曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2019年11月

11月28日に妻の実家へ行く。
15750250726461575025034972
熊本市の南の外れに近い川尻という町にある。2007年に義母が施設に入り、2013年に死亡。12年間無人。義母が入院中に1度頼まれて入ったことがあっただけで、震災後も家が心配だったが、妻の介護もあり、ずっと放っておいた。大正の末に建てられた料亭だったらしいが、もう限界に来ていたところに地震に襲われ、処分するしかなくなったのである。風雪のせいか、地震のせいか、壁板も落ちてぼろぼろである。鍵をなくしてしまい、救急の鍵屋を呼ぶ。鍵が錆びついているせいか開けられないので、横の窓を外して入るが、特別な料金がかかるとかで3万円も取られる。その上、鍵の交換に3万円、諸費用消費税をくわえて8万600円も取られる。その瞬間、ため息が出て、どんよりとした気分で内部に入る。
1575024975191                  1575023944189
 (上がってすぐの茶の間)               (仏壇の裏のトイレの壁)
義父の位牌が落ちていた。 茶の間の横のトイレの壁には大きな隙間が出来ていて外光が射し込んでいる。
位牌を仏壇に戻すだけでやっとであった。詳しく検分することもせず、ぼおっと見て回っただけで、2階へ上がる。
15750249321091575024847763
 (座敷の廊下の窓)            (床の間の横)
サッシの窓は開いたままで、一枚は粉々に割れて、廊下にガラス片が飛び散っている。3年間もこんな状態で雨風が吹き込んでいたのかと思うと、どうして震災後にすぐに来なかったのかと悔やむ。自分の家ではないが、妻が育った家であり、子供たちが夏休みや冬休みに過ごした家である。人同様に家だって健康で元気でいてほしいではないか。床の間の横のガラス戸も粉微塵。この日は何もせず、何も触らず、ただ見ただけでどんよりとした気分で家を出る。頭の中は明日の応急修理のことで一杯。
1575024643525     1575024675808 
(御蔵跡)             (札座跡)

   1575024594642
    (鹿児島本線の鉄橋)
妻の実家の裏には加勢川が流れ、下ると港。昔は河川交通の要所。鉄橋の手前は船着き場。米蔵があり、藩札を発行した札座なるものがあった。夏休みに子供たちと魚釣りしたり、鉄橋の遠く向こうに上がる花火を見物した。バスに乗って帰ろうと懐かしい道を歩くがどこにもバス停がない。
大通りに出てやっとバス停をみつける。バス待ちのおばあさんに聞いたら昔のバス路線は去年廃止になったのだそうだ。道理でいくら歩いても停留所がないはずだ。世間話をしていたら、川尻が寂れた話になり、家が売れない話になる。「負け惜しみじゃないけれど、主人と話すの。家なんか持ってなくてよかったねと……ほほほほ」
笑い事じゃない。こっちの身にもなってくれ。
いいこともあった。儂が熊本の妻の高校の同級生に喪中葉書を出し、そこに熊本へ行くことを書いておいたのだが、その人がもう一人の同級生に連絡してくれて、玄関にその人の連絡先の紙を張っておいてくれたのだ。電話して近況報告する。必ず同級生と二人、出雲へ行くと約束してくれる。
11月29日
今日はため息なんかついていられない。根性を入れて、応急修理と出雲へ持ち帰る物の整理をしないといけない。市電で熊本駅へ出て、JRで川尻駅の隣の富合駅へ。ナフコ富合店で窓を塞ぐビニールや養生テープを買って、川尻へまたJRで戻る。
15750242195341575024342102
(12畳半の2階座敷)
夏休みには全員ここで雑魚寝。子供たちの声が蘇り、布袋様のような大きな体を揺すって笑う義母の姿が浮かび上がる。一心不乱、サッシ窓の応急修理に精を出す。明日、出雲に帰るから、ため息をついている暇もない。
15750241706991575023641907
窓の外からカバーにしていたベニヤを起こして紐で固定。内からはテーブルクロス用のビニールを張って雨風を防ぐ。
近所の「〇〇のおっちゃん」は妻の友人で、儂も熊本へ行った時は家族ぐるみで遊んでいた。その人が昨日の妻の友人との仲立ちをしてくれていて、今日は妻の小中の友人の、儂も知っている女性を引っ張り出して来る。昼は三人でそばを食う。有難いことだ。肥後もっこすで今は鴨撃ちで忙しいらしい。この家に興味を持っている人を連れて来て、今度家の中を見せると言ってくれた。でも、難しいと……。
そうこうしていると、不動産屋が検分に来る。いい柱や材木が使ってあると感心していたが、多分、古材としては売れないだろうと言う。昔は古民家の古材がブームだったが、今、熊本には古材が溢れかえっていると言う。震災で倒壊した家や、解体した家から山のように吐き出されたからだ。
古材を売ることなど考えないで、解体して更地にするしかないようだ。
15750239019141575023710187
風呂場のヒビもすごい。
15750243965421575024426911
階下の義母のベッドのある部屋の壁に子供たちが描いた絵が残っていた。色あせて消えかかっていた。娘が4、5歳の頃のもののようだ。
部屋を整理していたらアルバムが出て来る。妻の19か20くらいの写真も出て来る。きりっと前を向いて行進する写真。「ここに、未来が見えていない人がいる」ふと、そう思った。30年先のことは誰も分からないが、若い人だと残酷に思えてならない。
今回は最低限のことをした。もう一度来ないといけないだろう。

11月27日、熊本の妻の実家を処分しないといけなくなったので久しぶりに熊本へ行く。28日の10時に不動産屋に会うので前日から熊本へ乗り込む。熊本には相談できる人は妻のおばさん(母の妹)しかいないのでお土産は畑の生り物をいくつか。
15748972639031574897224758
独り暮らしなので朝獲れの大根とサラダ蕪とレタスとカリフラワーにわが家の柿を少し。
15748971880631574897144873
母をショートステイに送り出して出発。出雲市駅からスーパーおき4号で新山口へ。熊本での移動を考えたら車で行くのがいいことは分かっているのだが、もし事故でも起こしたらと思うと慎重にならざるを得ず、新山口からは新幹線で熊本へ。これまで出雲から熊本へ車で行ったのは2回。妻の母の見舞いで東京から行った時はレンタカーを借りたし、出雲からJRで行った時もレンタカーを借りていたが、今回は震災後初めて行くので、熊本も変わっていると思われ、原則移動はバスや市電にする予定。
遊びの旅行ではないが、実家の片付けもあるかもしれないので、今回は3泊4日の予定を組んでいる。こんなに長く家を空けるのは久しぶり。ちょっとだけ旅行気分を味わう。
特急なのに指定席1両、自由席1両のわずか2両編成。もちろん自由席。乗客は全員2席を一人で占領。
車内販売なんかもちろんないので駅弁とあご野焼きを買って乗り込む。野焼きをかじりながら弁当を食う。
1574897106473
山口線で遅延したので、熊本駅へ着いたのが6時前。雨模様で真っ暗。懐かしの市電で市役所前まで。熊本のラッシュアワーは凄い。外は暗いし、地理も暗くなっているから、車の運転の自信も喪失。そうでなくても市内の中心部は市電は走っているし、三車線なので神経を使う。三車線道路が大の苦手なのである。慣れてないからいつどのタイミングで車線変更していいか分からずいつも右往左往する。出雲なんて三車線なんてありませんから。市電から見たら懐かしの交通センターも消滅しているではないか。
ホテルに入り、コンビニのおにぎりと味噌仕立て団子汁で夕食を済ませ、おばさん宅へ。無音を詫び、経過報告。おばさんから貴重な昔話を聞きホテルに戻る。
11月28日。
午前中、不動産屋に会って色々と相談打ち合わせをすます。午後から妻の実家へ行く予定だったが、1時間ぐらい時間が空いたので、急遽腹ごしらえしてから熊本城へ行く。
15749282742731574929075193
馬トロ丼                   熊本城櫨方(はぜかた)門
旅に出て困るのは食うものがないことだ。夕べもコンビニで脂質のなさそうなものを食う。御城へ行く途中、馬とろ丼なる物を見つける。さすがは馬刺しの国熊本である。馬肉は脂質が少ないので大喜びで飛びつく。目の玉が飛び出るほど美味いものではなかったが、熊本ならではのものが食えてよしとする。
1574929113221Inked1574929160639_LI
櫨方門                    案内板
案内板の赤丸が櫨方門。黄丸が案内板。青い道筋を歩く。赤の道は天守閣への見学ルートだが平日は通れず。土日と特別な日だけ通れるようだ。
15749291990321574929227681
いきなり団子
お土産広場で「いきなり団子」を見つける。結婚して初めて熊本へ行った時、下通り商店街(熊本の銀座)で蒸気を噴き出すいきなり団子の蒸し器を見て、「何じゃ、これは」と、聞いたら、熊本のソウルフードだと教えられる。
さつま芋の上にあんこをのせた団子である。二十年ぶりに食う。素朴な味である。「いきなりステーキ」がはやるよりも何十年も前から存在する名物団子。
15749293123121574929524303
未申(ひつじさる)櫓            元太鼓櫓
15749296010661574929631087
震災前と震災後の比較写真パネル。震災直後の写真だが、現在それほど回復したようには思えない。
15749296702801574929705289
戌亥(いぬい)櫓              宇土櫓
宇土櫓の向こうに見えるのが天守閣。崩れる前から天守閣は昭和新城であり、コンクリート製で松江城のような江戸時代がそっくり残っているような城ではなかった。そんなに一生懸命に再建するほどの文化財的価値はないと思うのだが、熊本のシンボルとしての価値を優先しているのだろう。
15749285337101574928497031
加藤神社から望む天守閣        北大手櫓門跡
加藤清正を祀った加藤神社から見る天守閣が一番いい眺めなのだそうだが……。いつになったら。
15749284471541574928399906
無傷の石垣                 平櫓
このように一見無傷に見える石垣もある。
工事中の平櫓。ぐるりと御城を半周ちょっと回った処。ここを入ったところにあるのが不開門(あかずの門)で北東の守りになる。
小一時間歩いてから、妻の実家へ向かう。ため息が出るような報告は、明日も行くので、まとめて明日に。

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(10

 

その頃、幕府は西国諸将に義尹(よしただ)上洛阻止命じたが、誰一人立ち向かおうとする者はなかった。

 西国の船をかき集めても、大内義隆の大船団には到底及ばぬ。最早上洛阻止が不可能なことは誰の目にも明らかにも関わらず、幕府はひらひらの紙切れのような権威を振りかざし、わめき散らすしかなかったのである。

 一向に情勢の回復を図れぬ焦りから、細川澄元の細川高国に対する不満は募る一方であった。澄元は細川政元の三人目の養子で、自分より五歳年上の二十四歳の高国に、もとより全幅の信頼を寄せていた訳ではない。細川一門では低い家格の出とは言え、高国も家督となる資格は有している。油断したら取って代わられる恐れはあるのだ。

 畠山一族が仲間割れした時、畠山(ひさ)(のぶ)を助けるように命じであ、高国が尚順との関係を深めて行澄元高国に対不信感一層ってった高国が勝手な行動を取っているない疑心暗鬼に駆られた。

そうなると、大内義隆との和平交渉が進まない事に対してもあらぬ疑心を抱くようになる。

三月になると、澄元と高国の不和は抜き差しならないところまで高じていた。

 赤沢長経との反目もあって、京都に戻れなくなってしまった高国は、伊勢神宮に参詣した後、伊賀に入ると仁木(につき)高長のもとに身を寄せてしまった。

 この間も大船団はゆっくりと東上していた。

 数百艘の船を率いての遠征であるから遅くなるのは当然であるが、それにしても遅々とした軍旅であった。無論これは都へ圧力を掛けるための意図的なものであった。真綿で締めるように、じわじわと都の人心に重圧を掛け続けたのである。

 上洛軍は夥しい噂を流し、不安を煽った。

 目論見通り、幕府は自壊し始めた。

 細川高国は現将軍足利義澄と細川澄元を見限り、前将軍義尹と手を結ぼうと決断した。

 三月の末、ついに大船団が大物(だいもつの)(うら)(大阪湾)に入ったと言う知らせがもたらされると、都の不安は頂点に達した。

 湾内を埋め尽くす軍船はそのまま停泊し、無言の圧力を加え続けた。

四月に入ると、都には伊賀の仁木高長に支援された高国までもが攻め寄せて来ると言う噂が流れ始め、人々は怖れおののいた。

 折しも京極邸では材宗の一周忌と重なり、忌まわしい戦の記憶が家中の不安を弥が上にも掻き立てた。

 しめやかに一周忌が執り行われる傍ら、警備にも大わらわで、辰敬も一周忌と警備両方の手伝いに駆り出され、てんてこ舞いさせられていた。

 戦に巻き込まれた時、一番重要なのは火事への備えである。

 辰敬は運び出す貴重品の荷造りを手伝わされ、一部は鴨川の向こうの寺まで運んだ。辰敬は代々證文の入った唐櫃を捜したがどこにも見当たらなかった。恐らく御屋形様の側に置かれ、非常時には真っ先に持ち出されるのであろう。

高国の軍勢が伊賀を出発したと言う情報がもたらされると、辰敬は邸の不寝番に立ち、吉童子丸の宿直どころではなくなった。

吉童子丸は辰敬の物語を楽しみにするようになってからは、精神状態も良くなっていた。

だが、もし都が戦乱に巻き込まれたら、一周忌で悲惨な出来事を思い出したばかりの吉童子丸は、また悪夢に苛まれるような事になるのではないかと、辰敬はそれだけが心配でならなかった。

 心の底から都の平安を祈ったが、四月九日の亥の刻(午後十時)、突然上京の空を紅蓮の炎が染めた。

 三好(ゆき)(なが)の宿所に火が放たれたのだ。続いて細川澄元の在所も炎上した。

 澄元と三好之長はわずか三百人ばかりの手勢を率いて、近江坂本へ逃亡した。

 細川澄之の天下は四十日余りだった。澄元の天下はそれより長かったとは言え八カ月ほどであった。

 翌四月十日、高国は一万の軍勢を率い、何の抵抗もなく入洛を果たした。

 怖れおののいた戦いもなく政権が交替した事を、都の人々は皆心から喜んだ。

 この政権交替が京極家にもたらしたものは何もないが、家中もほっと安堵の胸を撫で下ろした。

 六日後、将軍足利義澄は義尹の上洛を恐れ、わずか四、五人の供を連れただけで都を逃げ出し、近江甲賀の九里(くのり)氏を頼った。

 四月二十七日、海上から何の手を下す事もなく、義澄の逃亡を見届けた大船団は、大物浦を後にして和泉の堺の湊に着岸した。

 いつ以来か久し振りの平安が訪れ、都の人々は遅い春を楽しんだ。

 その頃までには、吉童子丸は辰敬と一緒ならば、机を並べて手習いをし、素読をする事も厭わなくなっていた。

 邸内にも桜どころではなかった今年の春を取り戻そうとするかのように、晩春の陽が降り注ぐと、その陽気に誘われるように吉童子丸も外遊びをするようになった。

 どこへ行くにも、何をするにも辰敬の後をついて行く吉童子丸の姿が見られるようになったのである。

 政経もこの頃には体調もすっかり良くなったようで、縁先に立つと二人の姿に目を細めた。

辰敬にとっても御屋形様の笑顔は励みとなった。吉童子丸が明るい声を上げれば、御屋形様も微笑み、辰敬も嬉しくなる。吉童子丸と遊ぶのも、気がつくと兄達が遊んでくれたのと同じように(むつみ)っていた。った

かくして慌ただしい四月が過ぎ、五月に入った日の事であった。

何気なく御屋形様を振り返った辰敬は、その顔に浮かぶ憂いに気がついた。視線もぼんやりとあらぬ方にやり、何やら思いに沈んでいるようであった。

何か心配ごとでもあるのだろうかと思った時、御屋形様と目が合った。皺だらけの目元に笑みが浮かんだ。いつもの優しい笑みだったので、辰敬はほっとしてその時の事はすぐに忘れてしまった。

実はその日、民部様(尼子経久)が入京していたことを後になって知った。足利義尹と大内義興の先陣として、一緒に随行した武将達とともに入京したのだ。

 

細川高国と畠山尚順は早速、堺へ出向き、義尹に拝謁した。

五月六日、高国は晴れて細川の家督を認められた。一年前には誰も予想さえしていなかった政元の三人目の養子が、細川一門の棟梁となり、右京大夫となったのである。

高国は義尹に一刻も早い上洛を促し、後は足利義尹の上洛を待つばかりとなった。

京極邸の池から次々ととんぼが孵化するようになると、辰敬は吉童子丸に蜻蛉釣りを教えた。竿先にとりもちを付け、とんぼを取るのだ。吉童子丸は熱中し、京極邸の庭では竿を振り回して、とんぼを追い回す姿が毎日のように見られるようになっていた。

辰敬はみかんや山椒の葉には揚羽蝶が卵を産みつけることも教えた。

芥子粒のような卵から小さな毛虫が生まれ、成長して青虫となり、美しい揚羽蝶となる変化に、吉童子丸は目を見張った。

幼い頃の辰敬が、青虫を突き付けて姉の袈裟を怯えさせたように、吉童子丸も青虫で女房衆を脅して喜んだ。

世の平安に向かう足取りは日々確かとなった。京極邸にも吉童子丸の元気な声が響き渡るようになったのだが、それと反比例するように政経の憂い顔が目に立つようになった。

さすがに辰敬も気になり、遊んでいても御屋形様の顔色をそっと目の端で窺うことが多くなった。

確かに御屋形様は思いに沈んでいた。前に気づいた時より深く考え込んでいる風であった。

愛おしげに孫を追う目の底から、時折り放たれる鋭い眼光が普通ではなかった。

御屋形様は何を考えているのだろう。

辰敬は心配したが、家中では政経の変化に気が付いていないようであった。

六月六日、義尹はようやく腰を上げた。細川高国の先導で堺を出発すると、その夜は吹田に泊った。

七日、細川高国が入洛。その夜、義尹は山崎に泊る。

八日は未明から都は大騒ぎとなった。貴顕も衆庶もこぞって行列見物に殺到したのである。

辰敬と吉童子丸も政経の許しを得、多聞達を供に行列見物に出かけた。二条大路にある京極家出入りの扇屋の店先を借りて見物したのである。

昼、歓呼の中、行列が現れた。

先陣は種村刑部少輔と畠山与次郎の二人に家臣三百人が勤め、その後に義尹の乗る輿が続いた。警固の(はしり)(しゅう)は数百人。御供衆は九騎。後陣騎馬衆は数え切れなかった

ついに放浪の前将軍、足利義尹は都の土を踏んだのである。

十五年前、政元に囚われ、古輿に家臣数人が付き添っただけの入京とは天と地の違いである。

人々は義尹の復帰を心から喜んだ。かつては放浪する義尹を流れ公方と揶揄した人々も、この不遇に屈しない生き方に感嘆し、いつしか深い同情を寄せるようになっていたのである。

義尹もまた流寓の十五年の間に、虐げられた民の心が分かるようになったと吐露する人になっていた。

誰もがこの前将軍の父と子の二代に亘る苦難の歴史を知っていた。前将軍とその父は政争に翻弄され、屈辱極まりない人生を歩まされたのである。

この世の悪しき事はすべて先の大乱に絡んで始まったと言ってよい。その大乱も突き詰めれば、政に情熱を失った八代将軍足利義政の無責任と無定見に起因する。子のない義政が唐突に次期将軍を弟に譲ると宣言した事から混乱が始まったのである。

義政も妻の日野富子もまだ子を諦める年齢ではなかったので、誰もが早過ぎる禅譲を諫めたが、義政は聞き入れなかった。僧籍にあった弟を還俗させ、(よし)()とした。これが義尹の父となる人である。

案の定、危惧した通り、翌年、富子が男児を産んだ。後の九代将軍義尚である。富子たち反義視派は勢いづき、義政に翻意を促す。義政とて我が子は可愛いので、たちまち義政と義視の関係はぎくしゃくし始めた。

翌年、義視にも男児が生まれる。義材(義尹)である。その義材誕生から四十日にもならぬ夜、義視は義政側近に謀反の疑いありと讒言され、危うく暗殺されそうになる。義視は間一髪細川勝元の屋敷に逃げ込み無実を訴えた。その時の義視は顔面蒼白歯の根も合わぬほど震えていたと言う。

応仁の乱が勃発したのはこの四ヶ月後である。

西軍に対抗する為、義政義視の兄弟仲は元に戻ったが、義政が義視暗殺を謀った側近を許した事から、義視は憤激した。

義視は西軍の山名宗全の陣に身を投じ、西軍の将軍格となった。

義政と義視は東西に分れて戦うが、戦いは膠着し、やがて義政は八歳の子に家督を譲ってしまった。九代将軍義尚である。

西軍の大将山名宗全も東軍の大将細川勝元も相次いで病死すると、いつしか戦いの名分は失せてしまった。厭戦気分が蔓延し、長い長い戦いは漸く終わった。

義政は義視を疎んじる意向はないと誓ったが、義視は都に留まる事を潔しとしなかった。西軍の軍師だった美濃守護代の斎藤(みょう)椿(ちん)を頼り、義材を連れ美濃の革手に下向した。尾羽打ち枯らした姿であったと言う。

革手は岐阜の南、土岐氏の守護所のあった町で、義視父子はここに御所を建てて貰い、侘び住まいした。

終戦処理は進み、幕府は西軍大名と次々に和睦し、義政と義視も正式に和議を結んだ。だが、義視は都に戻る事は拒否した。父子は木曽川に近いこの地に骨を埋める覚悟だったのである。

ところが、義材が二十四歳になった時、運命が急変する。

六角征伐に親征していた義尚が陣中で急死したのである。荒淫と酒色に溺れた果ての自滅であった。

実は義尚が病臥した時から、日野富子は密かに義材と誼を通じ、義材を義尚の代理として六角征伐に充てようと目論んでいた。義材も準備していたので、義視義材父子は早速義尚の葬儀に参列する為に上洛した。

しかし、そこに立ちはだかったのが、細川勝元の遺児細川政元であった。政元は義視父子の復帰を喜ばなかった。

政元は関東の堀越公方(義政の弟)の次男で、天竜寺の小僧であった、(きょう)厳院(げんいん)(せい)(こう)(後の十一代将軍足利義澄)の擁立を画策していたのである。

が、幕府の実権を握っていたのは日野富子であった。政務に関心のない大御所義政に代わって幕政を仕切る富子には、後の独裁者細川政元もまだ逆らう力はなかった。

義材は富子に謁見し、日野家累代の小河御所に住む事を許された。

そして、間もなく義政が死ぬと、義材は家督を継ぎ、十一代将軍となった。

父義視が果たせなかった夢を子の義材が叶えたのだが、わずか三ヶ月もたたぬうちに、富子と義視が対立する。

富子が小河御所をこともあろうに香厳院清晃に与えたのである。富子はなぜか心変りして、細川政元と手を組んだのだ。

怒った義視は河原者を使って小河御所を破却した。

 間もなく義視も死ぬ。富子まで反将軍派となるが、義材は親政を揮う。

細川政元の反対を押し切り、挫折した六角征伐を続行する。

それなりの成果を上げた義材は、席を温める暇もなく、河内の畠山基家を討つために河内に出陣をする。若い義材は六角征伐の成功で有頂天になり、細川政元が策略を廻らしている事など露知らなかった。

青天の霹靂、義材の将軍職は剥奪され、香厳院清晃が将軍に擁立され、十一代将軍義澄となったのである。

これが明応の政変である。

畠山政長と尚順父子は最後まで義材に忠誠を尽くした。力及ばず政長は自刃し、尚順を逃がすも、義材は捕らわれてしまう。

時を同じくして、都では義材派の寺社や邸宅が根こそぎ破壊された。その陣頭指揮を執ったのは日野富子であった。政元の屋敷に詰め切りで、破却、放火、略奪を命じ、暴虐と迫害の限りを尽くしたのである。

哀れをとどめたのは、義材の姉が尼御所たる通玄寺と言う尼寺であった。尼御所以下尼僧らすべて、ことごとく衣装を剥ぎ取られ、寺から抛り出されたのだ。

尼僧たちは筵を身にまとい、あるいは経典を身体に巻きつけて、路頭をさ迷った。前代未聞の出来事であった。

富子の義材に対する憎悪は凄まじく、政元に義材殺害を迫ったが、さすがに政元もそこまでは躊躇い、島流しですませようとした。

富子の毒殺の魔手に怯えた、あの恐怖と絶望の座敷牢から、今思ってもよくぞ脱出出来たものだと、輿の中の義尹は思う。

あれから十五年、座敷牢を命からがら脱出した義材は、流浪を重ねた。義尹と名を改めて運が開けるかと思ったが、大内義興はなかなか腰を上げてくれず、将軍復帰を何度諦めかけたことか。義興を口説くのに七年もかかったのだ。

だが、その甲斐あって、今まさにこの世で未だかつて誰も手にした事のない、信じられないほどの幸運に手が届こうとしていた。

かつて退位した天皇が、後に重祚して復位した例はあるが、廃位した将軍が復帰した例は後にも先にも足利義尹ただ一人である。

その二度将軍を勤める前代未聞、空前絶後の奇跡を、都大路を埋め尽くした群衆もまるで我がことのように喜んでくれている。流離する貴種の物語が大好きな人々は、当然の如く熱烈な判官贔屓でもあった。

(見たか、日野富子よ。民の笑顔を。聞いたか、細川政元よ。民の歓呼の声を。貴様らは一度たりとも味わったことはあるまい)

が、義尹は勝利に酔いしれてはいなかった。

もし富子や政元が生きていたら、今の幸運が転がり込む事はなかったと分かっていたから。義尹が勝ったのは長生きしたからに過ぎないことを自覚していた。歓喜の渦の中にあっても、感慨は至極平凡なものであった。

(長生きはするものだ)

その夜、大内義興も一万の兵を率いて入京した。

1572783130354Inked1572783232365_LI
10月13日                  10月14日
イチゴ畑に植えたニンニクが芽を出す。
サラダほうれん草は今年から抜かないことにする。株元から切り取る。すると間もなく新しい葉が伸びて来るのだ。こんなにお得なことをどうしてこれまで誰も教えてくれなかったのだろう。ネットで教えてもらった。
Inked1572783281762_LI1572783339865
10月15日                  10月19日
次郎丸ほうれん草の第二弾を播く。線内のポチポチが種。この上にもみ殻を被せる。
スナックエンドウの種も播く。
15727834385291572783478072
10月19日                                           10月21日
左からマゲニマイナとガイニマイナ、セロリ。一列の穴が手前からつるなしスナック2号、つるなしインゲン(ブロンコ菜豆)、つるなし赤花絹莢。
季節外れのイチゴに花が咲き、実まで出来る。暖かいからだろうか。
15727835636731572783621424
10月22日
ニンニクが伸びる。脇芽が伸びたやつは芽かきをしないといけない。5㎝の深さに植えてあるから指を突っ込んで手探りで引き剥がす。爪が真っ黒になる。面倒なので4、5本やったら嫌になり、まだ3本ぐらい放り投げている。
15727835217971572783659929
10月22日                  10月28日
今秋の柿はわが家のぼろ柿の木にしてはよく出来た方。去年は数個しかならなかったから。よそは凄い。どの家も枝もたわわに柿の満艦飾だ。TVで柿は一年ごとに不作と豊作を繰り返すと言っていたから、今年は生り年だったのだ。しかし、どの家も柿を食べている気配がない。余りにも沢山なっているので少々食べても減ったことが目立たないのかも。柿は一日一個食べれば一日分のビタミンCが摂れるので、毎日一個食べている。わが家の柿がなくなっても、隣や畑先生の柿を勝手に採って食べていいことになっている。
サニーレタスのトウが立ってしまった。早く植えたので、成長が早くこんなに大きくなってしまった。食べた食べた。次々と葉っぱをむしり、朝食にサンドウィッチを食べる日は玉レタスとサニーレタスの葉っぱを坐布団のように挟んで食う。引っこ抜く。
15727837384091572783698661
10月30日                  左:極早生玉ねぎ  右:晩生玉ねぎ
サニーレタスを抜いた跡に玉レタスの苗を植える。もう養分のない処に植えて育つはずがないので、穴の部分の土を掘って捨て、市販の野菜の土と入れ替える。こんな姑息なことをしてうまく育つかどうかわからないが、後は追肥をしながら様子を見る。そんなことでもしないと、この穴は来年の春までずっと遊んでいることになる。少しずつ時期をずらして植えた苗も年末までには食べきると思う。
10月29日に極早生玉ねぎ(スーパーハイゴールド)50本を植えるが、これが前代未聞の大失敗。贔屓の田中種苗では極早生は100本束でしか売ってなくて、仕方なく近所のホームセンターで50本束を求めたのだが、これが売れ残りの半額のさらに2割引きというトンデモお粗末苗。黄色く変色して枯れかけている。よほど他の店を回ろうかと思ったが、早く玉ねぎを植えて、秋の農作業を終えたくてままよと買ってしまう。ネギは強いから大丈夫だと思ったのであるが、右の11月1日に植えた、晩生の(もみじ3号)100本と比べたら色と勢いの違いは一目瞭然。
11月5日になって、極早生は枯れたり、茎が腐ったりしたのが出て来たので、また別な店で50本束の極早生(貴島)を買って来て、25本ほど植え替える。安物買いの銭失い。二度手間でうんざりした。
15731107742311573110812555
豆類は芽が出で育ち始める。
15731108424621573110871749
大根はもうこんなに大きくなったがまだ少し早いかも。
サラダ蕪はマルチの穴からはち切れんばかりに育つ。11月8日にサラダにして食べる。美味かった。
15731109084691573110949542
11月4日                   11月4日
ほうれん草の第2弾が芽を出した。今年のほうれん草は出来が良くない。どうやら石灰が足りなかったようだ。本を読むと、日本の土壌は元々酸性が強いのでしっかり石灰を撒いてアルカリ性にしないといけないのだそうだ。畑先生は畑一面真っ白、厚化粧の白粉のように石灰を撒く。いつも半ば呆れて見ていたが、あれが正しかったのだ。来年からは素直に見習おう。
隣の写真は、手前が春菊で向こうが人参。春菊はどんどん食べている。人参はまだ細いが、この分なら食べられそうなのが出来そうな雰囲気である。
1573110988058
イチゴの葉に大きな毛虫を発見。ニンニクを植えたら虫が来ないと言う話ではなかったのか。しっかり大きい奴が来て、葉っぱをむしゃむしゃと食っておった。
Inked1573111016746_LI1572783788636
左がブロッコリー・スティックセニョール。真ん中は最初に出来た茎を取った跡。次々と新しい茎が伸びて実をつける。長く伸びた茎も食べる。右が従来の普通のブロッコリー。こちらは収穫してしまうと、後は小さな子供の房が出来るが、大して美味くはない。それに比べ、スティック・セニョールはどんどん茎が伸びて房をつけるから、取れ高も大きいし、お得感がする。去年作った鈴なりブロッコリーも小さな房が沢山できるだけで食感がいまいちだったが、セニョールは長い茎も一緒に食べられるので食べたと言う感じがするのである。茎も柔らかくて美味しい。
ようやく一段落してほっとしたところ。後は追肥をきちんとすること。無駄にしないようにせっせと食べること。

15697375691701572525665928
お彼岸頃                    10月16日
小さい写真で良く分からないが、赤い帯が彼岸花。今秋の彼岸花は遅かった。昼食前に妻と彼岸花を眺めるために外へ出た。以前は20分近く車椅子散歩をしていたが、近頃はすぐに寝るとか、帰ると言うので外へ出るのも気分転換程度である。もう5カ月も外泊をしていない。父の葬儀で休んでから外泊の世話をするのが辛いと思うようになった。先日、同じ女房介護をしている仲間のAさんは「しんどいだろう。自分も本当にしんどい」と言っていた。思わずAさんの顔を見る。毎日来て、昼食の世話をして、車椅子の散歩をしている人で、儂は密かに畏敬の念を抱いている。その人でもこんな弱音を吐くのかと意外に思ったのである。儂より四つ上なのだから無理もないと思いながらも、「しんどい」のは儂だけじゃないと少しだけ救われた気持ちになる。お互いに頑張ろうとは言わない。さりげなく労わりの言葉を交わしている。
妻に対しては、外泊させてやれない分はせめて出来るだけのことはしてやりたくて、晴れた日は必ず外の空気に触れ、お日様に当たるようにしている。そこまではいいのだが、儂は人間が出来ていないからつい余計な一言が出てしまう。妻の「気持ちいい」と言う一言を聞きたくて、「気持ちいいだろう」と、催促がましいことを言ってしまうのだ。「気持ちいい」と言ってくれると、来た甲斐があったと満足するのだ。さもしい男であることよ。

10月16日
妻の誕生祝い。10月は妻の誕生月なので施設がくら寿司から寿司を取り寄せ、お祝いをしてくれた。儂も御相伴できる。ケーキも二人分出る。実は10月は儂の誕生月でもあるので合同の誕生祝いをした次第。年を取って嬉しくはないけれど、妻にとってはこのような何か目先の変わるハレの日があることはいいことなのである。
15725252489941572525185073
遠くに小さく見えるのが幼稚園児の散歩。妻は子供が大好きなので側に行ったら、幼稚園児が野の花をくれる。帰りは特養の前まで幼稚園児に車椅子を押すのを手伝ってもらう。バイバイ。手を振って別れる。
15725251401841572525056925
10月26日
特養のお祭り。敬老会は中学生のコンサートだったが、この日は小学生のコンサートとお決まりの安来節。バザーもあり、出店のたこ焼きとビールでお昼。こんな昼食があってもいいだろう。
15725249666241572524903814
                          10月27日
バザーの会場。この他にもまだ衣類など格安で販売。人気でこのあとすぐに満員になる。今年もお手伝いでお買い上げ品の袋詰めを手伝う。三年連続袋詰め。袋詰めのプロになる。
10月27日
この日は日曜日。水土日を特養に行く日と決めているので、この日も特養へ。天気が良かったので小学生の野球の試合を見に行く。
15725254049791572524816114
10月30日                    10月30日
食後の果物として水土はリンゴを届けることにしている。ちゃんと塩水に漬けてから持って行く。この日、特養へ着いたら、丁度風呂から上がったところであった。ドライヤーで髪を乾かしてやる。散髪もしたばかりで短くカットしてもらっていたのですぐに乾く。


録(21


2007.4.2

(TVに出演していた○○大学教授△△☆☆子を見て)

「私、ああいうのになりたいの。出たかったの。私には○○大学というのがないけど」

(妻は大学へ行きたかったと悔やんでいた)

2007.4.26

(ベッドに寝かせる時)

「モモちゃん(犬)が可哀想だなと見てる。私が何もできないから。私は可哀想なの」

2007.4.28

「私がしゃべるとうるさいなて顔をするよ。でも、モモちゃん、私、しゃべり続けるよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お父さん、やせないでよ。やせると貧相になるから。一杯食べさせるから、あんなやせた年寄りにならないでよ」

2007.4.30

(台所に立っていたら)

「お父さん、精彩がないよ。元気ないよ。デパート行って何か食べたら」

2007.5.1

「お父さん、疲れて帰って食事の世話をしてるなんて、人には言わないでよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「黒アンパン買って来て。私の頭の中には黒アンパンしかないの」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こんなこと医療関係者のお父さんしかできないもんね。オムツ替えたり、パジャマ着せたり、みんな、いやだもんね」

※なぜか、時々、儂は医療関係者と言う職業になる。

2007.5.3

「私、立って歩けそうにないから、ギョウザ買って来て。ギョウザ10個とシャケとつけもの」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ワームてなんだっけ」と、妻が聞く。

「虫だよ」

「だめだ、だめだ、虫も忘れちゃって」

2007.5.5

「パパちゃんいないから、お金ないから、くそっと思ったよ」

(子供時代を思い出して)

・・・・・・・・・・・・・・・

「かぼちゃが入ってないよ」

「入ってたよ、さっき食べたよ」

「ごめんね、モモちゃん、お母さん、最近すぐ忘れちゃうの」

2007.5.7

(ヘルパーさんに)

「朝は体が固まっていて、動かすと痛いの」

2007.5.8

(TVのお天気姉さんを見て)

「こういうの見てさ、今日はデートかなって。脱ぎやすい服着てさ、こいつら、みえみえじゃん」

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「母の日にワンピース買って」

「カーネーションじゃだめ?」

「それじゃ、金かからんでしょ。万する服、買って」

2007.5.9

(ベッドの妻が)

「ジャッキで起こして」

「(面倒なので)少し休んでてよ」

「いない方がいい。出て行け」

・・・・・・・・・・・・・・・・

「ありがとう」

「いいんだよ」

「いいんだよなんて言ってくれるのお父さんだけよ。お父さん、オンリーワンだよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・

「この頃、私、お父さんに優しいでしょ。大好きなの。このところ、お父さん、私に優しいでしょ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私も写経やってみたい。病気がよくなりたいでしょ」

(昔、よく写経をしていた。子供が中学受験の時も)

・・・・・・・・・・・・・・・・

「私はママちゃんに産んでくれてありがとうと言うよ。パパちゃんと結婚してくれてありがとう」

2007.5.12

「私も小学校の時、独唱したの。子狐コンコン山の中~。でべそでしょうがなかったの。運動会ではいつも選手で」

・・・・・・・・・・・・・・・・

「お父さん、お母さんになったことないからわからないのよ。自分の子がどれだけ可愛いか。焼きそば作って待ってなきゃ。もうすぐ帰って来るから」

2007.5.15

「爪つんでやろうか」

「うわあ、しあわせ。朝から爪切りしてもらうなんて。○○ちゃん(娘)に写真撮ってもらおう」

2007.5.16

「一服してから出かけようか。とっこおばちゃん(母の妹)が待ってるよ。向こうへ行ったらすぐにお風呂に入れるよ」

・・・・・・・・・・・・・・

ベッドに寝せてやる。

「優しくしてくれてありがとう」

「ハイハイ」

「二度返事はダメ」と、ビンタされる。

2007.5.19

「お父さん、下駄箱の中からアンパン取って来て。下駄箱の中にあるの。パン屋さんが下駄箱の中に置いて行くの」

2007.5.30

「植物て大きくなるから楽しいね。嬉しいね。収穫の時はもっと嬉しい」



 

↑このページのトップヘ