童子丸が明るくなれば、家中も、御屋形様も、皆明るくなるのだ。そう言い聞かせながら一心に鞠を蹴っていて、ふと何か物足りない事に気がついた。

 何だろうと思ったがすぐに気がついた。それは御屋形様の視線だった。庭で遊ぶ二人にいつも注がれていた視線が、そう言えば、先だってからかずっと途絶えていた事に気がついたのである。御屋形様の姿を見なくなったのは、民部様が入京した頃からであろうか。

何かあったのだろうかと、辰敬もさすがに不安に思った時、突然、御屋形様と民部様が会うと言う報せが邸内に走った。

経久は近郊の寺を宿所としている。政経の輿は経久の宿所へ向かった。

実権は失ったとは言え、未だ出雲守護は京極政経であり、尼子経久は守護代である。守護の方から守護代の宿所に出向く事に、家中は複雑な表情だったが、政経が戻って来ると衝撃の表情に変わった。

御屋形様の出雲下向が決まったのである。

吉童子丸と大方様も伴なう。

一報を聞いた時、辰敬の胸に湧き上がったのは、

(潮時かもしれない)

と、言う思いだった。

土倉の御寮はんになってしまったいちと同じ都にいても辛いだけである。出雲に戻ればいつしか忘れてしまうだろう。それが一番いいと思えたのだが、辰敬は一緒に戻る事が許されなかった。

追って沙汰があるまで留まるように命じられた。どうやら出雲の意向が働いたらしい。

多聞は主家を離れた経緯があるので出雲へ戻る訳にも行かず、御屋形様から都に留まり、邸を守るように命じられた。

 吉童子丸は泣いた。

 辰敬と一緒でなければ出雲には行かぬと抵抗したそうである。が、泣いても無駄と知るとまた奥に閉じ籠ってしまった。

 御屋形様が思い詰めた顔をしていたのも、暫く姿を見せなかったのも、出雲下向を考えていたからだったのだと辰敬は知った。

 それにしても、今なぜ下向なのだろう。なぜ辰敬は一緒に戻る事が出来ないのだろう。

 辰敬は多聞の後ろ姿が目に入ると、居ても立ってもいられず追いすがった。

 多聞は辰敬の顔を見下ろすとちょっと首を傾げてみせた。そんな事も分からないのが意外と言うように。そして、人影のない所まで誘うといかつい顔を向けた。

「御屋形様は健康に自信を失っておられるからのう。今が下向する最後の機会と思われたのじゃろう」

 そこで言葉が途切れた。答えになっているようで答えになっていない。次の言葉を待っていると、多聞は遠くに目をやり呟くように言った。

「吉童子丸様に出雲守護職を譲る為に」

 一瞬、辰敬は耳を疑った。現実のものとは思えない言葉が通り過ぎて行ったように聞こえたのだ。すると、その後を追いかけるように多聞のため息が通り過ぎて行った。

 確かに辰敬も思う。御屋形様と吉童子丸がこのまま都にいても何の展望も拓けない事を。

もし御屋形様が死んだら、吉童子丸がこのまま都の片隅で忘れ去られた存在になってしまうのは火を見るより明らかだ。

今の御屋形様には最後に残った出雲守護職を取り留めることしか頭にない。その為には出雲に下向し、御屋形様こそが出雲守護であり、跡を継ぐのは吉童子丸である事を主張しなければならない。たとえ誰も耳を貸そうとしなくても。正当は主張しなければならないのだ。幕府から認められた出雲守護は今もなお京極家であることを。黙ったらその時点で出雲守護ではなくなるのだ。

だから御屋形様は出雲へ行くのだ。這ってでも。老骨に鞭打っても。

(我こそ出雲守護)

御屋形様は妄執の人となっている。

 政経と尼子経久の間でどんな話がされたのかはいつも判らない。政経の方が数歳年上で、経久が少年時代には人質として上洛し、京極邸で共に過ごした時期があったと聞いている。二人には二人にしか判らぬ思いがあるはずだ。

今の経久にとって歓迎する下向ではないことは辰敬にも分かる。経久にしてみれば、京極家にはこのまま静かに都の塵となって消えて貰うのが一番いいに決まっているのだ。

下向は迷惑以外の何物でもないのだが、依然、出雲では政経の下向を無下に拒否し難い理由があるのだろう。

辰敬の帰国が許されない訳である。

御屋形様を慕い、吉童子丸からは慕われる辰敬は目障りなのだ。

それにしても、未だ半人前に過ぎない辰敬に対して何と大人気ない仕打ちだろう。

 辰敬は憤りを抑える事が出来なかった。

 

 慌ただしく下向の支度は進んだ。

七月に入り、足利義尹が征夷大将軍に返り咲いた。亡命十五年。四十三歳の復活である。

 細川高国が細川氏の極官である右京大夫に任じられ、管領となるのは自明のことであったから、専ら京雀の関心は義尹復権に最も功のあった大内義興がどれほどに遇されるかに移っていた。

 折しも祇園会が間近に迫り、町衆の祇園囃子の稽古にも熱が入った。

 今年の祇園さんは復活以来最も盛大なものになるだろうと京雀は寄ると触るとその話で持ち切りだった。昨日よりも今日、今日よりも明日、否が応でも日に日に期待で胸は膨らむ一方であった。

町衆は準備の段階から競い合った。山や鉾も町の面子と誇りをかけ、贅の限りを尽くして飾り立てた。揃いの小袖も誂えた。もう祭が始まったのではないかと錯覚するくらい、町中お囃子や歌や踊りの稽古で湧き立った。

 だが、京極邸では祭り見物の桟敷が設けられることはなかった。

 遠く近くうるさいほどのお囃子が流れて来る中で、ささやかな別れの宴が設けられたのである。

 辰敬や多聞は呼ばれなかった。

吉童子丸は依然ぐずり続け、奥に閉じ籠ったままであった。連歌の座が設けられる事もなく、宴も寂しかった。政経から形見の品を賜る時は皆泣いた。

 その赤く腫れぼったい目をさらに赤くして、京極邸は出立の朝を迎えた。祇園会が終わってからでは暑くなり過ぎるし、祭に近過ぎては混乱に巻き込まれるおそれがあるので、吉日のこの日が旅立ちに決められたのである。

その日も暑くなりそうな朝で、東の空が白み始める頃から蝉が鳴き出していた。

昨日のうちから三基の輿と山のような荷駄が出発を待つばかりとなっていた。御屋形様と吉童子丸、大方様の三人が輿に乗り込めばいよいよお別れとなる。

辰敬はあの日以来、御屋形様たちと顔を合わせていなかった。いつかは出雲に戻る身であるが、いつまた会えるかは皆目見当もつかなかった。

もしかしたら御屋形様とは最後の別れになるかもしれない。思わず(よぎ)った不吉な考えを振り払うと、見送りに並んだ家人達の後ろから首を伸ばした。

別れの言葉は言えなくても、御屋形様と吉童子丸と大方様のせめて後ろ姿だけでも目に留めておきたかったのである。

家人達の動きが慌ただしくなった。いよいよ出立の時が来たのだ。

と、その時、玄関の奥が不意に騒がしくなった。

「嫌じゃ。行かぬ」

 

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