曽田博久のblog

若い頃はアニメや特撮番組の脚本を執筆。ゲームシナリオ執筆を経て、文庫書下ろし時代小説を執筆するも妻の病気で介護に専念せざるを得ず、出雲に帰郷。介護のかたわら若い頃から書きたかった郷土の戦国武将の物語をこつこつ執筆。このブログの目的はその小説を少しずつ掲載してゆくことですが、ブログに載せるのか、ホームページを作って載せるのか、素人なのでまだどうしたら一番いいのか分かりません。そこでしばらくは自分のブログのスキルを上げるためと本ブログを認知して頂くために、私が描こうとする武将の逸話や、出雲の新旧の風土記、介護や畑の農作業日記、脚本家時代の話や私の師匠であった脚本家とのアンビリーバブルなトンデモ弟子生活などをご紹介してゆきたいと思います。しばらくは愛想のない文字だけのブログが続くと思いますが、よろしくお付き合いください。

2019年02月

父の具合は先生は回復したと言うが、カテーテルは4日ほど外すも、自力での排尿が出来ず、また袋を付けられる。食事も一度8分粥になったようだがすぐに全粥に戻る。
おかずはずっとミキサー。リハビリも「もう歩けないから」と、拒否する。儂がすこしでもやらないといけないと諭したら「わかった」とは言っていたが、ようやく車椅子に移っている状態。先生ともう少し様子を見ましょうということになる。
そういう訳で、畑仕事もやれる時にすすめようと思っていたら、月末は好天が続いたので動き出す。
2月22日。
まず、取り掛かったのが、すすき掘り。隣家の畑地の片隅に空き地があり、ススキが伸び放題になっている。このススキを掘り起こし、堆肥にするのだ。わが家の庭に生えていたススキは掘り起こして堆肥に重ねていたが、量が少ないので、この空き地のススキが欲しかったのである。勿論、空き地の持ち主に断る理由なし。逆に本当に抜いてくれるのと大喜び。
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せっせと根からススキを掘る。ススキはこの10倍くらい繁っている。掘り起こしたススキを去年から積んでいる藁と枯れ葉の上に被せる。これまでは米のとぎ汁をかけていたが、面倒くさいのでコイン精米所からヌカを取って来て、水に溶いてぶっかける。堆肥として使えるようになるのは1年後ぐらいだろうか。気の長い話だ。
2月22日。
ジャガイモを購入する。1キログラムの値段は下記の通り。
男爵260円)、メークイン275円)、北あかり295円)、はるか400円)ホッカイコガネ(400円)、きたかむい(400円)、さやあかね(400円)ピルカ(420円)、アンデスレッド470円)、インカのひとみ600円

イメージ 3網掛けはこれまで植えたことがある品種。
ポピュラーな「男爵」「メークイン」「きたあかり」はお得な値段だが、飽きて「はるか」に変え、去年は「はるか」「アンデスレッド」「インカのひとみ」「グラウンドペチカ」を作ったが、今年は一畝しか作らないので、思案して、まずは「アンデスレッド」を購入した。

2月23日。
「アンデスレッド」を21個植える。去年始めた新農法黒マルチは変わらず。垂直農法の道法さんは種芋は半分に切らず、丸々そのまま使うと言うので、儂も去年までなら半分に切る大きさの芋もそのまま植える。暖かいので植えたのだが、翌朝は一面の霜。2月中にジャガイモを植えたのは初めての事。
2月24日。
「きたかむい」と言う品種を購入する。「甘い」と言う触れ込みに期待。初めて買うがどんなジャガイモか楽しみ。
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切れ目にジャガイモを押し込むようにいれ、土は被せない。表土すれすれまで埋める。18個植える。「アンデスレッド」と合わせて39個。去年は一畝に
48個作ったが、ぎゅうぎゅうだったので、今年は余裕を持たせた。

天気予報では28日から雨になると言うので、その勢いで玉ねぎ(早生と晩生)に2回目の追肥をする。
いつもは8‐8‐8の化成肥料をやるのだが、沢山余っていたのでジャガイモ用の肥料8‐10‐8をやる。順に窒素、リン、カリの割合を表しているのだが、リンが多い分は問題あるまいとやってみた。
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つるなしスナックえんどうとつるなしさやえんどうを二本立てにし、雑草を抜き、土を掘り起こし、肥料をやる。キャベツも雑草を取り、周囲を掘って肥料をやる。3月になったら肥料をやって一気に育てると解説してあったのでその通りにやったのだが、ひょいと見ると(右の写真)青虫さんがいる。しっかり春キャベツを食べている。儂はこの青虫さんが殺せない。なぜならこの青虫はモンシロチョウになるから。小学生の頃、山口県の田舎で春になると、何十匹となく青虫を取って来て、モンシロチョウに孵していたのだ。

この歳になっても蝶々とトンボは無性に愛しい。
こうなったら青虫に食われるのと、春キャベツの成長の競争だ。少々食われてもいいから早く大きくなって欲しい。
イメージ 8人参も雑草を抜き、土を掘り返し、肥料をやる。

集中的にやるべきことをすませてしまったので、しばらくは畑からは離れられる。


第三章 戦国擾乱(じょうらん)(6

義尹(よしただ)は十代将軍足利義材(よしき)が名を改めたものである。十四年前の明応の政変で、細川政元によって将軍の座から引きずり降ろされ、義澄に取って代られた。
この時、政元の攻撃に対して、最後まで義材に忠誠を誓ったのが元管領の畠山政長・(ひさのぶ)父子で、政長は尚順を逃がすと自刃したのであった。
義材は投降し、政元の家臣の座敷牢に軟禁されたが、見舞いに来た妹の侍女に変装して命からがら脱出した。
その後、将軍復帰の執念に燃え、反細川勢力を糾合し、幾度か上洛を図ったが、ことのほか戦が弱く、ことごとく失敗した。
しかし、常に誰かしらに助けられ、河内に逃げ込むと畠山尚順に庇護され、そこから瀬戸内海を西へ奔り、周防の大内義興に迎えられた。
それが八年前のことであった。
その前年に義材は義尹と名を改めていた。
諸国を流浪し、流れ公方と呼ばれていた義尹はようやく安住の地を得ると同時にとてつもなく強大な庇護者を得たのであった。
その義尹もまた都の擾乱を奇貨として、大内義興と共に上洛して来ると言うのだ。
 その噂に都は怯えた。
義尹の将軍復帰に賭ける飽くなき執念の拠るところを誰もが知っていたし、西国の太守大内氏の強大さも都の誰もが忘れてはいなかった。
 応仁の乱では西軍を一手に支え、十年近くも大軍を都に滞陣させた西国の雄が、大船団を率い、またもや都に攻め寄せて来るのだ。
将軍義澄も澄元も焦った。
噂が現実となる前に、畠山を征伐しなければならなかった。中央政権が盤石なことを示し、上洛を諦めさせるのだ。畠山勢と義尹・大内氏が手を結ぶ事だけは絶対に防がなければならない。が、焦るほどには成果は上がらなかった。
その体たらくを冷笑し、密かに畠山尚順を応援しながらも、複雑な思いを抱いているのが京極家の人々だった。
実は畠山政長の正室は京極持清の娘だった。政経の妹である。その縁にすがれば、義尹が復帰し、畠山尚順も返り咲いた暁には、京極家にも運が巡って来るかも知れないからである。
先の都の政変の時より、此度ははるかに期待が持てそうな気がしていたのだが、なぜそこに複雑な思いがわだかまるかと言うと、義尹がまだ義材と名乗って将軍位にあった時の事であった。
政経は家督を認められ、江北の守護に復帰したのであったが、国人層の寺社領横領を止めることが出来ず、明応元年、義材の怒りを買い、わずか一年で家督を取り上げられ、高清に与えられた事があったのだ。
こんな煮え湯を飲ませた義尹にさえもすがらざるを得ないのが、今の京極家なのであるが、京極家の人々は気が付いていない事があると辰敬は思っていた。
畠山尚順や義尹復帰の戦いに少しでも力になれば、事が成就した暁には、過去の経緯はどうあれ、見返りはあるだろうが、何もせずに見ているだけでは何も得られないと言う事を未だに判っていない。
辰敬でさえ分かっている事なのに。
 
 畠山勢との戦いは続いていたが、都の騒擾は一段落したので、辰敬は吉童子丸の守りに戻ろうとした。
 すると、おまんが出て来て、
「有り難いのやけどなあ……」
 と、力なくため息をついた。
 辰敬は驚いた。まさか、おまんの口からこんなしおらしい言葉出て来ようとは思いもしなかったのだ。
 白粉を塗るのを忘れたのか、それとも諦めたのか、化粧気のない顔は普通のおばさんだった。
白粉狸の時は意地悪く見えた目も弱弱しかった。
「夜泣きがひどくなるばかりなのや。重い心の病やそうや。医師が薬を差し上げてもお飲みにならない。わらわには悪くなる一方にみえる。御屋形様や大方様も大変心痛なさって、陰陽師や修験者を招いて祈祷させたのやけど、効はあらへんのや」
 修験者は駄目だ。右京兆管領細川政元は三十年にも及ぶ修行の功なく、呆気なく殺されたのだから。
 小さな体で苦しんでいる吉童子丸を思い浮かべると、辰敬は胸が塞がった。
己の無力が悔しかった。
おまんもそっと目頭を抑えた。
「どないしたらええのやろう」
「我は御屋形様から吉童子丸様の良き兄となれと言われました。そのお言葉、決して忘れておりません」
 辰敬は言葉に力を込め、
「御屋形様の願いに必ずおこたえします。そのために上洛したのじゃから。この気持ちは必ず天に通じます」
 と、己を励ますように言った。
 おまんはしみじみと辰敬を見詰めた。
「ええ男の子にならはったなあ」
辰敬は頬が赤らむのを覚えた。
 
 秋も次第に深まったが、おまんからの呼び出しはなかった。頃合いを見て呼ぶと言われていたのだが、吉童子丸の様子は相変わらず良くないのであろう。
 ある日の昼前、辰敬が常御殿から下がって来ると、次郎丸たち雑色が立話をしていた。
「おい、今日も来とったで」
「ああ、わしも見た。何者やろ、あの娘。ごっつい別嬪やで」
「毎日のように見かけるのやけど、京極家に用でもあるのやろうか。遠くから門の方を見とるような気がするのや」
「そう言えば、何か思い詰めたような顔をしとったなあ」
「誰かええ男でもおるのやろうか。この屋敷に」
「誰や。あんな可愛い娘を泣かせとる奴は」
 辰敬はどきっとした。
「許せん奴や」
「せやけど、こんな屋敷にそんなええ男がおるのやろうか。今度見かけたらその色男の名を聞いてみるか」
 辰敬は何食わぬ顔で次郎丸達の前を通り過ぎると、笑い声を背に裏口へ向かった。
 裏口を抜け出し、ぐるりと築地塀を回って、屋敷の北頬(つら)の小路に出た。北頬と言うのは、この場合、塀が小路に対して北に面していることを言う。
 西の辻の方を見ると、京極邸の角と斜向かいの角に、小春日和の陽射しを浴びて、まるで枯れ木のように立っているいちの姿があった。
 心の臓がどきんと音が聞こえるほどに鳴った。嬉しさよりも、不吉な予感に怯えたのである。遠目にもいちの暗さが見て取れた。辺りが明るいだけに、枯れ木から滲み出る暗さが、弥が上にも際立っていた。
 思い詰めた顔で、南北に伸びる小路の南の方を見ている。あの位置からだと京極邸の正門を見ているように思えた。この当時の正門は西向きで、屋敷の西頬にある。
 辰敬が目の前に立つまで、いちは気が付かなかった。
 いちはあっと声をあげて辰敬を見詰めた。
いつもなら吸い込まれそうな黒い瞳に精気はなかった。向き合うのが辛くなるほど絶望的な表情だったが、辰敬は目を逸らさず、見詰め続けた。
季節を忘れさせる心地よい風が二人の間を吹き抜けて行ったが、いちは暖かさの欠片も感じていないようだった。
 何がこんなに暗いいちにしてしまったのだろうか。余程の事があったに違いない。助けを求めて来たのだろう。辰敬に。何日も前から。
 思いきって何があったのか問い掛けようとした時、いちの瞳の底できらりと光るものがあった。
 辰敬がはっとなると、いちはくるりと背を向け、北に向かって歩き出した。まるで涙を見られたくないかのように。
 ついて行くと、いちは時折り空を見上げた。
 多分涙がこぼれないように。辰敬はそう思ったが、やがていちは下を向いた歩き続けた。
 涙がこぼれるのも構わず。
 通行人にぶつかるのも構わず。
 この辺りの小路は北へ行くと、どれもあの広い野っ原に突き当たる。
 夏の盛りには草いきれに満ちた緑の野っ原が、金色に光って揺れる芒の荒れ野に変わっていた。
 いちは芒の中に消えた。
 追って行くといちが振り返った。
 溢れる涙を拭おうともせず、辰敬を見据えると、
「わらわは売られるのや」
 まるで我が身を投げ捨てるように吐き出した。
余りにも突拍子もない言葉に、辰敬はたじろいだ。売られるとはどう言うことなのか。ただ事ではない。
「借銭の形に取られるのや」
 借銭と言う言葉でおよその想像はついた。
「おとうはんは嫁に行くのやと言うけど、売られるのと同じや」
 やはりそう言う事だったのか。納得は出来ないが、あって不思議のない話である。
 相手が誰なのか訊くのも辛くて黙って突っ立っているしかなかった。
「二条大路の土倉や。おとうはんと齢も変わらん爺や。後添えやと言うけど怪しいもんや。妾が仰山おって、お払い箱になったら辻子君に売り飛ばすと言う評判や」
 忌まわしい事は全て吐き出したいかのように、耳を塞ぎたくなるような言葉を連ねた。
 辰敬は身も心もぼろぼろに崩れ落ちて行くような心地がした。目は開いているのに、何も見えなかった。いちの顔すらも。
 いつの日かこんな事が来るだろうとは覚悟していた。十五歳で結婚するのは普通の事だ。その時は辛くても、悲しくても、男らしくいちの幸を祈って別れなければならないのだろうと漠然と思っていた。そんな日が来るのが延び延びになる事を願って。もしそれが何年も延びれば……と、思ってもせんないことを夢想して。
 それが、よりによってこれほど最低で、最悪な話になろうとは。いちが金貸しの餌食になるとは。
 公典は扶持が絶えてからも、憑かれたように朝儀の記録に没頭していた。貧乏公家達が町人に踊りや歌謡などを教えて生計を立てるような事は一切していなかった。小さな庭に野菜を作り、妻子が働いても到底食べては行けない。
 積り積もった借銭がどれほどのものか。
 辰敬は力なく首を振った。想像もしたくなかった。
 どう足掻いても解決できない事だから。
 それはいちも分かっている事だ。だから泣くしかなく、涙が涸れたら、もう泣く事も出来ず、ただ立ち尽くしているしかなかった。
 向き合う辰敬も立ち尽くすしかなかった。
 長い沈黙が続いた。
 辰敬は一言も口を利いていない事に気が付いた。慰めや救いの言葉の一つも言えない自分が情けなかった。
 自分ではもう子供ではないと思っていたが、大人にもなっていないのである。十三歳と言う年齢の中途半端さを今更のように思い知らされていた。
 その時、いちの目が動き、辰敬の肩越しに止まった。
 辰敬はその視線に誘われるように振り返った。
 揺れる芒の向こうに二つの人影があった。
辰敬はどきっと緊張した。二人は牢人だった。距離はあるが、あの種の侍特有のささくれ立った禍々しさが見て取れた。辰敬はあのような侍達を土倉の店先でよく見かけた。用心棒である。取り立てに行く手代の後ろで威圧したり、一揆が襲えば店を守って戦う無法者達である。
辰敬はいちを振り返った。
「土倉の用心棒か」
 いちを見張って尾けて来たのかと思ったのだが、
「知らん」
 と、言いながらも目は二人に向けられている。
 辰敬が怪訝な顔で尚も問い直そうとすると、
「どこかで見たような気がしただけや」
 煩わしげに答えると、またあらぬ方をぼんやりと見やった。
 二人の牢人はさっき辰敬達が来た小路に向かっているようだ。
 恐らく野っ原の中を東西に延びる三条大路の方から来て、人が踏み固めた道を抜けて、南へ行くのだろう。芒の中の辰敬達には気が付いていないようだ。
 また沈黙が戻った。
 長い沈黙だった。
「はあっ……」
 溜息とも吐息ともつかぬ声がした。いや、悲鳴だったかもしれない。
 辰敬には運命への絶望と言うより、辰敬への絶望の悲鳴に聞こえた。
 辰敬は項垂れた。
 目を落とした先には下駄を履いた白い小さな足があった。何と健気な足だろうと辰敬は思った。大きな不幸を支える小さな二つの足が愛おしかった。
 不意にその足が踵を返した。
 はっと顔を上げると、立ち去るいちの背中しかなかった。
いちは蹌踉と引き返して行く。
「あ、あっ……」
 野っ原に響き渡るような情けない声が出た。いや、そんな声しか出なかったのである。何もかもが最悪だった。いちとの別れの時に見たものは白い足だったのである。艶めかしい足だったが、足は足である。別れが足とは惨めさを通り越して滑稽でさえあった。最後の別れになるかもしれないのに……。
 と、思った時、辰敬は土倉の名も、嫁ぐ日さえも聞いていなかった事に気が付いた。
  

父が入院した日、心臓麻痺を起こすかもしれないと言われてからの4日間は何もする気が起きなくて、最悪の結果になったら、今年はもう畑はやめようと思っていた。畑をやろうなんて気持ちにはとてもなれなくて。だが、なんとか入院直後の危機をまぬがれ、2月に入った。
実は2月に入ったら早速しなければならない農事があった。それが、去年から初めて取り組んだジャガイモの新農法の黒マルチ張りである。一ヶ月黒マルチで地温を上げてから種芋を植える。一度はやる気が失せていたのだが、危機を乗り越えたら、少しやる気が出て来たので、黒マルチを張る。
2月1日↓      2月2日↓
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2月1日
去年ジャガイモを植えた後に九条ネギを植えていた。これは九条ネギがジャガイモの残滓である有機物を分解し、土を清浄にすると農業誌に書いてあったから。
去年は二畝ジャガイモを作ったが、たくさん作っても保存が出来ないので、今年は春と秋と二回分けて作ることにした。
そこで九条ネギの一畝を全部引っこ抜いて植え替え、そこを耕して黒マルチを張る。
それが右の2月2日の写真。
左の九条ネギは9月まで植えて置いて、秋になったらすぐに秋植えのジャガイモを植える予定である。黒マルチは新農法であるから耕した後に石灰も肥料もやらない。ジャガイモは種芋の養分だけで成長するから肥料など不要なわけである。石灰も肥料もやらないのは勇気がいるが、去年もなんとか出来たので(成功とは言い難いが)、今年はきっちり一カ月間地温を上げて、三月に入ったらすぐに植え付けをする予定である。
【ネギで土壌清浄】+【新農法黒マルチ張り】+【垂直農法】の三本立てで、ジャガイモ作りにに取り組むのだ。そう、ジャガイモも垂直農法を試してみる。その時が来たら説明する予定です。
かくして、どうにかジャガイモ畑を用意したら、父の誤嚥性肺炎が勃発。また緊張させられるが、二、三日で治まったので、再び畑に戻る。
2月7日きんかん↓           2月8日鈴なりブロッコリー↓
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きんかんを採るのを忘れていたので、きんかんを採る。一昨年はカイガラムシで黒スス病に罹り、散々な目に遭ったので、去年の夏前に植木屋さんに剪定をしてもらったおかげでなんとか実る。但し、上手に肥料をやっていないので近くで見ると実の色があまり良くない。本当は金柑と言うぐらいだから金色に光っていて欲しいのだが、そのレベルに到達せず。きちんと肥料をやらなくてはと反省する。翌日助っ人に来てくれた妹に煮てもらう。煮たら甘く柔らかく美味しく食べることが出来た。
右の写真が初めて作った鈴なりブロッコリー(手ぶれして御免)。今頃ようやく出来たのも、多分、肥料をきちんとやっていなかったからかもしれない。普通のブロッコリーはもう食べ終わっているころだ。紫色が珍しい。鈴なりというからにはこれからもどんどん実るのだろうと思い、小さい実は残し食べられそうな実を摘む。茹でたら緑色になってしまう。ちょっとがっかり。紫ならよかったのに。

2月10日から2月15日までは妻の外泊。病院の見舞いは妹に頼む。
今日16日、久しぶりに病院に顔を出す。やっと全粥を脱したところだが、おかずもデザートもまだミキサー。お茶もとろみ。甘いものを飲みたがり、OKが出たと言うので、甘いカフェオレを買って来て少し飲ませるもむせる。慌てて中止する。袋も外したが、まだ自力で排尿している訳ではない。排尿する時はカテーテルをつけるようだ。リハビリもマッサージだけで歩行訓練なんていつになったら出来るのだろうか。まだまだかかりそうな様子。

2月16日の畑
A         B         C
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Aの写真が今年のイチゴ。
Cの写真が去年のイチゴ。
植えっぱなしで枯れた葉や、ランナーを摘み取って整理した。
2月の半ばになったので、肥料をやらないといけない。2回目の追肥で、最後の肥料になる。
Bの写真
今年のイチゴに肥料をやる。黒マルチを張っているので、肥料をうまくやることが出来ない。以前、何かの記事で、黒マルチに沢山穴を開け、肥料を撒いておけば、雨で肥料が溶けて穴から入るとあったのを思い出す。錐でイチゴの周りに沢山穴を開け、肥料を撒いてみたが、果たしてうまく行くや否や。明日、明後日で肥料をやってしまいたい。
イメージ 8左の写真は、キャベツと豆二種類。
キャベツは3月になったら肥料をやって、一気に大きく育てる。と、農業誌に書いてあった。
キャベツの左側にあるのが、つるなしすなっくの苗。9個種を植えたうち、6個ぐらい芽を出した。これをもう少し暖かくなったら、2本ぐらいに間引いて育てる。
右側にあるのが、つるなしの絹さやえんどう。これも2本ぐらいに間引く予定。

今日は夜の7時から町内会の全体常会。50軒ほどの集まり。
7時半開始だと思って、半前に集会所へ行ったら、「では、これで終わります」と、言われてビックリ。7時開始だったのである。ばつの悪い事この上なし。しかも儂は
平成31年度の町内会委員なのに。多分、新役員の紹介とかあったのではないかと思うとどんよりとした気分になる。皆には当たり前のことを儂は何も知らない。先がおもいやられる。明日、上の自治委員に聞いて、これから手取り足取りよろしく頼むとお願いしよう。
その明日がうちの隣保の新年会なのである。13軒が参加する。日御碕までマイクロバスで行き、宴会をする。カラオケがこれまた苦痛の種である。
実は明日は『風土記講義』がある。先月はインフルエンザで休んでいるので、どうしても出たかったのだが、新年会を休むわけには行かない。つらいところだ。月末の27日は隣保の集金会。年度末は忙しい。

年明け早々、病気の話が続き申し訳ないと思っている。もっと楽しい話や前向きの話題を提供できれば良いのだが、我が家はそれどころではなかった。行き掛かり上、インフルエンザの話を続けざるを得ないので、ここまでの顛末をご報告いたします。
表題の通り、いかにインフルエンザが恐ろしいものか、特に高齢者の場合はいかに注意を要するか、警鐘を鳴らす意味でも経過を記します。
1月16日にわが家全員がインフルエンザと診断され、5日経って、ウイルスは消えたはずなのだが、その後、父の具合が良くなかったことまでが前回の話。
1月24日にケアマネージャーと話をしていたら、ケアマネージャーがすぐに訪問医に電話して、点滴をして貰えと言う。儂はそれほど逼迫した状況とは思わず。去年の9月に入院した時は、一滴も水分が摂れなかったが、今回は夜に(すとろーくん)のコップ一杯の水分は摂っているし、少量だが三食エンシュアを飲み、一日で一缶半は呑み、最低限の栄養は確保しているはずだ。だが、ケアマネージャーはそんな量では絶対に足りない、一刻も早く点滴してもらってくださいと電話の向こうから必死な声で訴える。
その切迫した声に押され、夜、訪問医を呼んで点滴をしてもらう。その後、病院に戻った医者から電話があり、採決した血を検査した結果、数値が思わしくない。急性腎不全を起こしているかもしれないので、すぐに行って、もうすこし優しい点滴に変えますと言う。
先生、10時ごろ来て、点滴を変える。救急に行くかと言う話も出たが、点滴したので明日朝病院へ行ってもよいだろうと先生は言う。儂も夜中に救急車が来ると隣近所が出て来て騒ぎになるのが躊躇われ、翌朝、連れて行くことに。
1月25日、病院に行き、父はベッドに寝て診察を受ける。採血や検査をされ、先生に呼ばれたら、開口一番「腎不全を起こしています。とても数値が悪いです」。白血球は1万5千もあり、カリウムの濃度が6を超えている。「これはいつ心臓麻痺が起きても不思議ありません。今日明日にも心臓麻痺を起こす可能性があります」と言われる。すうっと全身から血が引いて行くのが分かった。まさか生死にかかわるとは。いきなりそんなことを言われて茫然自失する。何よりもこたえたのは、この時にはインフルエンザをうつしたのは儂と確定していたからだ。デイサービスではインフルエンザは発生していなかったのだ。自分が親を殺してしまうのかと思うと平静ではいられない。
その後、先生はCTでおしっこが出ていない状況を説明する。高齢だから透析も出来ない。バルーンカテーテルでおしっこを排出する治療をする。即入院。
正確にはどれくらいの時間が経ったか分からないが、1300ccも排出されていた。
帰宅するも、金曜の夜から月曜の朝まで、簡単スマホが鳴るたびにどきっとする。
妹も用があるので土曜に戻る予定だったが、月曜まで延期する。
妹からこんなことになるなら、もっと優しくしてやれば良かったのにと言われて、また胸が痛む。歩行器につかまって歩くのがやっとの父を隣のダイニングに連れて行き、飲みたがらないエンシュアを無理矢理飲ませていたのだ。儂の悪い性格が出てしまったのである。儂は自分に厳しい分、他人にも厳しくなってしまうのだ。歩けなくなって、寝たきりにさせてはいけないと言う強迫観念にも駆られていたのである。そうなったら自分が大変だから。食事も流動食やきざみになったら自分が大変だから。すべて自分の都合だった。忸怩たるものあり。
月曜の朝、9時、病院から電話があり、先生が出て来た時は観念した。
「血液検査の結果、数値は元へ戻りました。腎不全も解消しました」
思わずへなへなと腰が崩れそうになる。ただ、軽い肺炎の疑いがあるのでそちらの治療をすると治療方針を説明される。
ただ、面会に行けない。インフルエンザが猛威をふるっているので、入院患者へのお見舞いは止められているのだ。顔を見に行くことも、洗濯物を獲りに行くことも出来ない。
1月31日は、大腸癌の執刀医の診察があるので面談に行く。CTを見せられて再発はないことを確認。この日もまだ見舞いは出来ず。腫瘍マーカーが高くなったのはインフルエンザのせいであろうと言われる。よくあることらしい。
病院からは何も言ってこないので、順調に治療は進んでいるものと少し安心する。
2月4日になって、入院患者への面会禁止が解かれる。
2月5日、相談員への相談を兼ねて、見舞いに行く。12日ぶりに顔を見る。青白くやつれたと思う。驚いたのはまだバルーンカテーテルを付けていたこと。ベッドサイドに腰かけてリハビリを受けていた。療法士によると昨日よりは長く座れるようになった由。やっとリハビリが始まったことを知るが、ベッドサイドに腰かけるのがやっとの状態で、今後歩けるようになるのかどうか不安を覚える。
その後、相談員と面談するも、やっとリハビリが始まったばかりで、退院する時、どんな状態か予測がつかないので、様子を見ながら、退院後を考えることにする。介護度の見直しももう少し後にする。相談員によると、バルーンカテーテルをつけたまま退院して自宅に戻る人もいるとのこと。これを付けていると動くたびに持ってやらないといけないから介護する人は大変だと言う。少し良くなったかと思うと、次の問題が出て来て、正直気持が塞ぐ。
2月6日、とにもかくにもリハビリが始まり、退院もまだ先になりそうなので、今のうちに妻を外泊させることにする。水曜日は特養に顔を出す日で、今日は歯医者の診察もある。特養へ行き、いつものように一緒に昼飯を食べ、診察に立ち会い、10日から15日までの外泊を伝える。
その足で、洗濯物を持って父の病院へ。
病室へ入ったら、点滴をして、酸素をしている。一体何があったのだろうと思っていたら、先生が来て、朝誤嚥があったらしく、肺炎を起こしているようだ。熱も9度何分あったと言う。また、目の前が暗くなる。誤嚥性肺炎は高齢者の死因のトップにランクされるような病名ではないか。父はこれまで誤嚥を起こしたことは一度もない。弱っていることを実感させられる。先生は手術の予定が入っているので、術後にCTの結果を教えてくれることに。儂は夕食の準備があるのでイオンへ。夕方、先生から電話。左の肺が肺炎を起こしているので抗生物質を投与するよし。心臓麻痺を起こすかもしれないと言った先生が、重篤とは言わなかったことに救いを求める。
気が休まる暇がない。本当にインフルエンザは恐ろしい。身近に高齢者がいる人は用心の上にも用心をしてください。

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