曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2019年04月

昨日19日昼過ぎ、妻の外泊を大過なく終え、特養に送り届ける。3月の外泊で風邪を引かせてしまい、特養に戻ってからも約1週間具合が悪く、特養の看護士さんやスタッフの人たちにも迷惑を掛けたので、今回は絶対に風邪を引かせないように細心の注意を払った。特養からの申し送り事項で、水分を摂ろうとしないので、水分が不足しないように注意して欲しいとも言われていたので、お茶、牛乳、ヤクルト、リンゴジュース、オレンジジュース、カルピス、コーラ、ミルクティー、スープ、味噌汁、エンシュア、もちろんノンアルコールビールにノンアルコールのサワーと、思いつく飲料を取りそろえ、手を替え、品を替え、やれ飲め、それ飲め、時にはおだてて何とか5泊6日を過ごす。飲むたびに何cc飲んだかも記録する。だが、いくら頑張っても一番飲んだ日で600㏄強が精一杯であった。
コップで飲むのが下手になり、ストローで飲むのが効率的になった。
飲むだけでなく、食べる方も手が掛かるようになった。
敢えて割りばしを使わせているのだが、はさむのが出来なくなって、いまやどうにかはさめるのはサラダのレタスぐらいなものになってしまった。手先の機能が衰えたのと、視野が狭くなって見えにくくなっているような気がする。
割りばしを使わせて運動機能を維持させたいのだが、儂も相手をするのが疲れてしまい辛くなってしまった。つい、フォークやスプーンに頼るのだが、フォークもうまく刺せないので、儂が刺して妻に持たせる。
好物のカレーも昔は自分ですくっていたが、今はうまくすくえないので、儂がすくってやるのだが、スプーンを口に運ぶまでに半分はこぼしてしまうので途中までは支えてやらないといけない。
体幹も衰えた。車椅子に移乗する時や着替えをするときはベッドの端に座らせるのだが、右手で支えを握らせていても、すぐに体が倒れる。昔は支えに掴まっていなくても座っていられたのだが。
何をするにも手がかかり、時間が掛かるようになった。
それに加えて、今回は両親の体調にも気が休まることなし。
父は再入院してからどんどん具合が悪くなり、外泊中にも病院へ出向き、主治医と面談しなければならず。一方、母はと言えば、よりによって妻が外泊前に風邪を引いてくれる。5日薬を飲めば治るだろうと思っていたが、その5日目に妻が戻って来てもまだ具合が悪い。熱は下がったが、咳をし、喉が痛むと言う。訪問医に電話し追加の薬を出してもらう。結局、外泊の間中に完治せず。91歳にもなるとかくも時間がかかるものなのか。妻の外泊中、うつりはしないかとひやひやのし通しであった。
妹の助っ人に合わせて、妻を外泊させたのであるが、妹がいてくれたおかげでどうにか過ごすことが出来た。
特養を後にした時は心底ほっとした。その解放感がどれだけのものかは数字が示してくれた。
妻が外泊中も、妹が夕食後の食器洗いなどをしてくれるので、毎晩散歩していたのだが、その時間が32分~33分かかっていた。ところが昨夜は同じコースを30分弱で歩いたのであった。歩いていても自分でも身体が軽く、足が進むのを感じ、人の体とは何と正直なものかと思ったのであった。

妻のこのような肉体的な衰えは精神面にも反映して来たようで、最近は妻のおしゃべりがつまらなくなった。儂を親戚や知り合いの誰かと思い込んで、儂が否定しても、それに対する反応が以前ほど強くない。時には反応しないこともある。話をしていても、昔のように鋭い台詞や、妻らしい冗談を聞くことも少なくなったような気がする。どきっとさせられるようなことも、切なくなるようなことも言わなくなった。
聞くのも辛い事も言われたが、今となっては懐かしく思う。そんな昔の言葉を思い出してみる。

2006年10月の語録より

「左手に触るな、痛いんだから」
・・・・・・・・・・・・・
「あっ、お父さんと話してたのか。〇〇君(従弟)かと思ってた」
・・・・・・・・・・・・・・・
パット交換時
「起きてたの?」
「おむつ替えて」
替えたら
「ああ、気持ちいい、ありがとう」
2006.10.3
「私は愛一筋、お父さんは文学一筋」
「俺だって愛一筋だよ」
「ありがとう……」
2006.10.4
「お父さん、〇時からお風呂行くよ。その後、パーマ行くよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・
左足を動かすと
「持ち上げるな、痛い」
2006.10.6
「一生懸命作ったんだよ」
「モモちゃん(犬)、吸ってみる?これ、一生懸命の味だよ」
2006.10.7
「お父さん、今日、正月だよ。私、お雑煮作らないでひましている。お昼、お雑煮にしようか」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お父さん、奈良に連れて行って。今年は行くよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・
「私もお父さんと二人修学旅行に行ってるようなもんだね。ああでもない、こうでもない」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「最近後悔することばかり。一度荷物まとめて熊本に帰りかけたけど、戻って来た(涙声で)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私も小さい時から本を読むこと好きだったの」
2006.10.8
「お宅の奥さんには言って来たの?」
「俺の奥さんはお前だよ」
「う~ん」
・・・・・・・・・・・・・・・・
「恵子さんだっけ、なんて名前か忘れちゃった。あんまり頭のよさそうな名前じゃなかった」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「誕生日のカードほどつまらんものはない。なんでつまらんことしか書いてないの」
「そうか、お母さんならいいこと書くからね」
「たいしたこと書いてない」
2006.10.9
「うちの下の子、何ていうの」
「〇ちゃんしかいないよ」
「〇ちゃんの下の子、この前、生まれたよ」
2006.10.12
夜パット交換時、寝ぼけて「ああ、さっぱりした」
身体を動かすと「いて、て……」
2006.10.13
「今日あたり、パパちゃんが来るかな」
「パパちゃん、死んだんだろう」
「ううん、それとなく現れるの」
2006.10.14
「いいねえ、お父さんは。鼻がすっと高かったもんね。鼻たかかったのね、昔は。脚本家だからって鼻高かったのね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「痛い、足の骨が折れていることを分かっていないんだから。それでも医者かと言いたい」
・・・・・・・・・・・・・
「何か年末のごちそう出して」(いつも年末か正月のつもりでいる)
おむつ交換時、寝ぼけて
「おしっこが出る」「いいよ」「いいよじゃないよ」
2006.10.16
「本当に車椅子人間になっちゃったね」
・・・・・・・・・・・・
「出会ったのは運命だったのね」
「よかったか」
「死ぬ時、考える。よくなかったら、ばけて出る」
・・・・・・・・・・・・・
「お父さん、布団の中でいっしょにねんねしよう。あったかいから」
・・・・・・・・・・・・・・
「お父さんの若い時の写真を見たくなっちゃった。26年見てないから。忘れちゃった」
2006.10.26
「今年も一年お世話になったねえ。病気ばかりしてたから」
・・・・・・・・・・
「モモの散歩、行って来る」
「正月から散歩か。よかったね、モモちゃん。今年もお父さん散歩行ってくれるよ」
2006.10.28
「健診、悪いところなかったよ」「顔が悪いと書いてなかった?」
・・・・・・・・・・・・
「お父さん、初売りでダイヤの指輪買って」
・・・・・・・・・・・・・・
おむつ交換時
「こんなかっこうでお風呂行くの恥ずかしいけどしょうがないの。風呂あがってオムツでうろうろしているの私だけ」
2006.10.30
「私も〇〇(息子)の孫を抱きたいよ。可愛いかろうね」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お父さんも足切ったらこの痛みわかるよ」
・・・・・・・・・・・・・・
「目玉焼き作って、お父さんの愛情の詰まった目玉焼き食べたくなったんや」
・・・・・・・・・・・・・・
「家に帰ったら指揮されること多くて。カボチャをここへ置けとか。私、口に入ればいいのだから」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「でもね、嬉しかったよ。お父さんがいない時、〇〇(息子)と〇ちゃん(娘)が来て、自分たちが大学へ行けたのはお母さんのおかげだと言ってくれたの」
2006.10.31
「お父さん感謝してるよ。でも言わないからわからないでしょ」


イメージ 1イメージ 2







3月31日 割れたキャベツ        3月31日 モンシロチョウ
左端はまともなのが出来たので収穫した後。右の5個が割れてボロボロのキャベツ。左から3番目と4番目はよくできているように見えるが、反対側から見ると割れぼろぼろになっている。だが、炒めたり、千切りには出来るので収穫する。見栄えは悪いが春キャベツには違いないのでそこそこ食べることは出来た。
キャベツが割れる原因をネットで調べたら、内部の結球が早すぎると外側の葉の成長が間に合わなくて割れるらしい。雨が降って水分をたっぷり吸収したところに高温が続いても割れるらしい。わが家のキャベツは後者のようだ。
イメージ 33月31日
枯れたスギナ。
2、3日前にラウンドアップの原液を刷毛で塗り付けたスギナ。原液の威力は凄い。
だが、根がどこまで枯れているかが問題。
スギナの根は深い。軽く30㎝はあって、さらに横に伸びている。少しでも残っていたらまた伸びて来る。根絶するのは不可能と諦めてはいるのだが、深くまで枯れていることを祈るのみ。
イメージ 4イメージ 5







4月1日 霰              4月6日 散歩コースの桜
夕方、突然、霰が降り、あっという間に庭が白くなる。1日、2日は急に寒くなり、冬に戻ったようであった。4月2日は特養の花見だったが、寒くなったのと、儂が急遽病院に呼び出され、父の治療方針についての話があったので、妻の花見は断る。
花見参加者は少なく、車の中から花見して帰って来たそうだ。3日からは好天が戻る。(このブログは9日に書いているが、明日はまた冬のように寒くなるらしい)
4月6日
散歩コースの桜も咲き誇る。毎晩7時過ぎにこの川沿いに奥へ向かってひたすら歩き、引き返して来る。インフルエンザに罹ってからは厳寒期の散歩は一ヶ月以上休み、3月になってから再開している。4月に入ると夜気もぬるみ春になったことを実感する。

イメージ 64月8日 晩生玉ねぎ大ピンチ!

病気が発生。これは隣の畑。3分の1ほど抜いたが、病気は広がっている。畑先生はべト病ではないかと言っていたが、畑先生の畑にも染っている。
儂の畑の葉っぱにも白い斑点が浮かんでいるので、多分、染っていると思う。もしそうならこの勢いで行けば全滅間違いなし。
こんなこと初めてである。後2ヶ月で収穫できると思っていたのでがっかりする。
原因はわからない。畑先生も長い間玉ねぎを作っているが初めてだと言い、
「だんだん作りにくくなったなあ」
と、ため息をもらす。近年の天候の異常が育成を阻害するだけでなく、その影響で病気を発生させているのではないかとの見解。2年前にはジャガイモが枯れて全滅したこともあった。
実感のこもった重い言葉である。畑先生は十年一日の如く、毎年、同じ作物を同じ頃に堆肥を撒き、石灰を撒き、化成肥料と鶏糞を撒いてから植え付けている。言わば農業の定点観測をしているようなものだ。儂のように新しい野菜が登場したらすぐに飛びつき、雑誌で新農法を見つけたらすぐに試すような浮気者とは違う。作物の育ち方の微妙な変化や異常を感じ取っているのだろう。出雲市の外れの小さな畑の出来事だが、これからの農業の行く末を暗示しているような気がしてならない。太陽を一杯浴びた、新鮮な野菜が食べられる、そういう世の中であってほしいものだが。

イメージ 14月6日
夜7時から町内委員の顔合わせを兼ねた第一回委員会が行われる。まだ平成だが、今年度は実質「令和」なので元年の委員会開始という次第。我が組は42世帯が3班で構成されていて、各班の自治委員と町内委員(3✖2)6人と委員長と来年の委員長の計8人が出席。儂は今年から町内委員。来年自治委員になるので勉強を兼ねて参加。田舎で育ったことがなく、8年前に戻ったので、同じ班の人は分かるが、1班と2班の人は顔は見たことがあっても名前が分からない人ばかり。ようやく名前が分かったが、家が分からない。
20日に組全体の全体常会があるので、その議題を検討する。
今年は町内5組のうちの我が組が秋の荒神様のお祭りの当番年になり、出席者一同、内心えらい年に役員になってしまったとの思いが窺える。祭の実行委員は別に決めるにしても、今年は18年ぶりにしめ縄の付け替えがある。掃除も大変。実行委員を誰に頼むかも問題。委員長が名前の出た人に打診することに。委員長は大変だ。
秋のお祭りは毎年10月17日に決まっている。出席者の一人ががため息をつく。
「平日か」
皆、平日のお祭りには正直困っている。働いている人は休まないといけない。
「土日に変えられんの」
今更変えられない理由を知って呆気にとられる。
何処のお宮も平日の祭りを避けるために、土日が祭になるように決めてしまっているのだそうだ。だから、今頃、うちの荒神様が土日に変更しても、神主さんやお神楽の予定が埋まってしまっていて、派遣できないのだそうだ。
次の議題が、若いもん会をどうするか?
現在、45歳までが若いもん会に所属することになっている。45歳で若い者とはと思うが、これも後に続く若い者が少なくなったので、どんどん年齢が高くなってしまった結果なのだが、ついにと言うか、とうとうと言うか、後4、5年で若いもん会がいなくなってしまうのだ。
活動と言っても、夏の灯篭さん祭に缶ビールを売ることしかしていない。
さて、どうするか?
三つめが子供会。
42世帯で子供(小学生)が3人(それも3姉妹)しかいない。子供会の活動は今や何もできていない。これも、どうするか?
実は近所に小学生がいない訳ではない。集団登校するのは10人以上いる。
ただ、この子たちは新興住宅地の子供たちである。本来なら地域的に我が組に属する
のだが、この人たちは自治会に入らないし、自分たちで自治会を作ることもしない。日本中いたるところで見られる現象が、ここ出雲の外れにも起きているのだ。
昔の村の流れを汲む共同体はまさに崩壊寸前なのである。皆、何とかしようと思っているのだが、どうしていいのか分からないのが現状である。
その後、顔合わせを兼ねての集まりなのでビールと漬物とつまみが出て雑談。
その話題が、まず、浜田ではロシア船が入港したら、有線で自転車を家の中へしまえと言う注意報が流されると言うところから始まる。外へ置いておくと、ロシア人船員が持って行って船に積んでしまうと言うのだ。ロシア人を泥棒扱いするわけではない。ロシアでは大切なものは全部家の中にしまうので、外にあるものは放置してあると思ってしまうのだそうだ。嘘みたいなホントの話だと誰かが笑っていた。
すると、別な誰かが、出雲の小学校では、ブラジルから来た子供に「サンバを踊って見せろ」といじめる子供がいるとの話が出る。ブラジル人の子供は日本で生まれたのでサンバなんか知らないし、踊ったこともないのだそうだ。
すると、次の誰かが、自分の老母が入院した時の体験談をする。インドネシア人の看護士がいて、日本語はたどたどしかったが、とても優しかったと。
この他にも、アフリカで走る日本の霊柩車の話とか、外国ネタで盛り上がる。
出雲の外れの飲み会の話題が、ロシアに、ブラジルに、インドネシアなど、随分国際的になったものだと感慨深いものあり。日本の現在の置かれた状況がこんな田舎でも見事に反映されているのだ。
誰かが言った。「どこの国からでもどんどん来ればいいのだ」
人が少なくなる社会に住んでいる人間の正直な言葉だと思った。
さて、5月から令和元年、どんな年になるのだろうか。まだ自治委員の見習いなのだが、年間予定表を見ただけで覚悟している。これで来年、自治委員に昇格して3班の代表になったらどうなるのだろう。これからの2年間はドタバタか、ジタバタか、することになるのだろう。

↑このページのトップヘ