曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2019年06月

6月26日中国地方がやっと梅雨入りした。統計を取り出してから、島根県が梅雨入りした最も遅い記録が、1968年(昭和43年)の6月24日だから、遅い記録を更新したことになる。梅雨は好きではないが、やっと降ってくれて、これでしばらくは畑の水やりをしなくてすむとほっと一息。
だが、降る前に一仕事あり。26日に梅雨入りするのはほぼ確定的だったので、雨が降る前に枯れ草を燃やす。雨で雑草が伸びると厄介なので、畑の雑草退治もする。最後の枯れ草の山を燃やしている途中で雨が降り出し、何とか間に合う。

6月10日の畑
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(さつま芋)             (じゃが芋)
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5月24日に植え付けたさつま芋(安納芋)に黒マルチを張る。普通は一枚の黒マルチに穴を開けて植え付けるのだが、今回は二枚の黒マルチを左右から張り合わせる。これは去年近所の農家さんがやっているのを見て、真似をしてみた。
じゃが芋(アンデスレッド)は生育が悪く(玉ねぎ)             諦めて投げ出していたのだが、ためしに少し掘ってみたら、案の定ひどい出来。理由は不明。今年のじゃが芋は完全に諦めた。
玉ねぎは坊主が出来る。こんなに坊主だらけになるのは初めて。隣近所もプロの農家の玉ねぎも今年は坊主だらけになっているそうだ。でも、理由がわからない。プロも分からないと言うのが不思議だ。
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(九条ネギ)            (切った九条ネギ)
九条ネギを放りっぱなしにしておいたら、新しい芽が伸び始める。近所の人に「早く切らなくちゃ、遅過ぎるよ」と、言われて、慌てて切る。いつも後手後手。

6月23日の畑
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(なす・筑陽)            (わけぎ)
茄子は早生なので生育が早い。今日29日までに焼きナスにして3回ほど食べる。
わけぎは山ほどできる。乾燥させ、倉庫に放り込んで置いて来年植える。
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(玉ねぎ)             (じゃが芋)
今年の玉ねぎは坊主が出来、その後、茎が立ったままであった。普通、玉ねぎは茎が倒れたら収穫する合図なので、儂は倒れるのを待っていたのだが、待てども待てども一向に茎が倒れない。一体いつになったら倒れるのだろうと思っていたのだが、ふと気が付くと、近所の玉ねぎはいつの間にか収穫し終わっていた。まだ玉ねぎが残っているのはうちの畑だけ。遅い梅雨入りもそろそろの気配があったこともあり、大慌てで引っこ抜く。味は普通。
(じゃが芋)
完全に諦めていた。葉っぱは完全に枯れてしまったが、掘る気もしなくて抛りっぱなしにしていたら、助っ人に来た妹が近所の奥さんにそそのかされて掘ったものである。案の定、アンデスレッド(赤い方)の出来は大きさも数も最低の出来。去年の2割ほどしか出来ず、すべて小粒。近所の奥さんが煮っころがしにして食べろと言うので煮てみたが、ちょっと固かった。右のきたかむいはアンデスレッドより大きいものがあったが、個数は去年作ったはるかの3割程度。
農業は分からないことばかり。

今日、29日は父の49日法要。
法要に来た親戚の農家がトマトをくれたが、今年はなぜか出来がいいと言っていた。出来のいい理由は分からないと言う。プロでもこれだから、儂らに玉ねぎやじゃが芋のことが分かるはずがない。
夜になって、予報通り大雨になる。しばらく雨が続きそう。真面目な人はなにやかや植えたり、種を播いたりしているが、儂は9月までは何もしない。一年中、休みなく作り続けるのはきつ過ぎると思うようになった。

4月22日に「すい臓がんドッグ」でMRIを受け、許容度ぎりぎりの大きさの嚢胞が見つかり、5月に「超音波内視鏡検査」を受ける予定になっていたが、父の葬儀で延期し、6月20日に1泊2日の検査入院した。
実はこの前、6月初めに4月の検査の結果が送られて来た。
カナダに血液を送って、検査してもらった結果である。すい臓がんリスクは『高リスク』と判定される。これは長鎖脂肪酸の長さでガンの進行度を測るもので、悪化すると長鎖脂肪酸が短くなるのだそうだ。
儂の場合これがレベル6と大幅に短く、高リスクと判定された訳だ。
高リスク レベル0~10
中リスク レベル11~25
低リスク レベル26~100
『膵粘液性のう胞腺腫』の疑いがあるので、予定通りに「超音波内視鏡検査」を受けるようにと通知があった。
この検査は、胃の中に超音波内視鏡を通して、より近い場所からすい臓を検査するものである。胃から針を通してのう胞から液も採取して検査もする。今日、午後から検査を受け、結果を言えば『問題はなかった』そうだが、嬉しいような拍子抜けしたような妙な気分になる。
それはそうだろう、6月初めに高リスクと判定された結果をみたら、だれでも「アウト」と思うだろう。儂は今日の結果で、「余命3年」とか「余命5年」と言われるものだと覚悟していたのだ。普通ならショックで落ち込むところだが、儂の場合、それどころではない。女房やお袋より先に死ぬとなるとおおごとである。後に残る者が困らないように、手続きや、銀行や、保険等々出来るかぎり、整理し、分かりやすくして置いてやらないといけない。毎日、年金やマイナンバー、印鑑登録カードなどをまとめる。子供のどちらかが、妻の後見人になる手続きの仕方、後見人の仕事もあらかじめ教えておかないといけない。夜中に目が合わなくて、眠れないのでごそごそと通帳をまとめたりしたので、ずっと寝不足が続いた。
おかげで、今日、麻酔を受けたら、久しぶりにぐっすり眠れた。
明朝、医師から詳しい説明がある。今日のところは喫緊の大事に至ることはなさそうだが、すい臓が万全とは思えないので、今後の注意とか定期検査の必要性とかの説明があるのかなあと思っている。
今回のことで思ったのだが、ぼーっとは生きておれないということだ。何をすべきか、ずっと考えて来た。
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病院の夕食。
朝、昼抜きにしても、とても美味しい夕食だった。
同室の入院患者も年が近いせいもありすぐに仲良くなる。
「病院へ来たら、みんな、なかよくならなくちゃ」と、のたまうおっさんは、看護士さんに向かって、「家で飲んでいる薬は看護士に渡した以外にも、財布に入れて隠しちょるけん」と、言って、看護士を呆れさせ、取り上げられていた。
良くても余命5年を覚悟した身にすれば、明日からは儲けものの人生になると思って頑張ろうと思う。
これは是非申し上げたいことですが、すい臓ガン検診は必ず受けてください。普通の健康診断ではなかなか見つかりません。MRIで見たら、すい臓が立体で映し出されますから一目瞭然(?)です。僕の場合はすい臓がんに特化した健診で4万8千円もかかりましたが、金額の問題ではありません。

21日の朝、面談。
昨日の夕方は、麻酔が覚めたばかりだったので、今朝、先生と面談し、画像も見せてもらう。のう胞の中に結節は見当たらず。これが出来ていたらヤバイとは前もって先生から聞いていた。診断は「早期慢性膵炎」。先生が言うには、この病名を病名として認定するかどうかは、まだすい臓学会でも決まっていないそうだ。儂の場合は半年に1回、MRIで観察することになる。酒と煙草はやらないので、脂肪分の多い食事は控えて様子をみることになる。と、言われても肉はだめだろう以外のことはよく分からないので、早速ネットで調べたら、ナッツ類を食べながらコーヒーを飲むのは最悪と分かる。コーヒーを何十年もがぶ飲みする生活を続けていたが、コーヒーはすい臓には良くないらしい。辛いものが好きだが、香辛料もダメなようだ。コーヒーを飲んで甘い物を食べるのが下戸の唯一の楽しみだったのに……。あれもだめこれもだめはストレスなので、少しずつ食生活を見直して行くつもり。ストレスも避けた方がいいらしい。ところで、話はレベル6に戻るが、これまで異常が見つからなかった人でもそういう数値が出ることもあるそうだ。儂は癌の進行度を表しているのかと思ったがどうもそういうものではないようだ。この歳になって病気にならない人はいない。すい臓を労わり、機嫌を損なわせないように、仲良くやって行こうと思う。

ごめんとかあちゃん(女房)に謝るしかない。今日から外泊の予定だったけれど、朝起きたら疲れていて、こりゃあ外泊しての世話はとても無理だと思い、急遽特養に断りを入れたのであった。先月は葬儀があって、外泊させられなかったので、今月は何としても家に戻してやろうと思っていたのだが、ちょっとスケジュールがきついかなと危惧していたのが、その通りになってしまった。
ずっと病院通いが続き、葬儀、その後の手続きや香典返しなどの手配をして、6月1日に親戚の結婚式があり、二泊三日で上京。上京するに当たっては母をショートステイさせる為に、代表者会議もあったりで、息つく暇もなかった。肉体的にも精神的にも疲れが出るのもやむを得ない。ここは休ませてもらって、来月は……と思うのだが、6月末が49日。それが終わったら、名義変更しなければならず、妻のことで熊本にも行かなければならない用も出来てしまい、そうこうしていると初盆もある。来月も無理かもしれない。落ち着くまでは、特養にはお昼に時々顔を出し、ノンアルビールを差し入れして、いっしょにご飯を食べることで勘弁してもらわないといけないかもしれない。
それにつけても思うのだけど、香典返しなんて外国にはあるのだろうか?
お願いですから、金封には住所を記入してください。出来たら、電話番号と郵便番号も記入していただくと助かります。
帰郷して8年目、田舎で育っていないから、名前を見てもどこのだれかがさっぱり分からない。母の記憶も当てにならず、親戚に電話して、「この人、知ってますか」と訊いている有様である。
女房が元気だったら、てきぱき手伝ってくれたのだろうに……

語録(18)


2006.11.4
「寒くない?」
「寒いよ、一人で寝てるから」
「このベッドは二人寝れないからね」
「稼いで、大きいベッド買って」
2006.11.7
「〇〇ちゃん(娘)がピンポンピンポンて帰って来る気がする。ああいう子だから」
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「お父さん、すっかり老人介護みたいになったね。ごめんね」

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「みかんかリンゴを買いに行こうと思って、お金を借りようと思って、誰かなと思って」
(側に居るのは俺なのに、俺の顔を見て)
2006.11.9
「お父さんはお医者になってから優しくなったのね。前はぶっとばしてやろうかと思っていたのに」
2006.11.21
ショートステイから戻って来たので
「帰って来たぞ、帰って来たぞ」と、歌ったら
「ウルトラママ~」と、返して来る。
(この返しの秀逸なところがかつての妻であった)
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「お父さん、私のこと、よしよししてね。寂しいから」
2006.11.22
「お父さん、慌てるのと急ぐのは違うからね。お父さんはすぐ慌てるから」
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「正月はいいね、優しいから」
2006.11.23
「お父さんが疲れたろう、一杯やろうと言ってくれたら嬉しい」
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「何か変わらないかなと思いながらも昨日と同じ。ちっとも変わらないことあるよね」
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「この人ずっとこのまま生きて行くんだろうと思ってたら、全然違う人になった。お父さん、ただ紙書く人だと思ったら、立派な脚本家になったんじゃない」
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妻が「風来ないよ」と、言うので、「風来ないよ」と、返したら
「どうして同じことを言うんだ。だから、お前の小説は出来が悪いんだ」
(持ち上げておいて、みごとに落とす)
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(葬儀のTVを見てて)
「お父さん死んだら、私も一緒に焼いてもらおう。一緒に天国行こうね」
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「川尻はあの鉄橋が好き、ガードと鉄橋が」
(妻の育った家の近くに鹿児島本線の鉄橋がある)
2006.11.25
「お父さん、(私が)寝とって言うことは一番してほしいの。そこへ座卓を持って来て並べてよ」
(介護している時)
「手が冷たい、今度私もしてやるから」
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(救急車の音が聞こえて)
「ご飯の時に看護婦さん可哀想だなと思う。救急隊も御飯の時は乗せなきゃいいのにと思う。あとは寝に入った時がいや。11時過ぎ」


※看護婦だった時のことを思い出しての言葉
2006.12.4
「足の骨が折れたの。なかなか治らないね」


※脳出血で左足が麻痺、拘縮の痛みを骨折と思い込んでいる
2006.12.7
「私がほしいもの愛情。愛がいっぱいほしい」
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「リーフシャワーの下で踊るから写して」
2006.12.12
「パパちゃん、来ないかな」
(病気になってから、よく言うようになった。幼い時に死んだ父親が生きていると思っているのだ)
2006.12.13
「こんなだっこして椅子に座らせてもらっているのを見たら、みんな、曽田さんに甘えてると言うよ。なによ、曽田さんなんて」
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「〇○(息子)、だいぶボーナス出たみたいよ。それで、わたしのブレスレッドみて、それいくらしたの、どこで買ったのときいてたよ。買ってくれるのかな」
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「○ちゃん(娘)が、モモちゃん(メスの豆柴)、片づけさせられてるんじゃないかと言ってたよ。オス犬のドレイになって。私、やめて、そんな話聞きたくないと言ったの」
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「お父さん、ありがとう。ほんとうに最近親切ばかり」
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「またパパちゃんに会えると思うと、うれしくてしょうがないよ、私」
「パパちゃん、私のこと可愛がらすでしょ、○子、○子て」
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2006.12.14
「みんな呼んで、言いつけてやる」
2006.12.17
(TVを観ていて)
「お父さん、認知症になったらちゃんと介護するよ」
2006.12.18
「私の前で待ってと言わないで。はい、すぐやりますと言う」
2006.12.27
(加湿器の水を替えていたら)
「マメだねえ、本当にありがとうと思ってるよ」


第三章 戦国擾乱(じょうらん)(7
 
その夜、辰敬は一睡も出来なかった。
 ため息をついては寝返り、いちの姿を思い浮かべては身悶えし、長屋の狭い床を輾転反側した。
 翌日、無駄とは思いながらも、辻が見える小路に出た。
 無論、いちの姿はなかった。
 もう来ないと分かっていても、次の日も、その次の日も、外に出た。
 未練がましいが、本当に最後に最後の時が来て、いよいよ切羽詰まったら、もう一度来てくれるような淡い期待にすがっていたのである。その時は今度こそと胸の内では思いながら。確たる覚悟がある訳でもないのに……。
 数日後の事であった。
 その日も辰敬は京極邸の北頬(つら)の小路に出て、いちのいない辻をぼんやりと眺めていた。
 足元をかさかさと音を立てて枯れ葉が通り過ぎて行くと、その後からふらりと辰敬の横を抜けて行く背中があった。
 はっとその背に辰敬の目は吸い寄せられた。
 侍である。痩身の尖った肩は野っ原で見た牢人の一人を彷彿とさせた。いや、その身に漂わせる荒んだ気配はまごうことなきあの二人組のものであった。
 懐手でゆらりゆらりと辻の方へ歩いて行くのを見送りながら、辰敬は、あの時、いちが「どこかで見た事があるだけや」と言った言葉を思い出していた。
 牢人は辻を渡ると、いちが佇んでいた場所で立ち止まり、京極邸の西頬の小路を眺めた。すると暫くして、京極邸の角からもう一人の牢人が現れた。
 辰敬はあっと小さな声をあげた。
 あの二人組の片方であった。小柄だが猪首でがっしりとした身体をしている。痩身長躯の牢人に近づくと、二人は並んでいま猪首の牢人が来た方角を眺めた。
そして、二人は京極邸を眺めながら、何やらぼそぼそと声を交わした。いかにも他人を憚るような話し方と言い、その目つきと言い、明らかに不審な挙動である。
いちがどこかで見たと言うのは、この近くの事だったのであろう。この二人組はいちが辻に来た頃から出没していたのだ。
もし、この二人組が何者かと問われたら、辰敬は躊躇うことなく盗賊と答えるだろう。
まさに盗賊が京極邸の下見をしているとしか見えなかった。
やがて、二人組は辻を離れると、小路を北に向かった。数日前に目撃した野っ原の方へ引き上げて行くようだ。
 辰敬は後を尾けようとした。
「なにしとるんや。こないなとこで」
 次郎丸だった。
「また叱られるで」
 この若者は雑色のくせに未だに辰敬を子供扱いして、身分も弁えず横柄な口を利く。
 辰敬は舌打ちした。
 次の日からも辻を窺ったが、いちの姿も二人組の姿もなかった。
それから何日かして、辰敬は急ぎの使いに出た。
 用を済ませて戻って来た時、京極邸の正門を横目に西頬の小路をゆっくりと来る二人組を見つけた。
 辰敬は何食わぬ顔をして近づき、二人組の顔を目に焼き付けた。痩せて背の高い方は頬に深い刀傷があり、猪首の男は醜い痘痕面であった。
すれ違う時、二人がにたっと目を合わせたのを辰敬は見逃さなかった。辰敬はどきっと胸が鳴った。意味ありげな嫌な笑みだったのである。
辰敬は行き過ぎるとそっと見送った。
後を尾けたかったが、すぐに報告しなければならない事があった。
その夜、辰敬は無性に胸騒ぎがした。辰敬は一日中屋敷の周囲を見張っている訳ではない。辰敬が気が付かなかっただけで、恐らくあの二人組は執拗に京極邸を窺っていたに違いない。
だが、盗賊であると言う確証はなかったし、辰敬の置かれた立場からすれば、怪しいと言うだけで報告するのも躊躇われた。多少見直されたとは言え、差し出がましい事をしたら疎まれるのは分かり切っていた。
初めて木枯らしが吹いた日の夜だった。
辰敬は眠れなかった。底冷えのする寒さのせいだけではなかった。いちと別れ、二人組を目撃してからと言うもの、眠れぬ夜が続いていたのだ。
かたんと遠くで物音がした。
木枯らしは夜になってもやむ気配がなかった。普段なら何かが飛ばされたのだろうと気にもしないのだが、辰敬の胸は激しく騒いだ。
辰敬は暗い屋根裏を見ながら耳を澄ました。聞こえるのは風の音だけで、先ほどの音は空耳かとも思ったのだが、どうにも気になり、むっくりと起き上がった。
刀を腰にねじ込み、長屋を抜け出した。
新月の夜だったが、満天に氷を散りばめたように無数の星が瞬いていた。その星明かりを頼りに、辰敬は会所と常御殿の方へ向かった。
在京義務のある守護大名たちが皆分国に下向してしまい、手薄になった屋敷がしばしば盗賊の餌食になっていることは、辰敬も聞いていた。
辰敬が上洛した頃は、京極邸も篝火を焚いて、それなりに警備していたが、不幸があってこの方、目に見えて疎かになっていた。嗅覚の鋭い盗賊なら決して見逃さないだろう。
築地塀のある所まで来た。この向こうが会所と常御殿であるが、しんと静まり返り、物音一つしなかった。
辰敬はぶるんと身震いした。寒くて引き返えしたくなったが、何かが辰敬を引き止めた。
 常御殿の奥には吉童子丸や御屋形様達が休んでいる。寒夜に抜け出し、ここまで来たのなら、最後まで見回るべきと思い直したのである。
 築地塀を乗り越える時、まるで自分が盗人になったような気がした。
 会所の庭は深い闇が広がっていた。会所は来客の応接や連歌を催したりする大きな建物である。その大きな建物もしんと静まり返っている。水を打ったような静けさに、辰敬は思わず全身が粟立った。辰敬は祈った。このまま静まり返ったままである事を。ことりとも音がしない事を。
 闇に溶け込み、じっと耳をそばだてた。刀がずしりと重く、腰が沈むようであった。聞こえるのは自分の息と胸の鼓動だけであることを確かめると、辰敬は逃げるように引き上げようとした。その時、みしりと床の軋むような音が闇を揺らした。
 ぎくっと足がすくんだ。
 音は会所の中から聞こえて来た。
 辰敬はそっと振り返り、会所に目を凝らした。
その闇の一番濃く深い所が揺れたように辰敬には見えたが、闇が動く訳がない。動いたのは人影だった。黒い人影はふわりと縁に飛び上がると、会所に消えた。
辰敬は会所の端の部屋の障子が開いていることに気が付いた。
割れ鐘のように心の臓が鳴った。盗賊はすでに侵入しているのだ。
(盗賊じゃ)
 叫ぼうとして愕然とした。声が出ない。必死に声を振り絞り、張り叫ぼうとしても、盗賊のとの字が喉に引っかかって出て来ないのである。
 手も足も強張り動こうとしない。左手はかろうじて腰の刀を掴んだものの、肝心の右手が伸びない。金縛りになっていた。刀も抜けない不甲斐なさが情けなかった。もう大人のつもりだったが、これほど意気地がない男だったとは。早く知らせねばと思うのだが、足が動かない。一歩が踏み出せない。
 その時、辰敬は一つだけ出来る事に気が付いた。その場にしゃがむと石を拾った。刀は抜けないが、石なら投げられる。
 思い切り暗い座敷に向かって石を投げた。
 ばしっと障子が裂け、室内の壁に当たった。一つ投げると、金縛りが解けた。辰敬は手当たり次第に石を拾い、滅多やたらに暗い建物めがけて投げつけた。
石は屋根に、柱に、壁に、板戸に当たっては、深夜の邸内に雷鳴のような音を轟かせた。
 同時にあちこちから人の気配がした。
 慌てふためく気配もした。侵入した盗賊のものに違いない。
「盗賊じゃ」
 声が上がった。
「盗賊じゃ」
 堰を切ったようにあちらこちらから声が上がった。
辰敬もやっと声が出た。石を投げながら叫び続けた。
「出会え、出会え。盗賊じゃ」
 会所の奥で怒声がぶつかり、剣戟が響き渡った。絶叫が上がり、板戸に激突する音が続いた。
 抜き身を下げた三人の盗賊が庭に飛び出して来た。頬かむりをした牢人態である。追って来た京極家の家人達とたちまち斬り合いとなった。
 辰敬は慌てて庭石の陰に隠れた。
常御殿の方からも女達の悲鳴が一斉に上がった。
 どうやら追われた盗賊達が常御殿へ逃げ込んだようだ。
 その時、女たちの悲鳴に混じって金切り声が聞こえて来た。人間の声とは思えぬ、笛が発するような甲高い声であった。吉童子丸の声に違いない。辰敬は庭石の陰から飛び出していた。
 どこをどう走ったかも覚えていなかった。何度か人にぶつかったが、誰にぶつかったかも分からなかった。
 会所を突っ切り、狂ったように叫び続ける声のする方へ闇雲に突進し、暗い納戸に飛び込んだ時、その片隅に蹲る小さな人影を認めた。と同時に、屈強な身体がぶつかって来て、辰敬は弾き飛ばされた。
 その頭上で凄まじい火花が散った。
 二人の男が戦っていた。
 刃が唸り、その一方が片隅へ飛ばされ、小さな人影を押し潰した。絶叫したのは吉童子丸であった。
男は咄嗟に吉童子丸に刃を突きつけた。
「この小童がどないなってもええのか」
「だらあ~っ」
 歯ぎしりした人影は多聞だった。
 闇の中でも小さな影がまるで小鳥の雛のように震えているのが分かる。騒ぎに巻き込まれた吉童子丸は恐怖の余り逃げ回っていたのであろう。
 ふと辰敬の手が硬いものに触れた。手頃な太さの長い桟木である。納戸に番匠(大工)が入っていると聞いていた。何かに使う用材のようだ。
辰敬は握り締めると、そっと上半身を起こし、片膝をついたまま力一杯横に薙ぎ払った。
 脚を不意打ちされた男が悲鳴を上げてよろめいた。
 すかさず多聞が斬り込む。
 辰敬も弾かれたように飛び出し、吉童子丸に覆い被さった。
「若様」
 と抱き締めると、小さな身体が悲鳴を上げながらしがみついて来た。
 そこへ、家人達に追われて別な盗賊が飛び込んで来た。
 明りも追って来て、数人が入り乱れての凄惨な斬り合いが浮かび上がった。
 辰敬の背に鋭い激痛が走った。吉童子丸の爪が突き立ったのである。吉童子丸は悲鳴を上げ続けながら、雛のように震え、子猿のようにしがみついていた。
 この時、辰敬はこの子がこの春に味わった恐怖を思い知った。
 近江の館を高清勢に包囲され、父材宗が自死に追い込まれるほどの戦いは、いま目の前で繰り広げられている斬り合いの比ではなかったろう。
 夥しい血飛沫が飛び、断末魔の悲鳴が上がり、紅蓮の炎が燃え上がる。
 吉童子丸の悲しみの底には、想像を絶する恐怖が封印されていたのだが、今その抑え込んでいた恐怖が噴き出したに違いない。
辰敬は吉童子丸を抱き締めた。
辰敬は骨が折れるのではないかと思うぐらい強く抱き締め続けた。
目の前の斬り合いはとても長い時間に感じられたが、静かになったことに気がついた時、二つの死体が照らし出されていた。あの二人組だった。
辰敬は目を背けた。
吉童子丸は辰敬の腕の中で白目を剥いたまま気を失っていた。
結局、残った死体は五つで、残りの何人かは逃走したと言う事であった。
 
翌日、辰敬は御屋形様の前に召し出された。
いつ以来か、思い出せないほど久し振りの笑顔が向けられた。
「よくぞ吉童子丸を守ってくれた。その方がおらねば殺されておったやも知れぬ」
 傍らに控えていた大方様も美しい顔を綻ばせた。
「礼の言葉もありませぬ」
 辰敬は上気した顔を床にこすりつけた。
「それにしても、あのような夜更けによくぞ賊に気づいたものや。いったいどうしたわけや」
 辰敬は京極邸の周りをうろつく怪しい二人組に気が付き、ずっと気にかけていたのだと答えた。
「あっ晴れ、見上げた心掛けや。褒めて取らす。褒美をやろう。辰敬、何でも良いぞ。望みのままに取らす。欲しいものを言うが良い」
 その言葉を聞いた瞬間、辰敬の目の前にぱっといちの顔が浮かび上がった。
「私は頂く訳には行きません」
「なんやと」
「私より御褒美にふさわしい者がおります。実は怪しい二人組に最初に気がついたのはその者です。その者にこそ御褒美を下されたくお願い申し上げます」
「誰や」
「いちと申します」
「いち……おなごか」
「はい」
「何者や」
「筆法の師の娘にございます」
「そう言えば、その方、どこぞの公家に書を習っておると聞いた事がある。公家の娘とな……」
 俄かに興味を覚えたようで、
「幾つや」
「十五になります」
「なんと十五の公家の娘が盗賊を見破ったと言うのか」
「いえ、そう言う訳では……たまたまその二人組を見かけた時に、いちがどこかで見たような気がすると言ったのでございます。でも、その一言がなければ、私も二人組に注意を払うような事はなかった訳でございまして……」
「その方の言う事は分かったようでよう分からん。初めからよくわかるように話してみよ」
と、根掘り葉掘り問い質され、洗いざらい喋らされてしまった。
「ははは……」
 懐かしい御屋形様の笑い声だった。
「いちとやら連れて参れ。みが直々に褒美を取らす。貧乏公家の借銭など高がしれておろう。きれいさっぱりと払ってやるわ。どのような娘か楽しみじゃ。辰敬、良き娘か」
 顔から火が噴き、辰敬は恥ずかしさの余り面を上げる事が出来なかったが、全身は喜びにうち震えていた。
 その微笑ましい姿に、大方様も柔らかな笑みを注いでいた。

5月末の畑の様子。今年の4月、5月は畑どころではなかったので、植え付けは遅くなった。じゃが芋は早く植えていたが、手入れが悪かったのか、散々の出来である。
イメージ 1イメージ 2左がわが家のじゃが芋。
右が近所のじゃが芋。
同じ頃に植え付けしたとは思えないくらいの出来。近所のじゃが芋は青々と茂り、花さえ咲こうとしているのに、我が家のじゃが芋は全然成長しなくて、左列の一番手前は枯れかけている。
4月の末から5月の20日頃迄は畑に出るどころではなかったので、この間、日照りが続いたが、水の一滴もやっていなかった。
だが、水不足のせいだけでもなさそうなことに気が付く。
じゃが芋⇒九条ネギ⇒じゃが芋⇒九条ネギと、間作にネギを植えれば、連作障害なしにじゃが芋を毎年同じ場所に作れるという記事を見て、去年のじゃが芋が終わった後にネギを植えたのだが、この方法はどうやら普通のじゃが芋栽培に当てはまるもので、わしのようにマルチを使った新農法には当てはまらないのではないかと思うに至ったのである。マルチの栽培では肥料もやらず、石灰もまかない。世間一般の普通に肥料をやり、土寄せをする栽培法とは甚だしく異なる。慌てて水をやっているが、いまこの調子では絶望的である。恐らく一個も出来ないのではないだろうか。
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手前がなす(筑陽)4本とその向こうがミニトマト10本。
畝だけは4月初めに作ったのだが、やる気が出なくて抛りっぱなしにしていたら、近所の人が「茄子とトマトぐらい植えたら」と言うので、10連休の終わり頃、妹たちが見舞いに帰っていて、儂も手が空いた時があったので、適当に苗を買って来て植える。気持が入ってないので、茄子もトマトも実生苗。安い。本当は接木苗の方がいい実が出来るのだが、高いし、実は接木苗は手間がかかる。接木苗は台木の上に接ぎ木をするのだが、台木は成長力が大きいので、台木からどんどん芽が出る。それゆえ、台木から出た芽をつまないと、たとえば胡瓜を植えたつもりなのに、台木に使ったカボチャの苗からツルが伸びて、キュウリの支柱に南瓜が出来たなんてことがあるらしい。そんな経験はないし、見たこともないが、確かに理屈ではそうなる。だから、少しでも手間のかかることはやりたくないので実生苗にしたのである。ミニトマトもこれまでずっと20本植えていたが、今年は10本だけ。去年のように新農法にもチャレンジはしない。
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5月23日
カボチャ(近成芳香)を3本植える。
これまた近所の人がかぼちゃぐらい植えたらと言うので。ただ、この時期にはどこも苗が売り切れで、毎年作っていた坊ちゃんカボチャはないので、初めてのカボチャを作る。1㎏ぐらいの大きさのものができるらしい。
イメージ 55月24日
安納芋20本を植える。
かぼちゃで終わりにしようと思っていたら、専業農家の人がイチゴと茄子・トマトの間の空いた畝を見て、ここにさつま芋を植えろと言う。手前は小松菜と蕪を植えたところで、向こうのマルチはブロッコリーとカリフラワーを植えたところ。
「さつま芋は何もせんでもいいし、残った肥料で十分育つから、そのままのところに苗を植えてしまえばいいから」
それなら植えてみるかと、店に行ったら、安納芋が残っていたので買って来て植える。
さつま芋の苗はいつも斜めに植えていたが、今回は垂直に植える。


イメージ 65月初めのイチゴ。
一回でこれくらい採れる。病床の父に食べさせてやりたいなと思いながら採る。
「わが家で採れるものを食べられるのは最高の贅沢だ」と、言っていたことを思い出す。
1年前の古い株からも、新しい株の半分くらいはできることがわかった。ただし、少し小さいが、ジャムにしてしまえばわからない。
畑に出ていると、皆が気を遣って話しかけてくれる。有難いことだ。

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