曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2019年10月

皆から痩せたと言われたのが一カ月前。

そりゃあそうだ。カレーライス、焼肉、ステーキ、天ぷら、ハンバーグ、ころっけ、メンチカツ、シチュー、ラーメン、麻婆豆腐、ギョウザ、スパゲッティ等々この世の美味珍味御馳走を断ったのだから痩せない方がおかしい。
魚と野菜とササミだけでは味気ないことこの上なし。豚ヒレは脂質が低いことは分かっていて、トマト缶をぶちまけて、その中で炒めて食っていたのだが、さすがに飽きてしまっていた。
そこへ、妹が助っ人に来てくれたので、何でもいいから目先を変えてくれと頼む。
それが、925日のこと。
妹はヒレを1センチくらいにスライスしてフライパンで焼き、ステーキソースで食わせてくれる。なんと涙がちょちょぎれるくらい美味い。なんたってステーキの味がするのだから。久しぶりに肉そのものを食べた実感に感激して、78枚は食っただろうか。
その夜のことである。胃が異様に重い。軽い吐き気がして、気分が悪い。胃が痛むような気もする。膵臓が悪いと空腹時や食後に膵臓が痛くなると書いてあったから、たちまち不安になる。大食いも膵臓の為にはよくないとも書いてあったことを思い出す。やばい。膵臓が悲鳴をあげたのかなと不安になる一方。そうだとしても対処のしようがない。そうこうしているうちにますます気分が悪くなり、眠れない。胃の不快感だけでも解消するべく薬箱を引っ繰り返し、エビオスを見つける。10錠ほど飲んだら翌朝には胃はすっきりしていた。ただの食べ過ぎだったのである。

8分は物足りないのだが、これも守らなければならないことを再認識する。痩せるのは仕方ない。 

101日はかかりつけ医に月に一度、中性脂肪の薬を貰いに行く日。何年も前からコレステロールと中性脂肪の薬を出してもらっていたが、一年前からは中性脂肪の薬だけ貰っている。この薬は中性脂肪の数値を下げるのが目的ではなく、中性脂肪の粒を小さくする薬である。

丁度831日の血液検査の結果が出ていて、中性脂肪130HDL40HDL103 。思わず目を疑う。中性脂肪も悪玉コレステロールも半減していたのだ。
痩せた結果がこれなのだ。わずか2ヶ月魚と野菜で過ごしただけでここまで見事に減るとは。
要は食わなければ減るのだ。これは妻が倒れた時に体験した事であった。その年、儂は食事が喉を通らず、一年で7㎏体重が減った。その時も中性脂肪とコレステロールは半分以下にまで落ちたのであった。しかし、魚と野菜だけは辛い。魚もうなぎやトロやぶりなどは脂質が高すぎて食えないのだから。鮭と鯵と鱈やカレイばかりである。ささみとヒレがレパートリーに入ったがもっともっとメニューを増やさないことにはいずれ限界が来る。
こうなることは分かっていたので、9月に入ってからはスーパーやコンビニに行くたびに、何か脂質が低くて、美味しく食べられるものはないかと探していた。すると、いくつか我がワンパターンの変わり映えのしないメニューに彩を与えてくれるものを発見したのである。お助けフードである。
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左がローソンで見つけた『鶏ささみ蓮根』。右がセブンイレブンで見つけた『サムゲタンスープ』とスーパー・ダイレックスで見つけた『馬肉の大和煮』
ササミの焼き鳥なんて、まともな体なら馬鹿馬鹿しくて、「焼き鳥じゃねえ、食えるか」だけど、今の儂にしてみたら、「美味い!涙が出る」。肉気が足りない時や、何か一品おかずを増やしたい時、とても重宝している。
『サムゲタンスープ』は鶏のサラダチキンを入れて食べるための商品である。自分流に野菜を一杯ぶち込んで食べるとこれも目先が変わって、夕食が少し楽しくなった。
馬肉の缶詰は以前紹介したが、自宅で昼飯を食べる時のおかずに重宝している。
こうして、色々さがしている時に珍品の缶詰を見つけた。
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「馬と鹿のばかやろー」缶詰に「熊の大和煮」缶、「いのしし」、「トド」、「えぞ鹿」の缶詰である。どこで見つけたかと言うと、10月6日に本山参りに行く途中の「蒜山サービスエリア(上り)」である。馬肉は脂質が低いことは分かっていたので、果たして熊やイノシシ、トド、鹿はいかにと胸ときめかせて商品を手に取ってみたが、鳥取の山奥で作っている缶詰で、脂質なんてシャレた成分表示はしていない。しかも、値段がすごい!!!!「バカヤロー」760円、「熊」870円、「イノシシ」760円、
「トド」865円、「エゾ鹿」865円である。しかも普通の缶詰よりも小さいのだ。昔、鹿のステーキは食ったことがあるが、熊とトドは食ったことがない。よほど買おうかと思ったが、高い肉を買って、脂質も高かったら目も当てられないので、我慢した。
右の写真はと言うと、10月7日、同じ「蒜山サービスエリア(下り)」で同じ缶詰を見つけてパチリ。
値段を見て欲しい、一律1100円である。思わず笑ってしまった。一体この缶詰の正価はいくらなんだろう。
脂質が低いことが分かったら、熊とトドの缶詰は話のタネに買ってもいいのだが、それにしても値段が高すぎる。

ところで、このところ、ローソンで「鶏ささみ蓮根」焼き鳥を見ない。季節商品で販売が終わったのか、それとも不人気で販売中止になったのか、折角重宝していたのにがっかりしている。「サムゲタンスープ」も置いてある店は一軒だけである。どう考えても売れ筋商品とも思えず、その店に行って、置いてあるときは恥も外聞もなく買い占めている。
お助けフード探し茨の道である。

第三章 戦国擾乱(じょうらん)(9

 

 京極邸では喪に服した静かな正月であった。

 連夜続いていた吉童子丸の発作も、この頃には一日おき、二日おきと遠のいていた。

 ある夜、襖越しに吉童子丸の眠れぬ気配を感じた辰敬はそっと声を掛けた。

「眠れませぬか」

 返事はなかったが、もぞもぞ動く気配は続くので、

「失礼します」

 そっと襖を開けるとぴたっと気配は止んだ。

射し込む薄明かりに、暖かそうな麻の衾を顔まで引き被った吉童子丸の寝姿が浮かび上がった。衾の下の瞼がぴくぴくと動いている。

辰敬はにたっと笑った。

「何か物語でもいたしましょうか」

 目を閉じたまま返事はない。

「物語はお嫌いですか」

 ぎろりと片目が開き、

「当たり前じゃ」

 背を向けると、

「三年寝太郎や一寸法師などくだらぬ。馬鹿にするな」

 怒ったような声に辰敬は破顔した。女房衆が語る話にうんざりしていたのだ。六歳で御屋形様の前で将棋を指した辰敬は、明けて八歳になる吉童子丸の幼さを物足りなく思っていたのだが、ようやく手応えのある声を聞く事が出来たのである。

 辰敬の胸中に懐かしい物語の泉が滾々と湧き出でると、たちまち胸一杯に溢れんばかりに広がって行った。

 辰敬は寝所に入ると、吉童子丸の傍らに坐し、身を乗り出した。

「なれば、とても面白き物語をして差し上げましょう。三年寝太郎や一寸法師のような作り話ではございません。この世にあった、本当の物語でございますよ」

 うっすらと片目が開いた。疑わしそうな目であった。

「若様は京極家の御先祖様のお話をお聞きになった事がございますか」

「……忘れた」

 恐らくこれもおまんや女房衆から聞かされたのであろうが、黴臭い話であったろうことは想像がつく。興味なさそうに衾に潜り込もうとしたので辰敬は焦った。

「それは勿体のうございます。草紙などよりもっともっと面白い話が山ほどありますのに。一度聞いたら二度と忘れぬ話ばかりでございますよ。公方様を初め、高名な武将や偉い人たちがいっぱい登場するお話でございますよ」

「汚い。唾がかかる」

 吉童子丸が手を払った。

「あっ、申し訳ございません」

 しかめっ面で辰敬を睨むと、

「……さっさと話せ」

 辰敬は思わず声を張り上げた。唾を飛ばさないように。

「今を去る事、三百年以上も昔の事でございます。公家の世が終わり、源平の戦いを経て、武士の世となる時のお話でございます。若様は京極家の御先祖様は佐々木姓を名乗っておったことはご存知ですか」

 吉童子丸はちょっと小首を傾げ、微かに頷いた。

「宇多天皇の皇子敦実親王の曾孫源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住したので、佐々木氏を称したのです。佐々木一族は繁栄し、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた時、大いに力となったのです。その佐々木一族の名を高め、今も語り継がれるのが『宇治川の先陣争い』でございます」

 辰敬は昔、富田城下の守護所で、御屋形様の話を聞いた時の事を思い出しながら話を継いだ。

「源義経が宇治川まで攻め寄せた時、源義仲は対岸に陣を敷きました。宇治川は急流で知られた大きな川です。轟々と音を立てて流れる川の向こう岸には、弓を揃えた大軍が待ち構えています。さしも勇猛な義経勢も渡河を躊躇った時、敢然と先陣を名乗り出たのが、京極家の先祖佐々木定綱の弟四郎高綱だったのです。すると、その時、『あいや、待たれい。佐々木殿』と、功名は譲らじと名乗り出たのが梶原(かげ)(すえ)なる武将でした。高綱は名馬生喰(いけづき)、景季は名馬(する)(すみ)にうち跨り、我先にざんぶと流れに乗り入れたのです」

 ふと辰敬の声が止んだ。余りの静けさに気勢を削がれたのである。面白くないのであろうか、心配そうに辰敬はそっと吉童子丸の表情を窺った。衾の下から覗く目が、先を促していた。

 辰敬の声が弾んだ。

「『はいどう、はいどう。負けるな、生喰』ところが、飛び来る矢を交わそうとした時、生喰が流され、高綱は後れを取ってしまったのです。『しまった。このままでは負ける』さあ、高綱はどうしたでしょう……」

 吉童子丸がぬっと顔を出すと首を傾げた。

「……咄嗟に景季に声を掛けたのです。『梶原殿、腹帯が緩んでおりますぞ』景季が思わず馬の腹帯に気を取られている隙に、高綱はまんまと景季を追い越したのです。これを騙したとは言いますまい。嘘も方便です」

 辰敬は御屋形様と同じ事を言ったのに気が付き、無性におかしかった。

「高綱は降り注ぐ矢をものともせず、見事に先陣を果たすと、義仲勢を散々に蹴散らしたのじゃ

 いつの間にか出雲弁丸出しとなり、唾が飛ぶのも構わず、喋り続けていた。

 こうして辰敬の物語は連夜に亘って続き、いつしか女房衆の間でも面白いと評判になっていた。

 宿直するのは辰敬だけではない。女房衆も控えている。吉童子丸の寝所から漏れて来る物語に、皆、聞き入っていたのである。

 物語は進み、御先祖様の中でも、最も楽しく、最も胸躍る人物。目も眩むほど光り輝く、桁外れな武将。京極導誉の婆娑羅ぶりを語っていた或る夜のことであった。

音もなく襖が開き、ふわっと御屋形様が現れた。青白い顔をして、白い絹の寝衣にくるまった御屋形様は、季節外れの冬の幽霊のように見えた。

「大層な評判と聞いてな、みも聞きとうなったのや」

 そう言いながら入って来ると、政経は吉童子丸の傍らに座ろうとして、ぐらりとよろめいた。近習が咄嗟に支えて座らせたが、政経は軽く咳き込んだ。

「御屋形様、今宵は冷えまする。御無理はいけませぬ。次の機会にしては如何でしょうか」

 近習は心配したが、

「わぬしは心配症やなあ。温かくすれば大丈夫や」

 手あぶりを運び込ませると、政経は手あぶりを抱き抱えるようにして暖を取り、辰敬の話に聞き入ったのであった。

 このところ体調が優れないと聞いていたので、辰敬は御屋形様の様子を気にしながら話を続けた。

 やがて、眠ったように目を閉じた青白い顔にうっすらと紅が差し、時折り相槌を打つように頷くのを見て、辰敬は少し安心した。

 導誉の物語の一つが一段落したところで、御屋形様が目を開けると、辰敬に向かって感じ入った声を発した。

「よう覚えておるのう」

 じっと見詰め、あのたまらなく柔らかい、辰敬が大好きな笑みを浮かべた。

「その方にはたくさん話して聞かせたものや。まさかあの時の話をその方がこうして吉童子丸にしてくれるとはのう……思ってもみなかったことや。たくさんたくさん話して聞かせた甲斐があったと言うものやなあ」

 辰敬ははにかむように頷いたが、心の中は誇らしさで一杯だった。本当は胸を張って自慢したい気分だった。

出雲の守護所の二年間、辰敬は御屋形様の語りを一言半句聞き逃すまいと、全身を耳にして吸収したのである。長じて得た知識も加わり、御屋形様の話は辰敬の血となり肉となって、五体に沁み込んでいるのだと……。

昔、辰敬に注がれたのと同じ慈愛に満ちた目が、今また孫の吉童子丸に注がれるのを見て、辰敬も御屋形様の話を聞いた時の幸せを噛みしめていた。

語り部は変わったが、出雲の守護所の座敷が、時を経て都の一部屋に甦ったようであった。

 辰敬はまた導誉の物語に戻ったが、喋っているのが自分ではないような気がしていた。自分の身体を通して、御屋形様が吉童子丸に話しかけている。無性にそんな気がした。身ぶり手ぶりや口ぶりは、御屋形様そっくりになっていた。話の途中で、いたずらっぽく笑いかける時の目つきまで。

 

 数日後の昼下がり、珍しく暖かい日であった。辰敬は政経に召し出された。

 政経の傍らには吉童子丸が坐し、政経の前に一抱えほどの平たい四つ脚の唐櫃があった。四つ目結いの紋の入った漆塗りの唐櫃である。

 政経は体調もいいのだろう、機嫌も良かった。

「今日はのう、お前達にとっておきの物を見せてやろうと思ったのじゃ」

 思わせぶりに、吉童子丸と辰敬の顔を見ると、にやりといたずらっぽく笑いかけた。

「我が京極家の宝じゃよ」

 辰敬と吉童子丸は思わず政経を見詰めた。

「開けてみよ」

 辰敬は膝行すると、両の手をおずおずと差し伸べた。胸の内は期待ではち切れんばかりであった。

 京極家の宝とは……一体どんな物がはいっているのであろうか。

 触れたら指の跡がつきそうな蓋を、震えながらそっと持ちあげると、ふわっと辰敬の良く知っている匂いが湧き出るように舞い上がった。

 古紙が放つ特有の匂いである。それも、墨と紙魚の沁み込んだ大量の紙が放つ匂いであった。

 辰敬はそれが公典の為に集めていた反古の匂いとは異なる事にすぐに気がついた。遠い遠い昔の匂いを嗅ぎ取ったのである。

 果たして現れたのは古色を帯びた沢山の文書の束であった。

 黄ばんだ紙に残る墨痕を一目見ただけで、辰敬はずしりと重さを感じた。墨で書かれた文字に過ぎないのだが、金や銀にも負けない輝きと重みが滲み出ているのだ。辰敬はそれが歴史の重みと言うものである事を理解できる年齢になっていた。

「佐々木一族の代々證文や」

(代々證文)と、辰敬は胸で反芻したが、吉童子丸は当惑した顔で眺めていた。

 政経は二人の顔を見比べると、吉童子丸に分かるように優しく説明した。

「我が佐々木一族の歴史を語る文書や」

 文書は包紙に入っているが、その包紙も破れかけた物もあった。新しい包紙は取り替えて包み直したものであった。

包紙のない文書もあって、竪紙の立派な文書もあれば、折紙や簡略な切紙の文書もあった。裏打ちして修理した文書もある。

「そうやな、まずはこれや」

 政経は一通の文書を取り上げて広げた。

「出雲守護職の事。

早く先例に任せ、沙汰致すべきの状、くだんの如し。

康永二年八月二十日

佐々木佐渡大判官入道殿」

 と読み上げると、辰敬に問うた。

「この佐々木佐渡大判官入道が誰か判るか」

「佐々木導誉、後の京極導誉でございます」

 間髪を入れず答えると、御屋形様は嬉しそうににこりと頷いた。

「等持院様足利尊氏公が佐々木導誉に出雲守護職を沙汰するようにと命じた文書や。実はな、それ以前に佐々木高貞が高師直の陰謀で滅ぼされたのや。それを再び我が佐々木家が取り戻したのや。これ以降、出雲は紆余曲折はあったが、佐々木家即ち京極家のものとなったのや」

 政経はその後も次々と佐々木家に下された文書を見せてくれた。流石に鎌倉の世が始まった頃の文書は残っておらず、末期の文書が数通あるだけで、殆どは室町幕府が開かれる頃からのものであった。

所領を安堵する書状が山のようにあった。戦の感状もあれば、佐々木家が幕府や幕府高官に送った書状もある。名のある武将達の名がきら星のように連なっている。

佐々木家が分国の有力者や寺社に発給した文書もある。相論を裁いた判決文もある。段銭の徴収を命じる文書もあった。

 初めは圧倒された辰敬も、文書を見せられるうちに虚しさを抑える事が出来なくなった。

 この多くの土地はもはや失われ、多くの人達も京極家から離れてしまっていた。

されど……。

「……佐々木一族の血と汗の歴史や。佐々木一族の命や。それゆえ、佐々木一族の棟梁が所持する事になっておる。これこそが佐々木一族棟梁の証し。我が京極家こそが佐々木一族の正統を証する物や。金で値はつけられぬ。どんな宝にも勝る宝なのや」

 この文書は御屋形様にとっては宝物なのだ。何物にも代えがたい紙の宝物。

 変色して黄ばんだ紙の宝物は、障子越しの明りを受けて白く輝いていた。梅の香も忍び込み、その一枚一枚に愛しむかのようにはかない香りを移した。

 縁先で鶯が啼いた。

 その日の夕刻、辰敬が常御殿を退出しようとした時、多聞に呼び止められた。

「ちょんぼし(少し)聞きたい事があるのじゃが……」

 辰敬の記憶では多聞が不意に現れた時はいつも何かがあって、叱られる羽目になっていた。普通に世間話すらしたこともなかったので、こんな風に、しかも遠慮気味に声を掛けられると何だか妙な気分がした。何だろうと先を行く多聞に付いて行くと、多聞は空を見上げた。

「わぬし、代々證文を見せて頂いたそうじゃなあ……」

「はい」

 多聞の足が止まり、

「で、どうじゃった」

 ついでのように聞いて来た。

「はあ……」

 漠然とどうかと問われても、どう答えたものか困惑していると、

「どんな物じゃったかと聞いておるのじゃ。間近で見たのじゃろう」

 多聞が振り返った。

「ああ、はい、黴臭かったです」

 多聞の眉が曇った。ため息を漏らすと、蔑むように辰敬を見下ろした。

「それがわぬしの……」

 多聞は絶句した。その目にありありと浮かぶ失望の色を見て、辰敬は失言を悟った。

慌てて言い直したが、

「京極家の宝物じゃ」

 かえって間の抜けた事を言ってしまった。

「そんなことは分かっておる」

 多聞は憤然とした。

(しまった。また多聞さんを怒らせてしまった)

 狼狽した辰敬はさらに言わずもがなの事を口走ってしまった。

「あのう、多聞さんは見た事がないのですか」

 多聞はむっとした。

 辰敬は俯き、首を竦めた。

(何て馬鹿な事を言ってしまったのだろう)

気まずい沈黙が続いた。

「果報者め」

 言い捨てると、多聞は足早に立ち去った。

 その後ろ姿を見て、辰敬は多聞が焼きもちを焼いていた事を知った。辰敬ごときが代々證文を見せて貰った事が羨ましかったのだ。

(多聞さん、まるで子供みたいだ)

辰敬は笑ってはいけないと思いながらも笑みを禁じえなかった。あの黴臭い黄ばんだ文書は多聞にとっても紙の宝物なのだ。

その紙の宝物を特別に見せて貰った喜びを、辰敬は独り噛みしめるのであった。

昨日、この記事を書くつもりだったが、スコットランド戦を見てしまい、それどころではなかった。高校時代はサッカー部だったがラグビーも好きなのだ。あんなに弱かった日本ラグビーがここまで強くなるとは。外国人が入っているが違和感はない。高い志を持ってともに励む者は仲間である。志を高く持つことの大切さ、それを実現するための日々の努力の大切さを教えられた。
と、いう訳で、志は高いのだが、努力が足りない男の一日遅れのブログです。
その前に、この間の畑の様子はと言うと、
10月5日 大根の間引き菜を油揚げと煮る。間引いた葉っぱも捨てるのは勿体ない。
レタスも第一号を収穫する。苗を植えて一ヶ月で食べられる。それはいいのだがレタスも良く見たら青虫が3匹いて蛹になったものが1匹。
近所の畑をモンシロチョウが2匹もひらひら飛んでいた。
10月8日 本山参りから戻ってみると、この頃からブロッコリーやレタスの青虫が次々と蛹になり、青虫が少なくなる。最高気温も25℃に届かなくなる。朝は肌寒く感じるようになる。
結局分かったことは、早く食べたくて早く植えると、モンシロチョウに卵を産み付けられてしまうと言うこと。例年のように遅く植えて置けば青虫に悩まされずにすんだのである。早く食べるために青虫に我慢するのか。悩ましいところだ。
台風19号が発生し、来るのか来ないのか日々天気予報とにらめっこ。出雲の方には来ないことが分かったが、今度の台風は超弩級で、離れていても雨と風がすごいと言われて緊張する。
10月11日 いつものようにたいしたことないと言う人もいるけれど、今度ばかりは心配になる。土曜日は半日で帰宅。午後は台風対策に使う。
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風も出て来た。ほうれん草・春菊・小松菜・人参にまた不織布を被せる。人参はまだ小さくヒョロヒョロしているので強風にあおられたらと思うと不安。隣のレタスも成長したのと遅く植えたものが混植されているので不織布の代わりに日除けを被せる。防風の役はするのではないかと。
右の写真はイチゴと大根の畝。台風15号の時、ガイニマイナとマゲニマイナを植えたマルチが風で半分ほどめくれ上がった。風が隙間から吹き込んでまるでトンネルのように吹き抜け、マルチを飛ばしてしまうのだ。そこで風が吹き込まないように土寄せする。1シーズンに2回も不織布を張るのも初めての事。と、言うか帰郷して8年、これまで台風が来ても防風対策などしたことなどなかったのだ。それだけ台風も段々強くなってきたということなのだろうか。
今回の台風の一番の重点対策は雨樋の掃除。大雨が降った時など、溢れて滝のように流れ落ちている場所があるのだが、ずっといつかやろうと延ばし延ばししていたのだ。今回やらないと大雨になった時、どんなことになるかわからない。死んだ父がこういうことにまことに無頓着だったから我が家の北側と西側の雨樋は恐らく10年以上は一度も掃除をしていないはずだ。脚立を担いで裏庭に回り雨樋を覗く。枯れ葉と土で埋まっている。西側の雨樋はもっとひどく、雑草まで生えている。
この他にもまだ枯れ草の処分もある。たまたま妹が助っ人に来ていて、庭掃除をして山のように枯れ葉や草を積み上げていたのだ。この他にもやっと乾いて来た芋のツルがこれまた山のようにある。これらが雨で濡れたら燃やすのがまた大変になる。雨樋の掃除をしながら枯れ草も燃やさなければならず、雨樋と焚火を往復する。
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焚火を見ていてふと焼き芋を作ることを思い立つ。忙しい時に、自分でもよせばいいのにと思いながら、アルミ箔で9月に収穫した安納芋で焼き芋を作る。途中、おやつで食う。美味かった。
右の写真は多分アゲハチョウの幼虫。雨樋の掃除をしていて、脚立の足元で見つける。コンクリートの上をうろうろしているので恐らく蛹になる場所を探しているのだろうと思い、これまたよせばいいのに、雨が降ったらかわいそうに思い、捕獲する。こんな寄り道しながら夕方6時前にようやく終了。燃やしきれなかった枯れ草はビニール袋に詰め込んで縁の下に押し込んで置く。
こうして11日の夜はずっと台風情報を見ていたが、出雲は多少は風が吹いたが、誰かが言ったようにたいしたことはなく、雨に至っては殆ど降らず。被災地の人たちが気の毒でならない。
台風や地震、これほど自然災害の多い国はないらしい。それもどんどん大きくなって行く。自然災害国家としての国家観を共有しないといけないのではないだろうか。

10月7日。本山参りの目的である団参供養をする。
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朝6時40分から供養が始まるので、妙心寺の隣の花園会館から脇参道を通って、妙心寺に向かう。
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広大な境内には数十もの塔頭寺院がある。そのうちの一つ微妙殿に参拝団は入る。出雲からの100余人と愛知県からの30人ほどが集まる。全員「輪袈裟(首から掛ける袈裟)」着用。特別塔婆供養を申し込んだ。父と三十三回忌の祖父と先祖代々の霊の供養。一柱千円で、申し込めるのは三柱までなので計三千円。普通お寺でお経をあげる時は臨済宗では「般若心経」と「白隠禅師和讃」が主だが、今朝は普段はあまり唱えることのない「懴悔文」や「三帰依文」「懴悔礼拝文」などもそれに加えて唱える。
その後、法話がある。今の法話は子供と見に行ったアニメ映画「Remember me」の話題や永六輔の「人は二度死ぬ」と言う言葉を引用し、とても分かりやすいことに感心する。40代後半の僧であったが、仏教界でも現代の仏教の在り方を考え、模索していることをうかがわせる。「Remember me」は骸骨の国へ迷い込んだ少年が現世から忘れられると戻れなくなる。一方仲良くなった骸骨は現世から忘れられると消滅してしまうと言う話だそうだ。「人は二度死ぬ」と言うのは、永六輔によれば「一度目はその人の死」であり、「二度目の死は子孫に忘れられた時」なのだそうだ。忘れるのが当たり前、忘れられたって構わないと言う人は必ずいるが、儂は出来たら忘れない方でいたいと思う。帰郷してこれまでは妻の在宅介護があって参加できなかったのだが、妻も特養に入ったこともあり、父が死んだ年の本山参りは供養のためにもしてやりたいと思って参加した者にとってはいい法話だったと思う。
その後、本山参りに20回と15回参加した人への表彰があり、写真をとって朝食へ。
しかし、儂ら初めて参加した10数名は法塔(はっとう)見学へ行く。
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微妙殿から法塔へ             法塔全景
法塔(はっとう)には凡そ350年前に、狩野探幽が描いた竜の巨大な天井絵が今も残っている。これまで一度もこの天井が降ろされたことはないそうだ。写真撮影禁止。許されるなら仰向けに寝て、ずっと見ていたい絵であった。この中には日本一古い鐘も飾ってあった。隠れたひびがあり鳴らすことは出来ないのだが、昔、録音した音を聞くことが出来た。鐘の余韻の深さがこの世から消え行く人の息を思わせ、魂が揺さぶられる心地がする。法塔を出たのが8時40分。
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出発は9時。法塔見学組は朝飯を食う時間が20分もなく大急ぎで詰め込む。
右の写真は妙心寺の正門。妙心寺を後にする時車内より撮影。この後は大阪難波へ。
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なんばグランド花月            劇場内売店
団参供養の打ち上げは「なんばグランド花月」。長い本山参りの歴史で「お笑い」が入るのは今年が初めて。
どうしてこう言うことになったかと言うと、去年の本山参りで、「湖東三山」まで足を延ばしたのだが、そこは米原のさらに向こうでひどく遠い処であったそうな。しかも歩く距離が長く、きつく、参加者は年配が多く、皆、疲労困憊。しかも帰りの道が渋滞し、花園会館に戻って来たのが夜の9時。それを反省し、時にはこんなツアーがあってもいいだろうと「お笑い」を組み込んだのだそうだ。
儂にとっても生の「漫才」を見るのは生まれて初めて、「よしもと新喜劇」とは言え、なまの演劇を見るのも妻が倒れてから16年ぶりのこと。漫才は「ロザン」が出て来てびっくり。宇治原が本物の漫才をしているなんて。クイズ番組の解答屋さんとしか思っていなかったのだが、ちゃんと漫才をしているので感心する。面白かった。抜群に面白かったのは「トミーズ」。「よしもと新喜劇」はつまらなかった。全然面白くない。何が悪いのかと言うと、一言でいえばキャラが立っていないことにつきる。昔の新喜劇は登場人物に独特のキャラクターが一杯いたのだが、
誰一人として面白いと言えるキャラがいなかった。
2時前に終了。
バスで秋晴れの京、大阪から、雨の山陰へ戻る。帰宅したのが7時半過ぎ。来年は11月6日、7日と決まる。
これまで町内の人たちと仲良くなるきっかけが出来なかったが、今回のツアーで心安くなり、早速、来年の「本山参り」の約束をさせられる。和尚さん、ご機嫌であった。父や祖父が「二度死なないように」。

10月6日は本山参り。我が家は臨済宗の妙心寺派。毎年秋に京都の本山妙心寺にお参りをする行事がある。山陰西教区第4部に所属する出雲市内11のお寺が檀家を集めてお参りする。我が家では数年前までは母が参加していたが老年になり欠席するようになり、儂は妻の在宅介護があって参加は無理。数年不参加が続いていたのだが、今年は父の供養もあり、行ってやりたいなと思っていたら、丁度妹が助っ人に来る日程と重なったので、母を妹に頼み参加する。
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朝6時半にお寺に集合。3台のバスが参加者を集めて、山陰道の宍道SAで合流。ここから3台一緒に一路京都へ。米子道が中国山地を越えるまでは雨が降ったりやんだりしていたが、中国道を東に向かうにしたがって秋らしい天気になる。素晴らしかったのがバスのガイド。聞いたらガイド専門の会社に属し、今回の旅行に雇われたのだが、50年配の女性だが、出雲のガイドさんなのに中国道を京都に着くまで通過する土地土地の歴史、地理、話題などを次から次へと紹介してくれる。知っている事でも記憶があやふやになっているので改めて正確に教えてもらうのはありがたい。中国道から淡路島がこんなに大きく見えるとは。見ているはずの景色なのに教えられるまで気が付かなかったことに我ながら呆れる。お昼に京都へ着き、嵐山で昼食。本山参りは明朝で、今日は昼食後に栂尾の高山寺と大原の寂光院を回る。
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京都は高校の修学旅行以来と言ってよい。一時期東映の太秦にある京都撮影所に通ったことがあるが、京都駅からタクシーで直行。打ち合わせして、ホテルか旅館で直しをして、撮影所で直しを見せてOKが出たら、即タクシーで京都駅に向かい、とっとと東京へ戻っていたので、折角京都へ行きながら名所旧跡へ足を運ぶことなどなかったのである。渡月橋も何十年ぶり。右は高山寺の日本最古の茶園の石碑。
栂尾の高山寺は初めて訪ねる。明恵上人が日本で最初の茶園を作ったので知られている。
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どんなすごい茶園かと、静岡の茶畑を想像していたら、出雲の農家が畑の片隅に作っているような小さな茶畑であった。
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高山寺は鳥獣戯画で有名な寺であった。すっかり忘れていた。石水苑の中に複製が展示してある。
この後、大原の寂光院へ。高校の修学旅行で三千院へ行ったことはかろうじて覚えているが、寂光院へ行った記憶がない。三千院へ行って寂光院へ行ってないはずはないのだが。それどころか恥ずかしいことに建礼門院が隠棲していたのが三千院だとばかり思い込んでいた。いかに高校時代古典の勉強をおろそかにしていたことか。建礼門院の悲しい人生を思い起こしながら、寂光院の門を潜るも、その寂光院が12年前に放火で全焼したことを知り、(そういうニュースを思い出したのだが)未だに捕まっていない放火犯に怒りを覚える。
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寂光院入り口                再建された本堂
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庵があったとされる場所         建礼門院が使った井戸の跡
裏は山、前は野辺と平家物語には記されている。壇ノ浦で我が子安徳天皇の後を追って入水するも引き上げられ、29歳で落飾、大原に隠棲、36歳で死ぬまで過ごした地である。
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5時過ぎに今夜の宿花園会館に着く。
この会館には本山参りの檀徒が全国から集まって泊まるのだが、山陰西教区第4部のように100人を越す団体は(今年106人、去年116人)全体の2位なのだそうだ。1位は同じ出雲の斐川地区の団体でバス5台で来るそうだ。出雲は神様の国なのに、なぜか仏徒も律儀なのだ。
宴会をして皆酔っぱらって寝てしまったので、ロビーにて。今夜はここまで。

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