曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2019年12月

24日は特養の妻が居るユニットのクリスマス忘年会。家族も何人か参加。
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お寿司に焼き鳥、オードブルのクリスマス風テーブル。もちろん妻にはノンアルコールビール。シャリを減らした寿司を数個、焼き鳥を少し、エビフライ一個、豚カツの串を一本食べる。プレゼントは一人一人違っていて、妻には顔が隠れる大きな袋。
1577185424134暖かいブランケットを頂く。帰る前に掛けてやる。「暖かい」と喜ぶ。
まあまあ食べてくれた方か。このところようやく食欲が回復傾向にあるのだが、ここまで来るのに一ヶ月半かかる。

11月14日のお昼の昼食介助に行った時、極端に食欲がなくなり、2日ほど排尿も少なくなったので、11月10日から三日間点滴をしていたと報告を受ける。
14日は午前中に眼科に掛った報告も受ける。目が見えにくいのは白内障の影響があるらしい。医者の指示をきかないから手術は不可能と言われているが、何とか手術をする方法はないものだろうか。いよいよとなったら医者に談判するしかないと思っている。

11月16日
1577186952972食欲回復の一助になればと野菜サラダを作って持って行く。
外泊で戻っていた時、朝は生野菜をぱくぱく食べていたことを思い出したのである。特養では普段生野菜を食べることがないので、もしかしたら食べるかもしれないと、畑で出来たレタスにゆで卵やハム&トマトを持って行ったのだが、この日は好物のカレーライスだったこともあり、生野菜もカレーも食べてくれる。
ローソンで昼食用に買った旨キチ(フライドチキン)は置いて帰る。

11月18日
前日の日曜日は風土記講義で行けなかったので、月曜に行ったら生野菜は全部食べていた。

聞いたら旨キチも当日の夕食に半分食べて、喉が渇き、随分水分を摂ったと 職員さん笑って報告。
思うに特養は80歳、90歳に合わせた食事だから、妻には物足りないものがあるのだろう。
11月20日
生野菜、食後のリンゴ、コロッケを一個買って行くが、コロッケは半分しか食べず。

11月23日
生野菜、茹で卵、ハムを持って行くも、40分かかってもあまり食べてくれない。

11月24日
これならどうだと「マグロの刺身」を持って行くも顔を背ける。期待していただけにがっかりする。まぐろとご飯を味付け海苔にはさみ、なだめすかして7ヶ食べさせる。
帰りに同じ妻介護をしているAさんに会う。
「食べてくれなくて疲れたよ」と、思わずこぼしたら
「しんどいよなあ、食べてくれないのは、一番つらいよ。自分は気が短いから思わず頬っぺたを叩いちゃったことがあるよ」

慰め合って別れる。
月末、熊本へ行き、陣太鼓とからし蓮根を買って帰る。
 1577191419817陣太鼓は熊本を代表する菓子。からし蓮根は妻の大好物。
からし蓮根は一切れか二切れは必ず食べてくれて、小さなサイズだったが数日もつ。

12月に入ってからは昼食介助に通う水土日のメニューを調べ、妻が食べそうにないメニューの時は総菜を買って行くことにする。生野菜は続ける。

12月14日
看護士から余りにも食べないので、三日間点滴したと報告を受ける。
この日は赤魚の煮付がメニューだったので、儂はメンチカツ(妻の好物)を買い、オニオンスライスも持って来ていた。オニオンスライスに鰹節をふりかけ、醤油を落としたものが妻の好物だったことを思い出したのだ。
すると、メンチカツをぺろりと平らげ、オニオンスライスも生野菜もパクパク食べてくれる。
みんな、メンチカツ一個を食べたと知り目を丸くする。
「さすがご主人」と褒められる。
だてに夫を長くはしていないのです。

 

12月18日
再度マグロ刺身を試す。6切れををぺろりと食べてくれる。食べてくれなかったあの日は何だったのだと言いたいが、食べてくれると本当に嬉しい。

こういうことの繰り返しがこれからも続くのだろう。

12月13日、1年ぶりに安来の月山富田城へ行く。歴史資料館に富田城のジオラマが出来たことを知り、何としても見に行かねばと思っていたのだが忙しくてなかなか行けなかった。このところの好天気に誘われ、思い切って富田まで車を飛ばす。京羅木山の南の山腹を越える古道を想像するのが楽しいので、一年前と同じ432号線を走って広瀬に出る。
1576218876738天気がいいので城址の木が見える
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資料館野外の模型。
1千畳平。2太鼓壇。ここで刻を知らせる太鼓を打った。3花の壇 4山中(さんちゅう)御殿。城主の居館があった。 5七曲り。険しい登り道。 6三の丸。 7二の丸。 8本丸。
A菅谷口。 B御子守口。 C塩谷口。 富田城に入る道はこの三つ。
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北から見た富田城。
イは新宮党の本拠。尼子国久館跡。尼子最強軍団新宮党の本拠。毛利元就の策略にかかって、尼子晴久に攻められ滅びる。これによって尼子氏は滅亡の道を辿る。
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南から見た富田城。C塩谷口。
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安来歴史資料館に展示されたジオラマ。これを見たくて来たのだが、これは江戸時代初めの堀尾氏時代の復元ジオラマである。高石垣が築かれ、屋根は瓦葺きになっている。尼子氏時代には高石垣はなく、屋敷の屋根も板葺きか茅葺である。だが、このジオラマを見れば、山の尾根筋に無数の削平地を作り、そこに曲輪を作り、城の防備としたことが分かる。武家屋敷も山の中に集められていることがわかる。恐らく尼子時代もこのように家臣団の屋敷は山の中にあったと思われる。これは戦国時代の城のかたちとしてはとても珍しいものである。
戦国時代、城は詰めの城と言って、戦いの時だけに籠るもので、普段は山の下に住む。このように山の中に居館を建て、家臣団も住まわせるのは、他には南近江の守護大名六角氏の観音寺城など数えるほどしかない。
富田城のある月山(がっさん)も、観音寺城もとても大きい山で、拡がりを持っているという共通点がある。戦国時代の山城作りは山の形も変わるほどに掘って、削ってを徹底する。削平地が沢山できれば曲輪も沢山できる。自然とそこに家を建てるようになったのではないだろうか。
Bの御子守口から4の山中御殿に行く道自体はだらだらと上るゆるやかな道で、七曲りのような急峻な細い道でもない。今も山中御殿跡近くに民家もある。このような山容の特性が作り出した城なのかと推測している。
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A菅谷口入り口               B御子守口入り口
道が狭くて対向車とすれ違えないと注意が出ていたので引き返す。数年前に初めて来た時は無謀にも侵入し、無事山中後殿に辿り着きそのまま下って、Bの御子守口に出た。菅谷口から入った道は険しく曲がりくねっていた。
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C塩谷口入り口
手入れしてなくて荒れている。民家の裏で、その先侵入止めの竹が置いてあったので入らず。

1→2→3→4→5→6→7→8の道順で月山山頂を目指す。
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1千畳平                   2太鼓壇から下を見る
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3花の壇                   花の壇から山中後殿へ
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4山中後殿入り口             御殿敷地奥を望む(東側)
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御殿敷地奥の雑用井戸         御殿敷地奥の菅谷口へ通じる出入口
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御殿北側                  御殿西側の塩谷口へ通じる出入口
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七曲り登り口
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七曲り途中の山吹井戸。奇麗な湧水。
七曲りは昔は整備されてなくて、足元は悪く、急坂部分の手すりもなかったように思う。昔は山中御殿まで車で来たが、今回は千畳平から歩いているので喘ぎながら登る。一年間、夕食後の30分の散歩をしていたからこそ登れたと思う。すれ違った地元の人から、頂上に着いたら十分に休んでから降りないと膝を痛めますよと忠告される。
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6三の丸石段                三の丸から二の丸を望む
尼子時代にはこのような石垣はない。
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7二の丸から京羅木山を望む。     二の丸から本丸を望む
富田城を攻めた大内義隆や毛利元就は富田川をはさんだ京羅木山に陣を構えた。
二の丸と本丸の間は深い堀切で隔てられている。山頂を深く掘って作ったものである。この二の丸からは備前焼の大きな甕が三つ見つかっている。水をためたのではないかと言われている。
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二の丸下の本丸へ通じる道       8本丸
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本丸奥の勝日高守神社。        本丸から中海を望む
遠く霞んで見えるのが島根半島。写真ではよく分からないが島根半島の美保関まで見える。右手から美保関に向かって伸びる弓ヶ浜(出雲国風土記で国引きの綱の役目をした)も見える。こうして見ると安来の港がいかに天然の良港だったかよくわかる。美保関では船の帆の大きさで通行税を決めていた。
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左の写真。手前の山はジオラマで青線で囲った部分の一部。 ジオラマでは小さな削平地が沢山あったが、堀尾時代にはすでに放置されていたのでこのように木々が鬱蒼と生い茂っている。
右の写真。山頂から3花の壇4山中御殿を見おろす。
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大土塁                     御子守口へ下りてゆく途中の景色
左の写真。山中御殿から御子守口へ降りる途中にある長さ130m、頂上部幅20メートルもある大土塁。山中御殿を守るために作られた。
右の写真
御子守口へ降りる道の途中は階段状に田圃が続いている。こういう所もジオラマを見ると、一部には家臣団の屋敷があったのだろう。写真向かって左側は切り立った崖で曲輪もあるが、右側にも武家屋敷がなければ守りにはならないことに気が付く。
お昼は二の丸でコンビニで買ったお握りを食べ、ゆっくり休んで降りるも、七曲りを降りたところで足がよろめき思わず手すりにしがみつく。

12月6日、大社コミニュティセンターで江戸時代に手銭家が作ったおもてなし料理を実際に作って食べようと言う催しがあった。何年も前のことだが義母を見舞った時、熊本城で細川の殿様が食べた料理を食べる機会があったが、この時は出された料理を食べただけであった。自分で作ることなどなかなかないので忙しいけれど申し込んだのである。
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コミニュティセンターは旧大社小学校の校舎。教室の一つが調理室になっていた。
手銭(てぜん)家は大社の旧家で、手銭記念館には手銭家に伝わる書画骨董の美術品から生活道具など江戸時代の文化や暮らしを知る品々が展示してある。その手銭記念館の催しで、手銭家の奥さんやお婆さん(もしかしたら娘さんと奥さんかも知れない)が台所に立ち、色々興味深い話を交えながら楽しく進めて下さる。実際手取り足取り教えてくれたのは日本料理店『登和』の店長夫婦と息子さんの三人。参加者は女性9人と男は儂を含めて2人だけ。役に立たなくて肩身の狭い事。
おもてなし料理の内容は、寛政元年(1789年・フランス革命のあった年)11月4日に、松江藩松平不昧公の弟駒次郎(俳号、雪川)が大社参詣をした時、手銭家に泊まり、その時の夕御膳に饗されたものである。
松平不昧公は松江藩7代目で茶人大名として知られた殿様で、出雲には茶道不昧流は今日にも伝わっている。
手銭家に伝わる『萬日記』によると、雪川の大社参詣はおしのびで、もともと杵築に泊まる予定ではなく、宿泊するにしても手銭家の順番ではなかったのに、急遽泊まることになったらしい。おしのびなので門に提灯を出さなくてもよいと言われたそうだが、家臣は23人も引き連れ、その中には側女らしき女性もいたようだ。急な宿泊で手銭家はてんてこ舞いしたようだ。そんな時に出された料理を食べようという訳だ。ちなみにこの時の費用は52貫329文。今のお金にして約150万円だったそうだ。
儂らは一人参加費2500円。
旧暦の11月4日は太陽暦ではちょうど今頃の時期である。今日はみぞれが降った。初雪である。

献立(4日夕より)
茶菓子や果物、酒は省略し、ほぼ9割方を再現する。
小皿(香物、奈良漬)
硯蓋(さらし牛蒡、松露、氷こんにゃく)
皿(鯛焼物、すりしょうが)猪口(いり酒)
みそ汁(かきしんじょ、ちゃ、椎茸)
平皿・葛引(松露、おとしかまぼこ、わさび)
硯蓋(香茸、焼きも梅せん漬
御めし
献立(5日朝より)
平皿(こくしょう・牛蒡、香茸、焼き豆腐)
猪口(白和え・にんじん)

松露焼きも梅せん漬、は省略。焼きいもとは長芋を切って焼いたものらしい。
※松露は今や出雲でも手に入らないので、松露は大きなしめじで代用。
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材料が並ぶ。中央の緑が献立の「ちゃ」なるもの。ちしゃの茎。サンチュである。ネットで調べたら京都の八百屋にあったので取り寄せたそうだ。とても固い。皮を剥く時手を切らないようにと注意されたので、儂は初めてのこともあり見物。
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つつ牛蒡。牛蒡に穴が開いている。白く細いものが牛蒡の芯。竹串を芯の周りにぐるりと刺して行き、えいと押すとすぽんと抜けるのだが、儂はいくらやってもうまく抜けない。途中でやめてしまい、隣の奥さんに代わってもらう。
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左はいり酒を煮詰めているところ。塩梅を汁が半分になるまで煮詰める。右は水で戻した凍み豆腐を絞っているところ。凍み豆腐を専門で作っている所は茨木県に三軒しかなくて取り寄せたよし。とても長持ちするものなので、昔は香典として使ったそうだ。(手銭家奥さん談)
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左。かきしんじょをすっているところ。牡蠣のすり身、魚のすり身と大和芋を合わせる。
右。茹でた豆腐を裏ごしする。
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左。かきしんじょを湯に落とす。
右。たまみそ(粘味噌・ねりみそ)昔の味噌がないので似ている八丁味噌で代用。黄身、砂糖、みりん、酒を加え、火にかけて水けを飛ばしながら固めに練り上げる。
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左。鯛を焼く。
右。おとし蒲鉾。魚のすり身を蒸す。すり身は作っている時間がないので魚屋から購入。
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左。凍み豆腐を煮ている。右。焼き豆腐に味付けしている。
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左。茹で上がったかきしんじょう。
右。つつ牛蒡を半分に割った上に、こくしょうをほんの少しのせる。こくしょうはたまみそをダシでのばしたもの。
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左。猪口(ちょく)にいり酒を注ぐ。焼いた鯛に垂らすか、鯛の身を猪口に漬けて食べる。昔は今のようになんでも醤油をかけて食べることをしない。この後、食べてみたが、素材の味を殺すことなく美味しく食べることが出来た。
右。御膳はこのように蓋つきだが、我々は蓋無しで食べる。
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食事会場
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1奈良付けと漬物
2香茸
3凍み豆腐を細く切ったもの
4焼き豆腐にこくしょう(穀焦)をのせたもの
5つつ牛蒡を半分にしたものにこくしょうをのせたもの
6鯛
7おとし蒲鉾の葛引き
8牡蠣しんじょうの味噌汁
9にんじんの白和え

「おいしゅうございました」


脂質は限りなくゼロに近いのではなかろうか。

12月7日追記
今日は「古文書の会」があった。今、読んでいるのは「高見家文書」。出雲の旧家の日記なのだが、その寛政2年の記録に、松江藩主松平治郷(はるさと)が大社参詣し、御本陣は千家筑後守とあった。
松平治郷とは不昧公のことである。弟の駒次郎が大社参詣した翌年に兄の松江藩主も大社に参詣しているのだが、お殿様だから泊まる所は出雲国造・大社の宮司千家なのである。偶然とはいえ、昨日の今日のことだったのでご紹介まで。

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12月1日出雲弥生の森博物館で『古代出雲人人骨DNAから日本人のルーツを探るプロジェクト研究報告会』が行われた。これは『東京いずもふるさと会」が猪目洞窟(出雲市)と小浜洞窟(松江市美保関)出土の人骨のDNA解析プロジェクトをクラウドファンディングで立ち上げたもので、その解析結果の講演会である。
前日熊本から戻ったばかりだったがこの講演を聞き逃す訳には行かない。当日は特養へ行き妻の昼食介助をして、夕方にはショートステイをしている母を迎えに行く、その間の時間に幸いにも出席できた。
最初の報告は斎藤成也国立遺伝学研究所教授。
現代出雲人のDNA分析。3代前まで出雲に暮らしていることが明確な40人のDNAを他の地域と比較したものである。その結果は出雲はDNA的には東北や鹿児島に近いことが分かる。言語学的にも出雲弁と東北弁はいわゆるズーズー弁で似ていると言われていた。儂もなぜこんなに離れているのに言葉が似ているのか不思議でならなかったが、教授は鮮やかに解説してくれた。
すなわち、旧石器時代に始まった日本列島への渡来は従来は2段階と言われていたが、実は3段階に渡っていて、3回目の渡来人は北九州から瀬戸内海、近畿、関東へと列島中心部を進んだのではないか。するとどういうことが起きるかと言うと、渡来人が進んだ中央に延びる長いベルト地帯はより混血が進む。
教授は面白いことを言う。「渡来人は都会を目指すのです」なるほどと思う。蘇我氏は日本のどこに上陸したか知らないが、彼らは政権の中央に辿り着いている。先進地帯ではDNAの変化が他地域よりは当然大きくなる。
周辺地域は取り残される訳である。出雲も東北も鹿児島も取り残されたのである。離れた出雲と東北とどんな交流があったのだろうかとばかり考えていたのがとんだ的外れだった訳だ。目から鱗とはこのことである。
よくアイヌとオキナワは似ていると言われている。これも取り残されたDNAと考えれば納得が行く。
教授は古代史は門外漢のはずなのに、日本人のDNA変遷のエポックメーキングに「スサノオ」と「国譲り」と「大和政権の国造派遣」を上げる。「スサノオ」神話に象徴されるような出来事、「国譲り」神話に象徴されるような出来事、「国造」は大和朝廷の地方支配。これらがDNAの変遷にあずかっているのではないかと。科学者の立場からの論は新鮮で歴史の専門家とは異なる説得力を持つ。教授はこうも言う。「私は年代はいい加減だと思いますが、系図と言うものはある程度は信じていいものではないかと思っているのです」
妙に説得力があるのは、DNA解析に話が面白かったからか。
神澤秀明博士は国立科学博物館人類研究部研究員。
猪目洞窟の出土人骨の報告。猪目洞窟はこのブログでも以前紹介した、出雲国風土記で『黄泉の国』の入り口と語られている洞窟である。昭和23年に発見された人骨が『弥生の森博物館』に収蔵されている。
6体のうち3体が縄文系、3体が渡来系と分かるが、資料年代は1000年もの幅がある。
そのうち2体の核ゲノムは現代人より縄文的であったそうだ。現代人の中にある縄文人の割合は10パーセントなのだが、出土人骨は15パーセントであったそうだ。
残り4体のDNAも良好なので、これらから核ゲノムデーターが解析出来たら、猪目の弥生から古墳時代と現代出雲人のゲノムを比較し、山陰地方の遺伝的変遷が出来るそうだが、後2年はかかるらしい。
この記事の何十倍ものデーターや資料をレジュメとしてもらっているのだが、とても紹介しきれないので簡単な記事で申し訳ありません。

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